Archive for the ‘Politics!’ Category

恨まれている日本

Tuesday, September 10th, 2013

[2012年10月8日に書いた文章をこの時期に再掲]

人を殺した者は、仮に罰せられて法的にはすでに裁かれて「務め」を果たしたとしたら二度裁かれない(一事不再理)。だが、それは手続き的に裁きが完了しただけの話であって、加害者が生き続けている限り、殺された人自身やその親類や友人たちはその殺人者を許さないかもしれない。その気持ちを恨みという。これは死刑制度の是非とは関係のない話として。

 

ひるがえって国家はひとそのものではないが、人としての人格を背負わされている。国家が戦争によって他の民族の財産を奪い、また人々の生活を蹂躙し生命を奪った場合、戦争そのものが国家間で決着して「裁き」が形式上終わっていたとしても、殺された同族たちの恨みは簡単には消えない。戦争によって縁者が殺されている場合、その恨みの感情は3世代くらいの世代交代では消えてなくならない。自分の親が実際に殺されていたり、そうでなくても親のまた親が戦争で酷い目に遭っていれば、その記憶は孫の世代に語り継がれていても全く不思議はない。それどころか、教育によって組織的にその記憶を語り伝えようとするのが当然であろう。その記憶は、自分にたまたま酷い仕打ちをした一兵卒への恨みではなく、その兵隊の背負っている国旗、すなわり国家に対する記憶となる。自分の親族が殺害の被害者側であった場合を想像してみれば分かるだろう。

 

中国本土や朝鮮半島での国家的・組織的な犯罪(それはほとんどが「法的」におこなわれた)が行なわれたことをまったく一顧だにせず、戦争末期や戦後に大陸や朝鮮半島から命からがら逃げて日本に戻ってきたような歴史を持つ家族が、いまだに中国人や朝鮮人についての恨みを語るのを聞いたことがあるが、どうして自分たち同族がはるばる海を越えて大陸や半島に行っていたのかという事実については省みず、自分たちが恨みを持たれたからそのような仕打ちを受けたという因果の構造を理解することもなく、ただ自分たちが受けた仕打ちについてだけ語る。だが、これは逆恨みというものである。

 

今の日本人は、「一体どんだけ謝罪すれば良いのか?」と過去について何もなかったように振る舞い、あろうことか自分たちは彼らの文化的・技術的な生活向上に寄与したのだとさえ主張する者がいて、その様はまるで居直っているとしか言いようがない。我々は自分たちの国家がかつて犯罪の加害者であったことを都合良く忘れている。我々はどれだけ自分たちをだますことができても、被害者の持っている恨みを消すことはできない。仮にその恨みの一部が不当なものや錯誤があったとしても、「恨まれている」という事実が存在していることは自覚した方が良い。

 

それは、今後国家間の争いさえも辞さないと勇ましいことを言うような連中の無謀な行動によって、実力行使するような事態が起こり、その果てに勝敗が決まって運悪く負けた場合にどうなるか? われわれは歴史的な恨みの立派な対象であるから、彼らがかつてされたような同じような仕打ち(あるいはされたと信じていること)を受ける可能性が高いということを理解した方が良い。われわれが日本人であるという事実を甘んじて背負い続ける限り、日本人であるという理由だけでその仕打ちを受けるのだ。それが、ある国家の構成員であるということの意味だ。

 

一度負けた国民は、別の争いで勝った場合、負かした連中に対してその積もる恨みを晴らすということは、歴史の常として行なうものなのだ。どうしてロシアは敗戦色が明らかになった戦争末期の日本に対して、日露不可侵条約(日ソ中立条約)を破って戦争を仕掛けたのか?と問うものがいるが、そんな質問は愚問だ。それは日本が日露戦争でロシアに煮え湯を飲ませていて、手続き上は戦争が終わっていたが、彼らの中では日本に対する闘いは終わっていなかったというだけの話だ。だから北方四島どころか北海道だって奪いたいというのが一部の本音だろう。

 

つまり、大陸や朝鮮半島に住む多くの人々が、日本に対して恨みを持っている限り、そしてその恨みを健全に解消しない限りは、来るべき争いの後には、その恨みを晴らすという「人として」当たり前の行動を行なう可能性があるということなのだ。

 

日本人にもいろいろ言い分はあろうが、国家として過去の歴史を相続している限り、我々は自分たちの先祖の世代でやった行いを「知らない」では済まされないのだ。もちろん知らないでいることはできるだろうが、その場合、歴史的因果で捉えずに、自分たちに降り掛かる事態を「不条理である」と思って死ぬだけの話だ。そして、その恨みを一方的言い分によって自分たちの子孫に相続させるのだ。

 

ところで、国家として過去の歴史を相続しないという選択肢はある。それはこの国家自体を一度自分たちで否定し解体して、新しい国家を作った場合だけ、である。つまり自浄作用を自分たちが選び取って、過去の戦争を起こした者どもを自分たちできちんと裁いた場合だけだ(ドイツはそれを行なった。また、国家分断という物理的な裁きを受けた)。

 

しかし日本は自分たちを直接実力で負かしたアメリカとだけ単独講和を結んだ(アメリカに対してだけ負けを認めた)ことによって、かつて戦争をしたすべての関係者たちとの清算を行なわず、都合よく占領者の「虎の威を借る」手法をとり、周囲を手続き上黙らせただけ、という選択を採った。要するに、恨みの解消や自分たちが生まれ変わって全く新しい国家を建設するチャンスをみすみす逃した。そればかりか、戦争犯罪者として裁かれたはずの戦争責任者まで合祀した(天皇さえも参拝しない神社である)靖国神社に平気で参拝する。これは、恨んでいる者からすれば完全な挑発的行為であり、彼らの目には「日本人は反省する気はない」「過去を悪く思っていない」という態度表明として映る。当然である。靖国神社は、戦争によって亡くなった兵隊や一般人の追悼をする公的施設ではなく、大日本帝国の戦争を美化する装置だからだ。

 

その日本が「何度謝罪しなければ気が済まないのか?」と言ったって、誰からも納得したと言って貰えなくても仕方がないのだ。つまり、恨みは着実に海の向こうで相続され、また犯罪加害者の言い分だけが、海のこちら側では相続され、何も変わることはない。

 

こうした愚かさの果てに起こることについて、私はありありと未来に繰り返される悲劇が想像される。想像力の欠如した者だけが勇ましいことだけを語る。

 

 

 

健診の義務と欺瞞について

Thursday, June 28th, 2012

自分の身体をどうするかという選択肢は当然その持ち主である本人にあると思っていたのだが、とんでもない人権侵害がまかり通っているのが、会社で行なわれる健康診断である(自分の考えでは、これは明らかな憲法違反である)。会社は社員を健康に働かせる義務があるとかいうある意味「当然の配慮」から、一足飛びに「健康診断を受けさせる」という会社側の義務が生じているということらしい。

現に「健診拒否」というキーワードで検索してみると、社員がどうやって自分の権利を主張し、その意味のない健診を回避するかという社員側の話はほぼ皆無で、会社の総務部や社労士の側が、どのように社員を説得し、この義務や「法律」に従わせるか、というような視点でのコメントばかりが見つかる。この法律がどれだけの問題を孕んでおり、医療世界のどのような利権構造の中で作られたものなのか、などというメタな視点も議論もそこにはない。なにしろ法に従っているのはこちらだから、強制することに何の問題もないと、いかにも自信たっぷりだ。こうした連中には医療業界が、自分らを含む人間の身体を食い物にして高い医療費を稼ぎにしている構造を理解しようなどという殊勝な考えはない。あるのは合法であるかどうかという小市民的な視点だけだ。

問題の核は、社員が自分の健康管理に関して自分なりの方法を選択する自由は与えられておらず、《病院》にて健診を受け、《病院》側での診断結果を踏まえて問題ありと判断されたら、《病院》で治療を受けるという方法しかこの世にないかのような決めつけがここにはある点だ。病院はそもそも本人が同意していないことは一切できないことになっているはずなのに、健診に関しては有無を言わさずに被検者を従わせるのが当然という慣習なのだ。

社員は会社の用意する病院での検診ではなくて、本人がどうしてもその病院での検診を受けたくないのであれば、別の自分の行きたい病院での検診を受けてその結果を報告するという選択肢は与えられているが、《病院》の判断を金科玉条のごとく無批判に受け入れる態度であることには変わりがない。病院で検診せずとも 自己判断で「健康である」と宣言することや、例えばだが、当人の信頼する整体師や鍼灸師のお墨付きなどには何の価値も認められていない。健康管理には無数の選択肢があり、また治療の方法も病院が用意する以外の方法がさまざま存在するにも関わらず、社会で認められているのはいわゆる病院という象牙の塔を中心とした医療従事者の判断だけなのだ。

本来、何ぴともどんな病気に罹り、どこで、どんな死に方をしようが、それを他人にとやかく言われる筋合いはなく、それを好きに選ぶ権利があるはずなのに(もちろんこれが極言であることは承知の上だが)、こと健康管理や病気、そしてその発見ということになると、いわゆる医療関係者の思惑通りでいいというような、彼らに空手形を渡したかたちになってしまっている。

『患者よ、がんと闘うな』を書いた近藤誠氏などを始め、ある程度まとまった数の心ある医師たちによれば、いかなる健康診断(婦人健診を含む)も、それによって発見しようとしている病気(それは肺が んや胃がん、そして大腸がんであったりだが)による死亡率をまったく下げないどころか、むしろ死亡率を上げており、被健診者の寿命を延ばさないということがかなり明瞭にわかってきている。そんないい加減な医療が保険制度が崩壊するほどの出口のない状況を作り出している。気をつければ、前掲のような真摯な告発の存在があるにもかかわらず、医師会は依然として絶大な権力を持ち、ひとの健康を彼らが左右できると考えているだけでなく、死亡率を上げたり、生活の質を大きく損なうような方法を省みて止めることもなく、健診医師や健診装置を作る医療業界の利権を守るために、不要な健診を未だに強いているのだ。

これは彼らが人命救済に本当に取り組んでいるのではなく、「人の身体や命を食い物にしている」ということに、われわれが気づかねばならない。彼らがどうしてわれわれを「患者様」と「様」付けで呼び始めたのか、ということは、患者が「お客様」であることに他ならないのだ。

参考サイト・書籍など

近藤誠医師の呈した疑問
http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/gan062iryouhoukai.htm

田中宇の《米国の「アジア重視」なぜ今?》を読む

Tuesday, December 6th, 2011

中国対米国という二大国の「対立」は、周辺国が大国の影響力を恐れるあまり、大国双方に都合の良い支配構造を自発的に提供する。それによってこれら大国が結局小国支配を巧くやり遂げるという意味では、かつての米ソ冷戦構造とも非常によく似ている。世界を二分するかに見えるいわゆる「冷戦構造」は、結局、米ソという大国にとって世界支配を容易にした。彼らが表面で険悪に対立しているかに見えるほど、周辺の衛星国は、「寄らば大樹」の傾向を強め、結果的に周辺国を従わせやすくする。

日本ではソ連などの社会主義国のアジアにおける覇権伸張を恐れて米国の国内駐留を歓迎したが、これはベルリンの壁崩後の世界においても継続した。「仮想の米中対立」、特に中国のアジアにおける勢力拡大という「そこにある危機」によって、日本を含む軍事的な弱小国家は米国への依存を余儀なくさせ、結局、TPPなどを通して米国の思うような支配構造の維持を助ける。つまり、中国は自国のアジアにおける影響力を堅持のためには、米国の覇権維持に協力するし、そのためにはアジアにおける脅威を演出し続ける。それによって米国の凋落を少しでも遅らせることができれば、自分たちのアジアにおける影響力のみならず、顧客としての米国の健全さを維持することができる。そもそも米国債を大量に買わされている中国は米国を簡単に凋落させることができない。

われわれは「何があっても」、米中が本気で対立しているなどと思ってはならない。中国は日本がアメリカに助けを求める程度には、南沙諸島などにおける国際間の緊張を高めることはやり続ける。そしてそれは米中両国の利益にかなったことだから終わらない。

以上のような観点からも、田中宇の《米国の「アジア重視」なぜ今?》における分析は相当信頼できるものと思われる。彼は米中の演出された対立を通して維持する世界覇権というコンテクストの中でTPPを説明する。彼の洞察によれば、やはりTPPは米国以外の諸国にとっては国を衰えさせるものと映っていることが分かる。

コラム終盤の…

アジア諸国は経済的に中国への依存を強め続ける。米国が今、アジアでとっている戦略 は、中国の優勢を強めるものだ。アジア諸国が弱体化した米国を見限るころには、アジア諸国は経済システムをTPPなどによってぼろぼろにされて弱くなり、 今より強くなる中国に従属せざるを得なくなっていく。米国のアジア重視策は「中国を封じ込めるふりをして、中国を強化する」「アジア諸国との同盟を重視すると言いつつ、アジア諸国を中国の方に押しやる」(略)。

また

米政府は「アジアから出て行かないから、アジアが駐留費を出せ。しかもTPPや米韓FTAに入って、米企業が儲かる国家システムに変えてくれ」と言っている。米国は悪くない。日本などアジア諸国の対米依存心が、米国に狡猾な戦略をとらせている。

というのはわれわれを目覚めさせるかもしれない観察を含んでいる。

敵味方の色分けで利するのは真の《最大の敵》であること

Tuesday, November 15th, 2011

敵は、Divide and rule(分裂させて支配せよ)と云う帝国ローマの時代から実践されている戦略でわれわれを支配している。

考えてもみよ。一体自分の意見総てに賛同してくれる人間がどれだけ世の中にいようか? ひとつの重要な哲学を共有すれば、どんな争点に関しても賛同できるはずだというのは理屈の上でだけの話だ。

世の中には実に多くの議論があり態度を決めなければならない案件がある。その総てに関して賛同できる人としか共闘できないなどと云う方針を立てたら、われわれは本当に全員が孤立するしかない。

今議論を賑わしていることは原発とTPPだが、それ以外にも重要な争点というものはたくさん存在する。例えば妊娠中絶をどう考えるべきか、から始まって、外国人参政権をどうするか、外国人の捺印問題は、などと様々な政治的判断を要する課題がある(あった)。数えきれない問題があり、議論がある。そこで、それら総てに賛同できる人としか運動協力できないということでは、「今そこにいる最大の敵」とは闘えないだろう。

他者を敵と味方にだけ色分けして分類しても、総ての議論に賛同する人間を見つけることは事実上不可能だ。したがっていざある特定の争点で勝とうとしても、敵に分類される人の数が圧倒的に多過ぎて、その時は十分な友軍を得られない。われわれはここで十分に聡くあらねばならず、絵に描いた理想ではなくて現実的な勝利を目指さなければならない。

「原発に関しては賛成だがTPPに関しては反対」という立場があって(現にある)も、あるいはその逆があっても、残念だが仕方が無い。

だが例えば脱原発に勝利し、TPP反対も実現しなければならない時、そのどちらについても最も説得力のある論理を敵味方の関係なく採用しなければ、われわれにとって最大の目的である両方の理想の実現は望めない。

ある争点で勝つためには、垣根を取り払って、不動の論理と最強の説得力とを持つ人間の、その《言葉》を虚心坦懐に採用しなければならない。それが「誰が言っているのではなく、何を言っているのかを聞かねばならない」と言っている理由なのだ。理念はそれを語る人格以上に尊いのだが、凡人には敵味方を色分けすることばかりに夢中で、どうやって真の解を見出し、また議論に勝利するかを考えられない。

つまりAという案件では敵だがBという案件では共闘しようという太っ腹の寛容がなければならないのだ。その寛容にこそ、敵と見做されている人間を実は味方の論陣に引き入れられるかもしれない唯一の契機が潜んでいる。だがそのことに気付く者は、驚く程少ない。

もう一度言おう。他者に艦砲射撃のような遠距離からの言葉による攻撃をして、事実上の敵の拵えることではなく、敵こそ身近に引き入れ、敵の考えやアジェンダを知り、必要に応じて利用し、味方であると思わせる程の許容量を身に付ける必要がある。そして、気付いたら「敵」が本当の味方になっている可能性も在るのだ。だからわれわれは敵味方の分類を忘れ、真に聡くあらねばならない。

TPP議論を馬鹿馬鹿しいと一蹴した貴殿へ

Friday, November 11th, 2011

TPP参加不参加の議論を「馬鹿馬鹿しい」(=どうすれば良いのか分かりきっているだろ)と一蹴できる方は、私の知り合いの中で唯一無二だったので、興味を抱き、コメントさせていただきます。おそらく不快に思われるようなことも書きますが、我慢して読んでいただけると誠に幸甚です。

まあ、あと、意見を同じくする人同士で集まって「反対だ、賛成だ」と息巻いてもあまり生産的ではないので、意見を異にする人の意見こそ聞いてみたいなと考えました。

私の近況をご覧になったことがあれば(1500人以上の友達がいらっしゃるのでお気づきにならないかもしれませんが)、お分かりになると思いますが、私の立場は明確で、TPP参加は断じて反対です。

まず、貴殿のコメントからはTPPという経済協定への参加不参加の問題が農業問題(つまり日本の農業を守るべきかどうか)であると認識されているらしいことが伺えるのですが、その認識で正しいですか? 当方、TPPの問題を農業問題とするのは、この問題を矮小化する認識だと考えます。もちろん農業も議論の重要なターゲットのひとつにはなるでしょうが。

次に「グローバル化に取り残される」とありますが、グローバル化というのが善であるという前提を感じるのですが、グローバル化というのは結構なことなのでしょうか? 私には巨大資本を持った大国の「既得権益者」(= アメリカの巨大資本)が、その所属する国家の軍事力等を背景に、マーケットを求めて経済基盤の弱い(あるいは、外交や防衛の弱い)国に進出しやすくし、他国市場でも優位に立ち、その国の富を奪うことをだと認識していますが、そういう視点はございますか? 世界中に現在巻き起こっている「反グローバル運動」というのを、単に「既得権益者」のジタバタしている醜い反動でしかないと、ご覧になっているということでしょうか? 私には「グローバル化」などという聞こえの良い言い方で押し進められるのは「盲目的な米国化」でしかないという認識です。米国流が善であるというご認識であるのであれば、仕方がありません。でももしそうなら、今のアメリカ社会で起こっているさまざまな歪みや不公正にもう少し関心を抱くと宜しいでしょう。

次に、「アメリカ以外の国は日本よりも経済力が低いのだから」とありますが、この記述は看過できません。ここにこそ貴殿の本音が見えるのですが、これはつまり「強い者は弱い者から奪い取るものだ、強いアメリカからは奪い取られるが、弱いところからは奪い捕れ」と言っているようにも聞こえるのですが、そういう弱肉強食が世界の現実であるという「世界観」なのでしょうか?(まあそうだとすれば、奪い取られるということがどういう意味なのかをより深く知るのは人生にとって有益なことだと思います) それとも、今度の経済協定をWin-Winの関係を築くチャンスと本気でお考えですか(弱小国に対しては主導権を握る、と言っている限りそうは思えませんが)。

最後に、「既得権益者」を、漠然と古い価値観にしがみついたり、制度によって守られている旧弊で後ろ向きな受益者とお考えのようですが、他ならぬわれわれが例外なくさまざまな制度や「既得権益」に守られていることをご存知ですか? 例えば、国民皆保険制度、安心して食べられる食品、仕事や住む場所を選ぶ権利(日本に生まれたという事実こそ貴殿の努力で得たのではない既得権益ですね)、年金、いやいや、すべてのすでに得た所有物は「既得権益」ですよ。既得権益は自分の関係なさそうにみえる他人様だけが持っているのではなくて、自分も持っている。それを個人が所有してはならない、すべて撤廃と言うなら、すべての財産の国家による所有、つまり共産化しかないです。そうすれば、撤廃を声高に主張する方々の夢は叶いましょう。(☜ もちろん、これは私の本音ではなく逆説として申しております。)

あ、そうそう、当方の言いたいことはこの方も代弁しておりますし、ほとんど付け加えることもないほどよく書かれていますので、反対意見というものが、どういう価値観や哲学から生まれてくるのかをお知りになりたいのであれば、参考になります。お勧めです。
http://blog.tatsuru.com/2011/10/25_1624.php

当方、TPP賛成の方がどういう意見や資料を参考にしているのか是非知りたいので、教えていただけると助かります。

PS. あと、アメリカと中国の間に立ってキャスティグボードを握っているという意見がありましたが、TPPに中国はまったく関係なく、蚊帳の外に置かれているので、その意味は不明ですね。

南スーダン独立を巡る短い備忘録

Saturday, July 9th, 2011

Twitterのつぶやきをまとめる。

まず大前提としての国家独立のシステムがよく分からない。そして国内での独立宣言の手続きが分からない。国連での独立認可の手続きも分からない。周囲が認めてこその国家だということは何となく分かるのだが。キリスト教徒とイスラム教徒間の分離という文脈があるようだが、むしろ「持てる者」と「持てない者」という構図なのではないかという気もする。

驚く程多くの人々が無批判に「おめでとう」とか言ってるが、「持てない者」があえてリソース豊かなところを排除して独立することはありえないから、結局、「持てる者」が「持てない者」を切り離してリソースを独占することしか意味しないんじゃないか、と考えるがどうだろう?

とどのつまりが南スーダンに利権を持つ周囲の影響力の強い国々が、南スーダンを要塞化して「防護」することによってしか保ち得ない「独立」なんではないか、と疑惑を濃くする。

ボードゲーム《電力会社: Power Grid》の大きな穴

Friday, June 24th, 2011

ゲームを着想し、カタチにしたFriedemann Friese氏にまず敬意を。

作品を世に問うたパイオニア精神は評価されるべきだろう。持ち上げて突き落とすみたいだが、たとえそれがゲームであれ、世に問うた限りは批判も受け付けなければいけない。3週連続でワイワイ実際に遊んでみて感じたボードゲーム『電力会社: Power Grid』の《穴》について書こう。

まず、大大前提から。このゲームには「電気を売って、ガンガン儲けて、目指すは金持ち、電力長者」というコピーが付けられている。実際にはここまで単純ではないが、このゲームの本質を言い得ている。正確には「一番多くの街に電力供給できた」経営者がゲームの勝利者だが、ゲームの「上がり」が一番儲けた参加者であることに違いはない。これが実はすでに過去の価値パラダイムに属した経営理念だ。「一番社会貢献をした企業が勝ち」とか「一番環境インパクトの少ない商業的成功が勝ち」とかという設定だって良いはずなんだが、やはり「一番多く売り上げた」、つまり「儲けた者が勝ち」なのだ。

(この「資本主義的現実」は、「現実」として受け入れなければならないとしても、その資本主義の論理が、永久には持続できず(戦争などのリセット劇を挿入しない限りは)どこかで行き詰まるという点では、近い将来その徹底的な敗北が約束されている論理だ、とか何とか色々言えるのだが、論点が外れるのでこの点については深入りしない。)

いずれにしても、この価値観はメガトレンド的に逆行している。つまり「一番儲けたのが勝ち」なら、極論的には何をしても良い、どんな社会的無責任も関係ないということである。これはゲームの前提としては《穴》が大きすぎる。

例えば、資本主義的経済が現実であるのなら、「原子力発電のコストが一番安い」というのは、もはやまったく現実味がない。原子力発電を選んだら絶対に避けて通れない廃炉の問題。万が一(と言うか、現実に進行中なのだが)、事故が起きた場合の補償の問題。などなど、加味し始めたら安いなんてことはあり得ないことが、現実には分かっているが、それはおそらくゲームが想定している「安い原発」という抽象的な観念の中には入っていない*。

* ファクトとしても、例えば日本では1基たりとも成功裡に廃炉までこぎ着けた原発は存在しないし、仮に元あった場所から原発を跡形もなく無くしたとしても、廃炉に伴って大量に発生する高レベル放射性物質の最終廃棄処理をする場所さえも決まっていないし、それによって生じる(取り返しのつかない)作業者の被曝についても想定されていない。つまり捨て場のない猛毒のゴミが、処分地もないままどんどんできていくという、「トイレのないマンション」と揶揄されるに値する現実に対して、コストどころか、現実的な解決策さえも見えていない。つまり、お金では買えないファクターが介在しているのだ、この「原子力発電所の処分」という問題には。

原子力は火力発電に置き換わると夢見られたらしいが、実のところウランは極めて埋蔵量が少ない希少な燃料であり石炭や石油よりも早く枯渇する。一方、通常の原発から出てくるプルトニウムを使った高速増殖炉は、まだ商業的運用に成功した例自体がこの地球上に存在しない。(ちなみに、このゲームを紹介してくれた川田十夢さんが「プルトニウム」とTV Brosで書いていたのは、おそらくウランのこと。)唯一未だにその道を探っている日本の《もんじゅ》も、動かすことも廃炉にすることもできない非常に危険な状態で止まったままである。それをごまかすためにプルサーマルなる全くデタラメな使用法(要するに、使い道のないプルトニウムをちょっとだけウラン燃料に混ぜる)を行い、原発の危険性と毒性を上げている。つまり「安いプルトニウム」が、どんなに無尽蔵にあっても、それを利用する手段さえわれわれはまだ持たないのだ。つまり、そんな燃料を使うことを前提としているゲームとは一体なんなのか、ということだ。

そして、もうひとつの《穴》は、自分が拡張した供給ネットワークを維持するのに必要な電力量より、実際供給できる電力供給量が下回った場合、単に「儲けが少なくなる」ということだけでいい、とされていることだ。これはにわかには受け入れがたいルールだと感じる。供給量が需要を下回った場合、現実的には大停電が起きる。拡張した以上は、絶対に供給を持続するというルールにしないと緊張感もなく、ゲームとしてつまらないではないか。供給できなかったらその街は他のプレイヤーの手に落ちるとか、街の工場から訴えられるとか、銀行に抵当として取り上げられるとかのペナルティは無いのか? これが無いのだ。基本的にペナルティがないゲームなのだ、《電力会社》は。現実社会では沢山ペナルティがあって、それを避けるために企業は戦々兢々としながら企業経営を続けているのに。

最後に言及したいゲームの《穴》は、現実の世界(というか日本)では電力会社は自由競争に曝されていない点である。国内では1地域に付き1業者(ヨーロッパは知らないが、アメリカもそう)というルールの中で会社経営が成されており、東電も東北電力も中部電力も関電も、競争相手など、「いない」のだ。だから、「一番低コストの発電方法」を追求する動機そのものが存在しない。どんなに電力が高くても、この業者から供給を受けるしかないのだ、われわれは。現実世界では、このゲームの提供するような緊張がない。現実ではこのゲームのような健康的な競争原理そのものが働いていない。ことによると、このゲームから現実の方が学ぶべき唯一の点は、このことに尽きるのかもしれない。(おっとこれはゲームじゃなくて現実に対する批評になってた。)

それでもこのゲームはゲームとしてはそれなりに面白い。頭も使い、計算も必要。しかし逆に言うと、「計算だけのゲーム」とも言える。所持金、発電所代、燃料代、街の建設費、収入という5つの数字の加減だけでゲームできる。リスクや事故などがない。人生ゲームやモノポリーにだって沢山アクシデントがあったような気がする(病気や遅刻で1回休み、とか借金とか)。足し算と引き算という会計士みたいなセンス、そして競りでブラフを使うセンスがあればこのゲームに勝てる可能性は高い。

オークションという不確実要素はあるが、罰ゲームカードを引くとか、骰を振る、というような偶然によって自分の運が変わるというゲーム性がこのゲームには薄い。現実の人生は運・不運の類が渾然一体となって折り重なっている。つまり、ゲームを現実に近づけるもっと大きな要素とは、チャンス(偶然)やアクシデントの要素である。

現実社会では風の吹かない週があり、需給バランス以外で起こる原油価格の暴落や高騰(などの権力者による操作)がある。CO2を下げよという「議定書」からの圧力があり、また環境圧力団体からの脱原発運動があり、さまざまな原因による「事象」がある。こうしたことが、それぞれの発電システムにふさわしい形で襲いかかってくるのが現実だ。だから、このような「チャンス/アクシデント」カードのようなものがあれば、このゲームはもっと面白くなるだろう(すでに難しいゲームのルールが堪え難い複雑さを呈するだろうが)。

このゲームはこうしたチャンス(偶然)の要素が無くても十分に複雑である。マニュアルが手放せない難しさだ。それをさらに難しくする方向だとは分かっているが、ゲームをやりながらもっと複雑にしたい誘惑は抗しがたいものがある。

したがって、大きなリバイズとアップグレードを必要とする余地のある、発展途上のゲームであるという評価は、やはり甘んじて受けねばなるまい。そのためには、ゲーム制作者は「一番儲けた者が上がり」などという愚かしい前提の克服から、まず始めなければならないのだ。

最後にこれを紹介してくれた川田十夢さんに感謝。

この投稿は 2011年6月24日 金曜日 01:09 に Good/Bad Books Memo, Other people’s blogs, Politics! カテゴリーに公開されました。 この投稿へのコメントは RSS 2.0 フィードで購読することができます。 コメントを残すか、ご自分のサイトからトラックバックすることができます。
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属人的ビジネスは本当に邪悪か?

Thursday, March 31st, 2011

題:属人的ビジネスは本当に邪悪か?
〜誰だって自分しかできないことで能力を発揮したいと思っている、ことについて〜

驚くべきことに「属人的」という言葉は、ある種の経営者たちにとってはネガティブな評価として人口に膾炙する単語のようだ。つまり、「あの仕事は誰々サンにしかできない」「誰々サンなしにはこのビジネスは成り立たない」というような事業の在り方では、そのひとに辞められたら会社経営に甚大な影響をもたらすので会社の安全保障上の問題がある、というワケらしい。「安全保障」ねえ…

だが、「非属人化」経営を声高に叫ぶマネージメント陣が、自社内の働く方たちに対して、「あなたたちは誰にでもできることを最終的にやって貰いたい、万が一、あなたがいなくなっても会社は安泰、という状態にして下さい」という経営的本音が、いかにも経営者にとって便利きわまりなく面倒のない一方で、スタッフ一人一人にとって、その存在価値や個性を否定しバカにした考え方に過ぎないか、自覚がない。こうした経営方針を口にすることによって、実のところ、会社の利益を追求している経営陣が、仕事をするスタッフのモチベーションを甚大に損なう(つまり生産性を低下させる)メッセージを発信していることの、ネガティブな側面に全然気付いていない。あろうことか、そうした非属人化経営(非個性化経営)ができるトップが、企業の優れた経営者だと勘違いしている。

「辞められたら困るので、その防衛をあらかじめ考えてスタッフの平均化を図った挙げ句、優秀な仕事人を失う」経営手法と、「辞める人が出ないよう、能力のある人を評価し、大事にする、その結果として辞める人は少ない」経営手法の2つがあるとしたら、どちらが経営手腕が高いのだろう。その答えは自明なことの様に思える。「リスクを取れ」と叱咤する経営者自身が、リスクを取らない、実につまらない経営手法を優れた手法と考えている。

考えてみれば分かりそうなものだが、「あなたにしかできないことをやって下さい。誰にも真似のできない個性を発揮して仕事に生かして下さい。あなたにできないことがあったら、それができる人を探して補完しますから、安心してあなたの得意な仕事をして下さい。あなたが個性的な能力を発揮し続けられる限り、あなたを大事にします」というメッセージを発信し続けている上司と、「あなたのやっていることなど誰にでもできます。あなたは明日からいなくなったって、その代わりになる人は幾らでもいます」ともとれるようなメッセージを発信している上司とがいたら、あなたはどちらの上司の下で仕事したいですか?

え? 自分が起業するので関係ない? であれば、皆のやる気の出せる賢い経営者になって下さい。社員を大事にしない経営者は、いずれ、その報いを受け、すべてを失うことになるでしょうから。

検察は「シナリオづくり」こそが身上

Thursday, September 23rd, 2010

前田容疑者「改ざん意味ない」
タイトルを繰り返すが、検察は「シナリオづくり」こそが身上。検察は、そもそも組織ぐるみの「シナリオづくり」 でこれまで生きてきた。正義の追求などという高邁な理想とはなんの関係もない、自分たちの評価だけを問題にする、度し難く典型的な官僚そのものの集まりで ある。佐藤優が言うように、「最も遵法意識の弱い日本の組織」が警察と検察なのだ。法律を守らせるという義務感と責任感の意識はあるのだろうが、その法律 を恣意的に運用し、自分たちは絶対に裁かれる対象にはならないという世間から超絶した立場にいる人間たちが、実は全く法を恐れていないし恐れる必要がない のだ。それが薄い遵法意識(自分たちだけは特別という態度)に表れる。
今回の前田氏逮捕と彼のみをスケープゴート化する「一見して本気の検察の浄化劇」は、これまで検察が付いてきた大きな嘘と、これから付こうとしてい る大きな嘘を可能にするための「中くらいの嘘」のドラマである。おそらく前田氏は本当のことを喋っている。だが、誰も相手にしないだろう。
いまここで彼だけを叩いて得意になっている方々に訊きたいのだが、これまでやってきたことが嘘だらけで、この前田氏の立件だけが本当であるなどと何故われわれは思わなければならないのだろう。
われわれはこれから起こる「生まれ変わった検察」「自己浄化できる検察」などを信頼してはいけない。それはすべてイメージ作りに過ぎない。そもそも 厚生労働省の障害者郵便割引不正事件自体が、検察におけるさらに大きなシナリオの一環で、「検察の敗北」という図式もそのドラマの完成にあたって必要に なったので、どこかの時点で利用されたと考えるのが自然だ。この「検察の歴史的敗北」ですら、検察と判事との間の合意なくしてどうしてあり得ただろう?  これ自体がひとつの政治判断だ。そしてその敗北が、リークによってすでに各方面から「予想され」ていたこと自体が、検察と判事との間の申し合わせの存在を 証している。
佐藤優氏の『獄中記』は、検察官という生き物を理解するのに本当に参考になる資料だ。)
逮捕された前田氏がどこまで頭のいい人なのかは分からない。佐藤優ほどの頭脳を持っているのかどうかは分からない。が、彼が自分の立場を危うくする ことも含めて、すべて本当のことを話し、自身のスケープゴート化を含む上層部のシナリオの存在が明るみに出れば、これを操作する立場にある検察がそもそも 不可逆的に腐敗していること、つまり検察が自分たちの組織を浄化するというスタンドプレイ自体が、大きな嘘を隠蔽するものである事実が、いよいよ広く諒解 されることになるだろう。
それにしてもシナリオづくりが検察のやってきたことであって、この前田氏の逮捕という成り行きもシナリオあってのことだという《入れ子構造》は、やはり逆説的ではあるが、本当のことだと考える。

「小沢の持っているカード」について

Thursday, September 9th, 2010

小沢一郎は勝つのか?」と題する、政治にきわめて密接に関わりのある発言を内田樹氏が行った。

その中で氏がさりげなく語っている「小沢の持っているカードのひとつ」、すなわち「対米強硬姿勢を実現するかもしれないという田中角栄の日中共同声明以来の外交的期待」については、実は国民は知らなさすぎるというのが自分の考えだった。だからもっと知らなければならない、とずっと思っていた。なんで田中角栄が逮捕されたのか、どうして小渕が、橋本が、現職の総理や議員が、かくも多く憤死していったのか? そして、どうして鈴木宗男や佐藤勝が裁判にかけられたのか、そしてとりわけ政治家・鈴木宗男に関してはどうしてこのタイミングで司法判断が下るのか、こうした諸々の理由を知らなすぎる。それで自分は微力ながらも想像力の透視できる範囲で、自分の世界観を語りもし、必要な文章の紹介もして来たつもりだった。

だが、この本当のことが、民意として意識化され、顕在化された暁のことを、そしてそのことによって惹起されることの内容を、われわれはまだ知らない。

この認識が当たり前のこととなって、当然のように国民の口から漏れ聞こえるようになった時とは、日本における反米を基軸とする《真の》ナショナリズム復活の到来を意味する。

だが、筆者はナショナリズムだからと言ってそのこと自体に性急な価値判断を下す意図はない。否定されるべきナショナリズムと否定し難いナショナリズムとがあるからだ。筆者が反対するのは、アジア諸国など、かつての日本の植民支配をした地域に対する相も変わらぬ優越感であり、それに根ざした日本の選民意識といった低級な形態のナショナリズムであり、あるいは日本人を低級な民族であると無意識に考える(そして原爆投下さえも正当化できると考える)欧米の支配階級にある優越意識である。ひとつの利益を共有するべき集団(国家か民族かは問わない)が、一方的に他の国家の国民(民族)や政府(支配階級)によって収奪され続けることに対する当然出るべき反対の声を、そうしたネガティブな「ナショナリズム」とおなじレベルで判断されるべきだとは思わない。

どこかでも一度書いたが、民族や国家意識というものは、そもそも最初から(アプリオリに)在るものではなく、「叩かれて、支配されて、そして財産を奪われて」初めて生まれるものである。「おまえはダメだ」と言われ続けて、自分を愛する気持ち(自尊心)が反動として発生する。愛国心も同様で、くだらぬ愛国心教育によって生まれるものではない。まさに、日本でそうした意識が生まれるのだとしたら、それは歴史的必然として、被支配者が、不当な支配から逃れようとする運動から生まれるのである。そして、それが日本で誕生するのだとしたら、それは明治維新前夜の攘夷思想と同じ、「お家」に関する危機意識(今回は実際の非支配の認識)からであり、それは幕末以来の本当のナショナリズムにまで育つ可能性のある大きな芽だ。つまり、そもそも無くてもよかったそんな(国民/民族)意識を、むしろ「宗主国」であり支配者である合州国は、力を行使することで自らこの地で目覚めさせようとしているのだ。

先にそうしたナショナリズムを、《真の》と断らなければならないのは、日本における今日の(そして60年続いている)「ナショナリズム:国家主義」は変な捩れを起こしていて、よく街宣車で見かける日本の「いわゆる右翼」は、対米従属の「右翼」(反共である、という1点においては「右派」であることは確かだが…)であって、戦後アメリカべったりになった日本の「国体」を、そしてアメリカの国益を守る圧力団体(基い、暴力集団)なのである。これは本当の国粋主義者らが、米帝からの自主独立を叫び始めて本来右翼がどうであるべきかの手本となるべきところを、却ってその奇妙な行動によるネガ・イメージによって、われわれの関心をナショナリズムの真の目覚めから逸らしているのである。

一方、ひるがえって日本の左翼は、本来なら日本の自決をもっと本質的なところで説かなければならないところを、自民党の多元外交派も一元外交派も十把一絡げにして批判・否定することで、本来的な日本の国益になるべきところを損ない、却って、「左派」でありながら米帝国の国益になるような手助けを知らず知らずに行っていたりするのだ。これは明確に《反米》を旗印に掲げる極左のことではなく、いわゆるゆるやかな正義派・社会派の左派議員(社民党に見られるような)に著しい。それは「政治とカネ」の腐敗を糾弾する正義の意図で行われることだが、日本の国益を考えている政治家の失脚などのための材料を各方面に提供したりすることで、知らず知らずに起きてしまうのである。残念なことだが…

話がそれた。真のナショナリズムの復活がいよいよ明瞭になって来たとき、この国を実質的に支配する合州国がそれを放置するだろうか? もちろん、これまでも放置しなかったし、これから先も放置することは無いだろう。それが角栄の逮捕であり、そして多くの多元(非米)外交派に対する政治生命断絶の工作であった。そして現在も進行しつつある「東京地検」など、「恐怖の名」で知られる法曹界からの起訴/裁判による暴力である。つまり、この圧力や工作はいよいよ猛威を振るうだろうし、ひとが本当のことを知ろうとすることに対して、一層の情報攪乱を行うだろう。つまり、そうした日本人の目覚めに対して、目覚めないようにさらなる不可視の施策を行うとともに、実際に止められない目覚めに対しては、目に見える脅威を与え始めるだろう。

(つい先だっても小沢が力を振るおうとしたときに、日系自動車会社のリコール問題が噴出した。これは「空爆」の新たな形態である。経済爆弾を落とすのである。)

目に見える脅威としては、反米ジャーナリストや研究家、大学教授などの発言力を持つ人間(情報発信者)の冤罪事件の頻発、裁判の長期化による社会的影響力の削ぎ落とし、などがある。裁判所による判決の前に、裁判沙汰になったり被疑者になっただけで社会的な制裁が実質的に行われてしまう日本の土壌(というよりは日本のメディアの体質)では、容疑人となっただけで日本ではアウトである。有罪であるか否かに関わらず、「世間をお騒がせ」しただけで、日本では制裁の対象となるのであるから。

だが、問題はこうした各種工作にもめげずに行われる日本人の目覚めへの方向性は不可逆であることだ。どんなに時間が掛かってもその抵抗は続けられ、遠からず他国の権力者による支配は終わりを告げるであろう。あるいは、全面的な暴力的な闘争へと発展するだろう。本当のことを知った日本人がマジョリティーとなった日本は、抵抗勢力(レジスタンス)の地下の牙城を築くかもしれない。

われわれは、今日、数少ない《知る側》に属するマイノリティではあるが、その認識が一般化した時のことをありありと心に思い描くことができるだけの洞察力も同時に培う必要がある。そのときに起こるべき「敵」の「抵抗」が、どんなシビアなものになるかを含めてである。

われわれは目覚めずに、働き蟻のように捨てられるまで他国の利益のために働き続ける方が良いのであろうか? そしてその働きは自分たち(国民の)利益のためにあるべきだ、という当たり前の主張が通るような世の中の実現を、諦めるべきなのか? それを自らに問う必要がある。