Archive for February, 2005

「独自の文化」を逆上る

Saturday, February 26th, 2005

NHK教育で放送された5分間番組「地球はうたう」で、中国の道教の修行者、道師の演奏する音楽というのをやっていた。笙や琵琶といった楽器を含む編成から勝手に想像した音よりやや騒がしく、いかにも中国の音楽だなという感じで、音楽的には何の共感も覚えなかったが、道師たちの髪型に興味が向いた。彼らの髪は総じて長く、上の方で束ねるのであるが、それは日本の力士と思わせる髪型であった。道教と相撲。やはりどう考えても「つながり」がある。おそらくその昔、道教の道師たちが神の前で西の強者と東の強者に分かれて勝負をし、それを「奉納」した訳である。中国にあのようなレスリングというのは現在ないのだろうか? 相撲が「神事」だということは知られたことだが、日本の神事たる相撲には道教の影響が大きいのは明らかだ。というか、「日本の神事」というものが、そもそも中国から来た道教(taoism)の影響を大いに受けて発展してきたと言うべきなのだろう。

ところで、今年の我が家のカレンダーは、漢字学者の白川静氏の「サイの発見」というものである。漢字の「くち」の字型に当たるものは、そのほとんどは「口」にあらず、白川氏長年の研究によると、「神に祈り、誓うときの祝詞(のりと)を入れる器である」らしい。実際、この見方で漢字を観て行くと実に面白い。「語」という字のゴン辺(言)の下の「口」も作りの下の「口」も、はたまた「告」の下の部分も「サイ」である。「曰く」の「曰」も、「サイ」の器で、「器の中に神の告げるしるしが現れるのでその蓋をちょっと開けてみる」というのが、その漢字の由来であると言う。まったくおもしろい。

古い時代の漢字では、「言」も「音」も下の「口」(サイ)の部分に一画だけ線が加わっているか否かの違いしかない。現代の漢字では「言」と「音」が同じ由来を持っていることはちょっと想像し難いが、昔の字では一画違いなわけである。それによると、器中に、「ある気配」が現れることを示すのが「音」である。白川氏曰く、“神は「音なひ」によって「音づれ」るのである。音は、霊なるものの「訪れ」のしるしであった”。これを読んでいて思ったのは、英語でも「訪れる」には「visit」以外に、「call on」という言い回しがある。この表現にも、「音づれ」を感じられて興味深い。誰か(何か)が来るときは、まず、「音のしるしが先に来る」訳である。

さて、その一画違いの「言」の方であるが、白川氏の説明にはこうある。“「言」は訴えを意味し、そのサイ(器)を榊の枝にかけて神に訴えることを「告」という”。榊の枝を掛けるという日本の神事も、遡ると「漢字の成立に逆上れるほど古い」ものであるということになる。そして、それは漢字文化の中に見出される儀式な訳である。

敵をつくるわれわれの心

Friday, February 25th, 2005

排除しようとするわれわれの心がやがて排除しきれない敵を作る。敵は最初から敵ではなかったし、敵もわれわれの敵たろうと想像だにしなかったにもかかわらず、相手を敵だと分け隔てるわれわれの心が、敵を顕在化させる。最初に敵意を抱いたわれわれの心が相手を敵であると確定する。

そして、一旦「敵対関係」が築かれると、双方に生き残りをかけた闘争が生じ、敵を抑圧する力が強ければ強いほど、敵となった相手はより一層の力で生き残りを賭けた反撃をしてくるであろう。それをさらにわれわれの力で抑えようとすれば、そこにはもはや力と力がしのぎ合う悲劇的な悪循環しか生まれなくなるだろう。

しかるに、われわれは敵だと思う相手を、自らの心が招いたものだと省みることがあるだろうか? 在日朝鮮人が怒っているのも、ユダヤ人がこれほどまでに力を付けて反ユダヤ主義に対するアンチ「反ユダヤ主義」を伸長させたことも、歴史上なかったかもしれない。こうした一切が、われわれとわれわれ以外という分け隔ての心が生み出したものだという反省があるのか? そもそもどちらが先に敵意を抱いたのか? それは無自覚に人を抑圧したことへの反発であったに過ぎないのではないか? われわれが信用されないのだとすれば、それはわれわれがかつて蒔いた種をきちんと清算していないせいではないか? われわれの心が十分に洗練されていなかっただけではないか? そのように考えてみることは出来ないのであろうか?

自分が間違っていたのではないかと自省できることが、相手からの尊敬を得ることはあっても、周囲の軽蔑を招くなどということにはならないのである。力を振るっていなければ、あるいは主張し続けなければ自分の尊厳が維持できないというその考えそのものが、周囲を過小評価する態度なのではなかったのか? それは、自分がそうであるから周りもそうであるはずだ、という単に甘えた想像力の欠如ではなかったのか?

排除するのではなく、理解し合い、共生するという心を互いに育もうではないか。

われわれは何に「反対」しているのだろうか?

Friday, February 25th, 2005

私の住むF町では駅前の斎場建設に対する住民の反対運動がある。「反対運動」などと言うとどれくらい大げさなものだろうと思われるかもしれないが、昨年の一時期は結構な盛り上がりを見せた。街宣車は走り回り説明会にみんなで行こうと呼びかけたり、建設予定地付近には赤と白の段だら模様の横断幕やら提灯によるデモンストレーション・メッセージが商店街の至る所に付けられ、そこを通りかかっただけの人なら一体何事が起きているんだろうと思うほどであった。何がきっかけかは分からないが、その後一旦は静かになったが、今、建設予定地に立っている建物の解体が始まるや、また運動に一定の活気が戻ってきている。つい昨日も駅を出ると外で反対運動のビラを渡された。

今、「住民」と書いたが、中心になっているのは主に駅前商店街の店主たちである。反対の理由は、「駅前商店街の道はただでさえ狭い(それは確か)のに、そのようなところに遺族のクルマが大挙して押し寄せたり、霊柩車が停車していたりしたら、通りが今より危険になる」というのが主たるものだ。理由付けとしてはそれなりに無難な言い方だとは思う。

だが、真相は葬儀屋の経営する斎場など「きもちわるい」「町が暗くなる」というのがおそらく本音である。火葬場ではないが、遺体が運ばれて来ることは確かだし、喪服を着た人々が出入りして、半日そこで葬儀をやるという場所になるのであろう。それは駅前で撒かれている建設反対のビラなんかを見ていても、そうした「暗い」側面を強調して住民の共鳴を得ようとしているところからも、ある程度うかがえる。

さて、住民の反対運動だが、「運動」であれば反対する側に必ずしも「分がある」とは言いきれない面も残念ながらある。そんなことは賢明な読者諸氏には断るまでもないことだろうが…。そもそも、住民の側に、いかなる職業の人が、どこで、どんな店を開くのか、というのを決める権利があるのだろうか? 斎場だったらダメだが、百円ショップだったら良いのか? はたまたお金を落としてくれるパチンコ屋だったら大いに歓迎なのか? それとも経営者が特定の在日外国人だったらやっぱりダメなのか? もし葬儀屋がダメだとすれば、それはもう職業による一つの差別とは言えないのか? こんなキレイごとを言ったらすぐにでも反対者を刺激しそうだが、合法である限り、そして騒音や異臭を放ったりという物理的被害を周囲に与えない限り、誰にでも「職業選択の自由」はあるんじゃないだろうか。どこでどんな商売をしようが、自分の土地だったら勝手だろう、というのは、十分に説得性のある主張であり得る。もちろん、借地だったら土地を貸す権利者が、そこで行う業種を指定して特定の業種を制限するというような契約のあり方というのもアリだろうが、おそらく、今回は賃貸する側がそれを問題にしているということではなさそうなのだ。

もちろん、新しい土地にその土地にない商売をもたらすためにやってくる業者が地元と旨くやっていく気がないとすれば、それはそれで「商売上の得策ではない」と分別臭く言えるかもしれないが、それは私のような立場の人間がどうこう評価するような話ではない。その「商売」が地元の人(とくに周囲の商店)相手でなければ、商店主たちがどうのこうのというのを、特に意に介さないというビジネス上の態度選択というのもあっておかしくない。確かに、地元を敵に回すような展開をしようというのであれば、十分に賢明だとは言えないような気もするが、やはり法的にはおそらくこの葬儀屋は何の問題もないのであろう。あるのは住民の一方的な権利意識である。

しかるに、この周辺住民は「とにかくいやだ」と言い始めた。こういう意思表明を見聞きしていると、ある特定の宗教団体に属している人が、居住先の区役所や市役所で住民登録を受け入れてもらえず、こどもが学校へも行けなくなるというような状況や、移ってきた教団の近所に「監視小屋」を立てて、四六時中監視したり、様々な嫌がらせをしたりと言う、ある種、戦前戦中の隣組的な「自発的弾圧」を思い起こさせるところがあって、複雑な思いがする(もちろん私は生来の天の邪鬼だが)。被害者意識を持っている「弱い立場」の人が、実は率先して人権弾圧をする側に回っているという構図である。

F町に暮らして3年以上経ち、お酒屋さんなど数は少ないものの近所の商店への行き来もある。そうした人たちに対して親しみを深めるほど、彼らが「困っている」事自体については同情の念を覚える一方で、彼らが寄ってたかってしようとしていることそのものを、手放しで肯定することも出来ないのである。私の気持ちは複雑だ。

もし、斎場経営をしようとしている葬儀屋自体が、何か違法な手続きをしてその土地を入手したとか、手続き上、何か後ろめたい気持ちがあって必要な報告事項を正直に記載しなかったとか、何らかの不備があったのかもしれない(これは憶測)。そしておそらく「そうした不誠実が、そもそもの発端だ」と住民側は言っているのかもしれない。だが、もし万が一、葬儀屋が業種や職業を偽って申請したとして、それをわれわれは責められる立場にあるのか? いわゆる被差別職業というものがあって、世の中に必要なものであるにもかかわらず、一般には忌避され、あらゆる場所から閉め出しを喰っているとしたら、彼らは彼らで生き残りを賭け、あらゆる手段を講じて土地を入手したり、借り受けたりするのではあるまいか? この場合、どちらが被害者なのだろうか? そもそも、特定の職業を持っているという理由で、これからやってくる人々のプライヴァシーに関わる情報を、むしろあらかじめ不法に周囲が入手しているということはないのだろうか? 

あと、「住民弱者説」について。「住民は弱い立場の人だから支持しなければならない」と言うかもしれないが、三里塚闘争の農民ならともかく、F町の住人は果たして本当に「弱い立場」の人たちだろうか? それについてもいろいろな見方があっていい。少なくとも、彼らは既にこの町で商売の地盤を築いているか、土地を所有し、一軒家を建て住んでいるような人々である。そして、彼らはおそらくこの斎場でのサービスを必要としないだけの広い家に住んでいる。そして、安全で、静かで、「忌まわしいもの」がない生活を暮らしている。だが、その生活を「既得権」として主張しているのである。自分の自宅の向かいが斎場の裏手出入り口にあたるような近隣住人には大いに同情は出来るが、残念ながら彼らは幸運でなかったわけだ。

いずれにしても、政府が土地の接収をするというようなケースを除けば、後からやってくる人(後から来る移民)が、新しい土地においては常に「弱い立場」なのではないか。

その辺りの私の疑問に答えられる方はいるのだろうか。私の疑問は公平に欠いているだろうか?

この疑問が解消してからでないと、住民の運動に対する支持も不支持も決められない、というのが私の見解である。どうして、確たる根拠もなく特定のサイドに与するという態度決定が可能であろう?(そもそも、このF町はわれわれに無関心であってくれるし、われわれも干渉しない。互いにその静かな暮らしを享受しているので、「どちらの側にも興味がない」というのが、実は率直なところなんだが、どうも特定の側に取り立てて納得できる理由もなしにシンパシーを感じる人が身近にいるので、敢えてこれを書くことになったのだ。)

「NHK受信料支払い拒否」に伴う別側面

Thursday, February 24th, 2005

「NHKは腐っている。一連のNHK職員による金に絡む不祥事や、安部晋三自民党副幹事長とのやりとりでNHKが政権政党の圧力を甘んじてを受けていたことが明らかな以上、まったく信用ならない、云々。【結論→】だからもはやNHKには受信料を払うまい」。まったく反論の難しい正論である。それには心底賛同出来る。私だって支払い拒否を今すぐしたいくらいだ。人の金をなんだと思ってるんだ?ということだ。巨額の退職金や給料を当然のように貰いつつ血税を無駄遣いして憚らない悪徳公務員に対する怒りにも似た感情を、こうしたNHK職員に対して感じる。政治家に番組のチェックをさせていたとすれば、もうすでにNHKの内部にはジャーナリズムは生きていないということだ。云々。

だが、そこまで考えたとしても、そうした「良心的不払い」の主張者さえ、NHK独自制作の、すぐれたドキュメンタリーや「視点・論点」などの歯に衣を着せない世評批判を含むコラム番組の放映、優秀な海外ドキュメンタリーの紹介といった優れた仕事をしてきたことも、同時に否定できないだろう。だからこそ、NHKを部分的にでも支持していた者たちからすれば、「裏切られた」との気持ちは拭いがたいのである。ナイーヴな考えだと言う嘲笑はいくらでも予想は出来る。しかし、そこまで分かっていて、なお、「受信料不払い」にはブレーキが掛かるのである。

そう。NHKに対する感情的な怒りと当然の啓蒙運動としての不払いの選択。これは、どう考えても「払うものか」と言う視聴者の主張の方に分がありそうに見える。だが、われわれの直情的なNHKに対する反応と、本来何がわれわれにできるのか、ということは分けて考えるだけの理性を持つ必要はないのか? 視聴者の不払いと言う一人一人にとって一見当然のように見えるその行為の集合的な効果とその結末、というところまでわれわれの想像は至っているのか?

ここまで来て、すでに「ああそうか、要するにお前はNHKを擁護しているのだな」と感情的に反応している方がいたとしたら、少し冷静になって最後まで読んでほしいのである。

皆は認めたくないかもしれないが、NHKはある種の「公共放送」public broadcasting であるかもしれないが、「国営放送」national public broadcasting / state-run channel ではない。準国営放送的な役割を担っていることは、放送終了後に「君が代」を流したりするところから見ても明らか(民放も流したっけ?)だが、NHKは、国家の「representative」もしくは「スポークスマン」としての役割を限定的にしか担っておらず、決してその持ち主は「時の権力」ではないという体裁を、少なくとも(建前上)とってきたとも言えるのである。とにかくNHKは政府機関ではなく、特殊法人の一つに過ぎないのだ。今回浮上したような無視しがたい問題(国の検閲を受けていたという一大事)がNHKにはあるにせよ、ある種のバランス感覚で、いわゆる諸外国の国営放送がそうであるような「完全なる国の代理人」ではないという絶妙なポジションを維持していたことは確かなのだ。完全に国家の徴収する税金から予算を貰い受け、国の意思を伝えるだけの国営放送ではなく、大雑把に言ってサービスの半分が、放送を見る人のドネーションによって支えられているという体裁をとってきた訳である。

つまり、自発的であるか否かに関わらず、そうした視聴者のドネーション(寄付)によって放送が支えられているという根拠によって、むしろ「完全な国のコントロール」を回避することが可能であったという面はどうしても否めないのである。これからも、受信料を払っている視聴者こそ、国によるコントロールを制限する権利を持っており、国のものではなくてわれわれ視聴者のものだと主張する義務を負っているのである。

しかるに、仮に、こうした良心的な「自発的ドネーション」を完全に失ったNHKが、将来最終的に「完全なる国の代理人」としての大本営放送に質実ともになってしまう可能性があるのである。「あのNHK」(瀕死かもしれないが僅かに良心を残しているNHK)をわれわれの手に残すために、条件付きの「受信料支払い者」であり続ける、というのは、われわれにとって取り得る最後の手段かもしれないのだ。

つまり、「受信料は払うが、国の機関に墜ちないことを約束しろ」と迫るオプションをわれわれはまだ持っている。もし、NHKがその約束を出来ない、果たせない、と言うなら、そのときは「受信料不払い」と「視聴せず」という不買運動という<当然の帰結>をNHKは甘んじて受ければいいだけの話である。それを、一度や二度の失敗を理由にわれわれの手で安楽死させてしまっていいのだろうか? 一度や二度の失敗、という言い方が拙いならこう言ってもいいだろう。NHKの中にまだ生存している良心的な番組を作る制作者から、その手段を奪っていいのか、と私は皆に訊いているのである。

受信料を払わない視聴者が、NHKに対して何か要望を主張できると思っているなら、それは、逆にNHKを国営放送か何かだと勘違いしているためのような気がしてならない。繰り替えすが、NHKとは、むしろ日本国内で、受信料を払っている人こそが「自分の投資した分に相応な番組を提供せよ、さもなくば…」と権利を主張できる唯一われわれに開かれた放送局なのである。われわれが得意げに受信料不払いの権利を行使し、現NHKに引導を渡し安楽死させたら、今度は宣伝広告で番組をつくる放送局に生まれ変わってしまうか、あるいは押しも押されぬ「本格国営放送」になってしまうか、どちらかしかなく、そうなってから「しまった」と思っても、もう後の祭なのである。この一連の不祥事に過剰反応をし、「良心的不買運動」を展開し、そのために招来されることが、誰を利するのかまで考えなければ、本来運動というものは評価出来ないのである。(そもそも、海老沢の退陣、金に絡むスキャンダル、朝日との対立、受信料不払い運動、とこうして観てきて、その後にニヤニヤ笑っている腹黒いやつらがいる気配が感じられないのか?)

では、どうしたらよいのか? われわれは、受信料の「無条件的不払い」を一方的に主張するのではなくて、本当は「NHKとの受信契約が受信料支払いの条件」なのだから、まず一旦契約を破棄し、再契約を結ぶ際に、こちらからNHKへの希望を契約書に反映させればいいわけなのだ。その契約内容にNHKが賛同できないのであれば、契約不成立、受信料を払う義務も発生しない訳である。NHKが勝手に電波を垂れ流しして、われわれの何人かがそれをたまたま「傍受」しても、契約違反ではないのだ。

(関連:支払い義務は契約があってこそ成立するもので、放送法が支払い義務を定めているのではない、という主張)

ちなみに私はNHKの回し者でも受信料徴収者でも何でもない、大企業の利益を代表するばかりの、コマーシャルに毒された民間放送局 private broadcasting stationsだけが犇めき合う日本を望まず、少しでも多くの質の良い番組と真のジャーナリズムの生存に期待している、ただの視聴者の一人にすぎない。

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身辺メモ「冴えたやつら」@bsbs@web

反精神論の音楽論 あるいは、非・霊的音楽論

Tuesday, February 22nd, 2005

今更ながらのことで、敢えて私が言うようなことでもないだろう。だが、世の中には「音楽」と呼ばれるものが実に多くあっても、「およそ音楽と呼ばれるに相応しいもの」のなかに、そう易々と作られる(演奏される)ものはない。ただ、その「難しさ」にはいろいろな種類があって、ただ音を出すのだけでも難しいという「発音」レベルの難しさもあれば、指や腕を自在に動かすことの難しさもある。また、音色や音量を操る困難がある。これらのこととも切り離せない密接な関わりのあるのが、フレージングの難しさという「音を出せる」「指を動かせる」というレベルの次に待ち構えている困難である。さらには、他人の出す音とどのように合わせていくのか(あるいは「合せない」のか)、という「アンサンブル」上の困難というものもある(「アンサンブル」については一度書いたことがある)。いずれの場合も、どのような音を目指すのかと言う、一旦身体の外部に存在したことのある、いわば「既存にみとめられたことのある音型への接近」という、演奏者にとって避けて通れない課題が存在するからこそ、起こってくる困難であるということも出来るかもしれない。換言して、これはイメージ(形)への接近という取り組みである。この「イメージ」を便宜的に私は「外在したことのあるもの」と呼んでいるのである。踏み込んで言えば、こうした一連の「困難」は、取り組むに値するものであるし、追求するに必ず喜びを伴うものでもある。つまり、この困難と喜びこそが音楽においてまさに表裏一体のものなのである。

だが「困難」か「喜び」かという議論は、この際、問題の対象ではない。それを生み出そうとしている状況や結果によってどちらにでも転び得るものだし、「どちらが真か」というような問題ではないからである。しかし、以下のことは議論に値する内容であると信じる。それは、「困難」が、容易に音楽家による「精神論」に結びついてしまうという問題について、である。

■ 「かたちから入る音楽」への反省という歴史

人によっては意外なことであるかもしれないが、音楽に関してある程度の習熟を得ている者たちにとっては、「外在する音型を目指す」ということ自体が、すでに「疑問の対象」となって久しいということがある。これは目指すものが、「外在した音のイメージ」ではなくて、あくまでも「内在的なイメージ」であるという、ある程度のまとまった数の人々が口にし始めている別の「正論」のせいでもあるのだ。つまり、外在したイメージの追求は、「かたちから音楽に入るのはどうか」といういかにも説得力のある言い方で忌避されがちなことでもあるわけだ。こうした「かたちから入る音楽」を批判的に捉えている音楽家というのは、当然あるべきイメージがわれわれに内在したものであるべきだ、と言うある種の精神主義によって支えられている。

一度外在したもの同士に存在するひとつひとつの違い(個性)はこの際、問題にならない。それは、音をイメージ通りに具現化した後で問題となる末端的な違いに他ならないからである。他のすべてが型通りに外在化できたからこそ初めて問題になるレベルの話である。

ここでひとつ忘れてはならないのは、およそ「精神主義」や音楽に関するある種の「知恵」というのは、どのようなレベルの修行者にも等しく理解されて良いものではないということだ。ひとつの教えを、あらゆるひとのあらゆるレベルに当てはめてしまうということは、実はミソとクソを区別しない勘違いと大差がない。ただし断っておくがここで言う「知恵」というのは、特定少数の人にのみ公開されている秘儀とは関係がない。

■ 模倣の非神秘 vs. 霊的神秘主義

反論を覚悟で繰り返せば、あらゆる音楽は「物まね」から始まる。つまり外在するイメージの模倣である。あるいは、「かつて外在した音のイメージ」の模倣と言っても良い。しかるに、音楽は心象風景を表現することだとか、精神的活動だとか、あくまでも人間(演奏者)の内的存在の具現化だとか、はたまた自分の属するある種の霊的存在への奉仕であるとかいう、まったくもって反論のし難しい「立派な精神論」は存在しているし、そうした事々が常に多くの演奏家たちを奮い立たせてきた一方で、大いに惑わしてきた言説のひとつようにも思えるわけである。

特に本論で問題にしたいのは、たとえば、精神論の中には音楽以前に演奏家がどんな郷土を持っているのかであるとか、どんな民族的バックグランウドを持っているのかなどという、まかり間違えば、特定の人間にはそれに取り組むこともできない(取り組む資格がない)とさえ取られかねない内容を含むことを、差別と思わずに(あるいは自己の優越意識を自覚せずに)平然と言い切れる人がいる。もちろん、音楽に取り組むにあたっての、ある特定の精神論を過小に評価しようとか、無意味だとか言うつもりもない。それについては後述する。

だが、霊的精神主義は、限られた数の儀礼通過者が、自己の存在価値を自己の作り出す音楽そのものから得ようとして得られない場合の「頼みの綱」とする、いわば選民意識(エリート意識)の様なものとして働く。おそらくたいていの場合、そのような意識を芽生えさせる本人は、そのことに無自覚なのである。

実際問題、自分の関わる音楽創作が特定の人間にだけ許された特権的な「作業」であるという考え方(思想)は、常にある程度の技術を持った人にとって抗し難い魅力であったということは理解できなくもない。それは、先達から弟子への、音楽的な、さらには音楽から観れば副次的な、ある種のイニシエーション(洗礼的な通過儀礼)を経て、今なお伝えられている可能性がある。こうした通過儀礼的体験が、音楽性そのものを深めるという可能性も完全には否定できないが、むしろそれは本人の関わっているある種の音楽へのコミットメント(献身的取り組み)を強化するための、きわめて効果的な方法のひとつと考える方が妥当なのだ。

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やっぱりいた、電柱愛好家!

Monday, February 21st, 2005

電柱、というのは「前向きなランドスケープ」を考えなきゃならない立場の人からすると、「頭痛の種」という位置づけであっただろうと漠然と思っていたし、電柱や電線のない空、というものがあったら、向こうの景色ももっと楽しめるのに、とか、カメラアングルがもっとカッコ良くなるのに、とか、考えたりもした訳ですが、今回のように電柱に親しみを覚え始めると、ある種の発想の転換が起こる。

電柱や電線に十字架を見出す子供に共感する信仰詩人もいれば、電線に五線譜を見出す詩人の心もある。電柱や電線を風景の一部として受け入れるということができるということは、別の意味で前向きな態度でもあろう。

しかし、電柱や電線を溺愛する心が内面に芽生えたら、今度は街を歩いている間中、喜びで満ちあふれるということに、なるはずだ。知らない街に行くと、観たこともないような電柱を見つけようとするだろうし、思いがけない電柱と出会えると、歓喜を覚えたりする訳である。そして、そんな人が、世の中にはやはりいらっしゃるのである。それを知ってなんか嬉しくなってしまうのであった。

以前、タモリクラブで「インターチェンジの愛好家」というニッチな趣味の人が出ていて、「いいインターチェンジ」や「わるいインターチェンジ」というのを論じたりしているのを観たことがある。こう言っては失礼かもしれないが、まさにそういう類いの「電柱フェチ」という方がいらっしゃることを知った。どういう電柱が好みなのかとか、そんなことも面白いのだが、写真キャプションに「高圧線路の碍子配置が2:1 架空地線の腕金が柱の真中にある。一番好きな格好。柱上変圧器が低圧線路の下にあれば最高。」などとあると、もう嬉しくなってしまうのだ。ボクも電柱を観てそうした美を自分で見出せるようになれれば、もっと「前向き」に日本の景色、独自の景観を楽しむことができるようになるだろう。

あの電柱は誰のもの?

Monday, February 21st, 2005

光を入れたい。CATVの常時接続が速いことはつとに知られたことだが、ウチで受けているCATVのプロバイダ・サービスも、実は老朽化したアパートの同軸ケーブルが旧式のために100パーセントのパフォーマンスが得られていないと言われた。実際、前に住んでいたときも同じサービスを受けていたが、その時の方が速かった。どうも同軸ケーブルには完全な双方向をサポートできるものと、テレビ受像をするためだけの、ネット接続には不完全なものとがあるようなのである。

それならいっそのこと光を。ということで、申し込みを始めたが、いろいろなハードルがあってそれと現在格闘中。実は、ケーブルを引き込むためのNTT柱(電柱)というのが、うちのアパートの敷地(庭)内にある。「それを利用すれば、まず引き込みは大丈夫」というのが引き込み工事の現場の説明。そのNTT柱の利用は、光会社がNTTから利用許可を得ればできるのであるが、私有地内の電柱なので、その電柱には「個人的な所有者」がいるわけで話がややこしい。

いずれにしても、光を引くにあたって若干の工事が伴うので部屋のオーナー(家主さん)の許可は受けなければならないとのことで、久しぶりに家主さんと直接話する。と、「外壁をあまり傷つけない限りは引くのは自由」とおっしゃるので、ひとまず安心したのだが、その電柱の持ち主(というか、土地の所有者)がだれなのかということになると途端に歯切れが悪い。だって、自分で買った分譲住宅で、庭も自由に使っているくらいなんだから、土地が誰のものなのか、ということくらい知ってそうなものなのだが、1週間後に話したときも「やっぱりわからないんです。誰が庭の管理をしているのかも今は不明なんです」というのだ。あの鬱蒼と草木が生い茂っている庭で、そんなおかしな話があるか、と思うが、私有敷地内にある電柱の「持ち主」が分からない。現実的には光を引くにあたり、許可が必要なのだと説明しても、「使うために立てたんだから、何で立てた人の許可を得なきゃいけないんだ」とさえ言われたのである!

光会社の工事請け負い業者の方から掛かってくる連絡担当の女性も、辛抱強く事情を聞いてくれる。彼女にしても一本でも多くの敷設工事を成立させることが仕事だから、結構熱心にあれこれ考えてくれるのだろう。話しているうちに、だんだんこの担当者に親しみを覚えてくるほどである。

一応、すべての事情を伝えたが、結局「電柱のある庭の持ち主が分からない」という異常事態のために、やはり工事が進められないことが決定的になったので、この際、その持ち主が誰なのか「NTT自身に訊いてみたらどうか」ということになった。つまり、NTTはその電柱を私有地に立てた訳だから、NTTの方が誰に依頼されて立てたのか把握しているはずだ、ということである。なるほど。しかるに、光会社からは誰の土地かということをNTTに直接聞くことは個人情報に属することなので、出来ればしたくない(そう言ったんだよ)。だが、光を引き込もうとしている希望者が電柱の所有者に直接連絡をして許可を得るという理由なら、連絡先を教えてくれるかもしれないというのだ。ふむふむ。この判断が正しかったのかどうかは分からないが、確かにそうかもしれないとその時は思い、「NTT東日本 ネットワーク事業推進本部 相互接続推進部」というところに連絡をしてみる。すると、「杉並区内の電柱」については、NTT ME東京北支店に連絡しろ、とのこと。言われた番号に電話すると、今度はその番号が変更されていて、変更された番号へダイアルすると、やっとそうしたことの担当と思われる人と話をすることが出来た。まったくひやひやする。

だが、「一応調べてみる」とは言ってくれたものの、分からない可能性もあると言う。その場合、結局また部屋のオーナーに話が戻ってしまいそうであったので、それではこれまでいろいろ連絡した意味がない。まるでカフカか何かの小説のようだぞ。他に何か方法はないかと苦し紛れに訊くと、「土地の所有者というのは調べるのは実は簡単なんですよ」と電話越しに少し「照れ笑い」しながら言うので、どうやるのかと訊くと、結局は登記上の問題なので、地番表示を使って調べれば地主は分かると言うのである。???。そのトウキショというのはなんなんですか?どうやって調べるんですか?とおそるおそる訊いてみたら、それは法務省の管轄だと言う。なんだか簡単どころかややこしい話になってきたようにしか思えない。そんな探偵まがいの調査をしなければ「光」を引けないなんて!

http://info.moj.go.jp/fu-man.htm

というようなページを眺めながら、「こんなことオレが調べること?」とか思う。外を歩いていると、今度は電柱が気になるのである。恐ろしくいろいろなケーブルが張り巡らされているあの電柱一本一本にドラマがあるのである。と、のんびり夕闇迫る空にそそり立つ電柱を順繰りに眺めながら、のんびり行こうと決めた次第である。

新聞よ、さらば!(って今さらだけど)

Sunday, February 20th, 2005

気合いの入っていたライヴのひとつが終わり、久々に新聞(日曜版)なるものに目を通した。そうすると、“議論の「広場」を提供したい”という新聞社社長の挨拶なるものが目に飛び込んできた。それで、なになにと思って読んでみると、まず冒頭にこんなことが書いてある。

「私たちは、特定の意見を一方的に押し付ける新聞の時代は終わったと考えています。」

まず思ったのは、これって、今までは「特定の意見を一方的に押し付ける新聞の時代」だったと認めているんだな、ということです。

この社長メッセージには、いくつかの意味があることが伺える。ひとつは、上に指摘したような意味。つまり、新聞には、人々を啓蒙し、教え導く役割があるとどうやら思っていたらしいこと。であるからして、今までの新聞やテレビなどのメディアが時として権力側のスポークスマンとして機能し、時として到底われわれをバカにしているようにしか思えなかったことにも、十分の納得ができるのである。

だが、そんなことよりももっと大事なことは、次のような腰砕けのメッセージをそれとなく、あらかじめ読者に伝えておくことにある。「新聞はこれから起こってくる世の中のさまざまな事態に責任は持てないし、ジャーナリストとしての責務を全うできません、でもいろいろな人の意見の公開場としての場は提供します、勝手に意見交換してください、それで自分たちで善悪を判断してください」ということです。

そこには、ジャーナリストとしての気概も、依って立つべき哲学というものも、欠如している。反権力であろう(ありたい)という政治権力に対するアンチテーゼもない。だが、それこそが明確に彼ら新聞が保持しているべき<力>ではなかったのか。

議論の場などを提供してくれる必要もない。そんなことはネットがいくらでもやってくれる。教え導いてくれるような新聞も、もちろん必要ない。大本営発表を伝えるだけの機能なら、それは害悪だ。

いずれにしても、こういう卑怯者を社長として仰いでいる新聞など読む気もしなくなった。こんな新聞が、われわれが困ったときの助けになってくれるだろうとも思えない。連れ合いが「どうしても」と言うので、仕方なく新聞(それも夕刊のみ)を取ることを同意したが、早いうちに解約の手続きをとろうと思う。

新聞を取り続ける説得力のある理由を挙げてみて頂けませんか? だれか!

すいきょうな映画鑑賞

Saturday, February 19th, 2005

う〜。結局観てしまった「Before Sunset」。なんと言い訳をすればいいのか分からない。予想していたより、「皆さん」、よくも悪くも成長していて、それにはちょっと「やられた」という感じ。それにしてもお粗末な映画評だね。いやこういうのは、映画評とは言わず、たんなる備忘録と呼ぶ。

関連自己blog「『恋人までの距離』を計ってみる」

嬉しいメール

Friday, February 18th, 2005

先日の18日のソロライヴを聴きにいらした方からやや長目のメール(でも大変嬉しいメール)を頂きました。私信のため具体的内容やその方がどなたなのかは公開できませんが、とにかく頂いて嬉しいメッセージでした。その方のメッセージの中でも特に嬉しかったのは、その方がボクの演奏する音楽を聴いているあいだ、自分の幼児時期の体験や以前いたことのある異郷の地や、その地で繰り広げられる幻想を見た、というものでした。私は以前から「音楽は音に過ぎない、でも音を捉える人間の心にこそ神秘がある」と言い続けています。この方からのメールはまさに私の信じることを裏付けるような内容であった訳です。

ひょっとすると、聴く人自身の体験や感受性のありかたというのが、得られる内的体験にとってより決定的である、と主張する方もいるかもしれません。それは否定するつもりもありません。まさにそうに違いありません。でも、どんな方であるにせよ、どんな内容であるにしても、その方が自分の音楽を聴いて、独自の体験を想起したばかりか、その世界にしばし遊ぶことが出来たのだとしたら、演奏家はそれ以上に何を望むことがありましょうか?