Archive for January, 2006

あきんど根性に災いあれ!

Tuesday, January 24th, 2006

ある人のブログで「市場は人間を疎外する、ということを、金で人間は買えると言い換えただけ」という名文句があった。おそらくホ○エモンへのある種のシンパシーを表明しているのだろうと想像したのだが、そうだねえ… かなり賛同。彼は、「皆さんの信奉する不文律のルールって要するにこういうことでしょ!」とみんなのために言語化してあげて人々の反感を買ったが、彼が言語化しなくたってそういう考えで動いているもっとたちの悪い「大物」が一杯いる。そして絶対にそんなことは言語化しないが、もっと猾いことをしているのだ。

だが、自分が本当に言いたいことはそれだけではなくて、もっと言うと「市場は人間を疎外する」の根っこには「お客様は神様です」の思想があって、そんな市場「至上」主義を疑いようのないものと思ってサービスを提供しなければ、世間では商売にならないし生きることも出来ない、というのが皆さんの常識なら、「金で人間は買える」というのはなくならない。だって、お金のためなら何でもして差し上げますってのが「お客様(市場)は神様です」の思想じゃないですか。何しろ「神様」なんですからね。そして「お金(商売)のためなら何でもして差し上げます」の人がいる以上、「金で買えないものはない」というホ○エモンの言語化した考え方はなくならない。「何でもやって差し上げよう」と言って自分を他人の足下に這いつくばらせても構わない人間が、他人に対しても同じ物差しで測り、自分だけでなく、他者の人間性さえも疎外する「偉そうなお客」に豹変する。

やはり「お客様は神様です」をまず克服しなければ「市場は人間を疎外する」も「金で買えないものはない」も、どれも克服されることはないだろう。この標語の中にほとんどの「労働問題」は集約されてるんじゃないのか? だいたい「お客様は神様です」なんて言い出したやつはどこのどいつや。お客が何でそんなに偉いんや。サプライヤがいなくて困るのもお客やろ。みんなお客であると同時にサプライヤ・サイドでもあるんだから、互いに「わがままな客」になるのをやめてもう少し我慢を知ろう!

「お客様は神様です」式の「国民的標語」に限って、誰が言い出したか分からない「迷言」なんだ。お客とサプライヤは、「サービス」と「お金」を同じくらい必要としている者同士の等価交換が基本だろ。買う方も売る方も、同じくらいプライドを持たなきゃいかんし、相手を尊重しなきゃいかん。

「市場」という顔も実態も分からないものを絶対視する「あきんど根性」に呪いと災いあれ!

ホリエレジー「逃した魚は酸っぱい?」

Tuesday, January 24th, 2006

昨夕、ホ○エモンという愛称でひろく親しまれている「若手アントレプレナー」の保持する会社で粉飾決算があったとか証券取引法違反があったとかで逮捕されたという報道があった。自分に関係ある話題と思っていなかったが、さまざまな評価があって、その中でも普段から比較的共感し信頼もしている批評家のふたりが、かなり辛辣なトーンで彼について書いていたので、ちょっと思ったことを書いてみる。実は、話はこの「若手アントレプレナー」の話ではない。「われわれが人を評価・判定できる立ち場にあるのか」という話だから、する価値があるのだ。

信頼する批評家の一人、内田樹氏は、<素知らぬ顔で一歩だけ「出し抜く」ものが巨利を得るというこの投資のスタイルは、構造的には大衆社会にジャストフィットのもの>と言い、人を騙す(そこまで言わぬまでも「出し抜く」)ことが投資で儲けるための前提である株式市場などというものに関わる種類の人間がそもそもつまらぬし、そんな大衆とは自分は関係ない、と言っているようにも聞こえる。これについては実は概ね賛同する… と言うか、そういう投機的なことに自分はそもそも不得手だし、賭け事は「負け」と決まっている、そして何よりも賭け事に勝つために熱心に普段から調べものをしたり刻々と変わるデータに目を光らせたりと言うことが出来るほどヒマもないから自分は手を出さないというのが、深層の真相だ。(だいたい本当にこの世界で儲けられる人はそもそもインサイダーぎりぎりの情報へのアクセス者と相場が決まっているんじゃないの?)

そして、<「みんな」と歩調を合わせないといけないようなことなら、私はやりたくない>ということも生来の天の邪鬼たる自分も言ったりするだろうが、それはむしろ自分にとっては後付けの理由だということにも自覚がある。そもそも「金を法外に稼ぐ」(儲ける)ことに対して魅力がない訳ではない。使い切れないような額の金を儲けることには何の魅力も感じないが、使うアテ(目的)があるならば、ある程度の額のお金というものには魅力があるのだ。その点で言えば、要するにホ○エモンに出来て自分に出来ないことに関して、口惜しいから、その届かない葡萄を指して「あの葡萄は酸っぱい」と言っているだけなのだとも言える。それを言うなら、ゴタクを並べているうちに「逃した魚は大きい」かもしれないよ。だが、結局のところ自分の仲間を可能な限り共感せしめるような「あの葡萄は酸っぱい」「逃した魚はこんなに小さい」というゴタクをどれだけうまく並べられるかなのだ、リクツというものは。共感を得られればとりあえず論争上は「勝ち」である。内田氏もそんなことは百も承知だろう。

ひとつ内田氏の文章の中で<誰が聴いてもあれは「詐欺師の声」である>と語っていることについては、本当にそう思っていたのかもしれないが、ライブドアが証券取引法違反で強制捜査を受ける前にそれを言っていれば、それは随分多くの人を「救った」ことだろうと思う。むろん、内田樹という予言者の話を信じて「他を出し抜」いた上でライブドアという危険な話からも離脱するということなので、それもひとつの「大衆社会にジャストフィットした」よりスマートで信頼できそうなコメンテーターに耳を貸すと言う立派な競争なのではある(こちらを信じる方がやや賢明そうには見える)。莫大な株券が紙くずになる前に「アイツは詐欺師だから手を出すな、既に手を出しているなら今のうちに手を引け」というようなアドバイスは、きちんと「人を出し抜く」タイミングで言ってこそ役に立つのである。

どんな詐欺師でも人を騙し続けて勝ち続け、騙された人間も騙されたまま儲けて、そのままみんなで墓場までいけば、その詐欺師は「生涯、詐欺師ではなかった」ことになり、タイホされない詐欺師は、商才あるカリスマであったことになる。生きている間に逮捕されれば「バカなヤツ」と言われ「ドジな奴」と「詐欺師」とまで言われるのである。つまりそんな「評価」は結果至上主義・成果主義なのであって、自分自身が本当に詐欺師(予想屋)の後ろ指を指されたくなかったら、後から「あいつは詐欺だと思っていた」という言い方しか成立しない。ということは、結局はそんなのは何の役にも立たない「後出し予言」なのである。

「後出し予言」と言えば、もうひとりの信頼すべき論述家の言葉だが、「やはり躓いたホリエモン」というような言い方があった。が、実はこれも別の意味で五十歩百歩である。確かにその人が強制捜査や逮捕の前から「ホリエモンは危うい」と言っていたらしいので、確かに「後出し」ではないかもしれない。だが、その評価の仕方にはどこか「躓いてくれて嬉しい/予言が当たって嬉しい」という予言者(予想屋)特有の成就期待のニュアンスさえも感じられる。むろん穿ち過ぎなのは自覚の上でだ。

[予言の自己成就がらみの記述]

予言をする人は、それが当たると自分の評価が上がるので「当たると(だいたい)嬉しい」のである。これについては内田樹氏自身もよく言っている。批評家や評論家が予想や予言をするだけならまだ良い。だが、今回のことを「やはり躓いた」と思わず言ってしまう種類の人々、すなわち彼に対する特定の評価(「裁き」と言っても良い)をすでに抱いている人々が、彼が逮捕されるような方向に政治力を作用させたり、裁きの地所へと彼が赴くようにその実現を幇助する場合があることについては別問題である。つまり「ほらやっぱり、アイツは躓くようなヤツだ」という言い方は、「躓いて欲しい」という希望──つまり「躓いたら面白いだろうな」というような世俗人特有のやや消極的な期待から「躓くべきだ」というほとんど確信的(狂信的)とも呼ぶべき積極的な道徳理念の実現の期待までの、どれか──を同時に抱いているため、「やはり○○だ」と言う人物は、すでに評価者/裁定者としては適任ではないのだ。

ということは彼についての評価も裁判も、彼が「裁かれて然るべきだ」「失敗して然るべきだ」という自己の内部に厳然とある「価値観」や「バイアス」を意識しないでそれを行なうだろうから、まず公正なものにはならない。つまりホ○エモンを気に入らなかった者ばかりが裁く立ち場にあるとしたら、裁かれる者が公正にジャッジされる見込みは少ないのだ。

そして、見せられる範囲で「世間の見たい」ものを実現して見せるのが権力者であるから、「躓いたら面白いだろうな」という成功者の不幸を喜ぶ多くの無自覚な心理は、それを十二分に楽しむことになるだろう。中世の時代から火炙りなどの魔女狩りに伴う儀式は、わくわくするお祭り騒ぎのイベントだった。世間が自分の欲望に無自覚である時、そして自分はキチンとルールを守っているという意識が強い場合、他人への「裁き」はもっとも苛烈に下されるのである。

もっとも、「味方に付く者がいないほど多く敵を作った事自体が、彼の愚かさそのものだ」と言うなら(おそらくそれはそうなのだろう)、それはある程度は仕方がないのかもしれない。しかし、多くの人が悪く思う中での大多数の論理というものが、常に正しいなら人類はここまで来なかった。不幸なことに少数を圧する多数派が、総じて間違っているということも歴史上あった。皆がケシカランと思い、誰もがそれに反証がないように思え、そうなるのは仕方がないと思う時に、皆の目に見えて信じられることの全く逆の、驚くような意図や逆説的な真相が水面下で動いていることがある。したがって、独りの人間の愚かさに今回の出来事の全てを帰するような簡単な納得や思考停止で終えていいような話とも思えないのである。

彼に対して、一切の固定観念もなければ利害関係にもない人間、しかも自分の価値観やバイアスを十分に自覚した上で、それと「裁き」を分けて考えられる人間だけが、真の評価を可能とする。そして、彼という人間が彼自身の欲望の追求だけでなく、「社会におけるどのような理念実現を助けてしまったのか」を観ることなしには、とても公正な判定は実現しないだろう。特定の人々のしがみついていたい道徳律とは無関係な「どのような役割を社会全体において演じたのか」ということが評価されてこそ、彼の一見した「愚かさ」がどのような被害を周囲にもたらし得、最終的に誰を利することになるのかを理解できるのだと思う。

PS1

ああゆう「傲慢な感じ」の金の亡者を私が好きなはずがないのだが、こうも寄ってたかって叩く人が多いと、またしても「ちょっと待てよ」と自分の中のブレーキが働くのである。シンパシーを持っているというのとも違う。だいたい今回の件が、政治的文脈を無視して評価できるはずもないし、政治的文脈と言えば、このことが日米関係、と言うよりアメリカ合州国の国益や外交政策と無関係であったとも思えず、その辺り全体を見渡すことが出来る人間だけが、ホ○エモンという人間の存在の意味を「正しく評価」できるはずなのである。

PS2

ホ○エモン氏にシンパシーを感じる人がいるのが信じられないと言って憚らない世代や潔癖者の方々も多いだろう。だが、上に書かれたような理由を以て自覚的に彼を支持する、ないし同情する人が出てくる、ということも理解しうることなのである。これは「想像を絶した」話ではまったくないのだ。

芸術に関するコンラッドの思想的断章

Thursday, January 19th, 2006

Joseph Conrad (1857-1924)

最初に断っておく。私はジョゼフ・コンラッドの愛読者ではない。したがって、これは彼についての詳しい知識に裏付けられてのメモではない。むしろ彼の著書を今後きちんと読んでみようと思わせた端緒のひとつである。今回は、彼の極めて重要と思われる思想的断章を2つの見出したので、それをそれに対する自分の感慨とともに備忘録として残しておく。

“Heart of Darkness”(『闇の奥』という翻訳がある。映画『地獄の黙示録』の原案となった中編小説)を書いたジョゼフ・コンラッドはこのようなことを書いている。時代を反映してか、あるいは英語が母国語でない人にありがちなこととしてか、やや晦渋な表現だが通して読んで頂ければと思う。

All creative art is magic, is evocation of the unseen in forms persuasive, enlightening, familiar and surprising, for the edification of mankind, pinned down by the conditions of its existence to the earnest consideration of the most insignificant tides of reality.

すべての創作芸術は魔術である。それは存在の条件によって最も取るに足らない現実世界の潮汐についての生真面目な配慮のために身動きできなくなってしまった人類の教化のための、啓蒙的であり親しみも驚きももたらすといった説得力のある形式によって、見えざるものを眼前に呼び起こすものである。(拙訳)

ここには「啓蒙的」といういかにも欧州人的な表現が垣間見られるものの、むしろ欧州人自身を含む「人類」(というより、むしろ欧州人をこそ指している)という取るに足らない存在を教化するために必要な何かであり、それは魔法なのだという主張である。人類(西欧人)が自由を失って、束縛された仕方でしかモノを見ることもできないという現実についての慧眼がある。そしてそれはとりわけ西欧的文化の影響をすでに深く被っているわれわれ全体に関わる問題提起として読める。

ポーランド出身のコンラッドが英語で文章を書き始めたのは英国船に乗り始めて以来というから、おそらく17歳になって以降の話だ。もちろんもっと若い時点で英語の研究は開始していた可能性は大だが、コンラッドにとって英語が母国語でないことに変わりはない。彼は英語圏の読者を彼の「英語」を通して魅了したが、その伝達手段としての「英語」はコンラッド自身にとっては第二/第三外国語であった。彼は(われわれ好みの言い方をすれば)「東欧出身者」なのであり、決して西欧を(もっと正確には英語圏を)代表する発言者(物書き)ではなかった。そして欧州人が西洋に非ざるものと邂逅するときの衝撃を、そもそも主たるテーマとしている(らしい)。

東欧出身者が西欧(西ヨーロッパ)に出会う事自体がひとつの文化的衝撃である。これは以前にも取り上げたジョーゼフ・ロートも積極的に取り上げたテーマである。ロートは英語作家ではなかったが、彼の<西欧>へのまなざしは、極めて局外者からのものに近かった。非西欧がすべからく「東洋」であるという思想的定義が可能なら、第二次大戦以前の東欧は、まだ立派に「東洋」の一部のような場所であったのである(西欧化されていないという意味で)。*

話が逸れた。コンラッドの著作は実際に噂でしか非西洋的なものと「出会う」ことができなかったほとんどの西欧人にとって「異質なものとの出会いで生じる心」をあぶり出す極めて重要な意味を持ったものであっただろうし、彼らにとって重要かつ新たなる思惟の好機となったはずである。

現在ではほとんど「英米文学」のひとつに分類されていてもおかしくないコンラッドの英語の小説は、英米人を教化するための、英語で書かれた、非西欧人による文学、すなわち英語圏人にとっての「外国文学」だったのである。

次に上げる一節にも英語の物書きでありながら、想定している読者は外国人としての英米人であったのではないかと思わせるひとつである。

… Art itself may be defined as a single minded attempt to render the highest kind of justice to the visible universe, by bringing to light the truth, manifold and one, underlying its every aspect. (from Preface “Children of the Sea”)

芸術そのものは、世界のあらゆる形勢において内在している、多様にしてかつ唯一の、真実に光を当て、至上とも呼ぶべき公正な判断というものの有り様を、目に見える世界の中へと描き出すための、二心なき試みとして定義できるかもしれない。(拙訳)

つまり現実とは異なった次元で実在する真実を垣間見させるものこそが芸術の目的であり、そうしたものを可能にしようというまったくひたむきな努力こそが、芸術行為と呼ばれるに相応しいものだとコンラッドは言っているのだ。

われわれが既に知っているように、むろんこれだけが芸術の定義である訳ではない。だが、真実を垣間見させることが芸術であるという芸術の定義の重要部分に関しては、いわゆるイコノロジーやシンボロジーを評価する立ち場にある私にとってさえ極めて深く共感を覚える部分である。

芸術は、目に見えざる未だ実現されていない何らかの理想像・真実像(イデア)を知覚化するための「二心なき試み: a single minded attempt」であるという表現は、とりわけ感動的でもある。このように芸術の真の目的を知っている人物による創作行為には、表現というものを通して悪しき個人的意図を実現させようというような利己主義は介在しない。

だが考えてみれば、そもそもこうした象徴物の存在というのは、こうした表現方法の文法ともいうべきものを包括的に理解し自覚した者によってのみ操作されてきたのではなくて、極めて広い種類の人間(子供、心身障害者、そしてアマチュアから専門家まで)の表現への参加、そして目的を自覚しない創作活動によって実現化され、また歴史化されて来たものだ。巧緻を凝らさない素朴な表現物が(あるいは全く素朴とは呼べない概念を含みながらも「素朴な表現物として」認識されつつ)古くから伝えられ、われわれの耳目にも触れるのである。

「集団的浄化儀礼」のシリーズで展開して来た「Ω祖型」に関わる図像解釈、そしてその現れ方の構造の解明というのは、それが自明な人々にとってはもはや「解釈」でさえない。まったく揺るぎない「規則」とも評価されるべきものである。一見無関係に思える時間や空間を隔てて存在するあらゆる象徴表現が、同じ<題材>の実在を伝えるためにその形状だけを保存して来たものだ、というのがシリーズを通しての主張だった。

それら表現物の構造が規則(文法)として感得できないのは、それを横断的に把握するための分野超越的な「ある程度」の知識と、最低限の観想がなかっただけなのである。そして、まったく不可解なことは、そうしたことについて集中的に考察して来なかった人々によっても、その祖型的図像の影絵のようなプロファイル(横顔)イメージが、ほとんど強迫観念的なまでに反復的に共有されているという事実なのである。

どのようにしてそうしたことが可能だったのかという伝達の原理(理由)についてではなく、それのエポックに向かって驀進する人類が、留めようのないその<象徴的表現>の潮流の実在と超歴史的「反復」を深い無意識のレベルでは識っているということについて、示唆しているいるのではないかと思われる。そして、コンラッドの言及する意味のものが、芸術の真の目的であると言うなら(そして疑いなくそうなのだが)、まさにこうした象徴的表現こそが芸術の名に値するものだということを彼自身も知っていたということなのだ。

*「欧州」はウラル山脈以西のいわゆる最も一般的な意味での「ヨーロッパ全体」を、「西欧」は「西ヨーロッパ」を指す。「西洋」は漠然とした「東洋ならざるものの全体」、とりわけ白人文化・白人居住地域ないし国土を指すのかもしれない。その点では米国も「西洋」である。少なくとも「西洋文化圏」である。ただし「西洋」という言葉の定義は、場合によって「西欧:西ヨーロッパ」という意味でも無批判に使われて来た可能性がある。また逆に「西欧」が単に「西洋」という漠然とした意味合いで使われて来た可能性もある。だがここではある程度の精度で定義可能な用語である「西欧」は使用できるものとして考え、「西洋」のような多義的に解釈できてしまうような用語をできるだけ排し、特別な意図がない限り使わないことを心がけたい。

嫌悪を自覚すること

Monday, January 16th, 2006

1/11/2006の日記で内田樹氏曰く、

<< 私は人間が利己的な欲望に駆動されることを決して悪いことだとは思わない。

しかし、自分が利己的な欲望に駆動されて行動していることに気づかないことは非常に有害なことだと思う。>>

なるほど。

曰く、

<< 中国が嫌いな人が中国の国家的破綻を願うのは自然なことである。たいせつなのは、そのときに自分が中国を論じるのは「アジアの国際状勢について適切な見通しを持ちたいから」ではなく、「中国が嫌いだから」(そして「どうして自分が中国を嫌いなのか、その理由を自分は言うことができない」)という自身の原点にある「欲望」と「無知」のことは心にとどめていた方がいいと思う。>>

非常に示唆深い一節だと思う。それでひとつのことを思い出したのだ。そしていつも通り、内田氏の一節のパロディを作った。

(パロディ)

<< ボクのことが嫌いな人がボクの創作活動や経済基盤の破綻を願うのは自然なことである。たいせつなのは、そのときに彼/彼女がボクのことを論じるのは「ボクやボクの周囲における将来の状況について適切な通しを持ちたいから」ではなく、「enteeが嫌いだから」という自身の原点にある「欲望」と「無知」のことは心に留めていた方が良い、そして「どうして自分がenteeを嫌いなのか、その理由を言うことができない」事実を心に留めていた方が良いと思う。>>

これについては、「その理由を言うことができない」と思っているならまだましで、嫌っている(嫌悪や憎悪を抱いている)ことを自分の意識から閉め出して自分に嘘をついている場合、どうしてenteeが嫌いなのかというところまで到達することさえできない。これは実際不幸なことだ。そして、他人(ひと)を嫌ってしまうような自分が嫌いだとかいう、いかにも立派な良心や自尊心が自分の心を殺すのであり、そのためにさまざまな気付くべきことから自分を閉め出してしまう。そして自分にだけでなく、その嫌っている相手にさえも間違ったサインを送っても気がつかない。それが相互理解にとっての最大の壁だと言っても良いかもしれない。

だから嫌いなら「嫌いだ」と言ってもらった方が、様々な問題はむしろ氷解するのだよ。そこから話が始まるのだし。でもほとんどの場合、「話」は始まってもいないし、「始めてしまう」ことに極度の怖れを抱いて隣人さんと上っ面の関わりをしているということなのだ。そういう人々にはそれに相応しい人生があるってことなだけだ。もちろんフィジカルに争って互いに滅ぼしあうのでない限り、よりよい関係が回復するのであれば、いくらかぶつかることが有益な場合はある。そしてそうした隠れた自己をあぶり出すために他者という鏡に自分を映して見るのだ。

まぁ、enteeが嫌いというのと中国が嫌いというのを同列に語って良いことだとも思わないのだが、「何かを嫌っている人」が、いかほどに自分自身を偽り得るのかというようなレベルでは同じことなのだ。かつて私の周りには「名古屋のもの(人)は全て嫌い」と言い切ったひとや「フランス映画は嫌い」とか言って済ませた人、あるいは「B型は直情的で周囲に無関心」というようなひとがいたっけな。どうしてひとつひとつ(ひとりひとり)を個別に見ないで、全部同じ風呂敷に包んで一刀両断できるのか私にはさっぱり分からないんだけど。

一見矛盾するようだが、嫌いなものを嫌いだと認められることは立派だ。だが、個別であるべきものをひとつの袋に入れてそれを嫌いだと言うのは、「中国が嫌い」で済ませられる単純化や偏見と大同小異だ。

スネークマンショー(古い!)じゃないけど、「良いものは良い、悪いものは悪い」。それに尽きる。全ては別個で、ジャンルや国とは関係がない。

便利な“ALL IN ONE”。しかしリスクも“ALL IN ONE”(倒れる時はみんな一緒)

Tuesday, January 10th, 2006

PDFファイルでもMIDIファイルでも音声ファイルでも、何でもメールで送れるご時世で、今さらなんでファックスなの?とか思っていたし、現に十年以上ファックスなしの生活をしてきた。どうしても必要ならファックス画像はマックでも受けられるし。加えて、留守録というのも、もうかれこれ十年以上お世話になってこなかった。PHSをその黎明期から使っていることもあり、端末が留守録も兼ねてしまうので固定電話自体への依存度も期待の度合いも下がっていたのだ。あとは、電話関連機器にお金を掛けることに対する抵抗があったし、そもそも考えるのが面倒くさかった。だから固定電話には「着信履歴」とか「相手先の電話番号表示」とか、そういう有り難い機能の一切ない、実にプレーンな前時代的な電話機しかなかったのだった。

しかしここへ来て突然ウチにファックスと留守録、その他諸々の機能を兼ね備えた「複合マシン」がやって来た(もちろん、呆れるほど安価なヤツだ)。ひとつには同居人がアナログ的人間で手書きのファックスをやり取りしていた時代に「ギョーカイ」で仕事をしたことがあったり、そのアナログ的な便利さが捨て難い人物であったということがある。ファックスならすぐに相手の通信内容を出力した状態で受け取れるし、メールだと原稿によっては却って相手の手間を増やすことも有るだろう。つまりアナログ系通信機器の最後の形態の名残を保っているファックスという機械は、もっと前からウチにあっても良かったものなのだ(きっと)。

あと、電話ベル恐怖症の家人にとって、電話番号表示がないために余計出るのが怖いという状況でもあったから、これは若干の気休めにはなろう。

最近何かで読んだ記事で、もしテクノロジー進化が今の反対で、パソコンのようなバーチュアルなツールが先行して存在していて、そうしたテレコムツールだけで生活しているところへもって、紙という媒体が発明されたとしたら、それはパソコンの発明以上の世紀の大発明として歴史に輝かしい偉業として残ったであろうとのことだった。「紙」というのはそれほどハンディーでフレキシブルなツールなのだということを改めて気付かせてくれる記事だった。もちろんこれはある意味バカげた「歴史のif」に外ならないのであるが、多くのことに気付かせてくれる譬え話ではある。

実際に手に取って見ることができる。ペンや鉛筆を使ってテキストを修正・追加することができ、その履歴もそのまま残る。束ねれば極めて小さな単位容積の中に、多くのテキストを突っ込むことができる(本やノート)。数枚の紙なら畳んでポケットに入れておくこともできるし(メモ)、何か書いた紙片なら人にそっと手渡すこともできる(付けブミ)。そして不要になれば、簡単に燃やすことも裁断することも可能なのだ(処分性能)。そして、よほど粗悪なものでない限り、通常のPCデータがそうであるような、経年変化によってクラッシュする可能性というのも低い。何と頼りになるメディアだろう! 加えて、おそらくパソコンよりは環境にやさしいメディアのはずだ。おそらく仮想メディアというのは、この紙の便利さというものに近づこうと必死で真似はするが、どうしてもそれ自体を置き換えることのできない遠回りをしている面が否めないのだと思う。

一方、そもそもパソコンは紙の消費量を抑えなかった。紙の真の便利さを仮想世界に置き換えられなかった(今のところ)。「ペーパーレス社会」などという言葉は10年前にちょっと流行ったが、パソコンの登場でパソコン関連の参考書や雑誌が軒並み発行されたたことと、仕事をする人々が以前よりむしろ多い量のプリントアウトするので、却って紙の消費量は激増した。特にパソコンが通常のツールとなった今や、オフィスにおける出力紙の消費量は、大変な増大となっているだろう。

おそらく「新しい貨幣」のコンセプトを理解せよ!などという寝言を言っているよりも、オレ独りがパソコンを辞めることの方が、環境にやさしいに違いない。やれやれ。

<ファックス>は基本的にスキャナーであり、外部から送られてくるイメージの受信機でもある。そして何よりも根本的に<電話機>である。一方、<プリンター>は基本的に汎用出力装置である。つまり、ファックス、プリンター、コピー機の三つの機械のどれにも必要な共有部分である。ということは、ファックスとプリンターという2つの機能を適当に組み合わせれば、(1)プリンターであって、(2)スキャナーであると同時に、(3)コピー機にもなり、(4)ファックス機能があるということは要するに、(5)電話機能を持っている訳だから、後は(6)留守録装置さえ加えれば、まさに理想のOA複合機が出来上がるのである。共有部分が多いので、ファックスとプリンターとスキャナーなど、複数の機械を家に保持しているよりも遥かに嵩張らないで済む。で、そんな機械が3万円以下で出ていたので購入した次第である。

そんな「1台6役」の夢のような機種があるのかと疑問の方は、私に個人的にご連絡下さい。メーカー名と機種名をお教えします。

ただし、1台6役のどれかひとつでもおシャカになれば、その時は一気に、プリンター、スキャナー、コピー機、ファックス、電話、留守録のすべてが使えなくなって以前の原始的生活に戻るというリスクと隣り合わせであることを了解して下さい(爆)。

元カレンダーから始まる新年

Sunday, January 1st, 2006

商業主義と結びつかない限り、節目や儀礼というものは無駄なものではない。それどころか、われわれに様々なことを気付かせ考えさせる契機となる。ただ、今日では「節目」が商取引と結びつかないではいられないので、夏至祭(降誕祭)や正月の儀礼までが、反商業主義という「ほとんど絶対的な良心」によって批判されてしまうことがある。ある程度仕方がないことであるにしても。

自分が提唱する元カレンダーについては昨年も数度言及していたが、今年の1月こそ、まさにこの「元カレンダー: archetypal calendar」なのである。これは先月、12月25日が日曜日であった時点で分かってはいた。

いずれにしても、元カレンダーが巡ってくると、第1日は日曜日。すなわち、当たり前な話だが、こうした月には「6日は金曜」だし、もちろん「13日は金曜日」になる。これは縁起が良いの悪いのといった「迷信」とは(基本的には)関係がない。問題は、われわれがその祖型的カレンダーから何を受け取り読み取るか、なのである。

まだゆっくりご覧になっていない方は、お休みを利用して(?)ぜひ「元カレンダー」と第三周の世界あたりを読まれたい。というか、暦茶碗を取り上げた集団的な「浄化」儀礼と<宝珠>の伝えるもの[1]あたりから、読んで頂けたら本当は大感謝なのである。

今度「元カレンダー」が巡ってくるのは10月である。だが、こうした元カレンダーが新年の最初の月(正月)に巡ってくるのはそうしょっちゅうあることではないだろう。まさに「正月: correct month」の名に相応しい巡り合わせである。

節目を思い出させてくれる節目に相応しい「祖型的な暦」が、皆さんのお宅の壁にぶら下がっている新しいカレンダーによって示されている筈である。

賀正 2006