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ミトコンドリアはパラサイトか?

Tuesday, May 19th, 1998

なんで今さらの感じも否めないが、これは自分なりの言葉を使って随想的にまとめた、ちょっと旧いメモのようなものである。確かNHKの特集番組か何かだったと思うが、生命の歴史(太古の海における原始生物などに関するもの)の興味深い生命史上の進化仮説についての新説に感銘を受けて書いた、いわば覚え書きだ。折しも日本の若手作家、瀬名秀明が書いた小説をもとに作られた、ホラー映画『パラサイト・イブ』が世に出た頃で、まあ言ってみれば、そのあたりのコトについて、改めてどれだけ自分の言葉で説明できるかを試したかったのだ。(August 7, 2001)

ある生体をパラサイト(寄生者)と呼ぶべきか否かは、定義が難しい。先天的にはそれが他者の体内に宿って居らず、後天的にそれが体内に入ってくるとすれば、それは迷うことなく寄生者である。しかもその宿主なしでそれ自身が生きられなかったり、子孫を増やすことができないとなればどうか? 寄生することはその生命にとっての選択ではなく、生命維持のための条件と考えるべきかもしれない。しかし、寄生しつつもそれが宿主に対して何らかの利益をもたらしているとすれば、それは寄生者でありつつ、それは宿主と「共生している」とも言える。宿主から利益を得つつ、自らも宿主に対して利益、もしくは(もっと積極的に)宿主にたいし、生命維持のための条件をもたらしているとすれば、「寄生するということ」が、実は、こうした共生関係を含むその系全体を維持するための相互的で基本的な条件であるということになる。

しかし、こうしたマクロ・エコロジー的な観点を度外視したとしても、ミトコンドリアが、人間を含む動物や植物の細胞の中に存在するひとつの役割を持った部品であるばかりでなく、独立したひとつの生命体の種である、という考えが成り立たないわけではない。

生命史の中において、海の中で漂うばかりの駆動性に乏しい柔らかい表皮を持った単細胞生命(A)と、繊毛を持って酸素をたくさん消費し、動きが速く比較的固い単細胞生命(B)がいた時期がある(もちろん彼らの子孫は今でも生きているが)。この全く性格の異なる二つの単細胞生物がそれぞれの長所を生かして「結婚」したという事実があるそうだ。つまり生命の歴史のかなり初期の段階で、生き残りのための共生という路を採ったのが、次の段階の単細胞生物であったということになる。

ところで、単細胞生物の方が、同時代的に生きた多細胞生物よりもその細胞の構造が複雑であるという現実がある。逆に言えば、多細胞生物の方が単細胞生物よりひとつひとつの細胞のレベルでは構造が単純である。多細胞生物においては、少しづつ異なる性格を持ったひとつひとつの細胞が生命維持に必要な機能の責任を分担しているので、細胞単体ではその仕事に努力を集中することができる。生命としては歴史が浅く新参者の多細胞生物は、細胞単体のレベルでみれば各細胞の機能は退化しているとも言えるが、それぞれの個性がかえって活かされているわけである。また多細胞生物の個体(という言い方が正しいとすれば)全体としては、生存のための複雑な仕事をしている。一方、単細胞生物は、食べる、排泄する、増える、移動するなどすべての機能をひとつの細胞でこなさなければならない。結果として単細胞でありながら、その細胞の構造は複雑であり、サイズも比較的大きい。

ところが、話をこの単細胞生物に移すと、初期の単細胞生物は単細胞で未分化であると言いつつも、こうした生存のための仕事を少しでも和らげるために異なった生体を受け入れてひとつの単細胞としての細胞体となったという学説がある。

この学説から言うと、前述の単細胞生命(A)は、現在すべての細胞に存在している核(nucleus)になり、単細胞生命(B)は、ミトコンドリア(通常複数)になったというわけである。ミトコンドリア(B)は、自分が祖先から受け継いできた遺伝情報であるDNAを核(A)に受け渡し、さらにその管理を核にまかせ、(A)は、酸素の供給などのアクティブな仕事を(B)にまかせて、そのかわりその細胞膜の中で住まわせることを許した。また、より複雑な遺伝情報の応用を試す特権を得たというのである。また、この二つの性格のことなる生命体の結婚は、卵と精子の結合・受精という現象に瓜二つである。

こうなると、すべての哺乳類を含む「多細胞生物」の細胞のひとつひとつに、太古の海で起こった「異種生命間の結婚」という共生のための奇跡と努力の足跡が残っていることになる。

こうした原始の細胞のレベルにおける生命の進化の過程で起きた「異種生命の自己体内への受け入れ」の結果であるならば(多細胞でありながら我々の)細胞がそれぞれ極めて複雑であるという事態を指して、今や細胞の欠くべからざるひとつの機能を持ったある部分を“パラサイト”であると呼ぶのは、たしかに極端な意見かもしれない。我々はもはやそれを異種生命であると捉えられないのである。しかし、こうした生命史の痕跡のすべてが我々の細胞ひとつひとつに宿っていると考えるのは、たいへん興味深いものである。