Archive for June, 2007

「解釈」や「自覚」を越えて

Friday, June 29th, 2007

「ブラックサバス問題」だが、それは個々の作品と、作品の時間的/空間的「連なり」をどう捉えるのか、言い換えれば作品自体に個別に対峙するのか、作品群の中に個別の作品の特定の位置を発見して発展史という文脈の中でそれらを捉えるのか、という二者択一の問題に行き着く。

そこまで書いて、ふと一昨年の今頃書いた「自覚的であるということが、創作内容の芸術性の決め手となるか?」という文章を思い出した。

(時間のある方は後で読まれたい。)

まあ言ってみれば、大なり小なりマニア的な(あるいは熱心な)芸術の愛好家というのは、単に行き当たりばったりに個々の作品を鑑賞しているのではなくて、往々にして作品を「文脈:コンテクスト」として捉えられるほどのまとまった量で鑑賞するものであるし、そうした横断的な鑑賞法がもたらす感慨には、個々の作品から単独で得られる感動と同等か、もしくはそれ以上に興味深いことがある、ということを知っているということなのだ。そして評論家が評論家である理由というのは、こうした歴史的文脈で「作品を理解する」ことができる歴史鳥瞰的な眼を獲得したということに外ならない。だがもちろんこれは評論家だけの特権ではなく、あらゆる創作者が持っていても「損はない」ひとつの視点ではある。そこまでは便宜上、認めても良いだろう。

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『バベル』の塔は「人間の愚かさの象徴」だったか?

Wednesday, June 27th, 2007

babel tower

上掲の拙論見出しに対する私の考えはこうである。

「バベル」とは人間が互いに協力し合って「組織的に神に近づこうとする」ことに対する、人間に対する神自身の直截な怖れと嫉妬を象徴するものであって、映画紹介のネット記事のあちこちで「まとめ」られているような「人間の愚かさの象徴」などではない。とんでもない間違いである。バベルの塔は、人間の限界についての象徴ではあっても、愚かさの象徴であったことはない。これは強調しておいて無駄ではあるまい。

むしろ愚かなのは人間をそのように作った神自身ではないのか?という人間からの反問… そして、一見乗り越え難く立ちはだかる言語の壁という、神からの挑戦として人間に科されたペナルティは、映画で描かれている程度には今日でも常に乗り越え「られよう」としている。

そして物語の端緒となる被造物・人間によるひとつの行為、あるいは国境を越えて言語の違いを克服しようとするひとつのコミュニケーション上の試み──モロッコに赴いたひとりの日本人の置き土産──が国境を越えて侵犯する別の侵略者に対する「牽制球」となり、それが連鎖的に世界各地の家族をバラバラに分断する(はず)という、神によって目論まれたドミノセオリー的な「次のバベル」。そんなケイオティックな宿題となるはずだった。その端緒となるべき行為の主は、現代のバベルたる絢爛たる摩天楼乱立する東京を根城とする。

babel leaflet

実は神による人類史への初期介入、すなわち言語の意図的な混乱が、人をして「天にも届くような」一本の高い塔を建てることを諦めさせるどころか、世界中に異なった種類の塔を乱立させることになった。競い合って。

かつての神の狙いが失敗したように、この度も神の意図は覆される。この度の人間のささやかなる勝利は、確かに「ある若い命」を引き換えに得られたものだ。だが、神の挑戦は家族の絆をより強いものにすることにしか働かない。神の意図はまたもや裏切られるのである。

▼▼▼

アレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥ Alejandro González Iñárrituという長いメキシコ人名を見て、すぐにピンと来た人は、余程の映画通か、映画業界人か、さもなくば遠くない過去に作品のひとつを観て印象に残っている人か、はたまた、つい先頃、映画『バベル』を観たばかりの人かもしれない。いや、映画を見ても監督名までは失念している人も少なくあるまい。かくいう自分もなかなか覚えられなかった。

イニャリトゥの近作のひとつ(というか、彼は割と最近出てきた人のようだ)である、なかなか挑戦的な問題作と呼びたい『21g』(にじゅういちぐらむ)という映画をビデオで観て、その監督がイニャリトゥであることは最近知ったのだが、現在(それほど盛り上がっていないが)、それなりに話題になっている大作風『バベル』も、イニャリトゥが監督しているということをたまたま知ったので、観に行ってみようと思ったのだ。(ツレの“誕生日月割引”を利用してみたかったのもあるし…)

足を運んだのは吉祥寺プラザというバウスシアターの裏手に当たる目立たない映画館で、全然混んでもいない。でも本格的な大画面上映館である。18:50からのナイトショーのみ。

予想に違わないと言うか、劇場映画としてシアターまで足を運んで観てみる価値のある作品であった。自分の認識の底の浅さのせいであるのは言うまでもない。だが、メキシコはアメリカと国境ひとつ隔てて対峙している「北米」の一国だが、音楽と料理以外はいまひとつ知られていないような気がする。実際、今となってはイニャリトゥ以外、メキシコ人映画監督の名前を挙げよと言われても思いつかない。

同時並行的に異なる場所で起こる出来事(しかも相互の関連性がなかなか見えない)を映像で追うばかりでなく、そのタイムラインさえもズタズタにして再構成した『21g』は、シーン断片の集積がだんだんにひとつの事件の像を結んでいくというもので、その善し悪しはともかくとして、ストーリーそのものの力というよりは、編集テクニックにきわめて偏重したともだった印象もある。これについては後述する。

また本作もこの前作同様、きわめてシリアスな内容で、不条理を含むきわめて後味の悪いリアリズムを映像を提示する、そんな映画作りであったが、その同時並行的に世界の各地で起こる事件の相互関連性が徐々に見えてくるという手法は、この度の『バベル』でもおおむね踏襲されている。だが『21g』でフォーカスされていたような「自動車事故が引き起した連鎖的な悲劇」と、人が人と結びつこうとする「コミュニケーションに渇する心の動き」というテーマが、この度は、詰まらない理由で「暴力装置」の引き起したひとつの事件の悲劇の連鎖、そして言葉が通じない(それは単に言語の相違を乗り越えられないということだけでなく、同じ母国語を共有する者同士でも「通じ合わない」)というコミュニケーション上の断絶、そしてその回復、あるいは回復への端緒を描く。

「重くもどかしい」という評をどこかで見たが、それをストレスとして感じる鑑賞者がいるということは、監督の意図は成功していると言うこともできるだろう。まさに通じ合えないという現実世界のもどかしさがこの作品のテーマのひとつなのだから。

モロッコ、合州国、メキシコ、そして日本。と、4ヶ国同時並行的に進行するドラマであるが、冒頭のモロッコの高地地域の空気と羊飼いたちの生活、そして眼下の砂漠地帯を横切るアメリカ人観光客のバス、という異文明者による領域侵犯という違和感が、きわめて興味深く描かれていた。そしてどこにでもあるような思春期の少年(少女)の持つ性的好奇心の目醒めなど、思わず眼を背けたくなるような赤裸裸で本音の映像表現もが混ぜ合わされていて、ドラマのリアリティを否応無しに高めていた。

■ 編集(時間操作)に偏重した映画作りについて

これについてはその正否を判断できる立ち場にはない。だが、映画が演劇的作品の延長であると考えたとき、時系列の編集による改編というのはドラマツルギー(作劇術)の王道ではないことになるかもしれない。その点で言えば、例えば黒澤の『椿三十郎』のように(あるいはきわめて多くのドラマがそうであるように)、ごく例外的な回想的場面を除いては、事件の進行を時間通りに追う形で進むのが最も保守的で正統的な方法と言って差し支えはないだろう。

だが同じ黒澤作品である『羅生門』のように、同じひとつの事件でも視点によって全然捉えられ方が違うということを描く不条理劇の場合、ドラマ自体が回想によって構成されざるを得ず、時系列の操作というのはきわめて必然的に選択されるべき手法であるということになろう。あるいはドラマ全体が大きなひとつの回想であるという手法は映画でも劇場演劇でも使われる常套手段だ。

そうした中で、イニャリトゥの本稿で言及しつつある(少なくとも)2作品で採られた編集による時間操作というものは、『バベル』においてはやや後退し、映画制作上、より必然性を帯びてきた(結果として観やすい)ということができるだろう。『21g』は、時間系列的に全てのシーンを並べ替えつなぎ直したら映画そのものがおそらく成り立ち得ないほど編集技術に依存していることができる。だが、全体像を見せず、鑑賞者に常に想像し続けることを強いるという「作り」は、鑑賞している2時間の間、大きな緊張感の中に鑑賞者を落とし込むことになり、逆に言えば、「きわめて映画的な作りになっている」とも言えるのである。これほどブツ切りなシーンの呵責なき連鎖というのは、おそらく劇場演劇によっては再現が難しいであろう。

■ 音について

ネタバレになるのでここでは詳述しないが、観賞後、大いに対話や議論を刺激する類の内容であった。そして忘れてはならないのが、サウンドトラックの秀逸さである。これは、映画のDVD以上に、確実に消費意欲を刺激されるものであったことは忘れずに付け加えておこう。音楽だけでも語るに値するぞ、これは!

もうひとつ付け加えるなら、日本が舞台になったシーンのバックで掛かっている音楽というのは、一聴して西洋楽曲なので、それによってどうしてそう感じるのかは分からなかったが、その音楽だけで強く日本を連想させるムードを持っていた。これはどういうカラクリになっているのかと思って最後のクレジットを観たら、日本のシーンについては音楽担当が坂本龍一になっているのである。彼の音楽をそうと知らずに聴いても十分に日本を(あるいは日本映画のムードを)連想した自分がいたのである。

■ 最後に

いずれにしても、ブラッド・ピットやケイト・ブランシェットといったハリウッド系俳優たちを性格俳優として配置するという大胆なキャスティングをしたイニャリトゥの「今後の変貌が楽しみ」なのである。『バベル』は文字通り国際色溢れる大作になってしまったので、今回の作品の興行成績次第では「次がない」可能性もあるが、そうならずにイニャリトゥ特有のテーマを独自の方法で追求していって欲しいものである。今度はもっとメキシコを観たいなどと夢想しているのは私だけだろうか?

本作をアメリカ映画だと呼んでいる人がいたが、私はその考えに賛成しない。

映画『ミリオンダラー・ベイビー』からの教訓

Tuesday, June 26th, 2007

milliondollar baby

以前、どこかで映画作家で批評家の西周成氏の書いていた評論を読み、クリント・イーストウッドの監督作品である本作を意外にも肯定的に評価していたのに興味を抱き、いつか観てみたいと思っていたのだが、ビデオをレンタルしてついに観た。

以下は、それで得た感慨。

1)人生の価値は、それがどう終わるかによっては判断できない。

(人生の価値は、その始まりにも過程にも終わり方にも、どの段階にもあるだろう。)

人生の終わり(死に方)の有り様は、その生き方の中に原因が求められるが、生きる者すべてに終わり(死)が来る以上、その死に方はひとつの結末ではあっても、人生そのものの価値とは関係がない。

人生の価値がその終わり方(死に方)にのみ見出されるとする者には、終わりだけを「良く終わらせる」ための追求が長い人生の中身となろう。人生の半ばは、全て手段であり、方法であるということになる。

だが、一体生を受けた何者が自分の死期や死に方を正確に予期できよう?

2)ひとが他人と関わり、コミュニケートし、何事かを伝えるという行為は、何事かを達成するための手段であるに留まらない。それ自体が価値であり、人生の中身である。

【結論】

「終わりよければすべて善し」は、人生の本質を捉え損なう、余りに単純化した言い方ということになろう。

PS. それにしてもモーガン・フリーマンが狂言回しとして、とつとつと語るあの語り口は、『ショーシャンク』のときも然りだったが、映画の成功の一要因となっているようにも思え、ちょっと演出家としては「ズルイ」ところかもしれない。それほど別格の「語り部」だ、フリーマン。

あるのはブラックサバスである

Wednesday, June 20th, 2007

Sabbath

あるのはヘヴィーメタルでもハードロックでもプログレでもない。あるのはメタリカであり、ブラックサバスであり、フランク・ザッパである。あるのはハードバップやフリージャズやフュージョンではない。あるのはアート・ブレイキーであり、コルトレーンであり、ジョン・マクラフリンである。ジャンルはすべて幻想である。あるいは評論家諸氏の頭で複雑な音楽の宇宙を「理解」し、ちんまりとそのなかに収めるための利便である。

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イエスの墓がどうかしたか?

Sunday, June 17th, 2007

[イエスの墓]「発見」論争熱い欧米 エルサレムは冷ややか

すぐにリンクが切れるだろうから画像をここに。

宗教の教示した神秘や驚愕的価値はこんなところにはないぞ。言っておくが。

私が以下のリンク先の記事などですでに何度も繰り返しているように、「史実としてのイエス」なるもの信憑性にいちいち一喜一憂して振り回されているようでは(それを否定する側とそれを肯定する側の双方にとって)まだまだ本当の意味で宗教の役割の意味や聖性の本源に触れるのにはほど遠く、なんら成長の機会がないとしか言いようがないのである。私はキャメロン氏の映画はそれなりに評価しているが、イエスの墓に夢中になるようではまだまだ底が浅い。

われわれにとって、イエスの史実性とはまったく副次的な価値しか持たないものである。イエスの存在が史実であれば、地球の表面のどこぞにその骨のひとかけらくらい残っていても不思議はない。だが、それはわれわれが探求することをやめないその対象なのであろうか? われわれは未だに聖杯を追い求める冒険者のレベルに留まっていていいのだろうか? その答えは断じて否である。

それではわれわれは信仰者として、「神の子」イエスを崇拝することでその役割を果たしているのか? 否。否。断じて否である。イエスを神の子と呼びたいその心がわれわれを欺瞞の壷の底に叩き落としているのである。何度も繰り返すが、聖書でさえイエスのことを「人の子」と呼んでいるではないか!

われわれにとってのキリストの価値とは、それがイエスであったのか、それが「救世の主」であったのかどうなのか、そのようなこととは何の関係もない。われわれにとって、「イエス」なるコードネームは、どこぞの聖書考古学者が生涯をかけて追い求めるような、物質的な対象物でもなければ、復活をして天に昇ったとされる信仰者の対象たる「神の子」でもない。

それは「死してまた甦る」という「死と再生」を表す神話的元型の、最もわれわれに近い時代を生き延びた「最後の神話」としての価値がある。そしてその「神話」を完成させるべく、現在進行形のプロットとして、われわれの文明が進捗しているという事実に、本当の価値が見出されるのだ。これは過去の象徴的物語であると同時に、未来を占うものである。

【過去の参考記事】

流行ったものは廃れてしまう(栄枯盛衰のことわり)

http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=159554

宗教の「第三の機能」への一瞥

ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本』を読む [1]

http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=159740

イエスとマグダラの「婚姻」の意味するところ

http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=164039

これ以上何を言うべきであろうか? キャメロン氏には悪いが、彼が全く無自覚に造り上げた商業的大作『タイタニック』にさえ、それを解く鍵が象徴的に隠されているのだ。

http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=116222

「死と再生」と「世界の更新」から観た『タイタニック』考

真性《オカルト》論について
あるいは「日本語において言葉の倒錯への傾斜は余りにも急だ」

Saturday, June 16th, 2007

真性《オカルト》論について
あるいは「日本語において言葉の倒錯への傾斜は余りにも急だ」

あるネット上のコミュニティで、「スピリチュアル」という言葉の濫用によって、その言葉を使うことが躊躇われるような状況に今の日本はなっているという嘆きの言葉が載っていた。その正統な指摘はそのコミュニティでなくてもそのように感じている人が多いのではないかと思われるほど、否定しようのない活況を呈しているのは実際本当であろう。

そこでの発言のいくつかをそのまま引用してみる。

人間性にとって最重要なトピックである”精神”の問題が、多くの日本人にとって、オカルトの文脈で語られてしまっている、ということなのだから。

もうひとつある。

例えば、「オウム」の仏教の本来的意味は、「永遠」です。しかし、いまやこの言葉は死んでしまいましたね。あーこのままでは「スピリチュアル」が「オカルト」になってしまう・・・

「スピリチュアル」という言葉が本来の意味で使いにくくなってしまったことを嘆くこの二つの意見は、「オカルト」が怪しげな精神主義やカルト宗教絡みのものであるというような、あきらかに否定的意味で使われている典型的事例とも言うことができる。だが、そもそも「オカルト」という言葉にそのようなニュアンスはあったのだろうか? 私の考えでは、それは単に「隠された秘教的伝統(神秘主義)」のことに過ぎず、それ以上でも以下でもない。むしろ「隠された」という意味内容が、長い時間の経過の過程で別のものに置き換わってしまったことを端的に表す例のひとつであるように思えるのである。

このことは現代人によってはなかなか理解しにくいことであろうが、「Occult オカルト」が、きわめて暗い内容を含む対象を指すものであるにしても、その研究自体はそうした否定的な意味を持たず、ある正当な理由で、むしろ正面切って論じるべき価値のある真剣なサブジェクトであった。その意味においては、1630年頃の欧州で、“あーこのままでは「オカルト」が「似非神秘主義」になってしまう・・・ ”と嘆きたくなるような事態があったと言えるのである。つまり、目下「スピリチュアル」という言葉の濫用によって起こりつつある迷惑事態は、遠い昔に「オカルト」という言葉にも起こっているのである。

今日では真面目に「オカルト」を論じようと思っても、論敵を揶揄して使う際の「オカルト」というニュアンスの方が今では勝ってしまっており、そうした怪しげな似非神秘主義(目に見えざるもの全てを含む似非科学など)などの否定的意味以外の本質を伝達する力を失っている*のである。その点では、こうした本質的意味の回復を図ろうという論理は、それが如何に正しかろうと、おそらくほとんど現実的な効力を失ったことを認めざるを得ない状況にあるわけである。

* このような事態になった理由には、70年代にブームになった「オカルト映画」というジャンルの登場もあるだろう。『エクソシスト』や『オーメン』、そして『キャリー』といった悪魔払いや黙示録的預言の実現、あるいはサイコパスによる猟奇事件といったテーマが大々的に映画の題材として扱われ、それらが十把一絡げに「オカルト」の名前で呼ばれたことが大きいと思われる。今上げた映画はどれも同じようなテーマを扱っておらず厳密には何の共通点もない。

だがそれでもあらためて、「オカルト」の持っていた失われた《本義》に戻った時、その言葉は「心によって把握できず、人知を超えたもの」という1545年頃の本来の定義説明によって意図されたような、「隠された真実」「隠し伝えられた秘儀」「隠された秘教的伝統」の意味に限定して使われるべきなのである。それは、そうした学問/研究領域を端的に表す言葉がそれ以外に存在しないから、とも言えるのである。無駄なことであるかもしれないが、オカルト研究家の立場としてはそのように言いたいところなのである。

あらためて「隠された」という言葉の意味内容を考えてみよう。それは「visibleな肉体的/物理的事象」に対する「invisibleな精神的/心理的事象」というような意味で、「目に見えない」ことを扱うのではなく、ひとつにはその問題の現実性を論じるための証拠が「遥かに古い時代に失われている」という意味で「隠された」と表現する以外にないような《何か》を指す言葉なのであり、別にスピリチュアルの意味でも精神性の意味でもないのである。あえて誤解を恐れずに記すなら、どちらかと言えば、真性の《オカルト》はどこまで行っても物理的事象なのであり、また可視の問題を扱うものでしかない。それが現実的には不可視であるのは、単にそれが人知を超えた現象であり、また大変昔*に起きた現象であるという意味ででしかないのである。

* 「大変昔」とは言っても人類が地上に現れて以降の話なので、地質学的なスケールの時間領域を扱う訳ではない。あくまでもわれわれの知っている文明を築く傾向のある人類の登場以降の最近の話であるとも言える。

そしてそれが「隠された」と言われるもうひとつの理由は、その内容の重篤性によって無かったことにされた――すなわち文字通り「隠された」――ものであることを忘れるわけにはいかない。つまり「歴史*」的なある種の事実(祖先たちの《上》に起こったあるできごと)が、そのことの重大さと信じ難さのために、われわれによってハンドルし切れないこととして隠されたということなのである。それは、「隠しながら伝える」を本義とする秘教的/神秘主義的伝統とその価値を理解する者たちにとっては、あまりに自明なことであるが、真実を述べ伝え、危機への意識を共有すべき役割を持っていた筈の幾つかの宗教が、その役割上の転向を起こし、隠すだけの組織と堕してしまったことにも原因がある。それはそれだけで論じるに値する課題を持つのであるが、「忘れられた宗教の機能」についての長い補足でも説明したように、宗教がそのような転向**を行ない、真実の「保存と伝達」から、真実の「積極的隠匿」へと走るのは、人間の組織としての宗教団体が、言わば資本主義に象徴されるような近代主義の片棒を担ぐことになってしまうことにも原因を求めることができる。それはこうしたヒトのヒューマニティの目醒めという力強い流れには宗教さえ抗することができなかったこと、そして組織としての生き残りを優先すれば、その発足の理由(悲劇の回避のための知恵の伝承)さえも忘れることができたこと、などが挙げられるであろう。

* 「歴史」と括弧付きで表記したのは、歴史時代(有史以降)が記録が残っている時代という意味であるならば、記録のないきわめて古層の歴史的事実を扱うものであるからである。アカデミックな言い方をすれば有史以前であるからそれは歴史と呼ばれるべきものでないという意見もあろう。

** entee memoで「転向」という言葉を検索した結果

確かにオカルトはスピリチュアルな問題とも接していることは否めない。したがって広義にはスピリチュアルなこととして論じることも可能だが、それは今の段階では問題を不要に複雑にしてしまう時期尚早な態度であるということができよう。問題を精神論にまで発展させる以前に、歴史的事実としての「オカルト的事態」「隠された歴史」があったということを実感として諒解することが、目下のところ最優先されるべきなのである。

例えば、コリン・ウィルソンの名著『The Occult オカルト』が、オカルト領域を真面目に言わば肯定的に論じたこともあり、その言葉の名誉挽回を図ったと言うこともできるばかりか、その著書自身が知的興奮を引き起こすに十分なものであったとも言えるのであるが、彼自身のオカルト理解が、結局その後の彼の関心が向かうところのESP(超能力)や魔術といった方面の「疑似オカルト」に引っ張られていることは否めず、《オカルト》という言葉の(歴史的に隠された秘教的伝統であるという意味での)正統的な理解を助けるものではなかったのは残念としか言いようがないのである。

だが、著書全体がわれわれに向けさせようとしている領域の面白さは否定のしようがないと思えたので、敬意を表してその著書の英語版表紙の画像を添付した。

The Occult

壷の底に見出されるもの
(あるいは「壷を焼く」という儀礼に関わる)

Wednesday, June 6th, 2007

Pottery over Tokyo

轆轤(ろくろ)を使って作ったと思われる壷なども含め、もっとも簡素な素焼きの土器の多くが、一見、地面に自立できないような丸まった底になっているのは、おそらく立てるための三脚状の道具が別にあったか、地面の窪みにそれを直接嵌め込むか、その辺りの機能上の理由のためにそうなっていると想像されるが、平らな場所に自立させておくことができない意匠の壷が、これほどの数で古今東西のさまざまな民族の古代遺跡から発見されるという事実には、別の隠れた意味の存在を考慮してみる必要があるのではないかと考えさせるものがある。

一年草の植物のライフサイクルのパターンは、発芽があり、伸張と成熟があり、花を咲かせる時期があり、結実があり、最終的には枯死がある。そして枯死には播種が伴われることがある。この、季節の巡りに併せて一見終わったかに見えるひとつの生命史は、来る年の迎春における「発芽」という劇的な復活のエポックを経て、再び誕生から枯死へのサイクル(周回)の途に就く。これは通常、植物の典型的特性として理解されている。それはまた、まったく正当な理由により、錬金術の象徴体系に用いられる比喩としても登場する。

一方、動物のライフサイクルは、誕生と成長があり、成熟した個体が生殖によって子孫を残し、その役割を次世代にバトンタッチして終えるというパターンをとるので、普通そこには生命活動の断絶は存在しない。冬眠行動をとらない限り、そこには仮死状態を連想させるようなライフサイクルの休止局面がないのである。仮に冬眠したとしても、これは次世代への生命継続の連携とは無関係である。ヒトの個人の人生について言えば、このことは他の動物と同様で例外ではない。植物のライフサイクルと動物のライフサイクルには対照的な相違が認められるのである。

だが重要なのは、集合体としての人間――人類の歴史(文明)――が、まさに植物のライフサイクルを思わせる範型を持っているという事実である。

人間が「文明の極」への旅の第一歩を踏み出す(それは終局の直後から始まる)とき、人間の手によって造り出されるあらゆる道具が、記憶にも新しい「人類の上に起こったある悲劇的できごとと同様のこと」をふたたび引き起こす、発端の萌芽があるということに気付かないほど彼らが愚かであったとは考えにくい*ことである。彼らは、われわれよりも「そのできごと」に遥かに近い、いわば「戦後」を生きていたのである。その畏怖すべきできごとの原因が、人間の道具に依存する、いわば「モダニズム」や「改革性」の中にこそ潜んでいることは、彼らなりの方法で伝承されていた筈である。

* 唯一神への信仰を強要する普遍宗教の類が強調する「偶像崇拝の禁止」とは、キリスト教のイコンのような宗教的な崇拝対象物に限るものではなく、実は「あらゆる人為的創作物への崇拝の禁止」であったと考えられる論拠がある。人間が人間の手によって作り出すものを絶対のものとして崇拝することは、人間が人間の潜在能力を過信することを意味し、人間によって解決できないものはないとする人間の自己愛と自己過信へとつながっていくのである。その自己過信が、人間自身によって解決することのできない問題を人間自体が作り出すことになり、それが人間自身を一旦完膚なきまでに滅ぼすのである。

さまざまな場所で採られてきた伝承のための儀礼的道具(記憶術)が、例えば貝殻であり、あるいは紐で束ねられた収穫物であり、または植物のタネや葉なのである。大規模施設としては、前方後円墳のように「墳墓」として信じられているような儀礼場も含まれる。そしてそれぞれの持っている形の中に、古代の人々が維持した記憶を連想させる記号を見出すのだ。むろん、それを連想させる理由は、「メメントモリ(死を想起せよ)」という言葉で以て、自戒の念をいくどでも想起させる、古くからの習慣と根を同じくするものであることはいまさら言うまでもない。

その記号は、宝珠のような、キツく絞られ細くなった「軸」ないし「支柱」を下部に持ち、その一定の長さの軸(支柱)が、あるものの上昇運動の「軌跡」に一致し、それが上空で炸裂するというような、花火や薬玉と言った祝祭的な儀式にも通ずるような、ある種の運動や化学作用の様態、そしてそうした祝祭を連想させるある種の物質の爆発的な膨張を表す「量的」な象徴物となる。これはできごと自体(コト)を表す。

そして、この「キツく絞られ細くなった軸」を持つ形状は、その輪郭が鍵穴のような形状として表されることがあり、またその輪郭は羽根を持ったシャトルコックの様な形状そのものである場合がある。これは「できごと」自体ではなく、「できごと」を引き起こすモノを表す。

これら結果としての「できごと自体」とできごとを引き起こす「原因物」の両方を表すことのできる、きわめてまれなひとつの道具とそれらの形状の持つの総称が、筆者が提唱している「Ω祖型」と名付けられるべき象徴的図像の、通奏低音的な、最も普遍的な「イコン」なのである。

このΩ祖型は、轆轤で形作って焼いた素焼きのつぼによっても古代人の眼前に現れたものであり、それは壷という「道具」としての純粋な機能とともに、ある種の戦慄を呼び起こすものであった。何故ならその形状が「死のできごと」を連想させるものであったからである。道具が彼らの生活の利便に供し、それが彼らの生存を有利にしつつも、それ自体の成長と進化の果てに存るものが、「死のできごと」を引き起こすものと類似の形をしているという暗合は、きわめて象徴的である。これはヒョウタンを道具として利用するホピ族のようなアメリカ・インディアンの伝承の中にも、「灰の詰められたヒョウタンが頭上へ落とされる」という預言があることなどをわれわれに思い出させる。焼き物に限らず、ヒョウタンの実のようなモノを詰めるのに最適な原始的な容れ物が、まだ実現に至っていない「未来の道具」の形を伝えるための記号となっているのである。つまり、最も原始的な道具の原型とも呼ぶべきものの形状が、最も進化した究極の道具の形状と似ている*ということ。そしてその形状に対する元型的な記憶の共有が、文化的な記憶術を通して引き継がれているのである。

* 最も原始的なツールが最も洗練されたツールの形と類似しているという不思議な暗合は、S・キューブリックが映画『2001: Space Odyssey 2001年宇宙の旅』の中でも鮮烈に描き出している。映画冒頭の「人類の夜明け」と呼ばれるシークェンスの中に、われわれ人類の祖先となる類人猿の「ひとり」が、動物の骨を食料確保のために動物殺害のための道具として初めて用いたのち、それを勝利の歓喜とともに宙空に放り投げたとき、それが落下途中で21世紀の宇宙船に変容するというシーンである。

Odyssey1 Odyssey2 Odyssey3

それにも関わらず、そうした記号的な意味を、その日常の必要から造り出した道具の中にも込めたのは、意図してでないということができようか?

壷は、今食する以上の量の(余剰の)生活の糧を貯め置くために現れた。したがって壷こそ、未来における自分たちの生存のために少しでも有利にするために製造された最初の洗練された道具のひとつと言えるだろう。そしてその《壷》は、象徴的なことに、文明というすべての事件の発端をもたらしたものであると供に、その終焉(あるいは救済)をもたらすものの形状をも予想する記号なのである。すなわち、余剰作物だけでなく、実利に資する道具という全ての元型的なものの《究極的な姿》をも詰め込み、その智慧のすべてをわれわれのために「貯め置く」ためのものでもあったのである。

■ 拙サイト内の参考文

金剛への第一歩──Ω祖型とは何か[2]

実験

Friday, June 1st, 2007

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