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マーラー「幸福は破局の淵で栄えること」について

Thursday, September 29th, 2011

マーラーがオペラを書かなかった理由。音楽の進行に沿った当たり前な内容の通時的体験、つまり、「この後どうなるのか」ということについて、オーディエンスの不安と期待を掻き立てる類のドラマを描く事にマーラーは興味がなく、例えば、ミケランジェロの壮大な天井画のように、始まりも終わりもない、爆発的に、言わば「共時的」にしか大悟しえぬイベント、換言して、過去も未来も現在もすべてが同時に起こるという内容に関する、(止むを得ず行なう)時間軸上の展開しか可能でない凝縮された《一瞬》の通時的な顕現を試みる。つまりマーラーの音楽は、不当にもよく指摘されるところのその「長さ」にも関わらず、《時間に属さぬもの》を描こうとする労作なのである。

Michaelangelo

解りやすい例を挙げるなら、交響曲第5番の四楽章、有名なアダージェットや「リュッケルトの詩による歌」などを思い出せばよい。音楽は確かに演劇のように時間軸に沿って流れて行くにもかかわらず、音楽が見せているものは愛の悲しみを深く湛えた澄んだ湖のような静止画的な画像であり、クライマックスがあるにも関わらず、それもあらかじめ「織り込まれ済み」の運命の様なものとして立ち現れる。それは、このような分かりやすい例でなくとも、彼の全交響曲作品にも歌曲にも一貫して観察できる性質なのである。それは《大地の歌》の終楽章『告別』のような、ややドラマ仕立ての作品においてさえ、同様なのである。彼の「ドラマ」は進んでいかず、常に、ある場面を写真で捉え、それの起きたらしい時間的前後の要素さえも、コラージュ的に同画面内に収めたような静止画なのである。

この点では「マーラーにあって幸福は破局の淵で栄える」という正にアドルノの指摘したその大方針通りである。彼のどの作品も、まさに崖っぷちから落ちようとしている寸前の幸福をカメラが捕らえたかのように「聞こえる」。これは音楽の持っている宿命的な通時性に対する抵抗であり、今さら芝居がかった語り物であるオペラなど書きたくなかった理由に違いない。マーラーの音楽は、それがどんなに大袈裟な身振りを持っていても、作り物ではなく、音楽を通してわれわれの住む世界に関する「本当の事」を伝えることに傾注しているのである。

(これがおそらくアドルノが別のところでマーラー作品を「絶対オペラ: opera assoluta」と呼んでいることにも通じていくはずなのである。)