Archive for June, 2006

「キリスト」と「反キリスト」への一瞥
ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本』を読む [3]

Wednesday, June 7th, 2006

拙論「R・K・ブルトマン『歴史と終末論』中川秀恭訳(岩波現代叢書)を読む」において一度下した「キリストの“異端”的定義」を諒解できる人々にとって、ここで再び叙述されるところの《キリスト》の意味とその象徴の意義はすでに明らかであろう。だが、それが広く受け入れられたところの「キリスト」(救世主/油を注がれた者)からは大きな乖離があることは、図らずも認めなければならない。だが乖離があるにせよ、その多層的というよりは、むしろ通念的かつ「正統」的なキリストへの「理解」と「信仰」が、その意味を成り立たしめるというパラドックス(逆説)はどこまで行っても喪失されることはないだろう。

グノーシス主義者が書いていることは自分ででっち上げたものだという[正統派側からの]非難には、若干の真実性が含まれている。なぜなら、一部のグノーシス主義者は彼らのグノーシス[観想を通じての知/知識]は自分自身の経験から得られたものであることを公然と認めていたからである。

エレーヌ・ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端』(page 59) 荒井献・湯本和子 訳(白水社)[ ]内は引用者による補足。

ここに初期キリスト教会の成立期に、「地上的な教会」の設立に抗したグノーシス主義者たちの、傲慢さではなく、むしろ、誠実さを、われわれは見出すのである。内的な思惟や観想を通じて体得・実感する神秘的な経験の真実にこそ、宗教体験の本質がある以上、権威の言葉を無批判に受け入れる「信仰」を、「愚者の信仰」であるとするグノーシス派の見解にわれわれは深い共感を表明する。そしてその見解は、相対主義が蔓延る思想界や、日常における「今日的な相対性への傾斜」としてだけでは片付けられない思想潮流の歴史的な長さを持った課題なのである。外に存し、天空に向かって伸長する「地上の聖堂」の権威と内実を認めず、「内的な聖堂と光」の発見と構築を「真の教会」の建設であると考えるグノーシス思想そのものに、自壊へとひた走る文明的典型の萌芽はない。これらはそもそも「反教会的」と呼ばれる(だが断じて正統派の言う意味で「反キリスト」的ではない)必然性を持っていたのだし、むしろ仏教的な個的な宗教観を維持していたのだ。

ΑでありΩであるキリストが、始まりがあって終わりがある「文明」という別の記号によって置き換えられるというわれわれ一流の「異端」的な見解によれば、グノーシス主義にしても仏教の根本にしても、その地上世界に対する無常観を以て、いずれも「反キリスト」的と呼ばれるに相応しい何かではあり得る。だがその意味は、終わり(滅亡)という悲劇をもたらす発端であるという理解を通して、「キリスト」というコードで表されるものが邪悪なものであるという「異端」的理解を前提としての話である。加えて、正統派がキリストを代弁することを肯定した前提においても、グノーシスが「反キリスト」的であるという「一般的見解」は正しい。だが、この二側面における「正しさ」は、グノーシス思想こそが、滅びを招来しない「反文明主義」であるという意味で、本来受け入れられている善なる存在としての、明日を思い煩うことなかれと語りかける《キリスト》の側であると言い換えられるのである。そして、現教会こそが実は「反キリスト」的であると置き換えられるのである。この主張は、正統派の聖典である聖書の『福音書』から伺えるキリスト像においても、大いに肯定可能である。そのグノーシス的世界観を理解した者のみが、カトリックが「反キリスト」そのものであるという不埒(ふらち)でありながら真に大胆な見解を主張できるのである。

外部に立てられる聖堂は、人為によってか自然によってかに関わらず、必ずや壊される運命にある。「教会の運命」とは、まさしく「文明の運命」に相似している。そして、それぞれの運命が互いに関連していることは、一方が他方の在り方(性質)を決定付け、後には互いが連動するだけの抜きがたい相互依存性を持っていたからなのである。だが、その点において、教会の存在というものを単に批判の対象としてだけでなく、文明全体にとっての警鐘、すなわち象徴的機能と力とをわれわれは見出すことができる。すなわち、真剣に追求され、正当化され、権威付けられ、絶対(義務)化されたために(そしてそのために起こった犠牲の助けを借りられたから)こそ、教会はその壮大なる象徴的役割というものを果たすことが可能なのである。したがって、そうと知らずに「過つ」という誤選択の中に、その初期達成目標とはまったく反対の結果を生起させる火種があった。

ある著作を一使徒の作だとすることは象徴的な意味を持っている。『マリア福音書』という題は、その啓示が救い主との直接的な、親しい交わりに由来することを示唆している。(page 60)

ナグ・ハマディで発見された最も後期の文書と思われる『ペテロ黙示録』(200-300年頃)では、多くの信者が「偽名に惑わされ」、「異端の支配を受けることになる」と聞き、ペテロがいかに心配したかを叙述している。甦ったキリストはペテロに、「司教とか助祭とかと自称している人々は、あたかもその権威を神から授かったかのようである」が、実際は「水のない運河」であると説いている。彼らは「奥義を理解しない」にもかかわらず、「真理の奥義は彼らのみに属していると自慢している」。当書の著者は、彼らが使徒の教えを誤って解釈し、こうして真のキリスト教「兄弟団」の代わりに、「偽物教会」を設立したことを非難している。(略) グノーシスを得た者はすべて、教会の教えの彼方に出て行き、その位階制度の権威を超越したのである。(page 70) 太字は引用者による

ここには、その後のキリスト教団と、後の様々な時代に現れては「異端」のレッテルを貼られ弾圧される側との確執、また「異端」側の、権威としての教会正統派に対する疑問と反抗、そしてさらには旧教から独立してより原理的なキリスト教の実現を図ろうという教会の改革(回復)運動(プロテスタンティズム)のような、より巨大な政治運動になるまで続く、正統派と非正統派の間に存する対立と議論の雛形がある。それはやっと21世紀を向かえた今になって初めて幾つかのスキャンダラスな事実の露呈によって明らかになったものではない。聖書学や現代神学の中ではすでに古典となった概念なのである。

例えば、千数百年後に起こった新教(プロテスタント)の旧教(カトリック)との論争は、神学論争と言うよりは政治運動(解放運動)、聖書の記述やキリスト神話を象徴的に解そうとするグノースティシズム(グノーシス思想)と言うよりは、現世的な功利主義との「折り合い」へと走った。カトリックのきわめて権威的かつ排他的、場合によっては過度に暴力的かつ利己的な面に関しては、同様の批判の矛先を向ける点については共通だが、プロテスタンティズムというものは、結局、人間の組織としてのキリスト教団そのものの解体へも宗教そのものの否定へも向かわなかったし、それを求めるのはもちろん時期尚早でもあっただろう。いずれにせよ、プロテスタンティズムさえもが(僅かなケースを除いては)「教会」そのものであるという例に漏れなかったのだ。

確かにグノーシス主義者に言わせれば、カトリック(ヴァチカン)にせよ、エピスコパル(英国教会)にせよ、諸プロテスタントにせよ、今日に至るまで連なり存続する「教会の歴史」とは、まさに、「異端の支配を受け」た歴史であった、と言い換えられる。われわれにとっての正統派は、すべて「異端」のレッテルを貼られ、「異端」として滅ぼされたのだ。これがカトリックや「正統派」という「偽名に惑わされ」続けた2000年近くに亘る錯誤の歴史である。教会とは2000年前にすでに起きていた「大いなる勘違い」によってこそ建設されることが可能であったのだ。

考えてみれば分かることだが、現在の「聖書」の中に生き残った福音書だけが「でっち上げ」でなく、神から直接授かった(あるいは使徒が直接叙述した)聖典と決めつけられる訳でもなく、それらの出現の仕方の本質は、正統派によって異端的と決めつけられた(冒頭にも掲げられた引用を含めて)聖書の「偽典・外典」の出現の仕方と何ら変わるところはないのである。

それらも、ナグ・ハマディ写本などの「異端の福音書」と同様、天から降ってきたものではなく、断じて人の手によって書かれたものである。そして人の手(と意志)による選択が、われわれがこれから経験する「世界規模の事件」の主たる因子となるのであり、(そこには神の介入も御使いの介在もない)最初から最後まで純然たる《人の行為》によって実現されるべき出来事だということについて、畏怖を以て実感するということと抱き合わせで理解されるべきことである。

ところで、グノーシス思想に深いシンパシーを覚えるわれわれが、如何に否定しようとも否定し切れない「教会」についてのひとつの事実がある。それは、21世紀のわれわれがキリスト教を知っているのは、その教えが教会の設立とその存続によってこそ可能だったということである。グノーシスを含む異端思想も、口伝によってわれわれの耳に直接届いたのではなく、正統派による異端批判の記録と弾圧があったからである。弾圧によってこそ、それらの写本はその意義を理解できるひとびとの現れる2000年後までタイムカプセルのごとく注意深く隠され保存されることが可能であったのである。つまり正統なものが人目に触れずにいたことには、摂理を感じさせるひとつの必然だったのである。

正統派キリスト教会は、遥か昔、その成立時期に溯る時点で「神は直接人に語りかけない、神の恩寵は教会を通して人々の前に初めて顕現する」という教義をすでに築いていた。それは教団設立と存続という「人間の組織」の持つエゴの現れであることをわれわれはすでに見抜いていた。だが、そうした教会自身のエゴと表立った正統性(顕教性)が、その裏の教え(密教性)としてのグノーシス思想をも保存させる。

つまり互いに対立する反対物がそれぞれを相手に手を携えて、大きな潮流を創りだし「大量の水」に載せて「僅かな真理」が遠くまで運ばれるのである。正統と異端という表面的な敵対関係を超えて双方を評価できる、巨視的な観点を獲得した者によってのみ、実はその「教会を通して顕現する神」の意味が理解可能なのである。

古代思想家による「生命の神秘」への一瞥
ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本』を読む [2]

Monday, June 5th, 2006

霊が身体のゆえに生じたのなら、それは奇蹟の奇蹟である。実際私は、いかにしてこの大いなる富(霊)がこの貧困(身体)のなかに住まったかを不思議に思う。エレーヌ・ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端』(page 72) 荒井献・湯本和子 訳(白水社)

これは、“グノーシス派福音書”として知られるいわゆる「ナグ・ハマディ写本」のひとつ『トマス福音書』の中でイエスが語ったという一節である。

本稿において、これを誰が喋ったのかという問題はこの際それほどに重要なことではない(クリスチャンにとっては重要だろうが)。だがこの短いふたつのセンテンスからなるノーション(意見・言説)は、高い完成度をたたえており、そのシンプルさと美しさを通して、名状し難い生命観を表出させていると、われわれは視る。

生命が単に肉体機械のアクションとリアクションの連鎖であるという言い方で説明・納得できると考える唯物論的な生命観ではなく、生命活動を支えるものが肉体を超えた何か精神的な(不可視の)存在を本質的前提としているのであって、それは「身体に宿っている」ものではあっても、精神活動そのものがすべて“肉体機械”の作り出す自動的な結果ではないということを確信を持って断定しているのである。筆者がこの断定に強く共感していると言えば、驚かれる向きもあるかもしれないが、それは「霊的活動」としての人類の生命活動を、この地上を生きる人類にとって、第一義的な重要さを持って捉えることを普段からあえて棚上げしているからに過ぎない。「霊的」という言葉を避けるのはあくまでも修辞上の便宜として有利であると思えないからに他ならない。

控え目に言って、「人間存在が精神と肉体が結びついたものである」ことを否定しないにしても、精神が肉体の作り出した単なる幻影だという考え方には共感できないというのが正直なところだからである(だって、それが百歩譲って「幻影」だとして、その「幻影」を視ている主体は誰なのかというのが一向に解決されない*ではないか)。したがって、「霊が身体のゆえに生じたのなら、それは奇跡としか言いようがない」という『トマス福音書』に見出せる著者の皮肉なトーンを筆者は深く理解できる。

* 自己を保存しようとする最も単純な構造を持つ生物でさえ、それが生存を望む最も原始的なエゴ(精神)さえも、何故そのような動機を獲得したのかというのは、いくらその仕組みを精緻に解明したところで説明は不可能である。物質と精神がそれぞれ全く別の由来を持つとしか説明のつかないところである。

「霊」と「精神」が、あるいは「精神」と「魂」が等しいものであるというような「とりあえずの大雑把な前提」については、本格的な霊学論者や神秘主義者からは反論もあろう。だが、便宜的に肉体や身体というものに対立する(あるいは対立せずとも性質的に異質であるという)概念としての、あるいは「身体で捉え難い不可視の(事物を捉える)実在」としてのエネルギー的実存の《核》を認定し、とりあえずそれを「霊的/精神的」と置き換えておくことは、議論の便宜上、許されるであろう。以上の単純化はあくまでも議論を不要に複雑にしないための方便である。

さて、「富(霊)がこの貧困(身体)のなかに住まった」という言い方には、今日の最先端の自然科学の専門家にとっては反論の余地が見出される部分かもしれない。「身体が貧困である」という言い方自体が、精妙な身体の仕組みについて現在われわれが識っているようなレベルで解明されていなかった古代の哲学に他ならないと言ってしまえば、それそれで理解の可能なことではあるからだ。だが、いかに「身体の精妙」についてわれわれがかつての思想家より多くを識っているにしても、それをもって霊的な富(精神活動)が、身体の作り出す自動的な作用: action と反作用: reaction の現出に他ならないとするのは、不可視の世界に対するわれわれの無知に他ならない可能性が依然としてある。それを「霊的」と呼ばなければならない必然性を筆者は認めないが、何か精神的な実在というのが、身体(肉体)の作り出す結果であると容易には認めないだけの自覚はある。

個々人の精神活動の深度や広さといった有り様が、個々の身体的特徴によって限定(決定)されているかに見えること自体は、一定の範囲で認めても良いことである。だがそれを以て身体的特徴とされる目に見える部分がむしろ先にあって、精神活動がそれの影響を受けているとだけ解釈すれば事足れりとするのも、十分ではない。なぜ身体が原因 (cause) で精神が結果 (effect) と断定できるのか? それとは逆に、身体的特徴とされる部分こそ、肉体にあらかじめ宿っている精神的実在の、むしろ反映(表出/表現)であると言って言えない訳でもないからである。つまり、どちらが原因でどちらが結果かということについては、われわれの議論は憶測の域を出ない「鶏が先か、卵が先か」の性質を乗り越えられないからである。それらの発生は同時であったのかもしれない。

「精神と肉体の二元論」というような心身の捉え方のアプローチ自体が、旧弊な議論の前提でしかないことは認めよう。だが、少なくとも、人類の行為が身体的機能によってすべて説明可能であるというような、今日再び脚光を浴びつつあるいわば「唯身体論」的な思想は、新手の唯物論的世界観を受け継ぐものでしかない、というのにわれわれは自覚的であらねばならない。だが、これはいずれ詳しく言及するかもしれないが、この二者を分けて考える便宜というのも、故なく出てきた訳でもない。

全く異なる由来を持った二つの実在の出会うところ、すなわち精神と肉体が相互に宿っている場所、というのが、生命存在の本質なのではないかということにわれわれの結論は逢着するのである。そしてそのように考えることで、さまざまな今日的課題や形而上学的な設問に正しく接近する前提を確保することになると考えるのである。

それは如何にAI(人工知能)と言うべき技術分野が発展し、今の科学技術によって成し遂げられないようなレベルの、遥かに複雑な応力と反応力の連鎖の系を、将来、機械によって創造可能になったとしても、それは決してわれわれが「生命」と呼べるような精神の活動を、それ自体が自覚し得ないだろうということを意味する。自動機械は、どこまで行っても生命を「吹き込まれたもの」ではあり得ないからである。反応はあくまでも自動的であり、そこには何らの自己観察(自覚/精神的主体)を要しない。われわれは、おそらく生命活動の神秘的な力(細胞や卵など)を直接借用することなしには、たったひとつの単純な生命さえも人工的に作り出すことは出来ないであろう。つまりわれわれの歴史は機械的身体のゆえに、それに「精神」が自然発生するというような「奇蹟の(中の)奇蹟」を科学技術によって実現することは、できずに終わるはずなのである(希望的ではあるものの)。

それがいずれできると主張し、その実現を信じられる貧困なる「精神」を、われわれは「幻影」と呼ぶのであり、われわれは到底それを《精神》と呼ぶことはできないであろう。そしてそれを追求する人類は、取り返しのつかない過ちのための礎石を、もうひとつ余分に地面に穿つであろう。

いよいよ始まったぞ、電話加入権集団訴訟!

Thursday, June 1st, 2006

「電話加入権の引き下げで損害を受けた」–NTTと国を相手に集団提訴

電話加入権集団訴訟参加のお誘い

「加入権」とか言って支払いを強制されたのに、電話解約の時には払い戻しがないのは、一方的で変な話だとは思っていたんだよ。だからNTT回線を使わない今でも、じっと解約しないで持っていた。きっとこの時を待っていたんだよ。参加するゾ、集団訴訟!