Archive for October, 2011

《もんじゅ連》についてのお知らせ

Friday, October 28th, 2011
《もんじゅ連》について、バンマスのenteeより、皆様にアナウンスメントがあります。2000年から11年に渡って活動して来たメンバー不動のアクースティック即興とリオでしたが、諸事情により11月19日(土)の記念すべき「第50回」となるこのライヴをもって、無期限休止に入ります。何度も足を運んで下さった皆様方へ、これまでのサポートについて御礼申し上げますと共に、この最後となるライヴの立ち会いに奮ってご参加いただきたく、お願い申し上げます。

あえて、「解散」とは申しませんが、次回どのような形でこの三人が共演するかは全く未定です。このチャンスをお聴き逃しなく。ぜひ!

この50回目のライヴが皆様のご記憶に残るようなものにすべく、「三人寄ればもんじゅ連」の底力で、熱く音楽したいと思います。

もんじゅ連 [Vol. 50]
場所:高円寺グッドマン
http://koenjigoodman.web.fc2.com/
開演:20:00 start
メンバー:
entee: piano, double reeds
池上秀夫: contrabass
渡辺昭司: drums and percussions
料金:¥1600(one drink 込み)

ブルックナーの音響的《作用》

Friday, October 14th, 2011

ブルックナーの音楽の「無内容さ」は、(それ自体が価値判断を含んでいないものの)あくまでもマーラーの音楽が「内容」を含んでいる、というような限定的な文脈に於いてでしかなく、それほど深遠な意味を持つ言説を放ったつもりはない。そもそも、こと音楽に関しては「無内容だから無価値」という訳でもない。音楽は自体が高い抽象性を帯びているので、基本的に無内容なのだ(無意味ではないが)。

 

むしろブルックナーの音楽の一聴したところの「つまらなさ」は、CDなどの音源を通して行われる疑似音楽体験という不利な状況下における、きわめて公平さに欠いた条件における感慨でしかない。つまりブルックナーの体験は録音を通してのものでは、決して理解されないような非常に不利な立場に置かれていると言えるのである。

 

実は、かくいう筆者も感動的なブルックナー体験をしていないわけではない。だが、それは音楽の作曲された「内容」に動かされるというよりは、響き自体がもたらす身体的な作用と呼ぶのに近い「体験」だったのだ。しかもそれはライヴ状況におけるもので、しかもそれは自分が演奏者の一人として、その音のただ中にいたときに起こった。それは《ロマンティック》という呼称で呼ばれることの多い、交響曲第4番のリーディング(初見試奏)での出来事だった。

 

冒頭の弦楽器がトレモロを奏でてつつ、体に接する空気がざわめきながら包んでいるとき、ある和声進行が起こったときに、突然自分の体を電気的な「感動」が貫いたのだった。これはどちらかというと宗教的な恍惚というのに近い感覚で、「劇的なクライマックスに心が躍る」とかいうような分かりやすい情動というのとは、また違う肌合いのものだった。だが、その生理的とも言いたくなるような身体的な反応は、同時に便宜的に「感動」と呼ばずになんと呼べば良いのか分からないような作用として感得されたのだった。

 

これだけがブルックナーの唯一の価値だと談ずることはできないが、少なくともこれを味わうことなく、ブルックナーの好悪を決するのは、まったく公平さに欠いたものだと言わずにはいられないのである。

音楽の《雑味》という要素について

Wednesday, October 12th, 2011

リードを削っていて陥りがちなひとつのトラップ(罠)は、吹きやすさ、鳴らしやすさを追求する余り、音がまるでサインウェーブ(正弦波)のような純粋さを達成してしまうことだ。こうなると、極端な話、オーボエなのかクラリネットなのか、はたまたサックスなのか区別がつかない様な没個性的な単なる響きに堕ちてしまう。ある楽器が特定の個性を持った音色を持つのは、そぎ落とされずに保たれた、言わば雑味の部分だ。それはリードで喩えるなら鳴らすまいとする抵抗性の要素だ。

 

これを残すことはある程度の吹きにくさ、鳴らしにくさと云う扱いにくさを許容することでもある。まさにその遺された僅かな雑味の中にこそ、楽器としての存在価値がある。

 

一体、ヴィオールのあのかすれた響きに非ざるものを削ぎ落としてしまった後に、なにが残るというのだろう。

 

つまり、今日の音楽という特殊な「交響」の中にあって、響かざる何かを追求すること以上に価値のあることはないのだ。そのかすれた囁きにこそ、音楽の生命(いのち)の宿ることを知る人々がいる限りは。

神話となるわれわれについて

Wednesday, October 12th, 2011

われわれの生きている時代は、空を飛び、海を自在に航行し、星と星の間を旅することのできた神々の時代の神話に間違いなくなるし、そうなる前の時点では、われわれの存在がまず「古代人」という名誉ある呼称でひとくくりにされるプロセスを経るであろう。

 

そして、太陽の欠片(かけら)を地上にもたらし、それで暖を取り、煮炊きをし、星の裏側の同胞と会話をし、そのあげく、住む土地を失った愚かなる神々の末裔が、やがてわれわれの愚挙をすべからく語り継ぐことになるであろう。

 

だが、その核心となる部分については、「そのような古代にそのようなことを実現したはずがない」という圧倒的なまでの正論によって、邪教の扱いを受け、まともに取り合ってもらえない類の世迷い言として、またしても排除されるであろう。そして、「過去を語り継ぐことのできない」われわれの子孫は、またしても同じ過ちを犯すことになるだろう。