Archive for January, 2005

「直列ではない 並列に」4人の女優の配置を考える
(映画『またの日の知華』を観る)

Sunday, January 30th, 2005

とまあ、映画に到達するまでが一苦労。日曜日にまた気を取り直して新宿のシネマスクエアとうきゅうへ。2日連続で新宿の、しかも歌舞伎町に出向くとは。

原一男という監督は、『ゆきゆきて、神軍』で有名だそうだが、自分が見たことがあるのはケーブルテレビでやっていた「全身小説家」のみ。映画監督というよりは、ドキュメンタリー映像作家というような印象がある。個人的に文学の世界に親しんでいないので、正直言うと「全身小説家」も自分に直接深い関係があるものとはあまり感じられなかったが、今回の「またの日の知華」も全体としては似たような印象。

連れ合いが感じ入っているところで、あまり否定的な評を下すのは楽ではない。だが、これはあくまでも自分の感じたことであって、人がどう思うかということとはこの際関係がないし、自分がそう思っていることでこの作品の価値がどうこうされるわけでもない。

さて、一人の女性を異なる4人の女優が演じるというのは着想は確かに面白い。ギミック以上の何かであって、そこには真剣な映画作家による実験的試みがあるのは認めても良い。まさに、女性がその時付き合っている男性によってまったく違った人物として見られる(捉えられる)というその視点に共感しないではない。だが、そう言っちゃあ身も蓋もないかもしれないが、男性だってその時々に付き合っている女性によっていくらでも変わるのだ。男性にとってもたったひとりの女性の出現が未知の人間性の開拓につながることにもなるし、本人にとっては人生を「深める」のにも「広げる」のにも大いに役立つことである。したがって、それは女性に特有なことだという印象を固定化させることには反対だ。(もちろん、監督がそれを意図したと言いたい訳ではないが。)

■■■ (ある程度)ネタバレ警告!■■■

そしてボクに言わせると、一人の主人公に対して異なる女優を配置したことで実際に起きたことは、付き合っている男性によって女性の現れ方が変わってくるというよりは、むしろ女性の現れ方が違うから、周りに出現する男性にバリエーションが起きてくるという風に、因果関係が転倒しているように思えるのである。正直のところ、主人公が桃井かおりの演じるような女性になったから、夏八木勲みたいな男が寄ってくるということの方が真相に近いと思うのだ。

つまり、次の男と出会う前に、主人公の女の方が既に変貌しているのだ。そして、その変貌の理由には説得力がないことにいらだちを覚える。だから、一人の女性を描いているようには、観客たる私には見えて来ず、同じ名前(知華)、同じ「オリンピック出場候補の体操選手としての過去」だけを共有する、まったく違う女性が次から次へとリレー式に現れているようにしか感じられないのだ。そこには日本の戦後に起きた現実の歴史を安保闘争や浅間山荘事件、そして酒田大火などの実写映像がドラマの中に織り交ぜられることで、「現実の一方通行の時間」の糸によってより強く結びつけられることになる。

しかし、観客が絶対に受け入れなければならない前提としての「女優4人によって演じられる」という人為的なオペレーションによって、厳密であるべきドラマ上の一本の人生の流れに「理由なき断絶」が起こっている。それが監督の狙いだったと言うのであれば、その狙いは(残念ながら)成功している。

ボクが保守的なだけかもしれない。そういう問題にしてもらってもかまわない。が、主人公の生きている時間の経過や出会っていく人間との関係に伴って変貌していく女の姿を、一人の女優(たとえば金久美子)が役作りで演じきった方が、おそらく主人公への感情移入は容易に起きただろうにと思うのだ(ありきたりな意見だが)。そうなれば、ドラマの最後に主人公の身に起こることへの衝撃も不条理感も倍増されたに違いない(もし、感情移入を回避することが監督の狙いなら、その試みも残念ながら「成功」している)。

だが、最後に演じた桃井かおりに起きたことは、不幸なことではあるが、体操選手として一度は未来が約束された、かに見えた若い主人公と「桃井かおり演じる女性」のあいだに、すでにアイデンティティ上の埋めがたい断絶が起きているので、感情的には「どうしてそうなるの?」というあっけにとられるような驚きは起こっても、シンパシーの感情は湧き起こらない。桃井かおりの演じる主人公は、死せずとも、すでに「終わっている」からである。それはつね日頃テレビ画面に登場する普段着の桃井かおりと寸分に違わない「地でいっている」演技なので、なおさらそのニヒリストにふさわしい最期であるようにしか見えないのである。それは言い過ぎかもしれないが、本当は不条理ではなくて、残念ながら「因果応報」というのに相応しい形になってしまっているのである。だが、平均台から落ちた体操選手の末路としては、あまりに断絶の溝が大きすぎる。

げに、可愛そうなのは実の息子の純一であり、2番目のエピソードで(どうやら)捨てたらしい夫なのである。いずれにしても、第一のエピソードにおいて、夫に対して良い妻であり、生徒に対して良い教師であり、子供に対して良い母であった「模範的な」主人公知華が、ただひとりの子供っぽい同僚の高校体育教師のたった1回の「誘惑」に負けて墜ちていくというのには、ボクは何のリアリティも感じられなかった。

今「誘惑」という言葉を使ったが、実はそれはむしろ「強姦」というのに相応しいものとして映画では描かれているのであり、それに元オリンピック出場候補の体力を持つ彼女がだんだんに負けていき、ついには結局身体を許す、というのでは、まるで陳腐なポルノ小説のような場面設定でしかない。悪いことに、監督自身の女性観が図らずも旧弊なセクシスト的なものでしかなかったことを暴露しているようにさえ思えてしまうのである。こう言って差し支えなければ、彼女の「転落」は、実はドラマの重要な鍵である。しかし、それが「知人(同僚)による強姦」がきっかけであったようにしか考えられないというのでは、あまりにも安易ではないか。

また、映画の冒頭が、最初の恋人であり夫となる主人公のパートナーの視点から描き始められる。これにより、夫から見た主人公像というのが「狂言回し」たる夫の目線から最後まで描き通されるのかと思いきや、実質的に夫が登場するのは第二のエピソードまで、という中途半端なものになっている(それも、妻が浮気をしているようだというめめしい懐疑心をテレビの前で丸く縮こまる背中で描く)ばかりか、決定的な、最初に提示された夫の視点というものが、ドラマの伏線として二度と機能しない。

これらの「アイデア」と「伏線」と「4人の女優」というのを組み合わせる映画の「別のあり方」というのがあるように思った(もちろんトーシローのアソビとしてだ)。それは、ひとりの主人公の時代時代を4人の女優によって演じ分けていくという、(現実にあったように)時間軸上に4人の女優のエピソードを直列につなぐのではなく、一人の主人公が、人生のごくわずかな転機によって、4つの異なる人生があり得るというのを描くのだ。言い換えれば、4人の女優を時間軸に対して平行に(4列に)配置するという方法だ。つまり、直列ではなく、並列に4人の女優の演じ分けを並べるということだ。

いくつもの未来があり得るというこの方法は、古くはキェシロフスキーによる映画『偶然』で試されているし、最近ではトム・ティクヴァ*の映画『ラン・ローラ・ラン(Lola rennt)』で試されて面白い効果を生んでいる。通常の映画はどうしたって時間軸上にドラマを並べるしかないので、2時間なり2時間半の時間枠の中に「直列」にフィルムをつなぐしかないが、「時間が戻った」という演出は、もちろん可能だし、それは近いところではタランティーノによっても巧妙に行われている。

(* その後、ダンテの『神曲』を使って三部作を作ろうと企図していたキェシロフスキー亡き後、彼の遺稿を使って、ひとつを映画として「復元」した『天国』の監督を、他ならぬティクヴァがやっていることを考えると、ティクヴァ自身がキェシロフスキーから創作上の影響を直接受けていて、実は『ラン・ローラ・ラン(Lola rennt)』として結実しているのであり、その直接のネタは実のところキェシロフスキーの『偶然』であるはずなのだ。)

つまり、こういうことだ。オリンピック出場候補の体操選手たる主人公は、ある日、予選の演技で平均台から落ちる。そして、そこからある一定の時間までは、若干の違いはあってもほとんど同じ状況で、しかもひとりの女優(たとえば、あの本物の体操選手に一番似ていた2番目の知華を演じる渡辺真起子)によってドラマが進行する。しかし、ある人間(男でなければならない訳ではない)と出会うことで、あるいは、本当にあったある事件によって、彼女の中で何かが変わり、外部では運命の歯車が切り替わる。次のシーンは5年後かもしれないし、10年後かもしれない。あるいは、60年時間が経っていて老婆になっていたって良い。だが、その「何年後かの主人公」というのを3人ないし4人の異なる女優が描き分ければ良い訳である。人生が変わったために、主人公の顔つきやしゃべり方まで変わってきても不思議はない。女優の歳の差もうまく利用出来るだろう。付き合う男や自分自身の行き場も何もかも変わってくる。そういう設定である。

同じ時間軸上に存在する女主人公の顔つきやしゃべり方まで、あのように短い時間の中で豹変するというのは、どうしても信じがたく、ボクには違和感を覚えてしまうのだ。だが、そうした違和感も同じ時間の中の別の世界(いわば平行宇宙)ということであれば、受け入れやすいのだ。

という風に、全体的には幾分批判的な評となってしまうのであるが、部分的に見れば良いと思える箇所がなかった訳ではない。まず、音楽がなかなか良かった。そして、金久美子と桃井かおりの演技が良かった。桃井かおりは笑えるほど面白かった。いただけなかったのは、主人公がどんどん年をとっていっても、いつまでも若いままの高校の同僚の体育教師である。これは何とも信じがたいのである。

「またの日の知華」公式ウェブサイト

シネマスクエアとうきゅうって…

Saturday, January 29th, 2005

… ぜんぜん「スクエア(まじめ)」じゃないね。ネット情報に関して言えば。それに劇場も全然「スクエア(正方形)」じゃなくて、ナマズの寝床のようになが〜い「レクタンギュラー(長方形)」だったね。

前日金曜日には、Zefiroを聴きに銀座まで行ったのだが、銀ブラ中の道々に安い前売り券を扱うディスカウントショップを見つけて、映画『またの日の知華』の前売り券を2枚入手。「2枚」となると、当日券を買うより合計で600円は節約出来るのである。今どきの「映画1本?1800ナリ」は、自分の経済状態では、ちと痛いのだ。

それで、その映画を土曜日の午後、観に行く。だが、上映時間が断りもなく勝手に変えられていて、土曜日はわざわざ新宿まで出向いたのに(この展開って、なんか少し前にもあったと思うんだけど)、映画館の前で初めて4:25pmの回がその日の最終回であることが判明。時計の針はもう5時を回ろうとしている。脱力。ネットには最終回が6:45pmと書いてあったじゃないか、シネマスクエアとうきゅう! 調べたのにその情報が最新でなかった訳だ。「被害者」は連れ合いとボクの2人組くらいだっただろうが、実に迷惑。もちろん、劇場に直接電話で問い合わせなかった自己責任と言われておわりなんだろう。

家に帰って再度調べたら今度はサイトの方が更新されていた。やはりこまめにチェックするよりほかないのだ、おそらく。あるいは、ネット情報を信じないことなんだろうね。

「あちら」の風(Zefiro)が吹いてきた或る「銀座の夜」

Friday, January 28th, 2005

十六分音符は、襖(ふすま)一枚を隔てた「あちら」の側から聞こえてくるようなまろやかさで、転がり始める。それは、クラリネットの1番奏者のごく控えめだが明確に奏者同士の集中を束ねる視線を2本のバセットホルンに投げかけた直後に、あたかもひとつの風琴が作り出しているような1本の有機的な息の技として眼前に提示される。そして、その有名な「フィガロ」のテーマ、その十六分音符群が最初の12小節を終えて、全楽器がトゥッティに突入するとき、たしかに13の生楽器、しかし古楽器だけが作り出すことの出来る柔らかな爆裂音が王子ホールの会場を満たした。たった最初の13小節で、自分が今立ち会っている音楽の非日常性に、思わず体が反応して、音楽の喜びが笑いに変わってくる。それは、あまりに良すぎる音楽体験のときだけ起こる情動的な痙攣なのだ。

金曜日。イタリアの古楽アンサンブル集団、Ensemble Zefiroのコンサートに縁あって行くことに。Zelenkaのアルバムを出したときにそれを知ってもうかれこれ10年経っているので、彼らの音楽を知って早10年の月日が経っていることになる。が、まさか彼らの生演奏に触れる機会があるだろうとは想像だにしていなかった。コンサート情報を前々普段からチェックしていない自分だが、このような幸運に恵まれたのは兎にも角にも得難い友人のおかげである。

今回彼らの演奏した曲目はバロック時代の音楽ではなく、全曲モーツァルト・プログラム。メインは「13管のためのセレナーデ(Serenade Nr. 10)」、すなわち「グランパルティータ」で知られる管楽アンサンブル曲である。管楽アンサンブルそのものがあまりコンサートで聴くことの出来ないマイナーな分野であるが、それが古楽器によるもので、しかもそれが13人集まると言うのは、よほどのことでない限り、ないのではあるまいか。オーケストラのメンバーから13人の管楽器奏者を抽出して演奏するということはあるだろうが、そうなると俄然モダン楽器オケのメンバーによる特別演奏会のたぐいで取り上げられるカタチというのが、もっとありそうなことである。しかも現在では事実上失われてしまった一枚リード楽器、バセットホルンはクラリネットで置き換えられがちなパートであるし、それをその時代の楽器(もちろんそれは復元されたものではあるが)での演奏を耳にすることが希である。

Zelenkaの到達しがたい高みを極めた問題作「2本のオーボエとバスーンと通奏低音のためのソナタ(全6曲)」で、嫌というほどその深い音色と卓越したテクニックを見せつけてくれたAlfredo BernardiniとPaolo Grazzi、そしてAlberto Grazzi(おそらくPaolo Grazziの兄)が、当然のことながら1番と2番オーボエ、そしてバスーンの1番を占めている。この3人を除いて残りの10名は、すべて自分にとって、ほぼ初めてその聞く人ばかりである(調べたら、今回natural hornを吹いていたDileno Baldinという人は、ZefiroによるVivaldi曲集では、トランペットを吹いていたらしいことが判明)。

言及した2本のオーボエ以外では、「13管のセレナーデ」は2本のクラリネット、2本のバセットホルン、2本のバスーン、4本のナチュラルホルン、そして1台のコントラバスという編成になる(コントラバスーンを聴いてみたかったが、そのような古楽器が現在あるのかないのか、この度はコントラバスで)。この編成で残っているモーツァルトの原譜というのは、おそらく「グランパルティータ」以外にはないから、オール・モーツァルト・プログラムをやろうとすれば、曲ごとに演奏者を変えながらということにならざるを得ない。だが、そこはZefiroを率いるBernardini氏が、モーツァルト生前の時代におそらくこのように演奏されたであろうオペラのハルモニー(管楽合奏)バージョンを復元して、グランパルティータのフルメンバーで、「フィガロの結婚」をハイライトの形で演奏したのである。冒頭の「フィガロ」はそのまさに序曲で起きた自分の驚愕と感動を記述しようと愚かにも企てたものである。

グランパルティータは、自分が聴いてきたものはアーノンクールが指揮をしているウィーンフィルのメンバーによるものや「フルトベングラーが指揮をした」ものを含めてすべてモダン楽器によるものであったが、古楽器によるグランパルティータというのは、録音のものも含めて聴いたのは初めてであったのではないかと思う。まさかこのような希有のパフォーマンスを他でもないZefiroの演奏で聴けるとは。

初めて目にしたBernardiniは、一見学者然とした研究家を思わせる風貌をしている。しかしいったん演奏を始めると、自分が楽しみ、さらに人を楽しませようという、衒いのない音楽に対する姿勢があり、音が自然と「客の方に向いている」ところもあり、絶妙なバランス感覚で嫌みでない程度にエンターテイナーとしての要素も持った芸人であることも分かる。だが何よりも、驚くような歌と技巧を同時に聴かせてくれる音楽家である。

マーラーのカリカチュアとして知られる「マーラーの影絵」というのがあるが、鳴り止まぬアンコールへの呼び声に答えて、自らがそれを思わせるような風貌とジェスチュアで「現代音楽」と題する即興演奏を12人の仲間を相手に自ら指揮をした。その12人の演奏家たちの驚くような統率性。ヴォイスパフォーマーたちを指揮をする巻上公一氏さながらにBernardiniが、即興をやる。これで、「現代音楽」の何たるかを、実践的に相対化してくれたのだ。これ以上の、批評というものがあろうか? 彼は音楽創作を通じて現代的音楽のある部分を笑いにして葬ってくれたのだ。

Zelenka録音版で大いに暗示していたBernardiniらのradical性は、今回の演奏会によって、それが単なる想像の世界にだけ存在するものとしてではなくて、「音楽を通じてのヒューモアと批評精神」というものの実在を間近に見ることが出来たのだ。

ヨーゼフ・ロートを(また)語…ろうかな

Friday, January 28th, 2005

最後にヨーゼフ・ロートについて書いてから早三ヶ月が過ぎた。

それにしてもなんと遅い歩みだろうか? これほどに書かないでいるということが自分で出来ようとは。いやそうではない。これほど書けないということが起ころうとは、という方が正確である。

しかしようやくロートの『果てしなき逃走』を読み始める。このところずっと持ち歩いていたが、「くだらないこと」に時間を費やしていて、ゆっくり本を読んだりものを考える時間がなかったのだ。岩波文庫として出たのが1993年であるから、まだそんなに古い本ではない。だが早くも絶版(品切れ)となっている。おそらくそんなに沢山刷られた訳ではないだろう。このような良書であっても、じつに本のライフサイクルが短くなっているのである。本書の存在を知ったが、結局入手できないと諦めかけていたら、Amazonのマーケットプレイスに出品されているのを知って、その古本を定価以上の値段 + 配達料で購入。(昨年の暮れ)

しかしだ。それだけの「贅沢」をして入手したが、まったく期待に背かれない内容。ロートの第一次と第二次世界大戦の狭間という時代での経験を綴ったいくつかのエッセイがあるが、それが今度は小説となって蘇ったという感じだ。小説を自分は普段からほとんど読まないが、本書に関していえば、小説を読むときに感じるような、なぜ人の書いた虚構を「追体験」しなければならないのか、というような懐疑の念がまったく生じない。それは『聖なる酔っぱらいの伝説』のときでも同様だった。おそらくそれが単なる虚構のたぐいではなく、ロート自身によって生きられた体験が色濃く残されているからに他ならない。あるいは、当時の2つの戦争と戦争の間におこった表面的な「平和の間隙」において、ロート自身が感じた本音が登場人物たちによって吐露されているからなのかもしれない。

ロートによる「ヨーロッパ」という場所における文化や人についての鋭い批判眼。それはわれわれが自分たちを「日本人」であるとか「アジア人」であるとかいう、自意識、あるいは批判的に西方世界へ眼差しを投げかけるときに自分らが使いがちな、「西洋」あるいは「西洋文明」というような一刀両断の「分かりやすい理解」を、あっという間に無化してしまうような歴史と地理の相対性理論をさりげなく提示する。

これについては腰を落ち着けて書きたい。

や〜めてうれしい?

Tuesday, January 25th, 2005

えびがやめてよろこぶひとはおおい。わるいやつがやめることじたいはわるいことじゃない。そういうわるいやつがたかいところにずっといすわれないということをしるのはやつらにとってもいいべんきょうだしね。

でもわるいやつがやめたからといって、いまよりずっといいところになるなんてこともしんじられないよ。わるいやつがいなくなって、もっとわるいやつがくるなんてことがさいきんもあったしね。だからおじさん、だまされないでね。よし、これでだいじょうぶなんてことはないんだから。

えびがやめたのは、やつがようずみになったってことだよね。

あんがい、えびはもっとわるくなるそしきをやつなりにがんばってまもっていた、なんてこともあるかもしれないじゃん、やくざのおやぶんとしてね。

えびのつぎのわるいやつがきまったからあんしんして、やめることになったんじゃないの。ぼくのおもいちがいだったらいいよ、ほんとにさ。

『イブラヒムおじさんとコーランの花』

Sunday, January 23rd, 2005

寒かった日。恵比寿ガーデンシネマに向かう。

前売りで購入していた映画『イブラヒムおじさんとコーランの花』を観る。折りをみてちょっと書いてみよう。

(思ったより地味な作りだった)

(プロモーションのクリップでの紹介で得た印象と異なると思ったのは、プレヴュー制作者の意図的なミスリーディングではないかと思われるほど)

(オマール・シャリフを見に行くだけでも価値はある)

中国“英雄”譚としてのキャンデー物語「功夫 KUNGFU HUSTLE」

Thursday, January 20th, 2005

■■■ ネタバレ警告!■■■

一見弱そうな者、一見普通そうな者、一見醜い者たちが、見た目からは想像できない能力を持っているという前提。また、本当に能力のある者は、市井に混じって普通の生活をしているという前提。だが、ひとたび本当に必要が生じれば、その「能ある鷹」達はその「爪」を見せる。そうした形式をしっかり踏まえている。そこには、監督が誰の側に立つのかを明確にする姿勢がある。

つまり、映画「功夫」は、貧しい人の中から英雄が出てくる、普通の人が超人的能力に目覚める、しかし戦わないことが最も尊いという、おそらく中国では通例となっている物語の描き方、英雄譚の形式をしっかり踏まえているのである。「弱きを助け強きをくじく」という、いまでもわれわれこそが見たいと思っている勧善懲悪のパターンが立派に採られる。主人公が「悪に与すること」を決心しても、その人間の本質は善であれば変わらず、あるいは悪に与することが出来ない人格が最終的に勝つという内的な「善悪の闘争」がスターウォーズなみに描かれるのであるが、しかし、あくまでも庶民がその「懲悪」に目覚めるというアプローチである。

映画『カンフーハッスル』に出てくる侮れない「キャンデー」の象徴

そして、物語には全編を通底して出てくる象徴がある。主人公が少年時代に“授かった”「ある拳法の奥義書」学んで得た力を試そうとして、イジメられている口の利けない少女を助けようとするところで、その象徴は登場する。その少女は「キャンデー」を悪ガキ達から「奪い盗られ」ようとしている。少女はそれを必死で「守る」。少年は助けようとしてまったくその奥義書から得た技が効かないことを悟る。それどころか、反対に大勢の苛めっ子達から身も心も、ずたずたにされる。少年の「悪へ帰依しよう」とする決心は、まさにこの瞬間までさかのぼるのである。実は、彼はケンカに負けながらもここで少女と少女の「キャンデー」を「守った」のであるが、プライドをはなはだ傷つけられた少年はそれに気づかない。少女は、さっそくその守り通した「キャンデー」を少年に「捧げよう」とするが、自尊心を徹底的に傷つけられた少年はそのままその場を去り、少女の「キャンデー」はそのまま少女の大切な宝物入れに仕舞われる。そしてそれはその少年との再会だけを待っているのである。

街でアイスクリーム売りをする女が、まさにかつて少年時代に助けた少女であることを知らない主人公は、そうと知らずにその貧しい女からなけなしの金を奪うという「ちっぽけな悪」を実践しようとする。しかし、それは彼女との再会のために用意された宿命であって、彼女は強盗が探し求めていたかつての「正義漢」であることを見抜いている。そこで、彼女は古いキャンデーを、唯一のIDカードとして彼に「差し出す」ことで、自分が誰であって主人公が本当は何者であるのかを思い出させようとする。しかし、彼は「悪に身をゆだねる」決心をしているのであって、そのキャンデーをはじき飛ばす。少女の差し出したキャンデーは四分五裂する。

大詰め近くになって、悪に完全に魂を奪われている「いまのところ最強の悪役」によって、主人公が死ぬほど叩きのめされて動けなくなっても手だけが動く。そして自分の血糊で地面に描くのは、少女の差し出したキャンデーの図である。その象形文字のような絵を見て、助け出した者は「意味が分からない、ちゃんと中国語で書けよ」と嘆く。この「象形文字」は、明確に普遍的且つある特定の意味、しかも死に瀕している人が遺そうとするにふさわしいメッセージをコミュニケートしているのだが、それを映画ではすかさず「笑い」にして、ゴマ化す(それを正面切って詠い上げることは恥ずかしいことだからである)。

力(能力や才能)ある者こそ、それを隠し、市井で庶民の姿をとって普通の生活をしていかなければ、制御できない無知蒙昧な「力の発揮」がおこり、競争が起こり、結果、争いが絶えなくなる。こうした「暴力の連鎖」という抜きがたい「力の法則」をどう扱うか、という中国思想上重要なテーマがある。「戦わずして勝つ/負けるが勝ち」というのに関連がある思想なのだ、これは。

面白いのは、こうした「拳(こぶし)を防衛の道具とする」という武道の奥義書を売り歩いているのもまた、ホームレスに身をやつした「半ば物乞い」の賢者(サドゥー)であり、またグルジェフ風にいえば、第四の道の実践者でもある。

主人公が、最後の死闘を生き延びるのは、香港娯楽映画である以上、当然である。これはあくまでも英雄譚なのである。それは観る前から分かっている。だが、重要なのは、主人公が最も強い拳闘家であることが証明されることではない。勝利後に、その主人公が身をやつす「市井の人」が何であるのか、なのである。そして、その答えは…

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おい、ソフト

Wednesday, January 19th, 2005

どうでもよくぁない。おれぁほんきだ。

おい、おまえ、悪いことは言わないから、アップデートしないでくれ。

そのままのおまえでいいんだ。あたらしいファッションなんかに身をつつむ必要もない。いや、いまのままのおまえがすきなんだ。いろいろな「ベルや笛」なんかつけて体を重くすることもない。カルいままの、シンプルなままのおまえのほうがずっとステキだ。おれのかぎられた人生で把握できるようなお前でイテオクレ。

ソフトウェア。

でも

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古いものは、いい

Tuesday, January 18th, 2005

大きな岩のようでありたい、のか。われわれは、本当に。

高橋竹山の映像というのがNHKアーカイブで放送されていた(一昨日あたり)。彼の津軽三味線の演奏...ではなくて、彼の話しっぷりに心が奪われた。(たまたまテレビを付けたら放映していて放送はあらかた終わっていた。)

そこにあったのは、いまわれわれの周りで見かけるたぐいの人類ではなくて、「ひと」というものの原型というか、人はこうあり得る、いや、ひとはかつでこうであった、というある種の、「歴史的にかつて存在したことのあった」ある人間像が、時間を超えて突然茶の間に現れたかのようでさえあった。こういうのを見ると映像記録の力を実感するのである。言ってみれば、タイムカプセルにしまわれた中世時代の人間をよみがえらせることができるようにさえ、感じたのである。

字幕がなければ何を言っているのか分からないような、人情味あふれる津軽弁丸出しの彼の言葉自体が、いまや殆ど死に瀕している(かもしれない)ような、かつて存在した時代の証言者のようでもあり、また、いわゆる流れの速い「世間」のありようとは無関係に存在し得た、ある「岩のような存在」が突然再発見されたかのようにも見えた。

(たしかに)われわれは、いろいろなことに気づき始めた。無意識に我々の心に根付いている「差別」を感じ取る触覚を得て、「恵まれぬひと」たちの声を聞き分ける聴力を持った(いや、持ったように思った)。そして、いわゆる人生の、こころの、細かな襞を読み取れるような、痛覚さえを得た(ように思った)のだ。

去年より今年、昨日より今日、という風にヒトは進化してきたように思っている。少なくとも、移り行くすべて、特にファッション(それは服装だけでなくものの考え方や特定の思想への傾斜も含めて)、そして流行の言葉を思い出すと、「なんて格好悪いものを自分たちはカッコいいと思い込んでいたものか」、とあきれ気味に思い返すことがある。しかし、ファッションはファッションというだけのことはあり、それははやり廃る。「洗練」という時代の進行によって、微に入り細に入るあらゆる五感による「感受性」の先鋭化が確かにわれわれ現代人には起きている。

たしかにそういう傾向はあるかもしれない。だが、いったいそうした感覚の一見した「伸長」によって失われたものはなかったのか。われわれは時代の変化や感覚の先鋭化と関係なく、変わらぬ何かを持っているのか。われわれには目が見えているが、竹山に「見えている」ものがわれわれには見えていないのではないか。そして岩のように動じない生きた人の存在感を獲得していないのではないか。

竹山の映像と音声は、まさにいかなる時間によっても風化することのない「原石」として、われわれの現前に提示する。それは、竹山本人ですら磨き上げるのに難しいような、岩のごとくに途方もなく大きな原石としてそこにあった。おそらく磨こうとすればするほどに、別のところからどんどん埃が積もり、沈着した土ぼこりの上からどんどん苔がむしていく、というようなスケールの原石なのである。そこには、表面的なカタチの良さとか、日常的に公平である(いわばリベラルであろうとする)ために、より大きな悪を見逃すというような現代人の小手先の平等感覚を一切無価値にしてしまうような善悪を超えた「存在」として立ちはだかる原石なのである。

われわれは、ようやく手に入れたかに見えたある職種なり特殊技能の中で、あるいは専門とした「思想」行為の中で、より細かな「仕上げ」をしようと懸命であるかに見える。人生の大半を費やし、その入念な「仕上げ」への入り口に立っている。そして、心も。

しかし、そこには揺るがない原石があるのか?

竹山は、盲目という与えられた身体的特性によって、彼が生きた時代から当然得られたであろう多くを得られなかったはずである。しかし、それによって何か重要なことを彼が得損なったという風に彼が感じているとは到底思えないほど、どっしりと落ち着いて見えた(聞こえた)。付いていけないことで得られなかっただけ、失うものも彼にはなかったのだ。むしろ、そのどっしりした揺るぎない自己を磨き上げることに終生打ち込むことができた。そして、その本人が、自己の研磨に完成がないことを、あるがままに受け入れているように見えた。

意図してかせずにか、そうしたある種の古い人間存在の「あり方」(実存)が映像と音声で僅かに捉えられた。そしてそのごく一部を私はかいま見た。

映画『ソラリス』のなかで、タルコフスキー(原作者?)は、主人公の父親に「古いものはいい」と言わせる。そう。古いものはいい。だが、われわれは古い人間のあり方に、「いい」と言わしめるような「人間存在」を身近に持っているか? 日常的に、「古いよさ」というものに十分圧倒されているのであろうか? 私たちはおそらく孤立している。古いものからの孤立である。古い知恵や、古い道具や、古い人情からの孤立である。

そして、苔むすような岩のような原石から背を向け、新しい光り輝く、未来へと「転落」することを選んでいるのである。

音楽が教えてくれたもの

Monday, January 17th, 2005

そいつの目は、本当に死んでいるのか?

ある人は、そいつを腐っていると呼んだ。私にとってはときに特別な人であるにも関わらず。

ある人は、そいつを嘘つきだと呼んだ。私にとってはときどきに真実の人であるにも関わらず。

ある人は、そいつを曲がっていると呼んだ。私にとってはいたって実直であるにも関わらず。

ある人は、そいつを純粋でないと呼んだ。私にとっては純粋であることなど意識したことさえなかったのにも関わらず。

ある人は、そいつをB型であると呼んで喜んでいる。

ある人は、自分を水瓶座であると呼んで喜んでいる。

ある人は、自分がある地域の出であることを誇って語っている。

ある人は、そいつがある地域出身であることを卑下して語っている。

ある人は、純粋なものが分かると断定し、また純粋こそを求めると自分のモットーを語っている。

これは、差別が当たり前だった何十年も前の話ではない。

戦前やましてや明治時代の話でもない。

いま、当たり前のように行われている区別と差別の意識である。

人の外見的な見た目や性別を、そして出生を、誕生日を、「へだたり」として、受け入れ、それを言語化することさえ厭わない現代人の姿勢である。

ある人がそのように、ある人物を評するのは、自分とそれ以外の者、あるいは自分の気に入っている人とそれ以外の者、を区別するためにそうした判定を下す。しかし、判定が絶対的であることは、ない。

(百歩譲って)そいつが腐っているとして、それを嫌うのは自分が清廉だからか?

それを好むのは自分がともに腐っているためか?

そうだおまえ自身も腐っているためだとある人は断ずるだろう。なぜかならば、その方が自分の生き道を定めるに容易だからだ。

(百歩譲って)彼自身は自分がそう言うように純粋であるかもしれない。その通りだ。彼は純粋な人だとある者は評するかもしれない。だが、それは、自分がその純粋を感知できないということを恐れるあまりに、進んでそれを分かると公言しているだけの話かもしれない。そもそも、ある人物があらゆる時間を通じて、あらゆる場所で、あらゆる状況で、「純粋である」などということがありうるのだろうか。

ある者を評する心というのは、あるがままをそのまま受け入れるというのとは異なる、ある種の「ゆがみ」「不純」「無知」を自分の中に育むことを意味する。まっすぐ見ていないと他人を評する彼自身が、自分の中の曲がった部分を見ることができない。ある嘘を以てひとを嘘つきと断定して済ませられるその心は、自分の中の嘘に気付くことをみずからに許さない。

そいつの目が腐っていると感じる自分の目は、それを腐っていると捉える自分自身の淀みに気づかない。あるいは腐敗を単に嫌うだけの潔癖性の現れだとは気がつかない。潔癖性とはそもそも自らの腐敗に対する恐れにほかならない。真の潔癖は腐敗さえ恐れない心だ。

ことによると彼は非常に腐っている自分を嫌悪している。嘘に敏感で、ある嘘を決定的な人の性質であると断定する人は、自分の中の嘘に気づいていて自他をだましているか、自分の中の嘘にも気がつかない鈍感者である。

そしてそうした一刀両断の芸術家まがいの断定的言辞を弄するものは、決して物事を個別に語ろうとしない。具体的に語ることを恐れる。根拠なき断定で人を驚かせ、その断定を基に自分や人を判断する。その害毒たるや「人を頷かせるに十分な権威」として発動するために広まりこそすれ、自ら沈静化することは滅多にない。

嘘があり、腐敗があり、曲がったものがある。あらゆる人に両面が潜んでいる。

可逆性を許さない断定、引き返せない判定、そして回復不可能な関係の破壊。裁きは自分にこそ最も強烈に下されるものでありながら、それにはなかなか気づかれることがない。

腐敗から芳香や味わいは生まれる。

あるいは、腐敗そのものが、味わいであることがある。

まがった幹から自然の力強さを感じ取ることができる。

ねじれた体に力が宿る。

そして一見した嘘の裏に見定めの付きがたい真実がある。

排除の中ではなくて、共存の中にこそわれわれの生きる道がある。

いったいわれわれの誰が、悪なくして善を語り得るのか。

いったいわれわれの誰が、死なくして生を語り得るのか。

いったい、悪なくして、どうして善悪を超えられようか?

いったい、死なくして、どうして生死を超えられようか?

そして、いかに私は、言葉に左右され、付和雷同し、容易に賛同したものだろうか。いよいよ自分の言葉をしゃべるために、簡単にまとめられた、一刀両断の分かりやすい、あらゆる断定に対して、その断定を行うものの中にこそ、「不純」や「曲がったもの」を見て取らなければならない。

それは、自分の近しくしている友人や、師と仰ぐような尊敬すべき人の心の中にも滑り込む。そして、そうした時折彼らの中でおこる曲がった心を通じて、自分自身の中にも曲がった考えが伝わってくる。だがそれは、自分の言葉なのか? 自分が真に自覚した言葉か?

友人を取り巻かせ、賛意を呼び起こすその言葉は、その返す刃で人を傷つける。そして、何よりも「人と人とを分つ」...

そんなことを久しぶりに考えさせてくれたのだ。言葉でなく、音楽が。

(中川龍也と黒井絹の善悪すべて併せ呑み込むような二重奏を聴きながら。)

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