Archive for August, 2007

Also Sprach Tatsurustra!

Thursday, August 30th, 2007

7/30の拙論『「与党」の地滑り的な大勝利』で、皮肉たっぷりに言及したようなことをあの内田樹氏が先日のblogで言っている(田中角栄 is coming back!)。

いま「二大政党」とよばれているものも実体は自民党のかつての「二大派閥」に他ならないということである。だから、「政権交代可能な二大政党」とは、政策選択の幅が拡がったということではなく、自民党の二大派閥のどちらかを選ぶ以外に有権者に選択肢がなくなったということなのである。善し悪しは別にして、それは日本の政治的選択肢がそれだけ狭く、かつ先鋭化してきたというふうにも解釈できる。

ただし、樹氏の主旨のひとつが、自民党の党内が“福田赳夫、田中角栄の1972年の「角福戦争」”に象徴されるような、「アメリカ追随派」と「アジア重視」という対立軸の存在というところから解き明かしている点が重要である。

後に若干言及するように、「アメリカ追随派」の反対派が「アジア重視」である、という図式はちょっと単純化されているきらいがあると思う。だが、この模式化はある程度的を得ているのだろう。

一方、非常に気になるのは、田中角栄を始めとする「反・対米追随」型の政治家のほとんどが、スキャンダルその他によって狙い撃ちにされ、政治生命(あるいは生命)を絶たれていることだ。内田氏の指摘するような対立軸の存在が疑いなく真ならば、米国の工作によってか、この旧田中派の経世会人脈である「反・対米追随」型の政治家は、ほとんどすべて体よく葬り去られてきたことになる。

田中角栄はロッキードスキャンダルで徹底的に叩かれ刑事被告人として死んだ。竹下登は“竹下バンク”と呼ばれた長銀(日本長期信用銀行)を失い、外資“禿鷹組”リップルウッド・ホールディングス*を通してアメリカに譲渡(献上)された(献上額は1600億円相当と言われる。お金の切れ目は政治生命の切れ目である)(現在は新生銀行という名の“青組”外資銀行になっている)。小渕恵三は現職総理大臣でありながら「過労による」突然死。橋本龍太郎は「日本歯科医師連盟(日歯連)からの1億円献金疑惑」によって晩年は実質的に政治生命を失っていた(2006年7月死去)。また、“「日本人の血であがなった憲法9条の精神を捨ててはならない」と述べ、海外での武力行使に慎重姿勢を見せるなどハト派としての一面もあり、生前、靖国神社に代わる新たな参拝施設の建設の必要性を真っ先に主張した”梶山静六は、2000年1月の交通事故後、体調を崩し同年6月に死去。(データはそれぞれの人名のWikipediaから)

* リップルウッド・ホールディング

アメリカ以外の国に接近して多元化外交を行なおうとした政治家で、スキャンダルなどによって足をすくわれていない人はいないのではないか、というくらいの絢爛たる醜聞と疑惑のリストである。最近の例としては、一度は誰からも嫌われたらしい鈴木宗男がいる。“野中広務元官房長官を師と仰ぎ、「野中・鈴木ライン」で政界を叩き上げた”という彼も、ロシアとの独自外交チャンネルを開こうとしているうちに、ムネオハウス(日本人とロシア人の友好の家)の建設をめぐる疑惑によって逮捕される。彼も内田樹氏的に言えば、「アジア重視」の一例ということになるのだろう。

ほとんど明らかなように、日本は合州国政府が面白く思わない独自の外交路線を敷こうとすると、ほぼすべて邪魔されてきた。そしてその真相を知らない日本人からは政治家の単なる腐敗・堕落という一面的な絵としてしか映らない。ま、実際問題、政治家である以上、その職業柄、腐敗もあるだろうし、そうでなくても足を掬われるような弱点を持っていたり、ハメられるような不用心の側面があるのだろうから、それも総合的に政治力の一側面である以上、弁解のしようがないのだが。

さて、この「アメリカ追随派」の反対派を「アジア重視」とする表現は正鵠を得ているのだろうか。

樹氏は、

世界戦略的に言えば、「対米追随」か「アジア重視」かという二者択一であり、内政的に言えば、「市場原理の導入」(民営化、市場開放)か「親方日の丸・護送船団方式の再導入」(大きな政府、市場参入の制限)かという二者択一…

ということなのだが、アジア重視というよりは、「非米・多元化外交」路線と言うべきであろう。アメリカを除く世界がアジアであるということにはならないからだ。また鈴木宗男が開こうとしたロシア外交チャンネルを「アジア重視」という表現は似つかわしくない。

「非米、イコールアジア」という図式を当たり前の前提としてしまうと、日本国内に根強く残っている嫌中国/嫌半島派の人々の警戒と反感を避けることは難しい。非米だからって別に親中国でなければならないわけではない。必要なことは、問題をそれぞれ別の問題圏において論議することである。大陸の国家について一方的に親しみを覚えても反感を覚えても、そのどちらもわれわれの将来に益するところはないのである。

(日本における二大政党制など、単なる自民党の中の二大派閥の別名に過ぎない、というようなことは言わなかったが、以前、拙ブログにおいて「日本の政治を分かりやすくする」というこれまた皮肉たっぷりなエッセイにおいて、日本の政治は結局親米か反米かしかないだろうという主旨の文章を書いたことがあったのを見つけた。)

《実在する神》への付言(試訳)

Thursday, August 16th, 2007

星雲

「ヘルメス・クァトロスメギストゥス(四倍に偉大なヘルメス)」との威名を持つ予言者によると言われる、古メリシア語で書かれた、ある神学論的断章の刻まれた金属プレート──おそらく備忘録と想像される──が、人類による文明活動が認められる最も古い地層よりさらに古い地層からほぼ無傷で発見された。このような地層から金属プレートが見つかること自体が歴史概観そのものを見直さなければならないほどの異常なスキャンダルであったが、それにも加え見つかった文書の内容が読み解かれたことが更なる衝撃であった。そしてその内容自体が一考に値するものであることはいくら強調してもし過ぎることはあるまい。これは今や周囲にひどい塩害をもたらしつつある悪名高き塩湖たる紅海のほとりから偶然見つかった「ザラスシュトラの約束」を含む前世紀の考古学上の大発見、いわゆる「紅海文書」の重要さを越えるのではないかと言われるほどの意味を持った発見である。それはわれわれが忘れつつある《神の実在》についての、これ以上にない明解な回答を含むのもであったので、ここに採録する。(G.B.C.)

(引用開始)

神はいるのか、という問いに対して、私はためらいなく「いる」と答えるだろう。

だが、全知全能をその定義とする神ならば、「実在する神はそのようなものではないだろう」と言う以外にない。《実在の神》はそのような種類の神であろう。だから、《実在の神》は、人類の多くが信じようとしている類の神よりも、はるかに無慈悲である。いや、慈悲の対象であることさえも忘れ去っているのが、《実在の神》なのである。それでは「神は不在である」とか「神は死んだ」と宣言するのと変わらないではないかと誰かは言うかもしれない。その言葉は、かつての世界において、「失われた神への信仰」の最終局面でニケ(ナイキ?)*によって声高に宣言された言葉だが、神は不在でもなければ死んでもいない。宇宙史的な時間の中で、億千万年の昔に死んだことはあるかもしれないが、われわれの神は実在する。なによりもわれわれが生きていることがその証しである。(略)

[訳注* 正確な発音は不明。一般に神話上の「有翼の女神」ともいわれるが、太古の時代に実在したある神学者で、男性であったという説もある。]

問題は、神の性質ということに尽きよう。

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Venus on Venus 《目次》

Monday, August 13th, 2007

副題:

ウェヌスの黙示録

──秘儀的オブジェとしての貝殻(貝)とそれにまつわる範型的伝統について

主に貝殻とともに描かれてきた「愛と美の女神」ヴィーナス(ウェヌス)を通して伝えられてきた仮説的秘教論

目次:

#1. 【予告編】“ヴィーナスの丘”への付言(仮題)

#2. “ヴィーナスの丘”と褥の皺と [1]

西の果ての「聖ヤコブの貝殻」/東の果ての「旭日旗」と「シェル石油」の発端

#3. “ヴィーナスの丘”と褥の皺と [2]

地中海周辺のマリア信仰への一瞥/マグダラの名を持つ貝殻紋様の菓子

#4. 名前と秘教についての関連文書「秘儀(密教)は顕教によって伝えられる」

#5. “ヴィーナスの丘”と褥の皺と [3]

ヴィーナス絵画に伴われる貝殻/性器を連想させる装飾としての貝殻

#6. “ヴィーナスの丘”と褥の皺と [4]

ウェヌスあるいは「性愛と美の女神」の名前への一瞥/そして探査機マゼランが金星(ヴィーナス)から送り届けたもの

#7. “ヴィーナスの丘”と褥の皺と [5]

双子の惑星としての地球と金星/地球人が古代より金星を鏡として写して見せたもの

秘儀(密教)は顕教によって伝えられる

Monday, August 6th, 2007

言葉や名前の由来というものは、時に教科書的な教養として広く受け入れられた類の理由付け、そして歴史的裏付けを伴う「正統的な」理由付けによって、「顕教」的に因果関係が説明され、納得が得られる側面と、そうした史的事実の如何に関わらず、結果的にある名称によって定着せられ、その由来についての知識(事実の伝承)が途切れてもなおそれが継続することによって醸し出される「二次的な暗示」という、言わば「密教」的な側面の、二面性を持つことが多い。

例えば、われわれの属するこのエイオンにおけるキリスト(救世主)の名前が“Jesus”であるという経緯は、「彼の生きた時代と場所において、きわめてありふれた名前であって、なんら珍しいものではなく、その名前が“Jesus”となったのは単に偶然に過ぎない」とするような、史的事実のみを勘案して説明できる面があるだろう。これは言わばもっとも広く受け入れられるだろう理由付け(歴史的裏付け)による「正統的」かつ「顕教」的な説明の方に当たる。かつて筆者が拙論「Jの陰謀」のシリーズを通して説明を試みたように、あるアルファベット記号についての「秘教的な意味合いの暗示」という観点からすれば、救世主の名前が「Jから始まる特定の記号でなければならなかった必然的な理由がある」あるいは「特定の意味合いを含むものでなければならなかったためにその形象(かたち)Jに変容した」ということになろう。これは名称の意味の「密教」的、「秘教」的な側面である。

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