Archive for the ‘Coincidentia oppositorum’ Category

《福》は、逆さまになって落ちる

Monday, April 11th, 2011

1. 長崎逆さ福2.中国の逆さ福

《福》の字の逆さまにしたものが中華料理屋などで壁飾りなどにしているのを見かけるのは、“縁起担ぎで【福倒了】「福が逆さまになった」と発音が同じ【福到了】「福が来た」を掛けている” のであり、いわゆる「縁起物」として中国では広く使われているものらしい。だが、こうした言葉遊び(駄洒落)以外に、幸運や運をもたらすものが「天からおとずれて欲しい」という祈念が、「空から降ってくるイメージ」で表現されていると考えることもできよう。度し難く漢字文化である中国においては、この「幸運のイメージ」を、例えば、宝珠、パイナップル、壷といった他の象徴的な代替物に置き換えることなく、そのまま漢字を用いていると考えることができる。

死や滅びが肯定的な価値を持って認識されることがあるように、ある種の《幸運》は極めて畏るべきものを意味し得る側面を持つ。これまでも繰り返し《反対物の一致: coincidentia oppositorum》というテーマで象徴を解釈してきたように(『いかにして「忌避すべきこと」が「歓迎すべきこと」に転ずるか』)、この《福》という記号も、われわれがハンドルできないある種の「トラブル」を暗示しているものとして登場しているような気がしてならない。

事故で動けなくなっている高速増殖炉<もんじゅ>他、13基の原発を抱える福井県*にしても、今事故が進行しつつある福島県にしても、そしてビキニ環礁における水爆実験で被爆した第五福竜丸にしても、そこに共通して見出されるのは、名称の中の《福》である。

* 福井県は、まさに関西地域にエネルギーを供給するための《福の井(井戸)》なのである。福井県の「福井」は、「幸福と繁栄の井戸水の神(井水の神)」たる福井神(さくゐのかみ)から来ているという。

人類にとっての最大の脅威として登場した核エネルギーは、それに対してアレルギー症状を起こさせずに「同盟国(敗戦国)」に受け容れさせるために、冷戦時代に「平和的利用」という名目で再び処方された。他ならぬ日本国内の宗主国協力者たちの暗躍によって、平和利用ならば良かろう、さらば「毒を持って毒を制せよ」ということで、日本をはじめとする幾つかの同盟国が、アメリカの開発した原子力技術を発電目的で利用をし始める。未来の世代を支える夢のエネルギーという《福音》(救いの教え)として、この脅威の「荒ぶる神」は、甘い天使の顔を身に付けたのである。

第五福竜丸 第五福竜丸
東西冷戦の最中におきた第五福竜丸事件。英語では”Lucky Dragon incident”。原爆の成功とつながりが噂され都市伝説となったタバコ銘柄《Lucky Strike》にも見出される”Lucky”の文字。(実際は、このタバコは1871年にデビューしており、時系列的に考えれば原爆投下とは無関係だという考えが一般的だが、それとの関連を指摘する噂は後を絶たない。)

もちろん、その羊のような顔の仮面の裏に、依然として「荒ぶる神」(悪魔の正体)を見抜いている者たちはいた。つまり反核運動家や反原発運動家らが、さまざまなかたちで抵抗したのだが、経済効率/生産性などの「絶対善」の前では、そしてその与えるだろう利益の前では、その禁断の「木の実」*の味に屈せざるを得なかった。とりわけ「国内に天然資源を持たない日本」にとって、このエネルギー・ソリューションは、「(危険と)分かっちゃいるけどやめられない」ものとなりつつあった。民間委託で行われた原子力発電だが、それは明らかな国策あっての展開なのであった。

* 最初の核開発技術の名前にマンハッタン計画という名前が付けられたのは、まさに象徴的なことであった。マンハッタン(New York, NY)の愛称は《Big Apple》なのであり、巨大な林檎は、まさに日本に「食わせる」ための禁断の果実だったからだ。

人間が自然から獲得したものの中で、このようなトラブルと福音の窮極的な二面性を備え持った存在として、核技術以上のものがあるだろうか? この技術こそ人類の歴史と歴史を超えた時間の枠組みの中で、聖なる時間と空間を創成、支配したものであり、錬金術の究極の目的を具現化するものであった。

あらゆる人知の結晶としての核技術が、周回する超歴史的世界のありようを実現たらしめる最終的な引き金なのだ。それは閉じようとする円相の、まさに閉じられる寸前の箇所に据え置かれるひとつの、美しくも、これ以上にないほどにグロテスクな装置(Deus ex machina / Machina ex Deo)なのである。あるいは、「天の恵み」の徴の顔をして、われわれ目がけて降ってくる《逆さ福》なのである。

最後にもう一度、畏るべき《福》に関連した言及で終わろう。東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)が発生する3日前の記事である。(「東日本大震災」は東北地方太平洋沖地震によって引き起こされた現在進行中の災禍の名前。)

原子力発電:2020年に設備容量8000万キロワットに
全国人民代表大会代表(全人代)で全人代環境資源保護委員会委員、中国核工業集団公司中国原始エネルギー科学研究院元院長の趙志祥氏は取材に対し、中国のエネルギー構造は依然として石炭、化石エネルギーが中心で、あまり合理的とはいえないとし、こうした状況を変えるため、原子力、風力、太陽光、地熱などの新エネルギーの発展に力を入れなければならないと述べた。国際在線が7日伝えた。

温家宝総理が発表した「政府活動報告」では、非化石エネルギーの比重を第12次5カ年計画(2011-2015年、十二五)期間中に1.4%、2020年までにさらに15%まで高めることが打ち出された。原子力エネルギーは今後新エネルギーとして発展を加速し、大規模に普及していく必要がある。現在の状況をみると、中国で運転中の原子力発電所は現在11基、設備容量は910万キロワット。発展改革委員会が認可した11の原発事業28基のうち、すでに24基が着工。中国は建設中の原発規模が世界一で、名実共に原発大国となった。2020年までに設備容量は世界第2の8000万キロワットに達する見通し。

中国においては、《福》の字を名に持つ福建省が中国のすべての省と自治区の中で最大の数の原発建設予定地とされている。寧徳で建設中のものを含め、計画中のすべてが完成すると、福建省1省だけで6つの原発が立地することになる。これはゆくゆくは5つの原発を持つことになる広東省を差し置いて、中国国内第一位だ。まさに《福》を建設中の福建省なのである。対岸に当たる台湾にとっては、福建省の核の炎は「対岸の火事」では済まない「今そこにある危機」と映っているかもしれない。


(参考)
祭神の五柱を総称して、坐摩巫祭神(いかすりのみかんなぎのまつるかみ)と称している。
* 生井神(いくゐのかみ)…井水の神(生命力のある井戸水の神)
* 福井神(さくゐのかみ)…井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
* 綱長井神(つながゐのかみ)…井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神)
* 波比祇神(はひきのかみ)…竃神(屋敷神。庭の神)
* 阿須波神(はすはのかみ)…竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)


画像:1. 提灯と福:ナガサキの提灯祭りにおける《逆さ福》。原爆が落とされた街に伝わる祭りとして、逆さ福を飾る提灯祭りがあるというのは、仮にそこに長崎と中国の長い関係などの影響を認めるにしても、偶然としては出来過ぎのきらいがある。 2. 逆さ福如来宝珠

オルフ《カルミナ・ブラーナ》に見られる音楽の達成した秘教的結実

Tuesday, December 14th, 2010

1. Wheel of Fortune (from Wiki) 2. Schot score cover 3. Kingwood Carmina Burana poster

伝統的秘教の伝えて来たところの韜晦なるメッセージの具象化は、われわれの住む世界の各所で生じる歴史的な具体的事態の積み上げと現代の危機的状況を通して、時代の経過とともに《その意味が明瞭になる》という、現代にとりわけ観察されるようになった無視し難い傾向によって説明できる。それにしても、作曲作品に半ば「秘教的」とも言うべきメッセージを込めるというのは、何も近代に入ってから作曲家が得た特権ではない。多かれ少なかれ、バッハもしくはそれ以前の時代から作曲家が採用してきた方法であり、また時としてそれが「作曲」を隠れ蓑にした目的そのものなのではないか、と言いたくなるのほどの重要性を持っているかに見えることがある。

そんな中で、カール・オルフ (Carl Orff) が《Carmina Burana: カルミナ・ブラーナ》という主要作品を通して行ったことは、それをもはや「秘教」的と言い難いほどの明瞭さで、あからさまに行った音楽的手法による広い世界への秘儀伝授的な作品を世に問うことにあったと言えよう。

その秘儀の核は、オルフが幸運にも出会うことになった、中世の時代から伝えられたとされるいわば「ヨーロピアン・スタンダード」とでも呼びたくなるような歌詞群(1803年にボイレン修道院で発見された)が十二分に表現しているが、オルフは秘儀の扱ってきた普遍的題材の持つ《物理的特性》を、その作品の構造として堂々と採り込んでいる。その骨子となるものは、歴史の周回性 (cyclical nature) をあらわす作品自体の円環構造と、歴史の三層構造を反映した「3度(いやというほど)繰り返される反復構造」、そして世界の三層構造を反映した「三部構成」である。

■ 「世俗歌」の体裁に込められた「反対物の一致」

「隠しながら伝える」(conveying truths through occultation) というのが、秘儀の伝統的作法であったとするならば、オルフの《カルミナ・ブラーナ》は、そのタイトルの示す通り、「世俗の、バイエルンの、バヴァリアの、歌」であると同時に、「世俗への秘密の教示(教化)」を目的とするという意味で、「世俗向け教材」としての意味を持つものかもしれない。だが、現にあるようなあからさまなまでの表現がなされたとしても、それは限られた人間の関心しか掴むことはなく、結局「隠しながら伝える」という結果を招来させるに違いなく、そのオカルト的な「隠しながら伝える」作法は依然として有効性を保つと言えるだろう。

一体どれだけの人間が、《カルミナ・ブラーナ》をそうした秘儀伝授というコンテクストで論じようとしただろうか? 音楽自体が持つ魅力だけで鑑賞することが可能なこの非凡な作品は、その美しいまでに単純な構造と、簡単に覚えられるメロディー、血湧き肉踊る「野蛮」とも言えるようなリズム、そして圧倒的な交響楽的音場だけでも人を虜にするに十分なのである。だがその音楽的な完成度ゆえに、その深い意味を咀嚼することから、かえって大多数の聴取者を遠ざけているかもしれない。

この「世俗歌」の持つ重要な特性とは、まさにこの逆説的な性質によっても説明できるかもしれない。つまり、かのエリアーデの繰り返し言及した「反対物の一致: Coincidentia oppositorum」こそ、この音楽作品が体現しているものだという意味で。この秘教の伝えるところの歴史的周回性の事実は、まさに《智》の聖なる領野に属するものだが、聖なる出来事は、まさにこの世俗歌で描かれているような俗的・此岸的な人間の生き様が契機となってもたらされるものであり、この人間の俗的運動 (profane/secular/vulgar dynamism) 無しには、この聖性はこの世に実現し得ないのである。聖的な制度(宗教)は、歴史のある時点において、その人間的なダイナミズムを抑制し、歴史的悲劇の反復を遠ざける役割を果たすが、その制度が、果たせるかな人間の俗的なダイナミズムをむしろ最大化し、最終的に最も劇的なやり方で権威的制度としての宗教を転覆させる逆説的な効果を発揮させる。つまり、歴史的に見れば、宗教的抑圧は世俗的人間の爆発的伸張の時限装置として働かざるを得ないのである。

愛と性がまさに聖性と俗性の両面機能を果たしてきたことと、この歴史的円環の完成は不可分なのである。

■ 《Fortuna Imperatrix Mundi: 世界の支配者 フォルトゥナ》の機能

The Wheel Of FortuneThe Wheel Of Fortune - Choir version

《カルミナ・ブラーナ》の第1曲と最終曲である<< FORTUNA IMPERATRIX MUNDI >>は、まったく同じ歌詞、同じメロディーの繰り返しであるが、これは単に同じ音楽的テーマを形式的に繰り返す音楽技法上の「cyclical form」(循環形式)のことではなく、まさにオメガ祖型 (The Omega Archetype) の視覚的形状が表す如く、底辺で切れた円相の左下から時計回りに円を描き始め(ということは頂上に登り始め)、頂上を極めたら円を右下の底辺に向かって墜ちていく、その人間の歴史的運動を描くために採られた、これ以外にないという完璧なる形式である。まさに写本の表紙に使われている<< The Wheel of Fortune (運命の女神の紡ぎ車) >>が、円環する人類史の運動を描いている*のと同等の内容である。

ここで、この楽曲のエッセンスの詰まった第1曲と最終局の印象深い歌詞を掲載する。

(原語:ラテン語)
O Fortuna
O Fortuna
velut luna
statu variabilis,
semper crescis
aut decrescis;
vita detestabilis
nunc obdurat
et tunc curat
ludo mentis aciem,
egestatem,
potestatem
dissolvit ut glaciem.

Sors immanis
et inanis,
rota tu volubilis,
status malus,
vana salus
semper dissolubilis,
obumbrata
et velata
michi quoque niteris;

nunc per ludum
dorsum nudum
fero tui sceleris.
Sors salutis
et virtutis
michi nunc contraria,
est affectus
et defectus
semper in angaria.

Hac in hora
sine mora
corde pulsum tangite;
quod per sortem
sternit fortem,
mecum omnes plangite!

(英訳)
O Fortune

O Fortune,
like the moon
you are changeable,
ever waxing
and waning;

hateful life
first oppresses
and then soothes
as fancy takes it;
poverty
and power
it melts them like ice.

Fate – monstrous
and empty,
you whirling wheel,
you are malevolent,
well-being is vain
and always fades to nothing,
shadowed
and veiled
you plague me too;

now through the game
I bring my bare back
to your villainy.
Fate is against me
in health
and virtue,
driven on
and weighted down,
always enslaved.

So at this hour
without delay
pluck the vibrating strings;
since Fate
strikes down the strong man,
everyone weep with me!

(Classical Netより)

(翻訳:日本語)
おお、運命の女神よ

運命の女神よ
貴女は月の如く
常に定まらない
満ちたり
欠けたり。

おぞましき人生も同様
虐げると思えば
なだめる
気の向くままに。
貧窮も
権力も
氷のように溶解す。

運命よ
奇怪で、空虚な運命よ
おまえは車輪の如く回わり往く
邪悪なものよ
幸せは儚く
無へと衰え
闇で覆われ
疫病で悩ます。

このゲームの只中で
おまえの悪事に手を貸すように
裸の背中を差し出す。
運命はつねに我を責め苛む。
健康と
徳を授けるなら、
その重みで
我が身を奴隷にする。

さあ、今、この時
ためらうことなく
鳴らされる弦を引こう。
さあ、運を掴んだ強者も
運命が投げ落とさん!
我と共に、運命を嘆き悲しまん!
(Wikipedia, Classical Netなどを参考にした拙訳)

第1曲と最終曲は、第2曲 << Fortune plango vulnera 運命に傷つけられ >> と共にその底辺の世界(秘教的な表現では「夜」ないし「冬」の時代)を描く厳しい内容であり、そのメロディーや歌詞がそれにふさわしいものになっているが、まさにこの円環の最底辺において、ひとつの終わりが次の始まりとして繋がろうとする部分なのである。《カルミナ・ブラーナ》はまさにこの構造を採用し、永遠に回帰する人類の歴史の範型を表す「Ω祖型」を、交響的作品によって具現化したものと言えるであろう。

季節という象徴的円環の中で冬に続くのは自明なまでに「迎春」である。ピッコロ、フルート、オーボエによって3回繰り返されるコールによって春の訪れが宣言される。このように、第3曲 << Veris leta facies 春の喜ばしい風貌が >>は、冬の時代の終焉により訪れる春の世俗を描く。第4曲の << Omnia sol temperat 太陽は万物を調合し >> にては只中の春爛漫を描きつつ、マザーネイチャーたる大自然の行う錬金術的な作業 (Opus) を暗示する。このように音楽は進行し、この世の春と夏を経験し、その頂点を極めて栄光を浴すると、再び冬の時代への回帰していくのである。

* * ボイレン修道院の図書室から発見された、ラテン語、中高ドイツ語、古フランス語などで書かれた約300編の古い歌を収めたオリジナルの《Codex Buranus / Carmina Burana》の表紙を見ると、そこには紛れもないタローカードの<< The Wheel Of Fortune >> (運命の女神の紡ぎ車) として伝承されている図版と同じものが描かれているのを知るだろう。オルフの《カルミナ・ブラーナ》の今日売られている合唱用/ソリスト用の総譜を見ても、表紙には同じモチーフが使われているのである。

■ 曲数の隠し持った秘教的数性
《カルミナ・ブラーナ》の曲数「25」は、われわれに2つの意味解釈を可能とする。そのひとつは、そのオルフによる作曲年代である「20世紀」という時代を顕す数性“5”である。「25」という数字の中に込められている濃厚な“5”の数性は、それを二乗(5 x 5)することによって得られることから諒解される。「5 x 5」のシンボルは、まさに世界が二分され、それぞれが五芒星を額に掲げながら闘われた第二次世界大戦の前夜の時代に相応しいものである。

そして二つ目は、最後に繰り返される<< FORTUNA IMPERATRIX MUNDI >>を1曲と数えた場合の曲数である (25 – 1 = ) 24は、「8 + 8 + 8」という数性“8”の3度繰り返される「ぞろ目」をその中心的特性として隠し持ったものなのである。この数性“8”を内部に濃厚に保っている「24」というシンボルこそ、紡ぎ車を回し続ける「運命の女神」の永遠性と円環性を表現するにこれ以上にないほどに相応しい記号である。(参照:“伝統”数秘学批判──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像)

オルフは、その曲数である数字「25/24」の中にこうした2重の意味を込めたのである。

■ 曲構成に見る秘教的《三重の入れ子構造》

われわれの世界は、「物事は3度繰り返す」というジンクス主義に呪縛の中にいる。それがあまりに自明のため、「それ」が2度でも4度でもなく3度であるのかということについて、改めて顧みることがないのだ。「3」という数字に神聖性を見出す理由には、幾つかの説明が可能であるが、それには単なる形式としての三部構成(三部作、三大○○というような例を挙げるまでもなく)ということ以外に、その数性を通して、われわれの生きる《エイオン》についての暗示が込められている。そのことについてここで詳述はしないが、新約の「ヨハネによる福音書」の中で出てくる三度繰り返されるキリストの行動や諸現象の記述が、単なる無意味な反復ではありえないことが明らかなように、われわれの住む世界における「現象世界の世界的現象」についての、ある類型への暗示があるのである(これを新約に則って「ペテロ・シンドローム」、「ペテロのジンクス」と呼んでも良い)。

オルフ《カルミナ・ブラーナ》が、第1曲/第2曲と終局に挟まれる形で「I. Primo vere: 初春に」「II. In Taberna: 酒場で」「III. Cour d’amours: 愛の誘い」という3つの構成部分を通して世俗の3つの局面を描いているのと同時に、ひとつの普遍的題材の特性を呈示する。

また、それぞれの歌がほとんどのケースにおいて三番までの歌詞を持ち、同じメロディーが「変奏されることなく3度繰り返される」ということにも、同じ意図を見出すことが可能である。つまり、《カルミナ・ブラーナ》という作品自体が、大きな三層構造を持つと同時に、その構成要素であるそれぞれの歌が、ミクロコスモス的に三層構造を内包している。更に、この《カルミナ・ブラーナ》が、オルフの代表的三作品 • Carmina Burana (1937) • Catulli Carmina (1943) • Trionfo di Afrodite (1953) を含む “Trionfi (Triumphs)” と呼ばれる三部作のうちのひとつになっているのである。つまり、より大きな宇宙(マクロコスモス)の中におけるひとつの世界として存在する、「三重の入れ子構造」になっているのである。

音楽自体が、シンプルで力強くその構造を主張するのに似て、この単純で分かりやすい構造に関しても実に徹底されている。その理由はたったひとつのことを後世に伝えるためであるというのが、言わずもがなであるが筆者の考えである。


画像:1. Carmina Burana オリジナルスクリプトのイルミネーションに見られるWheel of Fortune (Wikipedia) 2. Schott版『カルミナ・ブラーナ』のスコア表紙 3. Kingwood Musical Arts Societyのコンサートポスター

神の名に見られる反対物の一致

Thursday, March 4th, 2010

「神」というよりは《神性》とでも呼びたくなるような、語源に現れるユーラシアの「deus」の家族たちの善悪併せ呑む二元性。これまで見てきた「反対物の一致」とはまさに神々を記述するためにこそあるのではないかと思われるほどに、引き裂かれた二元論とそれらの和合(一致)が特徴なのがこの「deus」なのである。

筆者は言語学が専門ではないので、自分がここで深入りするべきことではないのであるが、一旦これまで記述してきた「反対物の一致」の小論の最後を飾るのに《神》の西洋語源をざっと鳥瞰することを差し置いてないのではないかと思われるのである。

deusとギリシアのZeusとの関連はよく指摘されることであるが、deusと同根の単語は、英語の世界だけでも相当の裾野の広がりを持っている。

divine, divinity
devil, devilish
demon

こうして観てみると、神と魔的な存在が同じ根を持った言葉に分かれていることがわかる。その他の派生語をメモとして残しておく。

diva, deva

deity

theo: theology, theosophy,
thei:
theism
atheism
monotheism
polytheism
autotheism

反対物の一致 #4:死を伴わない発展はないことについて

Monday, February 22nd, 2010

(あるいは)

何故われわれが(非)宗教的終末論の必要を主張するのかについて

Pieta

発展は一種の変化であり、方向的にはとりわけ未完から完成への変化であり、また未成熟から成熟への変化である。また「発展」という言葉には濃厚な肯定的価値判断が含まれている。こうした発展系の変化の別名は、しばしばわれわれの慣習として肯定的に《成長》とも呼ばれる。そして、こうした種類の《変化》は、その目的であるように見えるところの、完成や成熟でその状況遷移が終了するのではなく、完成は崩壊(もしくは解体)へ、成熟は枯死へと向かう種類の変化であることを見逃すことはできない。つまり、発展や成長には永久の発展も永遠の成長もあるわけでなく、その発展系の事物の誕生には、死による終焉が待っているのである。

成長はまた、ある一定以上に進化した生命個体の特質でもある。それは一定の条件が揃えば避けられない方向性である。また、あらゆる生存環境上の変化が生起する以上、それへの適応を行なわなければ生命は死滅するので、適応という変化を行なわなければならない。それが個体レベルではなく、種というグループ単位において行なわれ、変化の内容をその種の特性として遺伝子に固定化させ子孫に相続させる時、それは「進化」と呼ばれるようである。

いずれにせよ、個体のレベルにおいても集団のレベルにおいても生きているものは変化する。そしてその変化は、個体レベルでは成長であり、集団のレベルにおいては進化として理解されている。(そしてそのいずれもが通俗的世界観においては完全に肯定的観念として受け入れられている。)こうした変化が個体や種のよりよい生(あるいは「完成」)のために採られるものであると解釈し、それを「発展」という名で呼んできたのはあながち理解できないことではない。未熟よりは成熟、未完よりは完成が、人生の局面では肯定されてきたからである。

しかし、変化するということはわれわれその生を生きる者にとって、完成や成熟の後に待っている老衰や腐敗、そして最終的には死が一セットである以上、苦痛なのであるということは、すでに言を俟たない。それは生を苦と捉える仏教思想にも通じるものですでにそれは十分に検討されてきたことだ。

だが、これが自分自身に引きつけて考えることのできるひとつの個体の死という次元では諒解容易な観念も、人類史をひとつの大樹のような系、すなわち《文明》として捉えた場合、歴史の誕生に、歴史の死という終末がセットとなっていることは、なかなか受け入れ難いものがあるかもしれない。われわれを生かしているこの体系(システム)自体の死は、その体系によって生かされているわれわれはなかなか客観的に捉えることができない。始まりがあって終わりがあるのは、人間の組織であればすべて例外なく真なのであるが、自分という個体の死を理解できても、この文明がすっかり終わってしまうということは想像が難しいのである。

しかし少し考えてみれば分かることだが、有史以来の歴史を鳥瞰しても明らかなことであるが、どんな文明も国家もすべて興って栄華を窮めたものは滅びているのである。ローマ帝国が全盛であったとき、あるいはペルシア帝国が隆盛を楽しんでいた頃、誰がそれらの来るべき崩壊を実感できたのか? それは一部の歴史家や哲学者のみであった。人の一生と同じく、文明や歴史には始まりがあり、そして終わりがある。生まれでたものは死に往かねばならないのである。それは経済成長という名の「発展」についても同様である。成長する以上、成熟期があり、それを越えれば爛熟しそれは腐敗への道を落ちて行くのである。したがって、経済や文明に人格があり意志があったとすれば、「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(ヨハネ黙示録 22章13節)という言葉は、あたかも彼らが発する言葉のように聞こえてくる。

中国で伝えられてきた不老長寿の妙薬などというものは、個体の寿命の延長策として通俗化されて知られているが、そもそもは生命の木としての人類の世界を如何にして永続化させるかという哲学が発祥であったと考えることもできる。[これについてはまた別の機会に]

そうしたとき、発展や成長を今日のように善なるものとして(肯定的にのみ)捉えるのでなく、敢えて悪として、(否定的に)捉える《哲学》が登場できるのである。変化のないものは永遠である(永遠と変化は相互に背反し合う)。そして変化のない永遠が平和である(変化は平和の最大の敵である)。そして永遠のために哲学が登場する(永遠のために変化を否定するものとして哲学が存在する)。すなわち、その哲学は永遠を、いや《永遠の生》を如何にして現世に実現するかを考える学問である。だが、こうした哲学に先立って(変化を否定し)永遠の実現を課題とした人類の運動が存在する。

それがtradition(伝統)であり、またconvention(因習)であり、それらは宗教以前においては単に《掟:commandment》の形で人類の活動に制御(ブレーキ)を与えるものとして機能した筈である。このようにすっかり通俗化(脱聖化)した今日的人類の視点から見れば否定されて久しいこれらのことが、実は「永遠の哲学」の名残であったことを、われわれは遅からず思い出すことになるだろう。それは、繰り返される変化の果てに進化/発展が極を迎え、そのために多くの犠牲を巻き込みながらわれわれの世界がついに崩壊して終わるや否や、世界の辺境で運良く生き延びた《生き残り》によって開始される筈の運動なのである。

ひとつの世界の終わりと同時に開始されるこれらのことの目的は、その終わりをもたらした原因の排除である。それは無遠慮で無慈悲なほどに徹底した排除であろう。だが、それは広く歓迎されその価値が疑われることはなかったし、それほどの徹底さが必要なほどに、起きた破壊と悲劇の規模は大きかったのである。つまり、そのような終わりを招来させないために、「崩壊することの分かっている塔を建設しない」こと、すなわち「文明を始めない」ことが、悲劇回避に関して最大の効果を期待できる予防策だったのだ(そして予防策となるだろう)。そしてその運動の形骸化されたものが、われわれの知っている「宗教」という名前で知られる、人間による人間のための組織的な集団行為なのである。

その文脈で読み始めて、初めて宗教や神話の扱っている「事の起こり」の意味が明らかになる筈である。

画像:El Greco, Pietà, 1571-1576

死んだ「人の子」を抱えて嘆き悲しむ聖母:これは文明と歴史とを失って慟哭するわれわれの未来の、(そしてかつての、遠い父祖たちの)姿である。

画像引用先

反対物の一致 #1:原初的な前提

Wednesday, February 17th, 2010

夜があるから昼がある。そしてその逆も然り。闇があればこそ光もある。あるいは焦熱の日射地獄があればこそ木陰の楽園がある。冬があってこその夏であり、終わりに向かう秋があってこそ、年の始まりである春の喜びがある。こうした差異、あるいは反対物の存在によって、あるモノやコトの価値、ひいてはあらゆる概念自体の認知が可能となる。

善だけの世界もなければ悪だけの世界もない。真実も多くの虚偽があってこそ意味を持つ。これらの言わば認識論的な価値の存在の仕方の中にわれわれの住む世界がある。つまり苦も楽も、それらは互いにその反対物の存在によって存在を許されているのだ。考えてみて見るが良い。一体、全くの不正の無い世界で、どんな正義が意味を持つというのであろう? 一体、まったく自己中心性の無い世界で、どんな自己犠牲が意味を持つというのであろうか? 不正や利己主義の全くない世界において、どんな救世主(キリスト)が意味を持つというのであろうか?

われわれの世界が永遠にして不変であるなら、その存在の《価値》はないのかもしれない。われわれの生や人類の文明が、かくも「かけがえのない」ものとして考えられていること自体も、それらの不在、もしくは終わりが約束されているからこそなのかもしれない。いつでも在るものにわれわれは価値を見出し得ない。われわれは亡くなるものを得ようとし、また既に無いものこそ求めようとする。そしてわれわれがそれを求めたとき、それは善なるものである。であるならば、不在こそ存在の価値の基盤となる点に於いて、これもまた善である、とも言い得るのである。つまり死(=悪)という不在は、生という存在の基盤となる点に於いて、善なのである。

かくて、《反対物の一致》という価値観の大転換が行なわれるのである。

(more…)

反対物の一致 #3:
死を欠かさぬものとする聖化の運動について

Tuesday, February 16th, 2010

広島原爆ドーム

a) 記憶の薄れとともに急速に「聖化」されつつある、大量死の現場としての「聖地・ヒロシマ」

Golgtha

b) 聖人の死を以て、徹底して聖別化(consecrate)されたゴルゴタの丘(と信じられている場所に建てられている正教会)

いかにして「忌避すべきこと」が「歓迎すべきこと」に転ずるか』という拙論の続編として

つい先頃《反対(物)の一致》の説明として「忌避」と「歓迎」という二項対立を取り上げ一文を書いたが、今回は俗なる世界(運動)の極に、聖なる世界の実現があるということについて書く。

脱聖化は、《より大きな聖なる出来事》の実現を可能ならしめる必要条件である。これはあたかも世界(コスモス/秩序)そのものについて、その死と再生(殺害と蘇生)がその健全な存続のために必要と考えられている神話的範型について言われるようなことを、そのまま別の言い方をしたのにも等しい。すなわち、旧弊になった「聖なる仕掛け」は、果たして次なる聖の実現を阻む「箍:タガ」としての働きが損なわれると、その生成の経年変化(老朽化)によって、ついに聖性の実効性を急速に失う。これが来るべき《次の聖》の実現を可能にするのだ。つまり、《聖なるもの》も《聖なるもの》の更新なしにはその効力を維持することはできないのである。

このことを理解するためには《聖》そのものについて一瞥を与えておくことは無益なことではあるまい。そもそも《聖なるもの》、そして《聖なること》は、人の「死」との関連なしには語ることができない。《聖》こそは死、分けても犠牲(供犠)のあるところに発生するというのは、われわれの誰もが直感的に了解することができるであろう。それほど死と聖には大きな連想による意味の連鎖が不自然なく成立するのである。

犠牲と聖との関連がその語源を遡行することによっても説明できることは、今さら断るまでもないだろう。「犠牲」を意味する英語のsacrificeの接頭語の「sacr」は、sacred(聖なる)やsacrament(秘跡/聖蹟/礼典)の「sacr」と同じもので、consecrate(聖別する/(崇高な目的のために何か)を捧げる」のsecraの中にもその痕跡が見出せる。[そして、このconsecrateを境に、secretion, secretee, section(分ける)と語幹を共有するsecret(秘密)にも通じていく。また、secretはcrisis(危機)にも語源的に類縁関係にあることは特筆すべきであろう。]

また、「仙骨」を意味する欧州語のsacrum (sacra, pl)にも同様のsacrの語幹を見出すことができる。この仙骨の「仙」が、仙人や仙薬といった不老不死や神秘的な力を表す言葉であることからも、その語の持つニュアンスを想像することはできるが、sacrumは、sacred bone(聖なる骨)の意味を共有しているのである。例えば、以下のような説明、すなわち「仙骨は脊椎、頭骨など重要な骨を載せ、前方に腸、特に男女の生殖器などを支え、保護する、すなわち霊器を守る骨であり、あたかも神に供するが如く」あるいは「実際に仙骨がいけにえの儀式に供された」といういくつかの通説からも「sacr」の語幹を持つ単語が「聖なる何か=犠牲に関わる何か」との関連を濃厚に持っていることは了解可能なのである。

歴史的には原爆投下のような大量死を伴った人の死の記憶を濃厚に維持した場所、また大型の天災によって発生した多量の犠牲を記憶する場所が聖地化されるということによってや、聖人の死に場所が聖地化される、というようなことからも、死と聖の関連が自然に受け入れられるものであることは了解可能であろう。

さて、こうした前提を踏まえて本題である《反対の一致》について、以下のことが考察できる。

聖と俗が「善」と「悪」(カッコで括ったのはそれが普遍的で置き換え不能のものでなく便宜的なものに過ぎないからである)によって容易に代入できることについてである。永遠であるべき善なる世界は、その老化によって悪に満ちた場所となる。こうしてこれらの「悪」によって次なる「善」の実現が準備されるのである。これは、例えば人間の組織としての宗団を中心に世界を視た場合の考えと言えるかもしれない。反対に、脱聖化の運動を善と捉えるピューリタン的(あるいは、リベラルな)道徳観もある。これらによれば聖なるもの(宗団的な悪の存在)の老化は歓迎すべきことであり、こうした熱烈な非聖化の運動によって彼らの「善」は実現する。つまり聖の永い時代は終わらせられるべき「悪」の時代(中世を「暗黒時代」という呼称を思い出すまでもないだろう)ということになるのである。啓蒙主義(人文主義:humanismの復興)の視点から見れば、教会中心の「聖なる世界」は克服すべきものであったわけで、まさにその時代以降の影響の濃厚に残る世界の延長上にわれわれは生存しているのである。つまり、その視点から言えば、「善」は実現しつつあり、「悪」は滅びつつある。だが反近代の視点から見れば、「悪」こそが実現しつつあり、「善」は滅びの途上にいることになる。

これは、まさに前回の「忌避すべきことがいかにして歓迎すべきことに転ずるのか」というテーマともオーバーラップしてくる部分であるが、どちらの視点で世界を眺めるにせよ、そのどちらか一方が実現することによって、一旦その世界が終焉を迎えるのであり、まさに反対物の実現こそが、自己の支持する世界の復興を意味する点では、同じなのである。

つまり、善(聖)は悪(俗)による世界征服の果てに自己を恢復するのであり、また、悪(聖)は善(俗)の全面勝利によって、むしろその存在への永遠回帰の法則を世界に誇示するのである。

■ 画像引用元

a) ファイル:広島原爆ドーム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

b) Golgotha (Calvary) Hill-Photo: white stones, here visible right and left in the underground

■ 参考画像

The Hill of Calvary (Golgotha) shown in its original state

(more…)

反対物の一致 #2:
いかにして「忌避すべきこと」が
「歓迎すべきこと」に転ずるか

Tuesday, January 26th, 2010

エリアーデがよく問題にした「Coincidentia oppositorum」に関連して

苦痛の極にあるところの死が快を伴うものであるらしいという近年になって成され始めた憶測。はたまた「死こそは生である」などという大胆な反対物の一致。あるいは、われわれの“小さな死”が、(神の如き)より大きな生にとっての《栄光》であり得ること。こうしたミクロコズムとマクロコズムの間の跳躍的な視点の遷移が、全く両極端の価値判断の起因となるという側面は、それだけで膨大な時間を割いて論ずる価値のある課題であるとも考えられるが、そうした晦渋なる論議を先送りにしたとしても書き記しておくべき内容が図像解釈にはある。

8 auspicious signs (necklace)

8 auspicious signs

Eight auspicious sign (cloth)

Individual Eight Auspicious Signs

象徴図像とともに民間の口承で伝えられてきた図像の意味するところの説明は、迷信と決めつけて無視するにはあまりにも重要なメッセージであると考えられる。一定の図像に付帯して伝えられた、例えば「縁起の良い」とか「吉兆の」とか言われる能書きが、まったくその逆の意味を表しうるという、言わばグロテスクな意味上の《反転》が起きていることは、当面、事実としてある程度一般化してもよいことであろう。それは、「八つの吉兆: eight auspicious signs」と言われるインドの伝統図像に関しても言えることであるし、伝統家具に見られるフィニアルが表現していると言われる「おもてなし: Hospitality」の意味に関しても同様のことが言える。しかしこうした「全く逆の意味を伝えている」という、ここで憶測される事実にこそ、その口承の信頼性、さらには真の狙いが隠されていると理解すべき側面があるのだ。

そうした意味の反転の説明のひとつとしては、例えば、味方にとって縁起の良いことは、敵(かたき)にとって縁起が悪いことを意味しうるしその逆も然りである、という点でも説明できる。敵にとってのアンチヒーロー(悪漢)は、味方にとってのヒーロー(英雄)でもあり得る。こうした意味の反転は、キリスト者にとっての裏切りのユダやポンティウス・ピラトがキリスト教にとっての敵役であれ、キリスト教によって苦しめられたユダヤ人にとっては利益に適う人物であるとの考えによれば、彼らとて「ヒーロー」として捉えられるというような「善玉悪玉の逆転」があり得るのと同じである。どう考えても憤怒の表情で無慈悲で悪魔的な神的権化として顕現する不動明王が、わが国の一部の人々にとっては礼拝の対象になる、などという現象も、そうした文脈で捉え直される価値がある。インド=ヨーロッパの神話上の神々に関しても、特定の神が複数民族の境界を越えて知られているヒーローである場合、その神がどの民族の利するのかによって、その受け取られ方は正反対であり得る。

しかし、そうした視点超越的な(民族や国家を越境して遷移する視点による)説明だけが有効なわけではない。例えば、《滅び》や《誕生》という観念などをとっても、それは「おぞましきもの」という捉え方*と「歓迎すべきもの」という両義的な捉え方がある。ひとつのものに対するこうした忌避と歓迎という両極端に対立した捉え方が可能なのは、捉える視点がどのような価値観の視座に立つのかという視点の遷移が可能だからである。

* マニ教が生を否定的に捉えていたことはここで改めて取り上げるまでもあるまい。

水と油の様なこうした引き裂かれた価値観は、とりわけ生や死を巡る宗教的・哲学的議論の中に典型的に見出される。宗教は死を肯定しないまでも否定はしないという立場を採ることがあるが、現世肯定的な脱聖化後の今日的な世界において、死は一般通念的にはつねに忌まわしいものだ。だが、死が歓迎すべきであるという否定し難い超俗的な視点というものも今日においてさえ同時に存在することも確かだ。

これと同様のことが、《滅び》についても言えるのである。われわれの住む世界が、不正と苦痛ばかりの世界であれば、それは一旦滅びて更新された方が良い、という現世転覆への指向という価値観が醸成され得る。一方、「この世の春」を楽しんでいる立場からすれば、死も滅びも可能な限り先送りし、できる限り忌避すべきものだ*。こうした《滅び》を巡る価値観の分離は、脱聖化されたと言われる今日の世界でも、依然として見出される現象である。

* こうした現世における俗的な人生肯定を超克していくことをテーマに扱った古典として、バガヴァットギーターなどのインドの聖典がある。

西洋の医学の価値観では、患者を何としてでも生かすというのはほとんど疑問の余地のない無条件にして肯定的な価値観(善)であるものの、それについての否定的議論も「生の質: quality of life」をあらためて問おうとする反省も、すでにわれわれの耳目に触れ始めているものである。また、世界の覇者としての合州国の価値観を否定して、それを滅ぼし尽くす闘いに参与する、などということが義なることであるという《ジハード:聖戦》を善として肯定する価値観は、イスラム原理主義の闘士の間では当たり前のものであるらしい。

これは、同じ現代という時代において、同じ国家のうちにも教育や生い立ちが異なれば見出し得る人生観の個々人における相違である。つまり、こうした現世肯定と否定の大きな人生観の違いが、同じ時代の同じ場所で、個人のレベルでも見出し得るという事態も、象徴図像の持つ多元的(というよりは二元的)な意味伝達機能が、正反対の2つの概念を伝える理由を説明する根拠のひとつであると言い得るのである。

だが、より重要なのは、それが現世的もしくは来世的な価値判断のどちらに軸足を置くにせよ、象徴的図像が伝えようとするところの「両義的な内容」は、この世界生成の端緒となった、かつての世界の終わりを画した、一定の、ひとつの事件(エポック)であったと理解することによってのみ、本当の意味と価値が見出せるということだ。そして、あらゆる人類に向かって提示された重大な鍵穴のひとつである、という一事なのである。

(more…)