Archive for April, 2008

怒鳴り合う「思想」:映画『実録・連合赤軍』に殴られる

Monday, April 21st, 2008

実録プロモーション画像

「映画」と言えばテレビでプレビューを流しているようなハリウッド系映画や、次から次へと作られるテレビのホームドラマみたいな邦画作品くらいしか知らないという方はお読み下さらなくていい。

テアトル新宿

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

5/10(土)よりモーニング上映決定

タイムテーブル

〜5/9(金) 11:30/15:20/19:10〜22:40

5/10(土)〜5/23(金) 11:00〜14:30 ◎1日1回上映

【第58回ベルリン国際映画祭】(2008年)

《フォーラム部門》招待作品

★祝【第58回ベルリン国際映画祭】2冠受賞!!★

●最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)受賞!

●国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)受賞!

★【第20回東京国際映画祭】★

●《日本映画・ある視点》作品賞受賞!

映画から受けるダメージはゆっくりとだが確実に作用している。

彼らを「狂信的」とは呼びたくない。こうした「正しさ」への信頼の感覚とは、われわれが若い時に一度は通り抜けてきたものだからだ。私の近代主義や高度技術文明に対する批判というのも、その根っこは高校生くらいの頃に初めて出会った哲学に求められるのだし、「間違いつつある文明」に対する警鐘として殉じたいという気持ちとともにあったものだ。

だが、機関銃のように指導者の口から発せられるきわめて抽象的で観念的な言葉、言葉、言葉。時間を掛けて考えれば、「純粋な思想」として理解できなくはない理論でも、現実との折り合いを付けられない、こころの表面を上滑りするばかりの怒鳴り声が、ひとの耳を仮借なく襲う。崇高なはずの「思想」は、すべて怒鳴り合いの中で応酬される。あるのは、対話ではない。今でも平壌(ピョンヤン)からのテレビ放送で見ることのできるようなアナウンサーによる演説調のアジであり、背筋に力が篭って堅くなった人間の発する黒い声音によって撃ち出される単語の矢である。

この「熱さ」はあたかも幕末の志士たちが登場するドラマや映画などでも描かれてきた、相互に斬ったり斬られたりする若者の群像ではあるのかもしれないが、青春を描いた映像だとは言いたくない。その上滑りする抽象的な言語に限っては、ただ暴力的に繰り返されるばかりで、ほかの若者を真に考えさせ、理解させることができない。

現に、「まったくわかっていない」と指導者に怒鳴られる若者たちを、本当に分からせることのできる、実感と現実感を伴った言葉と経験を、指導者を含め、誰もが持たない。(その指導者だって指導される側とほんの数年の歳の差しかない。)

したがって、こうした純粋な思想的な展開について行くことのできる極一部の(理屈っぽい)人間だけが、かろうじて「わかっている」のであり、「指導的立場」に居座ることができる。そして、「わかってしまった者」は、自分のこれまでの「間違い」を認めないわけにはいかず、認めて自己を批判し自己否定する者は、負けを認めて「思想的」にも指導者に従わざるを得ない。「間違った者」は、それを諒解すれば「正しい者」に従うのが思想的に「正」となる。かくして支配と被支配、指導と被指導が、思想という純粋観念の力を得て実現されるのである。

一方、「わからない者」は、どこまで行ってもわからない自分についての「総括」だけを求められる。思想をわからない者が「自己を総括する」などということは撞着以外の何ものでもない。そのようなことは理屈上不可能なのだから、わからない者に総括を求めることは、教育に失敗した教師がわからない生徒に反省を促しているようなもので、まったくもって理屈に合わないのであるが、指導者の絶対的立場は、そうした自分に向かう批判だけは狡猾に封じる「へ理屈」を持っているのだ。このようにして「総括」の意味は次第に失われて行く。総括を求める指導者たちは、「自分で答えを出すのが総括だろ」という理屈によって、真の指導や教化の責から免じられてしまう。

どこまでも「わからない」メンバーには、言葉による執拗な批判と人格の否定、そして、間もなく、生命を滅ぼす身体的な暴力が待っているのである。これは、北朝鮮の強制収容所やカンボディアの「キリングフィールド」、文化大革命時代の中国、そして戦前・戦中に憲兵が大威張りで闊歩し、隣組が相互監視をしていた日本、などなどに起きたことではないのだ。これは70年代に、われわれが日常を生活していた隣で起きていたことなのだ。

「正しい者」が怖い。この感覚は、自分の中では長いこと封じ込めて来たものだ。正しい者を怖がってはイケナイ。正しければ正しいほど、それは克服され乗り越えられなければならないから、ということもある。だが、このバランス感覚によって「正しい者」が自分に近づいて来たら逃げたり避けたりしないで、可能な限りその「正しさ」を問うという姿勢に自分を向かわせたのである。健全な相対化を旨とする人間にとって、したがって「正しい者」を怖がらずに、近づいていって検討してみるというのは、方針としてむしろ必要なことであった。

だが、ある集団の閉塞的な状況において、「正しさの感覚」の飛び抜けた者は、カリスマになる可能性があり、それの正否を問う存在(批判者)がいなかったり、批判者を封じ込めたりすることに成功すると、その閉鎖世界の中で「まったき暴君」となる。自分に正義があるというその恐るべき感覚。それは若くて純粋な時期の若者にこそ起きがちなことではあろう。40の訳の分かったような中年よりも子供の残酷さに近いものを彼らは持っている。特に、異なる世代がおらず、したがってさらに上のレベルから批判できる存在がなければ、「革命の理想」というものは、暴力的手法を得て、現実のものとなり得る。成功した革命とは、案外こうしたものかもしれない。

「正しい者」の行為の総ては、達成されるべき理想や目的のための手段となり、いかなる手段も正当化できるという思想に到達し、すべての特権と絶対的な権力を手に入れる。それがたったの30〜40人足らずの若者の集まりであったとしても、その絶対的権力に逆らうことはできないという空気が醸成され、それに対抗する勇気を失えば、殺人やリンチでさえも「理想へと近づくための方法」となり得るのだ。これは倫理的な社会(理想)を実現させるために倫理を踏みにじっている自己の立場を容易に忘却する。

自己批判と総括とを迫られ、呵責なき暴力を振るわれ、「こんなこと、意味あるのか? それが革命なのか?」と断末魔の中で叫ぶ男たちは、完全に秘境の地で世間から隔絶された「軍事訓練」のキャンプの中で、口を封じられ、まさにその素朴な疑問ゆえに、集団リンチを受け、死んで行った。ほんのちょっとした指導部への疑問でさえも、すべて「革命的でない」「自己の共産主義化が足りない」などの理由で圧殺される。かくして少人数のキャンプが恐怖政治となる。理想に燃えた若い青年たちの夢が、かくも脆く修羅場と化す恐ろしさ。この恐ろしさは楽しめる怖さではない。彼らの純粋な「正しさの感覚」ゆえに、そして勇気を奮えないために許される「狭い世界での専制政治」ゆえに、まことに後味が悪い。だが、この後味の悪さから逃れようとしても、描かれているものが虚構ではなく、われわれが生きていたこの世界において、現実の物語として起きていたのだという事実性から、われわれは逃れることができない。

確かにこの映画は、左翼活動家の愚かさを広く伝えるための手段として用いられてもおかしくないが、国を想う右派活動家によっても同じことは起こりうるし、起こされてきたことだ。「正しさの感覚」への無批判な信頼と、声を上げるべき時に上げないわれわれの「勇気のなさ」が揃えば、いつでも、何度でも、この地上に「実現してしまう」可能性を持つ出来事なのである。悲しいことだが、これが「人間性」なのである。

(more…)

クローン牛に対する本能的警戒を論理(言語)化する試み

Friday, April 4th, 2008

クローン牛の解禁が近いというニュースを聞いた家人が、それについての「本能的な警戒」を表明し、それがきっかけになって不快な家族間論争となった。このニュースに対する「いやなかんじ」については、自分もその感覚を共有する者と思っているが、それをただ表明しているだけでは何かが不足している感が否めない。それにクローン牛なるものがどんなものなのか、純粋な好奇心もある。

そのことを口にしてみたら、自分の言葉足らずだったせいもあろうが、あたかも自分が「クローン牛の解禁促進派」のひとりであるかのような言われ方をされ、非難された。返す言葉で、クローン牛だって母牛から生まれた牛であって、牛は牛だ!別に人工的に一から作り上げた牛ではないのだ、みたいなことを言い返す。当然、言われた方は一層刺激されよう。痴話話はこれ位にしよう…

おそらく実際問題、クローン牛を批判する以上、一度くらい(あるいは一定期間)クローン牛なるモノを食べてみるかもしれないし、不注意のために、たまたま入った牛丼屋の牛丼がクローン牛だったので食べてしまう、などということもあるかもしれない。

ひとつ分からないのは、どんなニュースでも「クローン牛が解禁の方向だ」ということを報道する一方で、クローン牛がどうして必要なのか、どこで、誰たちがそれを生産し、どんな業者が、どこに輸入するのか、日本でそれを使う業者は誰なのか、という消費者にとって最も関心のある「肝心な部分」が完全に抜け落ちた情報だということだ。ひょっとすると、いかなる具体性もないまったく机上で書かれたシナリオなのかもしれない。

それに、クローン牛の解禁への方向性はおそらく日本政府の“某宗主国”に対する相変わらずのゴマスリの意味に過ぎず、政治的なメッセージとして発信されただけ、という可能性もあるような気がしてならない(その場合は、クローン牛の輸入などという政治的決断だけが在って、実際は日本の消費者が見向きもしなければ、全然売れずに市場がそれを排除して終わるという可能性も一方ではある。だって市場経済至上主義なんでしょ?某国は!)。

話の裾野を広げるのは止めよう。必要なのはおそらくもっと単純なことだ。

シロウトなりにどうしてクローン牛が生産されるのかということを、「生産者側の立場」で想像して、考えてみる(こういう想定そのものも、家人は気に入らないらしいが…)。例えばここに、病気になりにくい牛がいて、しかもそれが好き嫌いをせずにどんな飼料でも食べ、どんどん育ち、大した抵抗もせず、屠殺場へはおとなしく赴く、しかもその肉が柔らかく、そこそこに旨いとなれば、その牛とそっくりなヤツをもう一頭育てたくなるだろう。おそらくクローン技術を借りてでもそれをしたいと願うのは、そうした「合理的な牛」が、自分の商売を楽にして、しかも最大の生産性を上げることができそう、という読みからだ。

さて一方、やはりシロウト的に、この近視眼的な牛肉生産業者の採るだろう選択肢について、もうちょっと思いを巡らせてみよう。クローンの技術によって同じような「ソックリ牛」が大量に生産されることになった場合、その牛特有のクセが、われわれの健康に特定の影響を与えてしまう可能性がある。脂肪の量などの、目に見えて測定できるようなレベルの性質が均一であるばかりでなく、その牛しか持っていない(かもしれない)言わば「毒性」のようなものが、クローン牛のどれを通して、ずっと一定のレベルでもって、われわれの身体に取り込まれることになる。これは、自然界が本来なら同じものを生産せず、生命が多様なものとしてこの地上にもたらされるなら、自然に回避できるレベルのリスクだ。だが、食べる牛が総て同じ、ということになれば、「毒性」は加算されて行き、それがわれわれの体内に蓄積されるとなれば、その影響は徐々に表れる可能性がある。これは、自然界の持っている自然回復力の利用という点では、真っ向から対立する方向性である。

それにもし、このクローン牛が突然ある病気に罹ったら、すべてのクローン牛が一斉に同じ病気に罹って全滅する怖れもある。これはクローン牛でなくたって、現在のDNA操作によるあらゆる作物が持っている潜在的な危険である。だが、そんな「掛け合わせ」のレベルの均一性ではないのだ、クローン生物は。遺伝子的には「まったく同じもの」が出来上がるのだ。問題が起これば、経済性を優先したために起こる、食料の安全保障への壊滅的ダメージとなるだろう。

ことによると(われわれがラッキーであれば)そのクローン牛の害なるものは、日本の農林水産省管轄の研究所が主張するように「ほとんどない」ことで済むかもしれない。実際問題、そういう可能性はある。だが、こうした人工的な生命の操作によって起こりうる事態は、われわれの想像を超えたところからその牙をむく可能性がある。

われわれの本能がわれわれに告げる「いやなかんじ」とは、このように言語化することによって、より広い範囲で共有することができるのである。これは、食卓での団欒でできる対話のレベルから遠ざかるかもしれないが、一旦理解してしまえば誰でも説明のできる「不安」の論理化なのである。

差し出された踏み絵「YASUKUNI」

Friday, April 4th, 2008

「靖国」大阪で5月上映 「映画館を議論の場に」

2008年04月03日02時26分

ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止問題で、大阪市淀川区の映画館「第七芸術劇場」が5月に予定通り上映することを決めた。同館は地元商店主らが出資する96席の市民映画館。松村厚支配人は「見たい人がいるなら提供するのが役目。映画館を議論の場にしてほしい」と話している。上映は同月10日から7日間の予定。

yasukuni_kiji

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やっと出たね。

『靖国YASUKUNI』への反応に見る「卑怯者の天国・ニッポン」。

これについてはタツル氏のこれほど明解な解説以外に何が必要だろう?

誰か教えて@内田樹の研究室

それにしても、大阪での上映によって、上映をやめた映画館主たちが言い訳にしていた「周辺住民への迷惑」が、どれだけ現実のものなのか、明るみに出るだろうねえ。仮にそれが現実のものになったところで、そういう脅しを掛けると言われる右派の活動家諸君についても、タツル氏は、以下のように、釘を刺しておくことを忘れない。

>>「言論の自由」の看板をすぐにおろしてしまうような惰弱な人間ばかりで日本社会が埋め尽くされることをどうして右翼の諸君は歓迎するのか<<

>> たしか彼らは日本人は「もっと誇りを持たなければならない」ということを主張していたのではないのか。「抗議の電話があるかもしれないから怖いので仕事を止めます」というようなことを軽々に口にする惰弱な人間が「日本を守る戦い」においてだけは例外的に勇敢に戦うとは誰も思うまい。<<

ぐうの音も出ないね。私が街宣車のナレだったら…

ともあれ、上映を決めた「第七芸術劇場」と「京都シネマ」にエールを!

「神々の沈黙」への備忘録 #2

Thursday, April 3rd, 2008

以下は、page 153のジェインズによる記述

環境面での難問とは、霊長類の長である人間が生き延びてきた氷河期や、もちろん、それ以上に重大な<二分心>の崩壊であり、それに対して人間は意識によって順応した。

これについてはひとつ言いたいことがある。<二分心>無きあとの時代を、人間が意識によって生き延びたという面はあるだろうし、それ以外に人類に選択肢がなかったわけだが、生起した順序(因果関係)で考えると、<二分心>の崩壊は、意識の登場によって起こったのだと思う。したがって、むしろ意識は<二分心>の文明の滅亡を決定付け、助長したのだと言えるのではないか。意識には(その生得的な臆病さから)徐々にではあっても支配の座と覇権を狙う傾向があって、統計上は、一定のレベルで抑えられていたが、何かがきっかけになって、二分心の種がその支配の座を追われた後、支配する側に立った。結果的に、二分心の種はマイノリティの地位に甘んじることになる。

これは進化の問題というよりは、言わば政治的な問題、つまり「政争におけるシーソーゲーム」のような一過性の勝敗結果を反映しているだけのものなのかもしれない。全然、確定的なものではない。つまり「意識」と「二分心」の間には絶対的な実力の差(そして生物学的/進化論的な差異)はなく、その支配の座を巡って、互いに常に虎視眈々と相手の支配のチャンスをうかがっている、そのような状態なのではあるまいか?

この考え方は、そもそも崩壊しうる文明(死すべき文明)というものの、勃興と滅亡を堂々巡りのように廻わらざるを得ない性質と、実は合致するのではないか? 

[これこそが、意識の獲得が3000年前ではなく、遺跡や記録が残り始める6000年前の時点とする理由である。だが、「イーリアス」の時代が本当に僅か3000年前の話ということになると、その主張は難しくなる。むしろそれを記録したのが3000年前ということではないのか? その時代は依然として二つの勢力の鬩ぎあいがあったが、意識がいよいよその影響力を増しつつあった時代なのではないか? 6000年を真とすると、6000年間の二分心の支配と6000年間の意識の支配というものが、シーソーゲームのように交互に現れる12000年の周期というものを想像しやすくなる。この文明はピークを迎えて滅びると、意識も共に滅びるのである。]

本書でその視点をジェインズが与えているのかどうかは最後まで読まなければ分からない。だが、彼の関心は、周回する超歴史的反復という視点でこのエポックを解き明かす視点を持たなかったのではないかと思われる。だが、一体そんな視点をエリアーデとハシデウ以外の、どんなスカラー(学者)がかつて持ち合わせたことがあっただろうか?

「神々の沈黙」への備忘録 #1

Wednesday, April 2nd, 2008

神々の沈黙画像

まだ、150/600ページしか読んでいないのだが、あまりの興奮と感動のために、いくつかの備忘録を残しておきたい。もちろん、ジェインズが言っていることをすでに捉え損なっているとか、半ば意図的に曲解しているようなところはあるかもしれないが、それにも関わらず、これを書いておく必要があると判断したのだ。

ジュリアン・ジェインズが言ったように、「二分心の時代」から現在の「意識」(自我意識)の支配する時代(神々が沈黙した時代)へと、今から3000年前に移行したとすると(むろんそれを本当に3000前とするべきなのか、それ以前の、例えば6000年前という時代に起きたとするべきなのか、僅か数千年の差があるとしても)、それが何故こんな近々の過去(つい最近)に起きたのか、という彼自身が逢着した疑問に、やはり自分でも逢着せざるを得ない。

いわゆる脳の物理的・生理的な構造の変化が原因の一つであるにせよ、いわゆる進化論的な変化がそのように短い時間に起こることは考えにくい。ただし、一定の「脳の傾向」を持った人間が人口全体に占める割合というように統計学的な概念を導入して考えた時、一つの仮説が立てられるような気がする。(以下はポリティカル・コレクトネスを問題にする人々の前では口にしにくいことである。とりわけ「権威」の到来を待っているかに聞こえるかもしれないところなど。)

それは、現在われわれが知っているような意味での現代の近代資本主義や、技術文明、そして西洋のヒューマニズムというものが、以前なら厳しい自然環境による淘汰圧に耐えられずに滅びていた筈のヒトをその文明のシステムの傘の下で生かすことによって、ホメロスの時代ならあり得たような二分心的な「神との直接交流」を可能とする英雄的人間の類の占める割合がどんどん希薄化されて行ったということはありそうなことである。つまり、現在でも人口の一定の割合で見出すことの出来るいわゆる「統合失調症」と呼ばれ、今日でも「治療」の対象にさえなっている精神病患者達は、そういう英雄になり得た種の生き残りであるということが出来るかもしれない。

ただし、そういう種は、常に人口の一定の割合で生まれて来ようとし、また、それを去勢ないし排除するような文明でなく、それを畏怖し、また育て、またその指導に従うことを好しとするような文明であったなら、その才能を一挙に伸ばして、ホメロスの時代にいたような英雄になる可能性があったのである。

つまり、「統合失調症」が死なずに生き延び、全人口に対する彼らの割合が現在よりはるかに高かった時代は、いわゆる「二分心人達の文明」ということできて、それこそ「神との交流能力」が、生存の観点からは有利でさえあった時代であり、時代が下るに連れ、そうした人々が生存にとって危ういものである、むしろわれわれの生を脅かすものであるという、それまでとはまったく異なる文明観が存立したとき、この手の英雄達は沢山殺されたのだろう。こうした、かつてなら「生存に有利」とされた種が却って、淘汰されるべき対象として看做されるようになる。当然のことながら、そうした「種」が、とりわけ「狩られて」仕舞った後の文明においては、彼らはマイノリティの地に落ちてしまう。

神共に生きる。天使と供に生きる。こうした目に見えざる存在達と生きていた時代の名残というものは、今でも西洋文明の影響を余り大きく蒙っていない地域には残っているのではないか。例えばライエル・ワトソンがその著書『未知の贈り物』で描いている少女ティアの存在というのは、そうした「統合失調症」と、文明の側なら名付けそうなすべての条件を満たしているように見える。

しかし程度の差こそあれ、われわれの社会にもこうした「病」と名付けられそうな人間は思いのほかたくさんいて、神や天使、あるいは先祖達の声を間近に聞いているのである。それが病的な様相を呈したり、本人がその声に苦しんだり、他人に迷惑をもたらさない限り、そのことは話題にもならないし、問題自体にならない。

ヒトは神を見ようとする。神がいれば、それの元へひれ伏してしまおうとする。これは権威主義とも結びつきうるものかもしれないが、自分の心の広間で神と思える声が響き渡るとすれば、それに対して無条件に従ってしまうというその在り方は、むしろヒトが生物学的に(生得的に)持っていた能力ではなかったか?

神の声を聞いてしまう脳のある扉が突然開いてしまって、突然それが命じるままに自己をこの世から文字通り滅却してしまおうと考えた男の話が出てくるが、そうした行為に及んでしまった男の気持ちを私は分かる。天から轟くとしか言いようのないその声に一体誰が抗うことができようか? ジャンヌ・ダルクが生得していたのは、神の声を聞くという、その時代にとっては、おそらくやや希な能力であった筈だが、それを自分のその後の行動の指針にするほどその内なる声に従順であったということ自体は、驚くに値しない。つまり、その声を聞く者にとって、それに従うなどということは、「当然のこと」なのだ。