Archive for the ‘The Ω Archetype’ Category

オルフ《カルミナ・ブラーナ》に見られる音楽の達成した秘教的結実

Tuesday, December 14th, 2010

1. Wheel of Fortune (from Wiki) 2. Schot score cover 3. Kingwood Carmina Burana poster

伝統的秘教の伝えて来たところの韜晦なるメッセージの具象化は、われわれの住む世界の各所で生じる歴史的な具体的事態の積み上げと現代の危機的状況を通して、時代の経過とともに《その意味が明瞭になる》という、現代にとりわけ観察されるようになった無視し難い傾向によって説明できる。それにしても、作曲作品に半ば「秘教的」とも言うべきメッセージを込めるというのは、何も近代に入ってから作曲家が得た特権ではない。多かれ少なかれ、バッハもしくはそれ以前の時代から作曲家が採用してきた方法であり、また時としてそれが「作曲」を隠れ蓑にした目的そのものなのではないか、と言いたくなるのほどの重要性を持っているかに見えることがある。

そんな中で、カール・オルフ (Carl Orff) が《Carmina Burana: カルミナ・ブラーナ》という主要作品を通して行ったことは、それをもはや「秘教」的と言い難いほどの明瞭さで、あからさまに行った音楽的手法による広い世界への秘儀伝授的な作品を世に問うことにあったと言えよう。

その秘儀の核は、オルフが幸運にも出会うことになった、中世の時代から伝えられたとされるいわば「ヨーロピアン・スタンダード」とでも呼びたくなるような歌詞群(1803年にボイレン修道院で発見された)が十二分に表現しているが、オルフは秘儀の扱ってきた普遍的題材の持つ《物理的特性》を、その作品の構造として堂々と採り込んでいる。その骨子となるものは、歴史の周回性 (cyclical nature) をあらわす作品自体の円環構造と、歴史の三層構造を反映した「3度(いやというほど)繰り返される反復構造」、そして世界の三層構造を反映した「三部構成」である。

■ 「世俗歌」の体裁に込められた「反対物の一致」

「隠しながら伝える」(conveying truths through occultation) というのが、秘儀の伝統的作法であったとするならば、オルフの《カルミナ・ブラーナ》は、そのタイトルの示す通り、「世俗の、バイエルンの、バヴァリアの、歌」であると同時に、「世俗への秘密の教示(教化)」を目的とするという意味で、「世俗向け教材」としての意味を持つものかもしれない。だが、現にあるようなあからさまなまでの表現がなされたとしても、それは限られた人間の関心しか掴むことはなく、結局「隠しながら伝える」という結果を招来させるに違いなく、そのオカルト的な「隠しながら伝える」作法は依然として有効性を保つと言えるだろう。

一体どれだけの人間が、《カルミナ・ブラーナ》をそうした秘儀伝授というコンテクストで論じようとしただろうか? 音楽自体が持つ魅力だけで鑑賞することが可能なこの非凡な作品は、その美しいまでに単純な構造と、簡単に覚えられるメロディー、血湧き肉踊る「野蛮」とも言えるようなリズム、そして圧倒的な交響楽的音場だけでも人を虜にするに十分なのである。だがその音楽的な完成度ゆえに、その深い意味を咀嚼することから、かえって大多数の聴取者を遠ざけているかもしれない。

この「世俗歌」の持つ重要な特性とは、まさにこの逆説的な性質によっても説明できるかもしれない。つまり、かのエリアーデの繰り返し言及した「反対物の一致: Coincidentia oppositorum」こそ、この音楽作品が体現しているものだという意味で。この秘教の伝えるところの歴史的周回性の事実は、まさに《智》の聖なる領野に属するものだが、聖なる出来事は、まさにこの世俗歌で描かれているような俗的・此岸的な人間の生き様が契機となってもたらされるものであり、この人間の俗的運動 (profane/secular/vulgar dynamism) 無しには、この聖性はこの世に実現し得ないのである。聖的な制度(宗教)は、歴史のある時点において、その人間的なダイナミズムを抑制し、歴史的悲劇の反復を遠ざける役割を果たすが、その制度が、果たせるかな人間の俗的なダイナミズムをむしろ最大化し、最終的に最も劇的なやり方で権威的制度としての宗教を転覆させる逆説的な効果を発揮させる。つまり、歴史的に見れば、宗教的抑圧は世俗的人間の爆発的伸張の時限装置として働かざるを得ないのである。

愛と性がまさに聖性と俗性の両面機能を果たしてきたことと、この歴史的円環の完成は不可分なのである。

■ 《Fortuna Imperatrix Mundi: 世界の支配者 フォルトゥナ》の機能

The Wheel Of FortuneThe Wheel Of Fortune - Choir version

《カルミナ・ブラーナ》の第1曲と最終曲である<< FORTUNA IMPERATRIX MUNDI >>は、まったく同じ歌詞、同じメロディーの繰り返しであるが、これは単に同じ音楽的テーマを形式的に繰り返す音楽技法上の「cyclical form」(循環形式)のことではなく、まさにオメガ祖型 (The Omega Archetype) の視覚的形状が表す如く、底辺で切れた円相の左下から時計回りに円を描き始め(ということは頂上に登り始め)、頂上を極めたら円を右下の底辺に向かって墜ちていく、その人間の歴史的運動を描くために採られた、これ以外にないという完璧なる形式である。まさに写本の表紙に使われている<< The Wheel of Fortune (運命の女神の紡ぎ車) >>が、円環する人類史の運動を描いている*のと同等の内容である。

ここで、この楽曲のエッセンスの詰まった第1曲と最終局の印象深い歌詞を掲載する。

(原語:ラテン語)
O Fortuna
O Fortuna
velut luna
statu variabilis,
semper crescis
aut decrescis;
vita detestabilis
nunc obdurat
et tunc curat
ludo mentis aciem,
egestatem,
potestatem
dissolvit ut glaciem.

Sors immanis
et inanis,
rota tu volubilis,
status malus,
vana salus
semper dissolubilis,
obumbrata
et velata
michi quoque niteris;

nunc per ludum
dorsum nudum
fero tui sceleris.
Sors salutis
et virtutis
michi nunc contraria,
est affectus
et defectus
semper in angaria.

Hac in hora
sine mora
corde pulsum tangite;
quod per sortem
sternit fortem,
mecum omnes plangite!

(英訳)
O Fortune

O Fortune,
like the moon
you are changeable,
ever waxing
and waning;

hateful life
first oppresses
and then soothes
as fancy takes it;
poverty
and power
it melts them like ice.

Fate – monstrous
and empty,
you whirling wheel,
you are malevolent,
well-being is vain
and always fades to nothing,
shadowed
and veiled
you plague me too;

now through the game
I bring my bare back
to your villainy.
Fate is against me
in health
and virtue,
driven on
and weighted down,
always enslaved.

So at this hour
without delay
pluck the vibrating strings;
since Fate
strikes down the strong man,
everyone weep with me!

(Classical Netより)

(翻訳:日本語)
おお、運命の女神よ

運命の女神よ
貴女は月の如く
常に定まらない
満ちたり
欠けたり。

おぞましき人生も同様
虐げると思えば
なだめる
気の向くままに。
貧窮も
権力も
氷のように溶解す。

運命よ
奇怪で、空虚な運命よ
おまえは車輪の如く回わり往く
邪悪なものよ
幸せは儚く
無へと衰え
闇で覆われ
疫病で悩ます。

このゲームの只中で
おまえの悪事に手を貸すように
裸の背中を差し出す。
運命はつねに我を責め苛む。
健康と
徳を授けるなら、
その重みで
我が身を奴隷にする。

さあ、今、この時
ためらうことなく
鳴らされる弦を引こう。
さあ、運を掴んだ強者も
運命が投げ落とさん!
我と共に、運命を嘆き悲しまん!
(Wikipedia, Classical Netなどを参考にした拙訳)

第1曲と最終曲は、第2曲 << Fortune plango vulnera 運命に傷つけられ >> と共にその底辺の世界(秘教的な表現では「夜」ないし「冬」の時代)を描く厳しい内容であり、そのメロディーや歌詞がそれにふさわしいものになっているが、まさにこの円環の最底辺において、ひとつの終わりが次の始まりとして繋がろうとする部分なのである。《カルミナ・ブラーナ》はまさにこの構造を採用し、永遠に回帰する人類の歴史の範型を表す「Ω祖型」を、交響的作品によって具現化したものと言えるであろう。

季節という象徴的円環の中で冬に続くのは自明なまでに「迎春」である。ピッコロ、フルート、オーボエによって3回繰り返されるコールによって春の訪れが宣言される。このように、第3曲 << Veris leta facies 春の喜ばしい風貌が >>は、冬の時代の終焉により訪れる春の世俗を描く。第4曲の << Omnia sol temperat 太陽は万物を調合し >> にては只中の春爛漫を描きつつ、マザーネイチャーたる大自然の行う錬金術的な作業 (Opus) を暗示する。このように音楽は進行し、この世の春と夏を経験し、その頂点を極めて栄光を浴すると、再び冬の時代への回帰していくのである。

* * ボイレン修道院の図書室から発見された、ラテン語、中高ドイツ語、古フランス語などで書かれた約300編の古い歌を収めたオリジナルの《Codex Buranus / Carmina Burana》の表紙を見ると、そこには紛れもないタローカードの<< The Wheel Of Fortune >> (運命の女神の紡ぎ車) として伝承されている図版と同じものが描かれているのを知るだろう。オルフの《カルミナ・ブラーナ》の今日売られている合唱用/ソリスト用の総譜を見ても、表紙には同じモチーフが使われているのである。

■ 曲数の隠し持った秘教的数性
《カルミナ・ブラーナ》の曲数「25」は、われわれに2つの意味解釈を可能とする。そのひとつは、そのオルフによる作曲年代である「20世紀」という時代を顕す数性“5”である。「25」という数字の中に込められている濃厚な“5”の数性は、それを二乗(5 x 5)することによって得られることから諒解される。「5 x 5」のシンボルは、まさに世界が二分され、それぞれが五芒星を額に掲げながら闘われた第二次世界大戦の前夜の時代に相応しいものである。

そして二つ目は、最後に繰り返される<< FORTUNA IMPERATRIX MUNDI >>を1曲と数えた場合の曲数である (25 – 1 = ) 24は、「8 + 8 + 8」という数性“8”の3度繰り返される「ぞろ目」をその中心的特性として隠し持ったものなのである。この数性“8”を内部に濃厚に保っている「24」というシンボルこそ、紡ぎ車を回し続ける「運命の女神」の永遠性と円環性を表現するにこれ以上にないほどに相応しい記号である。(参照:“伝統”数秘学批判──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像)

オルフは、その曲数である数字「25/24」の中にこうした2重の意味を込めたのである。

■ 曲構成に見る秘教的《三重の入れ子構造》

われわれの世界は、「物事は3度繰り返す」というジンクス主義に呪縛の中にいる。それがあまりに自明のため、「それ」が2度でも4度でもなく3度であるのかということについて、改めて顧みることがないのだ。「3」という数字に神聖性を見出す理由には、幾つかの説明が可能であるが、それには単なる形式としての三部構成(三部作、三大○○というような例を挙げるまでもなく)ということ以外に、その数性を通して、われわれの生きる《エイオン》についての暗示が込められている。そのことについてここで詳述はしないが、新約の「ヨハネによる福音書」の中で出てくる三度繰り返されるキリストの行動や諸現象の記述が、単なる無意味な反復ではありえないことが明らかなように、われわれの住む世界における「現象世界の世界的現象」についての、ある類型への暗示があるのである(これを新約に則って「ペテロ・シンドローム」、「ペテロのジンクス」と呼んでも良い)。

オルフ《カルミナ・ブラーナ》が、第1曲/第2曲と終局に挟まれる形で「I. Primo vere: 初春に」「II. In Taberna: 酒場で」「III. Cour d’amours: 愛の誘い」という3つの構成部分を通して世俗の3つの局面を描いているのと同時に、ひとつの普遍的題材の特性を呈示する。

また、それぞれの歌がほとんどのケースにおいて三番までの歌詞を持ち、同じメロディーが「変奏されることなく3度繰り返される」ということにも、同じ意図を見出すことが可能である。つまり、《カルミナ・ブラーナ》という作品自体が、大きな三層構造を持つと同時に、その構成要素であるそれぞれの歌が、ミクロコスモス的に三層構造を内包している。更に、この《カルミナ・ブラーナ》が、オルフの代表的三作品 • Carmina Burana (1937) • Catulli Carmina (1943) • Trionfo di Afrodite (1953) を含む “Trionfi (Triumphs)” と呼ばれる三部作のうちのひとつになっているのである。つまり、より大きな宇宙(マクロコスモス)の中におけるひとつの世界として存在する、「三重の入れ子構造」になっているのである。

音楽自体が、シンプルで力強くその構造を主張するのに似て、この単純で分かりやすい構造に関しても実に徹底されている。その理由はたったひとつのことを後世に伝えるためであるというのが、言わずもがなであるが筆者の考えである。


画像:1. Carmina Burana オリジナルスクリプトのイルミネーションに見られるWheel of Fortune (Wikipedia) 2. Schott版『カルミナ・ブラーナ』のスコア表紙 3. Kingwood Musical Arts Societyのコンサートポスター

文明神話化の速度

Wednesday, April 14th, 2010

文明が失われた後、いかに急速にわれわれの知っている歴史が神話化するか、それを想像してみるのが良い。紙の媒体に書かれたものならば、それを大事に取っておくとか筆写してコピーを作るとか、石に刻み付けるとか、様々な努力によって可能な限り「正確な」記録を取ることはできようが、電子媒体となったものは、ほとんど再現できずにそのまま失われるだろう。

あと我々に残っているのは、記憶を総動員してそれを口伝(オーラル)で伝承することくらいである。人が遠くはなれた人間と会話をするとか映像や画像を送って相手を確認しながら会話をするとか、そもそも人間が空を飛んだとか、宇宙まで人間を送ったとか、地球を周回する装置を空中に浮かべたとか、そのような記憶は3、4世代過ぎれば信じられないようなことになるだろう。またそうしたことを可能にした装置は、使えなくなってスクラップとなってあちこちに放置されるだろうし、必要であれば、そうした道具はバラバラに解体されてまったく別の用途のために再利用されるかもしれない。

こうしてシロアリがたかるようにかつての祖先たちが作った文明の痕跡に巣食って、それぞれがそもそも何であったのかが分からなくなるほどに解体されるのに10世代も必要ではないかもしれない。つまり、自然の力による浸食や風化以上に、人為による解体が一挙に進む可能性がある。それに加えてもちろんこうした自然による破壊が跡形もないほどにそれらを「埋葬」してくれるに違いない。

それでも世代を超えて次のエイオンまで残るかもしれないかつての文明の痕跡は、七不思議としてわれわれの謎解きを待つことになるかもしれないし、あるいは、「庚申塚」や「鬼子母神」あるいは「道祖神」のようなものがその上に建てられるかもしれない。

岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』の再読

Tuesday, April 6th, 2010

ウロボロス

岡田明憲氏の代表的大著(と思われる)、圧倒的に網羅的な『ユーラシアの神秘思想』を読み終えて、2週間。タイトルの同書再読。新書判でありながら(というよりはむしろ新書判のせいか)引用して論じたいことはもっとたくさんあるのだが、とりあえず、最重要と思われる箇所を備忘録として残してコメントをつける。

尾をかむ蛇は、グノーシス説のウロボロスである。ウロボロスは、世界の周期(アイオーン)を象徴するものとされ、その内部で善と悪の結合が生じると説かれる。オカルト派の解釈は、このウロボロスをゾロアスター教のズルワーンとして説明することである。この発想の起源は、アイオーンをズルワーンと同一視したミトラス教にある。ミトラス教の図像の中に、体に蛇を巻き付けた怪人像がある。これはズルワーン(時間)神であるとされ、しかもそこには、十二宮の象徴が見られる例が多い。岡田明憲著『ゾロアスターの神秘思想』(講談社)「占星術的マンダラ」より (page 191)

これは、形態的なオメガ祖型を言葉によって説明したものと看做すことができる。ウロボロスという円環する蛇の象徴は世界が繰り返す超歴史的周期であり、アイオーンと呼ばれるこの周期の連結部は、善と悪の結合するところに位置する。すなわち悪の究極の顕現によって実現される世界の終末が、新たな世界の始まりの契機となることそのものを指す。

蛇は、自らの尾を噛み付いていると同時に、自らの力自分の身体を吐き出しているようにも採れる。善なる世界は悪の頭から吐き出され、また善の頭が悪の尾を喰らい尽くし、それに取って代わるようにも見える。これは、上から見れば丸い形状を保持する円筒形の器、たとえば茶器として現れれば「暦茶碗」となり、その善と悪の結合部には、宝珠や三位一体をあらわす象徴的記号が、聖体として顕示される。この宝珠や三位一体は、善や悪を超えた、しかし戦慄すべき聖なる計画としての「出来事」である。生まれ変わりを待ち望む者たちにとっては、善の実現であり、現世の悦楽を楽しむ者たちにとっては、悪の権化の到来を意味する、一大エポックである。

つまり、時間の円周の半分は善なるものとして在るが、それがやがて死に向かうとき、残りの道程は腐敗の半周、つまり悪の半周となる。悪は善によって実現され、善は、悪によって実現されるのである。

こうした記述が、書籍の一番最後にくるというのは、錬金術関連書籍の伝統からすると、まったく反対である。錬金術書の伝統ではウロボロスは、巻頭の扉ページにくるものである。「まず円環ありき」なのである。ところが、岡田氏のこの本では、この超歴史的エッセンスとも言うべき図像、および、それに関する記述を本書の一番最後に持ってくるという選択を採ったのである。それはそれで、《反対物の一致》ではないが、ひとつの正しいメッセージを伝えるのには十分な効果があるのである。それはひとつの書籍の終わりであるし、それはまた新たな探求の始まりの転機になるからだ。

G・ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』を読む #4

Friday, March 26th, 2010


第二の種類の聖なる行為で、多くの宗教できわめて重要な役割を演じているのは、供犠である。ここでは、浄めの場合のように、力との接触を持ったり、断ったりすることだけが問題なのではない。供犠はさらに進んで、多くの場合、人間に直接に力、神的力を所有させる。(中略)

 頻繁に用いられる説明は、神が私にお返しをしてくれるよう、私は神に犠牲を捧げるという、ギブ・アンド・テイクの考え方による説明であり、供犠は贈り物とお返しの体系をなすことになる。多くの供犠が、これやこれと似た考え方から説明できるのは、全く自明のことである。しかし、ギブ・アンド・テイクの公式が、供犠一般の心理学的根拠を説明できるわけではない。(中略)これを一般的で本来的な動機として持ち出すことはできない。供犠が本来は打算以外の何ものでもないとすれば、最も初期の諸宗教現象は何ら宗教ではないであろうとジェヴォンス[1858-1936、イギリスの宗教学者]が言ったのは、全く正しい。(中略)

 誰かに何かを与えることは、未開人の思惟では、われわれにとってとは別のことを意味する。贈り物は、それをもらった人をただ好意的な気分にさせるだけではなく、呪術的な意味でその人に「働きかける」。考え方や言葉と同じく、贈り物にも強制力があるわけである。(中略) 贈り物、供犠は「力」の給付である。多くのマナを持っている王が、そのことを示しており、王は多くの贈り物をすることで、それを証明する。(中略) 何かを振る舞うことは、力を流動化することを意味する。供犠と金銭(Geld)は、その起源でつながっている。古代高地ドイツ語で供犠という単語は「ゲルト」(gelt)であった。金銭は供犠の供物として、神聖な起源を持っているのである。未開人の贈与から、一方では神聖な活動である供犠が、他方では世俗的な活動である商業や金融業が発達した。贈り物に「価値がある」(gilt)とは、力を呼び起こすという意味である。北アメリカの「ポトラッチ」のような風習、つまり互いに競って一見無意味な浪費をし、価値あるものを破壊することもここに由来する。

「神と人間──聖なる行為──」(の章)より、「A 外的な行為」の「26. 浄化、供犠、聖餐」より(page 201-203)

 

浄化と供犠が同列に論じられる場面とはそもそもどういう場面だろう。犠の字面からも想像できるが、「供犠」には生き物の血が流されることが多く、それはむしろ土地を血で汚す事態であるとさえ言えるのであるが、ここにも典型的な「反対物の一致」の範型が見出されるのである。血を汚れたものと考えるのは、流される血が身内(仲間)のものなのか、身内外のものなのかなどの視点の遷移によっても自在に変わり得る。また、血を流す目的によってもそれに賦与される価値観は多様であり得る。

 

また血を誰が流させるのか、誰が供犠として「生きていた者」を死者として神の元に「帰す」のかによっても、その流される血の性質は変わる。供犠の供物として選ばれるのが、世界を不浄のものにしている邪悪で俗なる存在であれば、それを殺害し、供物として神の元に「帰す」のは善なる行為と本人たちによって位置づけられるであろうし、その血によってこれまでの罪過は購(あがな)われ、打ち消されさえするであろう。そのような「血」であれば、この血に「浄化する力」があると理解されても不思議はない。

 

だが、レーウ自身も強調するように、「浄化」という言葉の、われわれが連想しやすい表面的な部分に捕らえられてはならないという面も同時に存在するのである。浄化は、すなわち旧い世界の更新、そして新たなものを生み出すための儀礼的な動作でもあり、「モノや場が祓われてきれいになる」ということとは別次元の意味があるのである。もっと具体的には、邪悪なものがこの世から一掃されるという事態は、「世界が浄化された」と捉えられたとしても何の不思議はない。つまり敵の血は不浄のものであると同時に、それが流される時は世界を浄化する契機となる両義性を持つのである。

 

われわれの生きる現代という時代においても、このような「供犠」が実際に行われたことは記憶に新しい。それはきわめて宗教的な用語——ホロコースト——で呼ばれているジェノサイドである。それが「世界の浄化」というような位置づけと規模とを以て行われようとしたことは特筆すべきであり、それが宗教的な儀式の体を成していそうな側面について、われわれはもっと注意を向けても良いだろう。むろん、この用語の定着が比較的最近のことであり、またシリーズ『ホロコースト』のようなテレビ作品がその役割を担ったことは疑いがないものの、その後それが特定の歴史的事象を表す固有名詞として定着したこと自体が、件の事件をそのように捉えようとする事前の心理が働いていることは少なくとも認めることができよう。

 

ご存知のように、その規模や組織性については未だ諸説あり、その歴史的事実を巡ってさえ未だにその真相が解明されていない面があるという主張もあるそうだが、本論において、こうした政治的な動機に突き動かされた恣意的な歴史決定に関して、われわれは口を挟むべき意見を持たない。だが、第二次ヨーロッパ大戦の最中に行われたユダヤ人の大量虐殺が、現在、「丸焼きの供物」を意味する「ホロコースト」と呼びならわされていることには注目しても良いだろう。つまり、この歴史的な大規模弾圧/殺戮を「燔祭の供物」と捉えようとする考え方があるということだ。

G・ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』を読む #3

Tuesday, March 23rd, 2010
浄めは、非常にしばしばある時期から次の時期への移行に当たり、境目をなす危機的な時点で、通過儀礼として行われる。その際、前の時期の「汚れ」(ここでも、われわれの公共的清掃事業の意味ではない)は、すべて祓われなければならない。ローマで、国家の力の中心であるヴェスタ神殿が年に一度浄められた時には、危険が空気中に漂っていると言われた。浄めをする日は、「俗的行為禁止の日」(dies nefasti)、つまり不幸の日とみなされた。汚れは慎重に隠されたのであるが、それは神殿の汚れのみならず、一年間の国家の汚れにも及んだ。(中略) 季節や年の交替は、大掛かりな浄めを伴う。見たところ──少なくとも多くの人々の目には──何か災いに満ちた聖、不幸という性格の一部が、浄めの概念の中に残存しているように思われる。「神と人間──聖なる行為──」(の章)より、「A 外的な行為」の「26. 浄化、供犠、聖餐」より(page 199)

レーウの文章から、自分の「周回する浄化儀礼」や「オメガ祖型」の理論に支持を与えるような記述を見いだすことになるとは予期していなかったが、ついにそうした記述に遭遇することになった。

ひとつの時期から次の時期への移行期に「浄め」が行われるというのは、ここに書かれているように、世界中の広いエリアで観察されるのは確かな事実のようだ。オメガ祖型のいくつかの例を挙げるにあたって、筆者はかつて、日本の伝統的正月飾りの一つであるところの門松(かどまつ)や、とりわけ茶道の歳暮の時期に使われるらしい特別な茶器、「暦茶碗」などを取り上げて論じたことがあったが、まさに周回する時間の中でも、われわれに身近な「1年」という周期における一巡の時期、すなわち「年末年始」という次の周回へと移行していく「時の狭間」に《Ω》の形状を連想させるモノが出現し、そもそも大きな周回であるところの《Ω状》の未完の円相が閉じる(つまり、円の始まりと終わりがくっ付いて連結する)というコトの成就のために重要な役割を果たす、ということを論じたのであるが、レーウはこの過渡的な時間的狭間を「境目をなす危機的な時点」と喝破した。そしてそれは前時代に溜まった汚れという時間的な残滓をすべて祓い清めるための儀礼として捉える。

omega1

彼は、ここで「われわれの公共的清掃事業の意味ではない」とわざわざ括弧の中で断っているが、page 198でもレーウが記しているように「最初になされなければならない聖なる行為」としての浄化を、衛生上の観点から現代的な再評価が与えられているような「モーセやイスラム教の戒律」の解釈は、「すべて誤りである」と正しくも断定している。

浄めの祭祀が、「危機的」と記述されるようなエポックであるというその論拠は、今年に入ってから筆者がシリーズで取り上げた「反対物の一致」における論点といささかも矛盾しないどころか、それを裏付けるものとなる。つまり、危機的な過渡期を伴う周回は、単なる自然現象であるというよりは、きわめて人類的で人工的な何らかの動作を繰り返す行為であり、しかも危険を伴う儀礼なのであり、それがなければ古い世界は生まれ変わることができない、そうした分娩のような、ある種、「自発」的行為なのである。つまり、1年という地球の公転周期以上でも以下でもない自然現象的な周回は、その人類的・歴史的「行為」を思い出させる象徴的な範型なのであって、人間はその周回する時間を口実に、かつての人類が行ったところの「浄化儀礼」を模倣する契機としているというのが正しい。つまり、地球の公転周期や、それに付随する植物の一年周期的な生命現象から、人間が儀礼を学んだのではなく、人類の祖型的反復行為に、地球の公転周期が酷似していたと言うべきなのである。

omega2ウロボロス

今にも我が尾に食い付いて輪のように繋がろうとするΩ状の「未完の輪」を、閉じた「ウロボロス」のような完成した円環とするための契機が浄めの祭祀、すなわち「集団的浄化儀礼」なのであり、それの模倣しようとしているコト(事態)は、まさに人類の全滅を惹起しかねない危機的な「ゲーム」なのである。

この引用の後半部、「見たところ──少なくとも多くの人々の目には──何か災いに満ちた聖、不幸という性格の一部が、浄めの概念の中に残存しているように思われる」という部分は、とりわけ高い重要性を持っている。これこそが、円環の終わりに訪れる一種のお祭り騒ぎと、それが終わった後の嘘のような静寂という正月や過ぎ越の祭りに共通に見出される「意味性」なのであり、儀礼の背景において、今にも捉えられようと待機しているエッセンスなのである。聖なるものが不幸を暗示するというのは、まさに「反対物の一致」のひとつの側面であるし、「死を伴わない聖は存在しない」という筆者が、ここ最近提唱している「聖の本義」に関わる部分である。つまりレーウがここで暗示していることこそ、「大量死」という悲劇(災い)が、聖を成り立たしめるのであり、そしてその不幸(きわめて巨大な悲劇)の記憶が、「浄め」の意味合い(あるいは正当化)を必要とするということなのだ。

ところで、この(悲劇的とも呼ぶべき)歴史的エポックを「浄め」や「祓い」として諒解しようとする、言わば「宗教化された象徴理解」は、それが儀礼と化した時点ですでに堕落への一歩を進んでいる。レーウはその点についても抜かりなく指摘する。

目覚めつつある道徳的・合理的意識は、遅かれ早かれ、歴史を持ついかなる宗教の中でも儀礼による浄めに異議を唱えるに至るものである。(page 200)

つまりひとつにはキリスト教において行われる洗礼の儀式に「なぜ水が使われるのか」という抜本的な疑問は、依然として信者によってはなかなか呈示されにくいことではあるが、実はそうした疑問が大多数の信仰者たちによって抱かれる以前に、批判精神を持つ一部の宗教改革者たちによって、「もはや未開人のように思惟しなくなった人間は、両者[物質的な汚れも精神的な汚れも]を区別しはじめ、儀礼という手段を精神を損なうもの[形式主義/教条主義]であり、品位に欠けると感じるようになる」(page 200)のである。

[ ]内は筆者(当方)による。

しかし、一方でこうした形式主義としての儀礼や教条主義としての聖典(テキスト)を、宗教の慣習が保持していたことは、読み解き得る暗号を後世に伝えるという点では、少なくとも重要な役割を果たすのであり、宗教現象を道徳的価値だけで捉えようとする信心(信仰心)も、また別の教条主義へと宗教を矮小化する要因の一端を担っているのである。

そこで思い出すべきが、聖なるものは俗なるものによって実現する、あるいは、密教的な宗教の本義は、顕教という「反論しがたい大多数の支持を得る“善”」という容れ物によって世代を超えて運ばれる、というパラドキシカル(逆説的)な奥義について、なのである。

(続く)

参考文:

「忘れられた宗教の機能」についての長い補足

交互に現れる夜の世界と昼の世界について #1

Sunday, February 14th, 2010

親愛なる友よ! 例えば音楽においては自然模倣によっては何事も為しえないように、芸術の中の芸術的なものは自然模倣とは何の関係もありません。(R・シュタイナー「アカンサスの葉」より)

Acanthus Leaves

画像引用元:ハーブの育て方や効能・ハーブで健康生活!

Acanthus Flowers

画像引用元:花の家:今咲いている花情報(神奈川県三浦半島)

Acanthus red cloth

画像引用元:ALBUM Fuente Boylston:生地アカンサス赤

Acanthus by W. Morris

画像引用元:インテリア備品>ウィリアム・モリス:輸入家具・雑貨の専門店 e木楽館 Acanthus Scroll (by W. Morris)

「アカンサスの葉」という節の中でR・シュタイナーがアカンサスの葉について開陳している具体的な意味解釈そのものを支持するかどうかは取り敢えず脇に置いておこう。だが、象徴図像に対する取り組みの重要さという点で、彼の話の中には大いに耳を傾ける価値がある。そうした象徴物への態度については、人智学者や神智学者でなくても、特定の宗派への信仰を保持しなくても、象徴そのものへの瞑想的なアプローチによってその本質に迫ることは可能なのである。

芸術的創造のこの内的・原理的なものを再び発見することがないならば、私たちの柱頭のフォルム、否それどころか私たちの建築全体のフォルムの根底にあるものが理解されることは決してないでしょう。今、象徴的に言えば《籠の仮説》を擁護する人は決して私たちのことを正当に理解はできないだろうということです。(ルドルフ・シュタイナー『新しい建築様式への道』第1講義「アカンサスの葉」page 30より)

R・シュタイナーは《籠の仮説》について、数行前で以下のように説明している。「コリントの彫刻家カリマコスがあるとき偶然底に置かれている小さな籠を見つけ、この籠の底の周りにこのアカンサスの葉が生えていた… それゆえ、彼はアカンサスの葉に囲まれた小さな籠を見て、そうだ、これがコリント式の柱頭を与えてくれる、と言った… これは考えられる最も純粋な唯物論です。」

(自分ならここは「最も素朴な唯物論」と訳すだろう。だがそれは置いておくとして、)彼がここで言おうとしていることは、われわれが何度も繰り返して説明している秘儀の顕教的説明と秘教的説明の意味の二重性に関連している。本当に重要なことは、歴史的な(唯物論的な)説明の中にはないということだ。民間伝承的に伝えられるなんらかの象徴物あるいは聖典の伝えるような象徴的物語の成立逸話が、字義通りに信じられる価値のあるものではなく、ある種の説明便宜上の単純化が、その象徴物の存在を後世に伝える役割を果たすものの、その根本的重要さの説明自体にはならないという話である。

ここでの例で蛇足すれば、彫刻家カリマコスが着想したと言われる理由を説明する歴史的な「事実」は、それが真実であったかどうかに関わらず、カリマコスが何らかのインスピレーションを授かった事実の一端を伝えるものではあるかもしれないが、その本当の理由やインスピレーションの内容そのものについては、まったく何の説明にもなっていない。つまり、こうした逸話を教育的理由で記憶しよう(させよう)とする人類の努力は、その「事実」を後世に伝えはするが、その内容的な本質は、《コリント式の柱頭》そのものからわれわれが直接受け取らなければならないのである。

こうした象徴物などの存在を後の世に伝えようと働く逸話は、典型的には観光ガイドが丸暗記できるようなものとして十分な簡略化と覚えやすい展開とを以て口伝されるが、その存在の伝えようとする《普遍的題材》とも呼びたくなるような本質的内容自体、そしてその価値が、その象徴物自体に対峙する個々人がそれぞれ受け取らなければならないという、ひとつの二重性を保持する。まさにこのパターンは、例えばマドレーヌ菓子が何故「貝の鋳型に流し込まれて作られるのか」ということの歴史的な説明(それを発案したのがマドレーヌという名の女性だったから、というような即物的な説明)、あるいはシュタイナー流に言えば、「唯物論的な説明」としては十分なのかもしれないが、それを記憶するだけで事足れりとしてしまえば、それを伝え聞いたことの真の重要性は受容していないことになるのである。

いかなる聖なるものも、それが伝えられるその仕方とは、世俗化されて受け入れやすい説明、そして分かりやすく覚えやすい説明という《乗り物》に載せられて、太古の昔から今日という時代まで運ばれてきたものだ。一見宗教性との兼ね合いさえもないかに見える事物が、きわめて神秘的且つ日常的に了解困難な内容の伝達に寄与してきたのか、ということに気付き、解き明かし得る謎の鍵として機能することを、われわれは何度も思い返す必要がある。

■ 関連文書

“ヴィーナスの丘”と褥の皺と [2]

秘儀(密教)は顕教によって伝えられる

壷の底に見出されるもの
(あるいは「壷を焼く」という儀礼に関わる)

Wednesday, June 6th, 2007

Pottery over Tokyo

轆轤(ろくろ)を使って作ったと思われる壷なども含め、もっとも簡素な素焼きの土器の多くが、一見、地面に自立できないような丸まった底になっているのは、おそらく立てるための三脚状の道具が別にあったか、地面の窪みにそれを直接嵌め込むか、その辺りの機能上の理由のためにそうなっていると想像されるが、平らな場所に自立させておくことができない意匠の壷が、これほどの数で古今東西のさまざまな民族の古代遺跡から発見されるという事実には、別の隠れた意味の存在を考慮してみる必要があるのではないかと考えさせるものがある。

一年草の植物のライフサイクルのパターンは、発芽があり、伸張と成熟があり、花を咲かせる時期があり、結実があり、最終的には枯死がある。そして枯死には播種が伴われることがある。この、季節の巡りに併せて一見終わったかに見えるひとつの生命史は、来る年の迎春における「発芽」という劇的な復活のエポックを経て、再び誕生から枯死へのサイクル(周回)の途に就く。これは通常、植物の典型的特性として理解されている。それはまた、まったく正当な理由により、錬金術の象徴体系に用いられる比喩としても登場する。

一方、動物のライフサイクルは、誕生と成長があり、成熟した個体が生殖によって子孫を残し、その役割を次世代にバトンタッチして終えるというパターンをとるので、普通そこには生命活動の断絶は存在しない。冬眠行動をとらない限り、そこには仮死状態を連想させるようなライフサイクルの休止局面がないのである。仮に冬眠したとしても、これは次世代への生命継続の連携とは無関係である。ヒトの個人の人生について言えば、このことは他の動物と同様で例外ではない。植物のライフサイクルと動物のライフサイクルには対照的な相違が認められるのである。

だが重要なのは、集合体としての人間――人類の歴史(文明)――が、まさに植物のライフサイクルを思わせる範型を持っているという事実である。

人間が「文明の極」への旅の第一歩を踏み出す(それは終局の直後から始まる)とき、人間の手によって造り出されるあらゆる道具が、記憶にも新しい「人類の上に起こったある悲劇的できごとと同様のこと」をふたたび引き起こす、発端の萌芽があるということに気付かないほど彼らが愚かであったとは考えにくい*ことである。彼らは、われわれよりも「そのできごと」に遥かに近い、いわば「戦後」を生きていたのである。その畏怖すべきできごとの原因が、人間の道具に依存する、いわば「モダニズム」や「改革性」の中にこそ潜んでいることは、彼らなりの方法で伝承されていた筈である。

* 唯一神への信仰を強要する普遍宗教の類が強調する「偶像崇拝の禁止」とは、キリスト教のイコンのような宗教的な崇拝対象物に限るものではなく、実は「あらゆる人為的創作物への崇拝の禁止」であったと考えられる論拠がある。人間が人間の手によって作り出すものを絶対のものとして崇拝することは、人間が人間の潜在能力を過信することを意味し、人間によって解決できないものはないとする人間の自己愛と自己過信へとつながっていくのである。その自己過信が、人間自身によって解決することのできない問題を人間自体が作り出すことになり、それが人間自身を一旦完膚なきまでに滅ぼすのである。

さまざまな場所で採られてきた伝承のための儀礼的道具(記憶術)が、例えば貝殻であり、あるいは紐で束ねられた収穫物であり、または植物のタネや葉なのである。大規模施設としては、前方後円墳のように「墳墓」として信じられているような儀礼場も含まれる。そしてそれぞれの持っている形の中に、古代の人々が維持した記憶を連想させる記号を見出すのだ。むろん、それを連想させる理由は、「メメントモリ(死を想起せよ)」という言葉で以て、自戒の念をいくどでも想起させる、古くからの習慣と根を同じくするものであることはいまさら言うまでもない。

その記号は、宝珠のような、キツく絞られ細くなった「軸」ないし「支柱」を下部に持ち、その一定の長さの軸(支柱)が、あるものの上昇運動の「軌跡」に一致し、それが上空で炸裂するというような、花火や薬玉と言った祝祭的な儀式にも通ずるような、ある種の運動や化学作用の様態、そしてそうした祝祭を連想させるある種の物質の爆発的な膨張を表す「量的」な象徴物となる。これはできごと自体(コト)を表す。

そして、この「キツく絞られ細くなった軸」を持つ形状は、その輪郭が鍵穴のような形状として表されることがあり、またその輪郭は羽根を持ったシャトルコックの様な形状そのものである場合がある。これは「できごと」自体ではなく、「できごと」を引き起こすモノを表す。

これら結果としての「できごと自体」とできごとを引き起こす「原因物」の両方を表すことのできる、きわめてまれなひとつの道具とそれらの形状の持つの総称が、筆者が提唱している「Ω祖型」と名付けられるべき象徴的図像の、通奏低音的な、最も普遍的な「イコン」なのである。

このΩ祖型は、轆轤で形作って焼いた素焼きのつぼによっても古代人の眼前に現れたものであり、それは壷という「道具」としての純粋な機能とともに、ある種の戦慄を呼び起こすものであった。何故ならその形状が「死のできごと」を連想させるものであったからである。道具が彼らの生活の利便に供し、それが彼らの生存を有利にしつつも、それ自体の成長と進化の果てに存るものが、「死のできごと」を引き起こすものと類似の形をしているという暗合は、きわめて象徴的である。これはヒョウタンを道具として利用するホピ族のようなアメリカ・インディアンの伝承の中にも、「灰の詰められたヒョウタンが頭上へ落とされる」という預言があることなどをわれわれに思い出させる。焼き物に限らず、ヒョウタンの実のようなモノを詰めるのに最適な原始的な容れ物が、まだ実現に至っていない「未来の道具」の形を伝えるための記号となっているのである。つまり、最も原始的な道具の原型とも呼ぶべきものの形状が、最も進化した究極の道具の形状と似ている*ということ。そしてその形状に対する元型的な記憶の共有が、文化的な記憶術を通して引き継がれているのである。

* 最も原始的なツールが最も洗練されたツールの形と類似しているという不思議な暗合は、S・キューブリックが映画『2001: Space Odyssey 2001年宇宙の旅』の中でも鮮烈に描き出している。映画冒頭の「人類の夜明け」と呼ばれるシークェンスの中に、われわれ人類の祖先となる類人猿の「ひとり」が、動物の骨を食料確保のために動物殺害のための道具として初めて用いたのち、それを勝利の歓喜とともに宙空に放り投げたとき、それが落下途中で21世紀の宇宙船に変容するというシーンである。

Odyssey1 Odyssey2 Odyssey3

それにも関わらず、そうした記号的な意味を、その日常の必要から造り出した道具の中にも込めたのは、意図してでないということができようか?

壷は、今食する以上の量の(余剰の)生活の糧を貯め置くために現れた。したがって壷こそ、未来における自分たちの生存のために少しでも有利にするために製造された最初の洗練された道具のひとつと言えるだろう。そしてその《壷》は、象徴的なことに、文明というすべての事件の発端をもたらしたものであると供に、その終焉(あるいは救済)をもたらすものの形状をも予想する記号なのである。すなわち、余剰作物だけでなく、実利に資する道具という全ての元型的なものの《究極的な姿》をも詰め込み、その智慧のすべてをわれわれのために「貯め置く」ためのものでもあったのである。

■ 拙サイト内の参考文

金剛への第一歩──Ω祖型とは何か[2]

Ω祖型の事例増える

Wednesday, May 30th, 2007

Gaza Antiquity Olmec Tablet

2005年10月から2006年2月までの間、当entee memoにて掲載した「金剛への第一歩〜Ω祖型とは何か」のシリーズは、多くの図版を牽いて古代から伝わり反復されるひとつの祖型的図像の意味を大胆に解き明かし、「古代人」がわれわれに伝えようとした過去の重要な出来事について注意を喚起しようとした。

(こちらは古い記事が最も下に来るというblogらしい設定になっているので、下までスクロールダウンしていって、最初から順序通りに読まれるのもよいし、後の結論からだんだんに後に遡っていくのも良い。いずれにしてもどちらが面白いかといえば、書かれた順序通りに辿っていくことだと思われるのだが、本と同様、必ずしも読者に最初のページを開いてもらえるかどうかは分からないのである。)

昨年の秋から今年にかけて立て続けに米大手メディアに特集記事として古代の遺物の画像が伝えられたが、その中にかなり典型的と言っても差し支えないようなΩ祖型的な象徴的図像が登場していた。遅ればせにほぼ同時にこの二つの記事の存在を知るに至ったので、それをとりあえず紹介して自分の備忘録ともしておく。おそらく父の死とその後の対応で忙しかったために目に停まらなかったのであろう。

そのひとつは、TIME誌のJune 4, 2007(2007年6月4日号)のp. 49のGlobal Adviserというセクションで組まれたもので、「The Glitter of Old Gaza. Inspiration lies in Palestine’s antiquities: 古代ガザの絢爛。パレスチナの遺跡にインスピレーションはあった」と題される記事。

TIME June 4

ここには「台座 + 柱+ 炸裂する光」でも取り上げたようなカトリック聖体顕示台(モンストランス)(a)や愛染明王(b)のような「台座 + 支柱 + 光輝」と思わしいΩ祖型図像が「3回」も繰り返えされて示される石板(タブレット)の破片写真が掲載されている。アラビア語(?)のカリグラフィーと思われる文字の図案化されたものが見られるが、何が書かれているのかはきわめて興味深い。

DISCOVER誌のJan. 2007(2007年1月号)のp. 49の「ARCHAELOGY - Oldest Writing In New World Found: 考古学──新大陸における最古の文字発見さる」と題される記事。ここで掲載されているメキシコで新たに発見されたオルメカ文明のものと思われる文字盤には28種、合計62の文字刻まれている。

Discover

Overall tablet

記事によればこの文字はトウモロコシなどを含む象形文字と思われるというが、そのトウモロコシを思わせる転倒型のΩ祖型、饕餮(とうてつ)を思わせる三本足(三位一体の世界像)、そして大林組の鬼瓦にも共通するような「あからさまな真性Ω祖型の図像」などが含まれている。これはホピ・インディアンの神話に登場する「落下する灰のつまったヒョウタン」や、ナヴァホ・インディアンのサンド・ペインティング(砂絵)にも見られる「落下するシャトルコック」(c)のパターンを強く連想させるもので、実に戦慄すべき図画内容なのである。

「羽子板の羽根にしてもバトミントンの「弾」にしても、それらが同じような形状をしているのは、比重の高い(重い)材料でできた先端部とそれに取り付けられた比較的比重の低い(軽い)材料でできた基部である。… 一定の方向を保ったまま飛び続けるという目的を果たすなら、それらは同じような形になるであろう。それはまさに時代や状況とに関わらず「機能が要請する形状」というものは大体同じような条件の形体を共有するからである。 」(自著 金剛への第一歩──Ω祖型とは何か[3]より引用)

monstrance(a)

aizen_myoo(b)

Atomic bombs Shuttlecock(c)

こうして見ると、古今東西どの文明にも共通して見出せるのは、このΩ祖型だというのはより強く裏付けられるように思えるのである。

以下のブログもこのニュースの発表の時点で取り上げていた。

http://blog.livedoor.jp/hvw_hanai/archives/50757022.html

http://blogs.dion.ne.jp/bunsuke/archives/4160278.html

全く遅ればせの、驚きと紹介なのであった。

三本の光(光の三態)について

Wednesday, February 1st, 2006

地上の星座

阿弥陀如来 Titan ICBM

この題名の「光の三態」は、やや不正確な表現かもしれない。なぜならこの表現にはあたかも「世界にはたったひとつの種類の光しか存在せず、その唯一の光に三つの様態がある」とも読める題名だからである。しかし、ここでしようとしているのは、むしろ全く異なる3つの「光」(だが、緊密に連携し合っている光)についての考察である。そしてその「連携」を理解することによって初めてそれらを「同列」に論じることが可能なのだという論考である。その内容を鑑みれば、とても1回で語りきれる内容ではないが、先行するテーマの進捗もあり、こちらを先にシリーズ化することが許されないのと、これらについてはエリアーデによって包括的な研究があるのと、「集団的浄化儀礼」の論考シリーズにおいてもすでに必要な図版を通してある程度観て来たので、それらを参照して頂くことにして、ここでは重要な「光」についての前提の共有だけを目指すことにする。

またエリアーデの言葉を紹介することが本稿の目的でもないので、ややためらわれたのだが、これに関連して彼ほどの網羅性を以て文献を当たっている人もいないのでやはり避けがたいものがある。

(略)光はその存在様式自体からして「天地創造的」である。光が出現するまでは何物も「実在」し得ない。(それ故、後に見るように、グノーシス派やマニ教徒によって待望された宇宙絶滅を達成しうる唯一の道は、世界中に散乱した光の粒子を抽出し、最終的にはそれを超越的、無宇宙的「高み」に再吸収するという長い複雑な過程であった。)だが、発光の原理の創造力は鋭敏な知識人にとってのみ自明のことである。(略)

ミルチア・エリアーデ『オカルティズム・魔術・文化流行』第六章「霊、光、タネ」よりp. 173(楠正弘・池上良正訳 未来社)

この考察に価値があるとわれわれが考えるのは、異なったものであるはずの複数の光的な存在物・存在者が、それらに共通して存在する一定の性質を以て同じ名前で呼ばれてきたために、その事象そのものが文字通り「同じものである」と考えられ語られてきた面がありそうなこと、そしてその混乱によってわれわれが危機に遭遇しているにも関わらずそれに気付かずにいる可能性があること、すなわち一方の「光」のありかたについての(無条件的な)肯定的認識が果たして他方の「光」を信頼すべきものとわれわれが考えてしまう原因になってはいないか、という「潜在的な危険」へ、ひとの注意を喚起する必要を認めるからである。

光が良いものだという肯定的な認識は、神秘主義者でなくてもほとんど一般的通念であると言っても良いだろう。そして闇は否定されるべきものであるという不文律は光を肯定する精神と表裏一体になっている。暗い闇ではなく明るく照らされた世界を志向するほとんど宗教的と呼んでも良さそうな精神的傾向をわれわれの多くは持っている。したがって伝統的にある種の「精神主義」は、これまた光の肯定的側面についてのみ「光を当て」がちであった。そして、確かに光が無条件に肯定されるべきものと考えられる前提は、多くの宗教家や神秘家によって「疑いなく」共有されてきたかに見える。が、その本質のいくつかの検証を深めた後でも以前と同様の見解を維持できるかどうかはその理解の深度次第であり、また生命存在そのものに対する態度次第である。光という実在の多面性のすべてのアスペクトを理解しなければ、真の神秘に到達することも正しい「世界の認識」に到達することも出来ないのである。

光というものの絶対的で無視することのできない性質のひとつは、その<能動性: activity>にある。そして闇の特性とは<受動性: passivity>である。例えば光の世界と闇の世界が壁ひとつで隔てられていると想定して、その壁に穴が穿たれたとすると、光は闇の方に向かって射し込むのであり、闇が光の世界に流入することはできない。つまり、闇はつねに光の影響下に晒されようとしているのであり、光は全体を同じ性質のもので満たし、支配しようとする傾向がある。多くの人々が信じる光の肯定性とは裏腹に、光の性質というものは場面によってはきわめて暴力的で、抜きがたく一方的で、無慈悲でさえある。この光の性向は無視するにはあまりに重要なものである。

したがって、ここでは光が肯定さるべきもの(善)であり闇が否定さるべきもの(悪)であるという、万人にとっていかにも分かりやすく単純な「精神主義」を一旦完全に白紙にした上で、「三態」のそれぞれが持っている性質を改めて検討すべきなのである。

われわれが区別しなければならない光の「三態」とは以下の3つである。第一に「文明」を意味し「ひとの世界を暮らしやすいところにする」と言われ信じられてきた人類の行為としての「光」(地上的・日常的・世俗的・啓蒙的な光)。そして第二には神とも如来*ともキリストとも呼ばれ、また天上的・大洋的・宗教的な生命エネルギーとしても理解される「光」(神聖にして実存的・永遠的な光)である。そして第三に、天上と地上とを結びつけるために現実世界に出現する非日常的・超越的な「光」「光輝」。これらの3つである。第三の光は、「天上の意図」と「地上の出来事(地上的な希望)」とを一致させるために「この世(の上空)に来臨し輝くこの世ならぬ光」と言い換えてもよい。

* 阿弥陀如来(あみだにょらい、amitaabha)は、阿弥陀仏・阿弥陀などともいい、大乗仏教の如来のひとり。「アミターユス(amitaayus)/アミターバ(amitaabha)」を訳して、無量寿仏/無量光仏と呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。(by Wikipedia)

そしてわれわれが問題にするのは、これら三種の光があたかもひとつのものとして(敢えて言えば「善なるものである」として)、無条件的・無反省的に同一視していやしないか、ということなのである。それらが相互に無関係であるというのではない。「同一のもの」と簡単に受け入れてしまって良いのか、という事が言いたいのである。

第一の光、すなわち地上的・歴史的な光の伝搬は、宗教家(キリスト教・仏教を問わず)による布教活動や人類の知への衝動(好奇心)とセットになっている以上、その点においては確かに「宗教」と無関係ではあり得ないのであるが、これは人為によるものである。ここでは「宗教」が独占的に扱い、神秘家や芸術家によって「記述」されてきた「この世ならぬ光」を便宜的に「宗教的な光」と呼んでいるのであるから、やはり第一と第二の光は(一旦は)区別されなければならないのである。だが、第二の光を体験によって感得しようと「聖なる実在への邂逅」を計ろうとする人間の衝動や、歴史的に行われてきた修行や実際の体験についての記述(表現)が多くの新たな神秘家を生産して来たこと、そして追随者による再体験・追体験の追求が第一の「地上的な光」の歴史とある種の共時的な一致を見せる面があることはひとつの特記事項ではあろう。

よく語られる地上的な光に関しては、それが文明の「明」に当たる部分、啓蒙(開盲)を意味する英語の“enlightenment”の中の「light」に当たる部分からも諒解できるように、人々を闇で盲しいた状態から「明るく照らされた状態」すなわち「ものの見える状態」へとあたかも高所から導くという「文明をもたらす側」の不遜な思い込みがあってこそ成り立っているものだ。だが、科学的思考や科学技術が、物理的にも「より明るい明かり」を造り出して地上を文字通り照らし出しているという事実とその合理的な思考法が西ヨーロッパからもたらされた事実は興味深い。地球の文明化された領域は、実際問題それ以外の諸地域よりも明るく照らし出されている。それは夜間の航空写真(図版1)によっても赤外線カメラによる地上の熱映像からも明らかである。文明は人類の心に目を与えたと同時に、物理的な光をももたらしている訳である。

そして、宗教家や神秘家が競って追求し、また記述して来た「神秘の聖なる光」(第二の光)への信仰は、地上的で人為に由来しながらも第一の光とは全く性格の相違する物理的な光(第三の光)の生産へと、人類を多いに掻き立て刺激して来たのであり、またその窮極的な結果としての超越的・非日常的な<光>さえも「粒子の抽出」によって最終的に獲得した。そしてその最終的で最も強烈な光の製造は、人間の貴賤を区別することなく、無差別に、平等に、「光の元に晒す」ことをほぼ理論上可能とした。

エリアーデの言うところの「光の分離」の多義的価値は、まさにこの事実を度外視しては意味をなさない。もう一度牽く。

われわれは原人の救助をモデルに形成されたアダムの救済物語を、改めて取り上げるつもりはない。しかし性的本能の魔性が、人間の起源をめぐるこの神話の論理的帰結であったことは言うまでもない。実際、性交、特に出産は悪である。なぜなら、それらは光の監禁状態を子孫の肉体の中にまで延長するからである。マニ教徒にとって、完全なる生とは不断の浄化、すなわち物質からの霊(光)の分離をいう。救済は物質からの光の決定的分離に対応し、つまるところ、世界の終焉に対応しているのである。

前出 第六章「霊、光、タネ」よりp. 176-177

ここで書かれている「光/霊」というものが、「異なる三つの光」をめぐるものであることは、既にわれわれにとっては明らかなのである。われわれは地上に縛られた第一の光によって天上の第二の光に近づく。そして第一の光の窮極的実在である第三の光の獲得は、われわれを等しく第二の光の世界に連れ戻すということなのであった。地に生き、生を愛するなら、われわれが「光」を峻別しなければならない理由がまさにそこにあるのである。

グノーシス説もマニ教も、世界は悪魔的な力、アルコンたち、あるいはその指導者である造物主(デミアージ)によって創造されたと考えた。この同じアルコンたちが後に人間を創造したのであるが、それは天から落ちた神的「閃光」である霊(プネウマ)を監禁するために他ならなかった。(略)救済とは本質的にこの神的天界的な「内なる人間」を救い出すことであり、彼をその生まれ故郷の「光」の国へ連れ戻すことを意味している。

前出 第六章「霊、光、タネ」よりp. 179-180

図版1(第一の光)

米軍の気象用DMSP衛星が撮影した「夜の地球」の写真。文明の分布図がそのまま実際の夜間の光で表されている。

引用先

図版2(第二の光)

三重県名張市・栄林寺の木造阿弥陀如来立像「慶長十四年(1609)八月彼岸堺の住人休味作之」

引用先

図版3(第三の光)

ICBMタイタンの打ち上げ実験。「第二の光」の到来を実現する「第一の光(文明)」の究極的作品。至上権象徴物。

参考:機能していない大陸間弾道弾(ICBM)を販売するオークションサイト(多分冗談)

金剛への第一歩
Ω祖型とは何か[3]
Archetypal Omega or the Omega Archetype

Sunday, December 18th, 2005

■ シャトルコック

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羽子板の羽根にしてもバトミントン*の「弾」にしても、それらが同じような形状をしているのは、比重の高い(重い)材料でできた先端部**とそれに取り付けられた比較的比重の低い(軽い)材料でできた基部である。基部は空気抵抗が大きくなる(たくさんの空気を受ける)ように「末広がり」にデザインされる。バトミントンの羽根や矢といったものから、スペースシャトルやミサイルといった現代の大型飛行機械に至るまで、一定の方向を保ったまま飛び続けるという目的を果たすなら、それらは同じような形になるであろう。それはまさに時代や状況とに関わらず「機能が要請する形状」というものは大体同じような条件の形体を共有するからである。

上昇と下降という概念は拙論の冒頭において宝珠を取り上げた時より出てきているキーワードである。宝珠自体が燃え上がる炎の上昇と下降する水滴のイメージの両方を象徴しているということは言及済みであった。弾丸や矢は上昇し、そして下降してこそ、その役割を果たすことができる。そしてこの上昇と下降の意味を端的に教示するエメラルド盤の記述***を再び思い出すことは極めて有益であろう。



* バトミントンというゲームは(というより実に多くの球技は、と言うべきであろうが)、自分の陣地においてではなく、ネットで隔てられた敵の陣地の中にそのシャトルコックを落下させることで勝利を決定するものである。

** この競技の世界ではシャトルコックの頭頂部が逆に「基部: base」と呼ばれる。そして末広がった基部を単に「feather: 羽根」と呼ぶ。

*** エメラルド盤の記述:

7) かくして「大地」は、火と燃ゆるであろう。

7a) 偉大なる力によりて、精妙なるものより「大地」へと供給せよ。

8) それは地より天へと昇り、上なるもの下なるものすべてを支配す。

[Jabir ibn Hayyanによる翻訳]

7)大地となる火。

7a)火より大地を分離せよ。さすれば汝、配慮と賢明によって、粗雑なものより内在するの精妙なるものを見い出すであろう。

8) そは地上より天界へ立ち昇り、自らが高き光の軌跡を描かんとす。かくして地上に下る。しかるに、その内部には、上なるものと下なるものの鬩ぎ合いあり。

9)光の光が内在するがため、そを前にして闇は消え失せる。

[アラビア語の他の版(ルスカの著作より、ダノニモスの翻訳による)]

14)そして私が『Galieni Alfachimi』の書によりて「太陽」の作用について既に述べたことには欠けたところはない。

[12世紀ラテン語]

8) これは地上から空へ上昇し、そして空から地上へまた降りてくる。そうして上なるものと下なるものを超越した活力、効力を身に着ける。

9)この手段で、汝は全世界の栄光を手に入れるであろう。そして汝はすべての影と盲目を退け得るであろう。

10)それは不屈の精神で、凡てのほかの剛勇と力による勝利を奪い取るものである。

それは、すべての繊細なものとあらゆる粗雑で堅いものを貫き通し、征服し得る。

11a)このようにして、世界は創造されたのだ。

14)太陽の作用について述べた我が演説これにて終る。

[『Aurelium Occultae Philosophorum』Georgio Beatoからの翻訳]

引用先(Translated by Atsro Takasaki):The Emerald Tablet of Hermes Trismegistus

■ 原子爆弾(核兵器)

地上にて今のところ最大の破壊力を持つ原子力エネルギーは、われわれ人類が到達した最大にして最後の「叡智」の結晶である。そして最初のできごとを作り出すものである。そして、戦時という緊急事態における生き残りをかけた軍事プロジェクトであったとは言え、マンハッタン計画ほど、ほんの1個の(正確には3つの)「モノ」を作り出すために(無論それはわれわれにとって最初の「モノ」ではあったが)これほどの規模のグループワークと細心の注意と集中的な努力を要して完成されたケースもそうざらにあるまい。そしてそれだけの総動員体勢を可能とする状況も生き残りをかけた闘争の場、以外にはなかったのかもしれない。

戦争という異常事態が、核エネルギー獲得および利用時期を早めたという見方が粗方の歴史観であろう。また反対に米国政府の、そして退役軍人の作る団体のいくつかの公式見解に観られるように僅か2つのこの特殊爆弾が「戦争の終結を早めた: Atomic bomb hastened the end of war」といういかにも戦勝国らしい「希望」的見方が存在する。しかし、ヨーロッパで2度目の大戦が始まる1939年前後から始まった原子物理学界における矢継ぎ早かつ劇的な学問上の発見と「新エネルギー抽出」への急迫した取り組みと、その成功と目的の完遂によって、その獲得者の勝利を以て大戦が幕を閉じるという、戦争の進行と核エネルギー獲得の物語進行のほとんど鮮やかな一致を見るに、あたかもかの第二次世界大戦そのものが「核エネルギー」の獲得、すなわち「真の世界至上権獲得」を巡る闘争であったと読むことさえできるのである。

それを誰が最初に手に入れるかが世界に於ける真の覇者を決めるわけであり、この獲得競争に勝つために戦争に克たなければならなかった様にも思える。つまり戦争を終わらせ平和を築くことが闘争の目的であったというよりは、この「力の獲得」を主たる目的と考える人々からすれば、戦争は結果であったというよりは、核開発の成功(至上権獲得)とその使用を正当化する一つの手段であった様にも思えるてくる。現に、最初の原子爆弾が完成間近であった時、それに携わる研究開発者の多くが最も怖れられたことは「日米大戦が終わってしまうこと」であったことが知られている(マンハッタン計画を発足当初から取材するW・L・ローレンス『0ゼロの暁』に詳しい)。戦争が終わってしまえば、それを成功させる近々の理由を失うばかりか、またそれを他でもない人間の上に「落としてみる」という実例を得ることができなかったからである。つまり戦争が核を開発したというよりは、「核」が戦争を利用して生れ出たのである。

これがすでに敗北が明白だった日本に敢えてあの爆弾を落とした理由であったし、二つの異なる方式の新型爆弾の両方を人の上に落とした理由*である。まだ降参していない以上、敗北が明らかな相手に対して、彼らは「何をやっても良かった」のである。互いに殺しあう戦争という混沌状態においてやってはならないことは一つもないことになった。これがすでに知られているマンハッタン計画最終段階における史実である。そしてその「何をやっても良い」という方針は、戦争状態になっている世界のあらゆる場所において今もなお継続されている「特殊事情」である。

* 日本という「日の丸」によって象徴される火の玉(A)は、もう2つの火の玉(B)(C)と出会って、3つの火の玉の三位一体を実現したのである。

Joseph Papalia Collection@The Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc.

核兵器に限らないが、上空から落下させる兵器の弾薬の類は、大なり小なりシャトルコック状の形をとる。それは、意図した部分が下を向くことを狙っているからである。つまりほとんどの弾丸(shell*)には天地があり、意図した部位を意図した方向へと向けて発射させる目的に適ったデザインなのである。

* 砲弾・弾丸を意味する単語が貝殻と同じ「shell」であるという暗合も興味深いものである。こうした「暗合」は、とりわけ兵器関係の用語では著しい。手榴弾を意味する正式名は「grenade, hand grenade」であるが、実際の兵士の使う隠語としては「パイナップル: pineapple」である。これはパイナップルはコロニアル様式の家具などでは「フィニアル」のひとつとして頻繁に登場する果実である。ここにもフィニアルの武器との関連が見出される。

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落下する際の「天地」を意識して描かれた二つの原子爆弾(FatmanとLittle Boy)の構造図。これがわれわれを精霊と「福」で満たす「薬玉」として天空で割られ、頭上で「展開」された。「壷」は、前出の「鍵穴状」の前方後円墳・仁徳天皇陵から発掘された自立できない「鍵穴状」の壷型埴輪。

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参考

Le projet Manhattan

The First Nuclear Bombs

Hiroshima, Nagasaki… The Manhattan Project

British Nuclear Test Veterans Association: 英国核実験退役軍人協会のサイト

■ 銀河における「キノコ雲」

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画像引用先:

An Atomic Hydrogen Mushroom Cloud Bursts out of our Galaxy

この興味深いサイトでは超新星爆発によって引き起こされる銀河系内で観察されるキノコ雲である。カールしたシェープで内側に巻き込まれるガスは、まさに「フィニアル」に到達しようとする「波頭」の様でもあり、また石灯籠や鬼瓦に伴って現れる「雲気」そのものの形である。

■ 結論

われわれ人類は、ある徴を重要なものであると人々に注意を喚起し、「忘れないように」するために、時を経るにしたがって象徴的物品を美しく飾り立てた。またある時は、世界の「至上権」の相続者として、覇者の家族の紋章の中にその意味を込めた。それは結果的に「家」や「国家」の徴として人の目に触れる形で伝えられた。

それ自体は、単に巡礼者の身に付ける「貝殻: shell」のようなものだったかもしれない。それはもっと遠く過去に遡れば、まだ祖先達が今のような言葉を話していなかった頃でさえ、こうした「聖なる道具」というものを集めて、彼らの時代以前に起きた<題材>を伝えるために、子孫の手から手へとに伝えたに違いない。道具は伝えられたが、その意味は早い時期に失われたに相違ない。それが「極めて大事なものである」という思念だけを伝えたであろうが。

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Operation Greenhouse(グリーンハウス作戦)と呼ばれる1951年のエニウェトク環礁で行われた原爆実験の際の爆発20ミリ秒後(0.02 秒)の画像(左)と大林組の鬼瓦を使った広告(右)。

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こうした図像表現は、すべて「記憶術」の一端を担うものであり、美術(あるいは「表現」と呼んでも良いもの)というものの本質的役割だった。したがって、こうしたあらゆる作品は内容を閉じ込める<手段>であり、言わば「器」である。だが閉じ込められた題材(content)よりも器(ware)の装飾が後の時代には目的化された。われわれは何世紀もの間、その美しい器を愛ではしても、その器が何を今日の時代まで運んで来たのかを忘れつつある。だが、工芸品や絵画作品、そして紋章などの図像群から華飾を排した時に純粋に立ち顕われるものが、象徴象形における「祖型」である。そして「Ω祖型」とは、超歴史的なスケールで循環するわれわれの文明(人類史)に関する記憶、そして「叡智の結晶」の秘跡としての実在、あるいはその恐るべき「回復: restore」可能性を持続的に次世代に伝えるための形象的な約束事なのである。

それらがその目的を確実なものとするために飾り立てられたということは、グロテスクな事実であるとしても、否応なく「文化」としての美術行為の発展を促し、われわれの生活を「潤いのあるもの」にした。しかしこのようにして多様なカテゴリーにおいて個別に異常なまでの発展を遂げた「装飾」は、それ自体が目的化されたため、当初の<普遍的題材>の記憶と伝達を担う目的からの逸脱をもたらした。そしてこうしている現在も、この記憶は遠い彼方に埋もれようとしているのである。しかし、然るべき観察眼と洞察を持って接することによって、それらの意味、扱われた<題材>の意義はいつでも回復する。これが「解読」と呼ばれる作業である。

確かにこのように象徴の意味が薄れつつあるとは言え、大いなる「事・物」とその実在の認識・把握という緊急を要する内容は、一方で時代とともによりその具体性と明瞭さの度合いを増しつつあるのも事実である。つまり「それが何であったのか」が分からない、かつて表現されたものの一部が、現代社会において実現され始めたことによって、その抽象性の高い図像の具体的イメージというのは、遠大な時間の流れとともに忘れ去られた「機能が要請する形状」の回復と同時に「復元」を遂げるからである。

かくして、あらゆることが起きている現代という時代において、かつて「約束が要請する形状」でしかなかった紋章や文字などの形象的記号は、「機能が要請する形状」との一致を果たすのである。

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「歴史の三層構造」とΩ祖型を伝えるインドのアートの一つ。「Alcove」と呼ばれるニッチ(陥凹窟)。

画像引用先:Indira Gandhi National Centre for the Arts

ここではあらゆる「Ω祖型」関連の建築物と美術品、そしてフィニアルのバリエーションの写真が観られる。

そして「機能が要請する形状」は、その機能の意味の指し示すものが何であるのかが失われた「歴史時代」の極めて初期の段階で「約束が要請する形状」と化した。そしてその「約束」は狭い人間のグループ内のコンセンサスとしての意味を超えて、「人類に約束された形状」であることが、次期エポックの接近にともなっていよいよ解き明かされるのである。まさにエリアーデが喝破した崩壊寸前の欧州文明において生起すべき精神活動の典型として。

ヨーロッパ諸国民の多くの宗教において、(略)死の瞬間に人間は自分の過去の生活をすべて実に詳細にわたって想起すること。また自分自身の個人的な歴史全体を想起し再体験してしまわないと死ぬことができないのだとする信仰を見出す。(略)現代文化の持っている資料編修への情熱は差し迫った死を予告する一徴候とみられよう。欧州文明はいまやその崩壊寸前にもう一度その過去を、原始史からあらゆる戦乱に至るまでことごとく想起している。ヨーロッパの資料編修的自覚は──ある人たちはこれを最高の栄光と考えているが──じつは死のまえに現れ、死を告知するあの臨終を意味しているのであろう。

ミルチア・エリアーデ『神話と夢想と秘儀』(岡三郎訳)page 73「宗教的シンボリズムと苦悩の価値づけ」より]

『金剛への第一歩』とりあえず、完