Archive for March, 2006

“伝統”数秘学批判
──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [8]
“3”の時代〜「元型的火曜日」(上)

Wednesday, March 8th, 2006

Oakchest furniture La Trinite Red Fleurs de lys

画像引用先:Image: La Trinit? et tous les saints @ Wikipedia 

■ 「数性3」を語る困難

「3」はとりわけ扱いの難しい数的元型のひとつである。その理由としては、「数性3」に関連した図像が出現する最初の時代のアルカイックさもさることながら、「数性3」の象徴がそもそもわれわれの目に数性を内包したものとして十分に認知されない事情がある。これらの点は、他の多くの数的図像に対する今日の一般的認識と大同小異である。だが、こうした困難に加えて「数的図像」と呼ぶべき象徴物がこの時代を境に一気に開花し始めるために、われわれにとっては、どうしても「語りうることの枝葉が多すぎる」と感じざるを得ないのである。だが、それこそがとりわけ「数性3」に見出される最大の特徴のひとつと言って良かろう。そしてその象徴は「特定の時代」だけを排他的に指し示す象徴物であるのみならず、ほとんどどの時代にも見出されると考えたくなるほどに時代を貫通して顕現する象徴物でもあるため、「時代のエポック」と連動していることについて、容易に理解を得ることが難しいだろう公算も高い。

もうひとつは、図像に内包される数性を認知したとしても、前章でも言及したように特定の数的象徴図像の中に「数性2」と「数性3」の間のどちらとも解釈できるような曖昧さが存在するということである。むろんこうした曖昧さは「意図」されたことであり、それもその数的図像の中に実社会における神学論争的・政治的な対立(ないし対立の未解決)が反映されたとも、時代の過渡期を反映したとも読むことができる。あるいはあるより重要な理由を以て、ふたつの数性をひとつの図像の中に内包させることを意図したケースや可能性があることも否定できない。

これら二つの数的祖型の間に象徴の造形意匠上の、ある種の曖昧さが介在しうるもうひとつの理由として、この二つの数的象徴を採用し世間に顕示したのがいずれも特定の宗教教団(とりわけローマ・カトリック教団、および正教会)であったこと、また図像の具現化の役割を果たしたのが教会の宗教美術家(とりわけキリスト教美術家)であったこととどうしても関係があろう。

議論の現時点で以下のように言い切ることは可能である。すなわち、ユダヤ=キリスト教の表象伝統(秘教的伝統)の中に、ここで語る7つ(8つ)の祖型的な数的図像がほぼ包含されているのだということ。だが、「数性4」の時代以降、その数的象徴図像の相続者(もしくは顕示者)は、教会外へ、すなわち世俗の権力へと移行して行くのだという指摘をここで済ませておくことは、象徴図像の広がりについてすでに宗教領域以外における展開に並々ならぬ注意をすでに払っている他の研究家の誤解をあらかじめ回避しておくためには有益であろう。

■ 「三位一体」

ヨーロッパ史において、「数性3」は「三位一体」という不思議な神学説によって登場する。「三と言えば三位一体」と断定しても良いほどに「3」の象徴は、それを如何に理解するかということに掛かっている。つまり数字そのものの理解に先立つ様々な了解事項の共有が要求されるのである。

最初に誤解を怖れずに言えば、この「三位一体」の教説とは「人の子」としてのイエス(人間としてのイエス)に起きた身体的犠牲を有名無実化する(すなわち「殺害」する)考え方と言ってもよい。これはほとんど「生け贄を二度屠る」行為に等しい。そして主イエスの二度目の殺害によって起こることは、歴史時代的な「十二使徒の時代」に入ったということに符合する。すでに死んでしまっている救世主の「二度目の殺害」によって“2”の時代は終わりを告げるのである。換言して、「人の子」イエスの「神格化」は完成し、ついに「神の子」へと昇格したのだと言うこともできるであろう。

「父と子と精霊」という「三つの存在」が神の顕現であるとする神学論上の結論は、積極的な信仰者にとっても、現代の世俗的知性にとってならなおさら、容易に受け入れられるものではないだろう。とりわけ理性的な頭にとって、ほとんど詭弁であるとしか考えられないような代物と捉えられても不思議はない。もちろんそれへの理解は、大きく分けて顕教的なものと密教的なもののふたつの側面が存在し、また解釈も個々人の理解のレベルに見合った複層的なものとなってしまわざるを得ない。これはある程度仕方がないでことであろう。

だが、ここで一旦、拙論『三本の光(光の三態)について』で論じられた異なる三つの「光」の存在と、それらが全く異なる「資源」に由来するにも関わらず、そのうちのふたつ(地上的な光、および天国的な光)が密接に関連しあってその存在が認知されるという人類史の発展があり、また、それら二つの出会い(再会)を実現するために、「三つ目の光」がわれらが頭上に到来する。この「第三の光」がこの世ならぬものでありながら地上に来臨しうる超地上的な「光」であり、先に述べた二つの光との関係性について大胆な解釈が可能だということをここでもう一度振り返っておかれたい。

■ 回帰の内側にある“3”と回帰の外側にある“3”

「数性3」が他の様々な数と異なり、際立って特殊である理由の一つとして、<超歴史的秩序>そのものを表す記号(コード)としても使われてきたという事情があることを今一度確認しておこう。

横方向に伸びる時間軸が「7進法」(オクターブ原理)とでも呼べるような七つの「目盛り」の物差しを持っていて、ひとつ桁が上がる毎に、それは別の層の始源的時間へと戻る。その時、われわれの祖先が採り続けてきたことは、正確に、<伝統的>な物差しを当てて、前回の周期の範型をのちの「世代」の一部の象徴継承者たちに指し示してきたことである。われわれの祖先らが維持していた<伝統>と<聖なる時間への記憶>とは、まさにそうした周期性に対する強い自覚に伴って生まれてきたものなのであり、「宗教以前」の生き方の作法として機能していたのである。

われわれが「宗教」として現在認識している種類の人間の運動は、そうした世界のあらゆる場所で見出される<根源的伝統>のわずかな名残と言うべきものだと断じても過言ではない*。だが、その範型を通した超歴史的「警告」が、とりわけキリスト教に関しては(例外的に)、その存在理由の意に反して、その繰り返し(回帰)のパターン(範型)を助成してきたようにも見えることがあり、あたかも否定的予言の成就に手を貸す共犯者のようでもある**。予言の自己成就性という宗教の持つひとつの逆説的範型にもなっている。この桁の「繰り上がり」「積み重ね」こそ、縦方向に堆積したいくつもの周回の層を表現するのである。その人類の特性がわれわれにとって普遍的と呼ばれるに相応しい唯一の課題なのである。

* その点にこそ、現在、儒教と呼ばれている「人生哲学」が、一部の知識人達からは宗教の一つと思われていないにも関わらず、断じて他の三大宗教と同じ存在理由という「根」を共有するのである。

** こうした一見矛盾する「救世主」像は、他ならぬ福音書の中に包み隠さず示されている。キリストが必ずしも平和の使者ではないことは、彼自身が告白しているのである。

それはイメージとしては「元カレンダーと第三周の世界」のところでも観てきたように、今回の世界というものが「三度目の正直」であるという「便宜的な約束事」としても「3」という数が機能させられていることとも関連している。仮に(たとえば)12000年をもって一巡する超歴史的周回を「秘教的1エイオン」と呼ぶことにしよう。そして、今回が本当に3回目の秘教的エイオンなのか、いや実は4回目なのかということは、如何に秘教に通暁していても、そればかりはよほど特別な「根拠(ソース)」にアクセスできない限りは言うことは出来ないであろう。加えて、われわれの世界が「“歴史”的事実として何度目なのか」ということは、この際われわれにとって重要なことではあるまい。「“3回”の繰り返し」という修辞上の表現に、われわれの世界が文字通り「3回目」(あるいは「4回目」)であることを読み取って満足することがわれわれの探求の目的ではないことは、幾ら強調してもし過ぎることはない。だが、秘教的伝統が、その<数>に「永遠回帰*」の意味合いを組み込んだことは、われわれの眼には明白である。

ここで扱っている象徴における「数性3」が、この「秘教的1エイオン」という周回の中における「三日目」を取り上げるものである訳だが、われわれの観察する「数性3」の象徴が、本当に周回内の「三日目」を意図しているのか、もっと大きな枠組みであるエイオン自体の「三度目」を指しているのか、というところで「数性」解釈上の混乱が起こるのである(これはある程度意図された「混乱」である可能性も退けるものではない)。

しかし、まさに、それは両方を意味していることもあり得るし、どちらか一方を明確に意味していることもあり得る。いずれにしても、こうした複層的解釈が許される「数性3」に極めて特殊な聖性のニュアンスが込められたことは確かであり、それは極めて広い領野において目撃することが可能である。われわれの世界において数字の「3」が「7」に次いで(というより、互いに補完する形で)<聖数>となっているということは、読み取る側に大いなる混乱を招きながらも、こうした象徴体系そのものが二重三重の意味性を保持させられていることへの注意を促すのに役立っている。

* 「1としての3」「3にして1」という三位一体説を数的に表したものは「三分の一」の数式である。1/3 = 0.3333333333… という「3」を無限に繰り返す循環数となることは象徴的である。「3」が永遠性を表すコードとして使われてきたことは、この辺りに事情があるとわれわれは想像することができる。

短編小説『撹拌』あるいは「苗床をつくる」

Thursday, March 2nd, 2006

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「あのう… 一応とりあえず、ポツダム宣言無視っていうことで、よろしかったですか」*

Wednesday, March 1st, 2006

* 「広島への原爆投下」のほんの十日前(7月26日あたり)、首相官邸内で行なわれたであろう「話し合い」のさなかに聞かれたとされるある秘書官の言葉(うそ)

盟友石川が、自身のblogで日本語の「過去形」の持つ「ソフト化効果」と呼びたくなる言語習慣について、極めて深い洞察を含んだ文章を書いていた。これは必読。『時空をバイパスする迂遠な表現としての「よろしかったですか」語』

まずは、基本的に書かれていることには感銘を受けた。うむうむ。

「よろしいですか」よりも「よろしかったですか」の方が語気としてはソフトな感じの印象を受けるのは何でだろうという素朴な疑問からおそらく出発して、こうに違いないという興味深い結論を導いているのだ。つまり、<< 間違いの発生の原因が相手にあることはお互いに了解していつつも、その「明言」を避け >>る意図のせいではないかというもの。例えば、ウェイターが「○○の注文でよろしかったですか」について、仮に「よろしいですか」と言ってしまうと、<< たったいまこの場に提出された注文内容について、注文主のあなた自身は了解しているか、という有責「確認」であるのに対して、「よろしかったですか」は、注文された内容の責任を、お客からいったん引き取 >>るというわけである。そこで石川はこう書く。

>> 「私はあなたの注文は○○であると理解したのだが、この解釈は妥当だったか?」という設問、責任が「わたしに移った」というポーズなんじゃないだろうか。

実際、「私はあなたの注文は○○であると理解したのだが、この解釈は妥当だったか?」の「解釈」には、とても深い洞察があると思える。とりあえずこの指摘こそが重要だと考えられる。そしていろいろなことがこのセオリーで説明できるようになるとさえ信じる。これは、「日本語には時制(tense)というものがなくて、あるのはaspect(形勢/相)だけだ」という日本語の言語構造論をおそらくサポートするものであるかもしれない(たぶん)。

ただ、最後の部分なんだけど(実はここの部分が拙論の要なんだけど)、これはボクに言わせると次のようになる。

“「私はあなたの注文は○○であると理解したのだが、この解釈は妥当だったか?」という設問という体裁を採りつつ、責任が「誰にもない」ということにしてしまいたい、いや「卑怯は全員で分担しましょう」というサインなんじゃないだろうか”

つまり私は今回あなたの過失を責めません。その代わり今度私が過失した時も責めないで下さい、というものかな。もし共犯関係ならお互いにお互いのせいにしないということにするという「申し合わせ」になる。

こういうのが「まちがって○○ちゃんの日誌がウチのカバンに入っていました」という日常レベルの会話の中で使われるのは構わないんだけど、国家の一大事や、家族の生存に関わるような状況でやられると、「オイお前、それってどーゆー意味だ? 自分の言葉に責任を持て、もっとちゃんとワケの分かったような言い方で説明しろ!」と言いたくなるだろうし、絶対言うね、オレは。

でも主語がなくても成立すると言われる日本語に付きものの特性、こう言ってはなんだが、敢えて言えば「卑怯の分担」という慣習を、日常的に子供の頃から当たり前のように身に付けさせられてきて、それによって「互いが守られている」という甘チャンの状況が、ビルの「耐震偽造」といった重大事について、狡猾にも「どこの誰にも責任がない」状態を業界全体で作り出したり、60数年前みたいに何となくコクミン全員で戦争に突入しちゃおうという空気が出来てもそれを批判できないようなことにもつながってくる、とボクは「突っ込み」を入れたくなる。被害者は誰に不満や改善の訴えをすれば良いのか分からない。そして大悪党をみすみす見逃す原因にもなる。そして権力者は血税の好き放題の浪費という支配権だけを獲得するくせに、政策の失敗の責任は取らないし、「敗戦」という「政策の最大級の失敗」にさえ、ホッカムリをする。そして弱者は泣き寝入りするしかないという、ほとんど政治家が政治家と呼ばれるに相応しくないような状況を許してきた。

われわれの社会では、兎角「努力目標になってます」みたいな表現も含めて、努力すべきなのが、御上のあなたなのか私なのか、それとも両方なのか、それを決めたのは誰なのか、その発話者自身なのか、それとも発話者はすでにどこぞで決まったことを単に報告するだけの代弁者に他ならないのか、その辺りがぼーんやりした表現になっていて、そんなものはあちらでもこちらでもあって、それはもうわれわれの民族的性癖そのものになっている。ここまで言うと、日本を「卑怯者の天国」たらしめ、支えているのは、そいつらの喋る言葉にこそ元凶があるんじゃないか、とまで思ってしまうのである。

英語がエラいなどという気はさらさらない。だが、たまたま英語にしなければならないような状況があると、日本語の弱点も狡猾さも一気に露呈されるというのは、翻訳する人間の日常で起こっている。「主語不明にて翻訳不能」(解釈なしには英語に出来ない)みたいになることがしばしばだ。そして主語を不明にしてあるのは、単にそれで成立するのが日本語だから、ではなくて、実はそうした日本語を成立せしめている日本人の(書き手の)心理にこそ本当の原因があるんじゃないかとさえ考えたくなる。そして、やはりそうした言葉の成立にはちゃんと理由があって、ある文章が場合によっては自分についてでもあり、他の場合においては相手についてでもあり、と、事後にどちらにも恣意的に解釈できるような「あそび」として確保してある。ま、裁判とかになった時に、強い者が自分の都合の良い解釈が出来るようになっているのが日本語だ、と穿った言い方も出来るような卑怯者の天国における状況に支持を与える「喋り」なのである。

そんな言い方して、「よろしかった」でしょうか?

『瘡蓋』聖痕異歎* ─ Scabies - Heretic Lamentation of Stigma

Wednesday, March 1st, 2006

PDF版を作成。

http://www.archivelago.com/Garden/Cloisters/2006/kasabuta-seikon-itan.pdf

* 異歎:「異端」と音は同じ。『歎異抄』が正統な「異端説批判」であるなら、それを 逆転させて「異歎」とする。「異歎」には「異なることを賛嘆・称揚しよう」という気 持ちを込めた。また受難に対して、大多数とは異なる意味の嘆き(Lamentation) が存在 することを主張する意図も反映する。そしてそれ自体が所詮は「異端」に過ぎないだろ うと自嘲を込めた造語。