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ムーアの『Sicko』を観る

Sunday, May 9th, 2010

Moore's Sicko PosterMichael Moore監督は、どこまでもアメリカ人のドキュメンタリー映画作家である。彼の主たるターゲットはアメリカ人だし、「アメリカ人であるわれわれ」がどこまでも特殊であるのかという視点から、「自分たちアメリカ人」を目覚めさせなければという明瞭な使命の元に、主旨を訴えかける努力を止めない。その点で言うと、「日本人であるわれわれ」が、なかなか共感も理解もできない面があるのは否めないかもしれない。銃の問題を扱った『ボウリング・フォー・コロンバイン』もそうだったし、今回観た『Sicko』はとりわけそうだ。だが、そうした明らかなターゲットをもって撮り続ける彼の姿勢は、むしろ「共感」できるものだ。

今回、『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』 を観たいと考えていて、順序としては『Sicko』を先にビデオで観ておこうと思いレンタルしたのだが、見終わって上で書いたようなことが頭に去来した。それは彼の視点が明確に「アメリカ人当人である」ことを軸にしていることのためであろうが、説明のスピードも編集の作法も、国内の医療問題をまさに体験している人々をターゲットにしているためになされており、決して外国の鑑賞者にとっては親切な映画ではない。そうしたことによって起こる、ある種の「違和感」がなくはない。だが、それは観る側の学習の度合いや想像力、そして何度鑑賞するか、どこまでこの問題を「理解したい」と思うのかという熱意次第でも変わるだろう。当然のことながら。

この映画によって提示されていることは、アメリカ合州国の医療制度というものが、力を持った資本家たる企業や医療関係の当事者の利益追求が大元となった構築がなされており、あまりに明確な腐敗が原因となっているのであり、そもそも彼ら企業や制度の存在が、傷病者自身の利益のためにはないということである。そして国民皆保険制度は世界中の多くの場所で実現しているにも関わらず、合州国ではそれがどうしても企業から政治家たちに送られるロビー活動(つまり多額の献金)のために実現できない。

企業がその経営者や出資者の利益のため、という動機で企業活動を展開する限り、どんな美辞麗句で「カスタマーファースト」を表面上謳おうとも、「お客」は結局自分たちが利用するカモであり「食い物」に過ぎないのである。保険会社は自分たちの利益を守るために、それが最も必要であるそのときに、契約者への保険金の支払いをあらゆる手段をとって回避しようとする。そしてそのための特務を帯びた人員が確保されている。こうした特務を帯びたかつての被雇用者で、良心の呵責に耐え切れなくなった者が、企業を糾弾するためにムーア監督の映画の中ですすんで証言をする──企業活動の中でしか知り得ない情報を、より広い社会の利益のために公開するのだ。

ある公聴会における医師の証言は心を打つものがあった。この医師はある保険会社において契約者の必要とするという医療が適正であるかどうかを、その企業の利益を確保する視点で審査する役割であり、その役割によってどれだけ多額の報酬を得ていたかを、そしてその「職務」によってどれだけの契約者が不利益を被ったか(つまり必要な医療を受けられずに死んだか)を、説明したのである。

アメリカの企業が、企業外の人間たちをどれだけ食いものにし、利益を悪辣なまでに追求しているのかは目に余るものがあるが、それは対岸の火事だと思うのは大きな間違いとなるだろう。何故ならば、現今の日本の政治が選択し、日本の国民を導こうとしている大きな方向性こそ、アメリカ流の企業経営であり、またそうした企業が日本国内で利益追求のための活動をしやすくするための舵取りの結果なのだという事実があるからである。

アメリカ流の会計システムや、法律事務所経営というものが、まず日本に上陸してきている。これは、対岸の火事だと考えていたはずの、いわゆる訴訟社会へと日本が移行していくための布石なのだ。そしてすべてを「民営化する」という流れこそ、当然受けられるべき社会福祉や行政サービスの質を悪化させて、「自己責任」とする社会への改悪なのである。