Archive for January, 2010

反対物の一致 #2:
いかにして「忌避すべきこと」が
「歓迎すべきこと」に転ずるか

Tuesday, January 26th, 2010

エリアーデがよく問題にした「Coincidentia oppositorum」に関連して

苦痛の極にあるところの死が快を伴うものであるらしいという近年になって成され始めた憶測。はたまた「死こそは生である」などという大胆な反対物の一致。あるいは、われわれの“小さな死”が、(神の如き)より大きな生にとっての《栄光》であり得ること。こうしたミクロコズムとマクロコズムの間の跳躍的な視点の遷移が、全く両極端の価値判断の起因となるという側面は、それだけで膨大な時間を割いて論ずる価値のある課題であるとも考えられるが、そうした晦渋なる論議を先送りにしたとしても書き記しておくべき内容が図像解釈にはある。

8 auspicious signs (necklace)

8 auspicious signs

Eight auspicious sign (cloth)

Individual Eight Auspicious Signs

象徴図像とともに民間の口承で伝えられてきた図像の意味するところの説明は、迷信と決めつけて無視するにはあまりにも重要なメッセージであると考えられる。一定の図像に付帯して伝えられた、例えば「縁起の良い」とか「吉兆の」とか言われる能書きが、まったくその逆の意味を表しうるという、言わばグロテスクな意味上の《反転》が起きていることは、当面、事実としてある程度一般化してもよいことであろう。それは、「八つの吉兆: eight auspicious signs」と言われるインドの伝統図像に関しても言えることであるし、伝統家具に見られるフィニアルが表現していると言われる「おもてなし: Hospitality」の意味に関しても同様のことが言える。しかしこうした「全く逆の意味を伝えている」という、ここで憶測される事実にこそ、その口承の信頼性、さらには真の狙いが隠されていると理解すべき側面があるのだ。

そうした意味の反転の説明のひとつとしては、例えば、味方にとって縁起の良いことは、敵(かたき)にとって縁起が悪いことを意味しうるしその逆も然りである、という点でも説明できる。敵にとってのアンチヒーロー(悪漢)は、味方にとってのヒーロー(英雄)でもあり得る。こうした意味の反転は、キリスト者にとっての裏切りのユダやポンティウス・ピラトがキリスト教にとっての敵役であれ、キリスト教によって苦しめられたユダヤ人にとっては利益に適う人物であるとの考えによれば、彼らとて「ヒーロー」として捉えられるというような「善玉悪玉の逆転」があり得るのと同じである。どう考えても憤怒の表情で無慈悲で悪魔的な神的権化として顕現する不動明王が、わが国の一部の人々にとっては礼拝の対象になる、などという現象も、そうした文脈で捉え直される価値がある。インド=ヨーロッパの神話上の神々に関しても、特定の神が複数民族の境界を越えて知られているヒーローである場合、その神がどの民族の利するのかによって、その受け取られ方は正反対であり得る。

しかし、そうした視点超越的な(民族や国家を越境して遷移する視点による)説明だけが有効なわけではない。例えば、《滅び》や《誕生》という観念などをとっても、それは「おぞましきもの」という捉え方*と「歓迎すべきもの」という両義的な捉え方がある。ひとつのものに対するこうした忌避と歓迎という両極端に対立した捉え方が可能なのは、捉える視点がどのような価値観の視座に立つのかという視点の遷移が可能だからである。

* マニ教が生を否定的に捉えていたことはここで改めて取り上げるまでもあるまい。

水と油の様なこうした引き裂かれた価値観は、とりわけ生や死を巡る宗教的・哲学的議論の中に典型的に見出される。宗教は死を肯定しないまでも否定はしないという立場を採ることがあるが、現世肯定的な脱聖化後の今日的な世界において、死は一般通念的にはつねに忌まわしいものだ。だが、死が歓迎すべきであるという否定し難い超俗的な視点というものも今日においてさえ同時に存在することも確かだ。

これと同様のことが、《滅び》についても言えるのである。われわれの住む世界が、不正と苦痛ばかりの世界であれば、それは一旦滅びて更新された方が良い、という現世転覆への指向という価値観が醸成され得る。一方、「この世の春」を楽しんでいる立場からすれば、死も滅びも可能な限り先送りし、できる限り忌避すべきものだ*。こうした《滅び》を巡る価値観の分離は、脱聖化されたと言われる今日の世界でも、依然として見出される現象である。

* こうした現世における俗的な人生肯定を超克していくことをテーマに扱った古典として、バガヴァットギーターなどのインドの聖典がある。

西洋の医学の価値観では、患者を何としてでも生かすというのはほとんど疑問の余地のない無条件にして肯定的な価値観(善)であるものの、それについての否定的議論も「生の質: quality of life」をあらためて問おうとする反省も、すでにわれわれの耳目に触れ始めているものである。また、世界の覇者としての合州国の価値観を否定して、それを滅ぼし尽くす闘いに参与する、などということが義なることであるという《ジハード:聖戦》を善として肯定する価値観は、イスラム原理主義の闘士の間では当たり前のものであるらしい。

これは、同じ現代という時代において、同じ国家のうちにも教育や生い立ちが異なれば見出し得る人生観の個々人における相違である。つまり、こうした現世肯定と否定の大きな人生観の違いが、同じ時代の同じ場所で、個人のレベルでも見出し得るという事態も、象徴図像の持つ多元的(というよりは二元的)な意味伝達機能が、正反対の2つの概念を伝える理由を説明する根拠のひとつであると言い得るのである。

だが、より重要なのは、それが現世的もしくは来世的な価値判断のどちらに軸足を置くにせよ、象徴的図像が伝えようとするところの「両義的な内容」は、この世界生成の端緒となった、かつての世界の終わりを画した、一定の、ひとつの事件(エポック)であったと理解することによってのみ、本当の意味と価値が見出せるということだ。そして、あらゆる人類に向かって提示された重大な鍵穴のひとつである、という一事なのである。

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