Archive for October, 2007

「Sim 駅前留学」で遊べ

Sunday, October 28th, 2007

NOVA記事

■NOVA増資、株価操作で逮捕の仕手筋に頼る(読売新聞 - 10月27日 14:42)

英会話ビジネスで破綻の憂き目を観た会社はNOVAが最初ではないと記憶する。ラド、ABC、NCB、などなど。だが、考えてみれば、町の弱小な英会話学校はともかくとして、「成長する英会話学校」なるものは、すべて倒産の危険を孕んでいると考えるべきではないのか? だって、「成長」しているんだよ。成長すれば、無限大に成長はできないんだから、どこかで何かが起こる。

英会話教室というものは、そもそもその本性からして、合理化が難しい分野だ。生徒何人かに対して、必ずひとりの先生が必要で、少数の先生で一気にたくさんの生徒を教えるというようなマス授業でも開発しない限り、合理化は難しい。だがそれは少数で丁寧に教えますという方針にも矛盾し、そもそも採用できない方向性だ。ということはどういう事かと言えば、生徒を沢山抱えるなら先生も沢山抱えなければならず、企業として規模を大きくするということ自体が、人件費の比例的な増強なしには行えない。「一発当てる系」のビジネスとは、一度これというような「金型」を作って、それによってできる製品が一発当てたら、その金型を使ってパカパカとたい焼きを焼くように短期間にどんどん量産できるようなものでもない限りそもそも無理なのだ。つまり、ソフトの開発とそのソフトの量産というのがひとつの条件だ。無人化を進めることのできる過程を含む製造業、一部の出版業、そして極々一部のメジャー音楽産業にはそうした「一発当てる」可能性がある。だが、教育産業が一発当てて成長するというようなことは、その教育という無人化の採用がそもそも構造的に不可能なビジネスにはあり得ないのだ。これはちょっと考えれば分かることだが、仕事というものを理解する基本だ。英会話学校のようなものは、ひとつひとつ手作りをしていくしかないデザイン工房の様なものだ。

だがどうしてNOVAのような「急成長」という異常事態がこの産業の中で時折起こるのか、それを考えるのが重要である。一言で言ってしまえば、イメージ戦略が「一発当たる」というケースだ。どれだけ資金をつぎ込んだか分からないが、ピンクのNOVAうさぎを使った同社がテレビCMその他のメディアを通して相当に露出されたことは誰もが知るところだろう。人々はそのイメージで企業が大きくて先端的で頼りになるだろうことを刷り込まれる。広告代理店はこうしたイメージ戦略を打ち立てて、払われたお金に応じて企業を有名にする。だが、イメージがダウンしてきた時の現状維持のためのお手伝いまでは面倒を見ない。イメージが悪くなったのは企業の「自己責任」だから失敗は企業の責任だ、というわけだ。

したがって、一気に成長してあちこちに支店を開くような「英会話学校」は、突然資金繰りが悪くなって「倒産」というようなリスクをすべて持っていると考えるべきだ。これは単にNOVAの社長や経営者に問題があった(あっただろうけど)というようなだけの話ではない。イメージ戦略という幻想によってそれを支持し、ダメと分かったらさっさと撤収しようとする、利用者、教師、出資者、のすべての合作なのだ。株式市場と似た様なものだ。

昔、「Sim City」という秀逸な都市計画ソフトがあったが、ぜひ「Sim 駅前留学」というのを出して欲しい。成長する英会話学校の教室をどれだけの間、駅前の一等地に建て続けることができるかというモノポリーを競うゲームだ。駅の数や習いたい生徒数はだいたい決まっているので、ある程度まで成長したら必ず破綻の兆しが見え始め、大体早晩には倒産する。

駅前に一つ学校を建てるところから始める。日本に遊びにきている外国人を安く雇い、プログラムを決め、価格を設定し、人気が出れば別の学校を建てる。イメージ戦略が必要なら広告代理店に幾ばくかの資金を投入する。一気に生徒数が増えるので、人員と学校を増やさなければならない。さまざまな付加価値的なプログラムを開発して、遠隔地教育にまで手を出す。長くゲームをやればやるほど、どんどん難しくなってきて倒産回避は困難になる。それをどうにかしてやりくりをして、一日でも長く経営し続けることができれば勝ち、というシミュレーションゲームだ。

それほどかように、「成長する学校」の経営は難しいということをこのゲームはわれわれに実感させてくれるだろう。なにしろ、スポーツジムみたいにお金を払っただけで来なくなる生徒数まで計算に入れて適正な教室数を考えているのに、倒産するとなると、来なかった生徒までワラワラと全員戻ってきて払い戻しを請求するんだから怖いよな。

[話は変わるが、姓名判断的にもNOVAは拙いよな。No VAだよ。VAに「No」と言ってはいけない。逆さにしてAVONはどうだろう? え? そういう名前の会社がある?]

『全共闘の時代』

Tuesday, October 23rd, 2007

…などと、書くと、またぞろ何を言い出すのかと思われそうだが、

これは現在銀座のニコンサロンで行われている写真展の名前だ。

この週末にツレと友人二人で観に行った。

「ひとみ わたなべ アーリー ワークス(hitomi watanabe early works)全共闘の季節 1968-1969」。

全共闘の季節ポストカード

ウチに来た案内状で知ったのだが、この写真家・渡邊眸さんはツレの古い知り合いで、以前世話になったらしい人。ツレ曰く、自分の写真についてはこの眸さんから影響を受けたことが多いとか。

ご一緒した友人の《ぴ》さんは「どの風景もどの写真もあまりにも痛ましい」と評してらっしゃる(し、確かにそのようにも見えるのだ)が、私は暢気にも写真自体の美しさに魅入られてしまったり、機動隊や闘士の若者たちの真剣な表情やあどけない表情、そして彼らの姿と供に捉えられた周辺のさまざまな背景(建築物や装飾)などにも釘付けになってしまった。そして眼を奪うのは檄文である。

このような生々しい現場の内側から撮られた写真があったこと自体、驚くべきことだったが、このような重要な記録写真がツレの身近な知り合いが撮っていたことも実に驚きだった。

渡邊眸さんの写真は、グッドマンがかつて荻窪にあったとき、カウンターの内側にあるいくつかの本の間にあった、『猿年紀』という題名の、猿を撮った写真集の題名に惹かれて*マスターに見せてもらったのが最初だ。(どうやらこの写真集が詩人の石内矢巳さんの紹介によってグッドマンによってもたらされたようなのだが、その写真家がツレの知り合いだとはそのとき知る由もなかった。これは事実と言うより憶測を含む。)

その後、蓮の花ばかりを撮った巡回展が《ちめんかのや》で行われたとき、ツレと一緒に観に行ったのが眸さんと会った最初だった。その時の印象が強く、静物的なものを撮る方だと思っていたので、今回公開された古いが生々しい写真の数々は、報道写真のようであり、また動きがありながらも詩情に溢れる表情豊かな作品でもあったので、きわめて大きな印象を得たのだった。

これは10/30(火)までなので、写真に興味がある人も、当時の政治に興味があるひとも、是非足を運ばれることをお薦めします。

渡辺眸 「early works - 全共闘の季節 1968-69」@ Tokyo Art Beat

「ニコンで渡辺眸の全共闘写真展」@ 銀座新聞ニュース

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* 『猿年紀』という題名に惹かれたのは、世界の大きな時代区分(エイオン)で、現在が「鳥の時代」であり、その前が、どうやら「猿の時代」であったらしいことに思いが至ってそれに取り憑かれていた時分にこのタイトルが眼に飛び込んできたので、大いに衝撃を受けた。言わば、まったく個人的なシンクロニシティを体験したのだった。これは西洋占星術でいうところの、言わば「水瓶座の時代」とかいうのに近い、より大きな時間についての話。

桜の樹の下のバサラつぎ

Saturday, October 13th, 2007

10/13(土曜日)19:00頃から。

【以下敬称略】狛江の泉龍寺境内で行われる野口祥子(のぐちさちこ)の主宰するひめしゃら塾の舞踏公演(と呼んでよいものか…)の第二回なるものに友人の誘いもあり、行ってみた。夜の冷気も迫り肌寒くなりつつある境内に優に二百人は超える観客が徐々に集まった。

全体の印象としては薪神楽や薪能に通じるようなものだが、文字通り天井がなく桜の木下に設えられた特設の野外舞台を中心に創られるパフォーマンスというものは、そうしたものとはまた異質の非日常空間を生成しつつあり、それはまさに幽玄を絵に書いたようなものだった。

泉龍寺の桜の木は実に立派で、それ自体が鑑賞に値するものだが、天然の木をそのまま舞台装置の一つとして取り込み、また背景に位置する鐘楼は、前方で静々と進む静的な舞踊とコントラストをなす動的な舞踏の第二のステージ(関係は逆になることもある)とも言うべきもので、前後の関係にあるこの二つの舞台は、それ自体でもこの場所ならではの特有の遠近法を創り出すのであった。

Vasara1

公演が始まる前の“舞台”全景。右手に見えるのはシタールとドラム奏者の演奏場所。注連飾りのようなものを締められた中央の桜を囲むような形で舞台が造作されている。

Vasara2

神巫(かむなぎ)の様な装束と仮面で現れた野口祥子の踊り。着物姿で左端に見えているのは、後に舞台に登って踊ることになる二胡奏者の向井千恵。

Vasara3

右端に見えているのはシタール奏者の鹿島信治。鐘楼の上でも若干の演出的な「動き」が…

Vasara4

野口祥子を除くとひめしゃら塾の舞踏家は6人(向井千恵を含む)。そのうちの3名。衣装は次々に変わっていく。

Vasara5

基本的に仮面を付けて登場し、それは外され、舞台装置の特定の場所に置き去られる。それは他の登場人物によって再発見され、また盗用される。パントマイムの様でもあり、劇の様でもあり、舞踏の様でもあり、そしてまたそのどれでもないようでもある。

そして最もこれらに相応しい呼び名は「神楽」であろう。だがそれは神社や民間に伝わる、例えば鍛冶術に関する神話(どうやって刀が造れるようになったか、などの)の伝承などの目的はなく、独創的かつ現代的なものだ。また心理学的な解釈を施す誘惑を感じてしまう類のものである。

そりゃあ問題ですよ、樹さん(続編)

Friday, October 12th, 2007

昨日の日記で若干の“反響”があったので、

もう少し書いてみることにする。

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「温暖化が進行すればより深刻な事態があるだろう」

というものと、

「温暖化が進行しても大して深刻な事態はないだろう」

という、“計量的にどちらも蓋然性がない”らしい2つの言説が存在するとき、いざその結果が出た時に、どちらの言説の方がわれわれの生存にとって有益だったことになるだろうか。このことは、われわれの想像力の問題である。

「ひょっとしたら被害があるかもしれない」と悪い事態の予想をして行動する方が、多くの場合「安全のためになる」とするのが、安全保障確保の基本である。われわれが危険を感じる時に、例えば、狭い路地の200メートル先でこちらに向かってくるクルマの挙動に何かおかしなものを感じる時、それをわれわれは「計量的な蓋然性」として認識するのだろうか? ひょっとすると何の問題がなくても、「おかしい」と感じた自分の第六感に従って行動する方が、その人が生存できる可能性は高い。「クルマの挙動はおかしいかもしれないけど計量的に証明できないからいいや」と考えて敢えて無視する人が、そのクルマにはねられる方が蓋然性 probability は高いのである。

気候が温暖になることと気候が寒冷になることを、気温の次元だけで比べて済ませるなら、私の見解も内田氏の見解とそう変わらない。温暖化それ自体(温度)が直接人を殺すことはなく、どちらかと言えば、寒冷自体の方が人を殺すだろうという点で危ないということは賛同できる。だが、それは気候を温度というパラメータだけで判断するという近視眼的な判断だと言いたいのである。気温の上昇がより多くの氷を海の中に落とすという誰にも分かる現象自体だけをとっても、「その影響が巡り巡って、それでも何もない」と断定することの方が、“計量的な蓋然性”がないだろう。(それにしても“計量的な蓋然性”というのは不思議な言葉だ。)

あと重要なのは、われわれはもはや「温暖化があるかどうか」というレベルの話をしているのではなくて、少なくともほとんどの観測データが「温暖化は(おそらく)進行しつつある」という結論に達している点である。内田氏も文章のタイトルが「地球温暖化で何か問題でも?」と言っているところから見ると、「温暖化がある」点については疑問視していないように思える。おそらく彼が言いたいのは、人為(二酸化炭素増加)と温暖化の間にあるとされる相関関係が、広く世間で言われているほどにはまだ証明されていないだろうという様なことだろう。それは分かる。だが、それは温暖化そのものの進行の否定ではない。「温暖化はある。だがその理由は分からない。」ということに尽きる。でもこれだけで話を終わらせるのは、余り生産的ではない。主張されるべきは、その先にあるだろう。太陽系の話をするのは、ひとをケムに巻くには充分だろうが、それで停止するのは樹さんらしくないではないか。

樹氏が「温暖化そのものが眉唾物だ」と言っているのであれば、議論の次元を変えざるを得ないだろう。だが、おそらく環境変動の原因について所々対立している学閥が存在していても、温暖化そのものを否定しているサイドがそう多くないのはほぼ認定できる。それは少なくともこの20年の間に目に見える環境の変化を捉え損なわない限り、共有できることである。

(「温暖化があるかどうか」という“レベルの話”は、今年の3月時点で温暖化議論の相対化を目指した「地球温暖化を巡って考えられること」でも取り上げた。)

したがって、われわれに残されているのは、その原因が何であるのかという(内田氏が言うようにおそらく容易に突き止められないだろう)問題と、(奇跡的に)原因が突き止められたところで、われわれにその進行とそれによって引き起される事態を阻止できるのかという問題があることになる。そして、「来るべき事態」がある程度予測可能(計量的に蓋然性がある)になったときに、それへ対策を開始したとして、原因が証明されてから行なって間に合うのかという点である。

黄昏を待って飛び立つミネルバの梟は、われわれを救わないのではないか?そう思えて来るときに、私は悲観的にならざるを得ない。

そりゃあ問題ですよ、樹さん

Wednesday, October 10th, 2007

いつもなら樹さんのブログにおけるコメントはなるほどと思うところが多いのだが、今回は素直に頷けない。申し訳ないが…

もちろん、アル・ゴア氏らが中心となってアジられている環境問題意識に便乗しようと言うのでもない。内田樹氏によれば、問題は温暖化ではなくて寒冷化だということで、温暖化における被害よりも寒冷化による被害の方が人類にとっては深刻さの度合いが大きいということである。

1年生のゼミで「地球温暖化」が取り上げられた。

地球温暖化を防ぐために、京都議定書の規定を守り、急ブレーキ、急発進を自制し、わりばしをやめてマイ箸を使いましょう・・・というような話を聴いているうちに既視感で目の前がくらくらしてきた。(中略) 地質学的なスケールで考えても、現在は「間氷期」である。地球は氷期と間氷期を交互に経験する。最後の氷期が終わったのが、約1万年前。黙っていても、いずれ次の氷期が訪れて、骨が凍えるほど地球は寒くなる。そのときには海岸線がはるか遠くに退き、陸の大部分は氷に覆われ、動植物種も激減するであろう。だから、私は温暖化には類的な立場からはそれほど怯えることもないのではないかと思っている。地球寒冷化よりずっとましだと思う。

(引用:「地球温暖化で何か問題でも?」@内田樹の研究室)

一面、それはそうなんだろうが、件の気温変動そのものがどうして起こるのか、そのメカニズムについては太陽を原因のひとつに挙げるだけで、人為の介在が温暖化、ひいては寒冷化を引き起す可能性についてまではあえて考えていないように見える。太陽そのものの生涯にまで言及し始めるが、それが何を導きたいのかはよく分からない(太陽そのものも不変ではなくて、いずれは滅びてしまうわけだから、そんなことを心配しても仕方がないというのだろうか? 地球環境の温暖化がそのようなレベルと同一に論じられるのだろうか?)。

このところ、自分にとって最もcredibleな環境変動論は、急速な温暖化(それが《何》を原因とするものであるにせよ)が、重篤な寒冷化の引き金になることを主張している。万が一にも温暖化の原因が人為によるものでなく、よりメガなスケール(たとえば太陽系規模)の要因があったとしても、人為が温暖化に拍車をかけることをして良いことにはなるまい。あるいは、少なくとも(何が原因であれ)温暖化が引き金になって起こるかもしれないことについて知っておいて心構えをつけておくことは無駄ではあるまい。

「The Coming Global Superstorm」の共著者の一人であるWhitley Strieber氏によれば、来るべき氷河期は急速な温暖化による極地方の氷山の大規模崩壊によって海に大量の氷が溶け出すことで海水が急速に冷却し、それによってドミノ式に「スーパーストーム」と呼ぶに相応しい文明のほとんどを死の縁に至らしめるような規模の激しい吹雪に地球の半球見舞われ、その際の雪や氷に覆われることによって、一気に地球は氷河期に突入するというシナリオを描いている。欧州の様な高緯度地域が現在のように、氷河に閉ざされていないのは、「メキシコ湾流」と呼ばれる暖流によるものだが、そのコースが変動することで欧州などはまた氷に閉ざされてしまうほどで、文明というものはそれほどに脆弱なのだ。映画『The Day After Tomorrow』は、その説に則って作られた超近未来SFだが、もっともあり得そうな暗黒の未来像だと思う。

だから、「怖いのは寒冷化で温暖化は問題にならない」とも読める内田樹氏の主張は、半分は正しく半分は正しくない可能性がある。まさにその「怖い寒冷化」が「大して怖くない温暖化」によってやってくる可能性について、われわれは意識を向けなければならないのだ。

(過去数万年における、氷河期と間氷期の交互の出現は、私の直感によれば、実はすべて地上に現れた「外ならぬ人類の登場」が引き金になって引き起されている、のである。これはまだ(おそらく)誰も言っていない新説である。)

ときに、環境論と科学者の関係についてフリーマン・ダイソン Freeman Dyson の述べていることは興味深い。ある種の科学理論が初歩的なところで間違っていても、それが導き出そうとするところが、大局的に「正し」ければ、その論全体を簡単には全否定できない(できるだろうがするべきでない)というようなことを、フリーマン・ダイソンは著書「Infinite in All Directions(邦訳『多様化世界』(みすず書房)」の中で書いているのだ。彼はカール・セーガンの有名な「核の冬」の理論が極めて基本的なところで間違っているし核爆発は地球に冬などもたらさないということが、科学者としてのダイソンの眼には自明だったが、「核の冬」の結論が導こうとしている警鐘、すなわち「核兵器開発の競争は人類のためにならない」という結論そのものには深く共鳴していたので、セーガンのセオリーを否定することが「正しい」ことなのか、科学者としてではなくて、人間としてどうすべきなのか倫理的な苦悩を覚えたと述べている。このことは科学者の言説として、核開発に関わった人間の言葉として改めて受け止め直せば、その言葉の重みが分かるだろう。つまり「科学的に正しいことが戦略的な正しさを導き出さない」ということなのだ。

これは多くの温暖化理論が初歩のところで間違っていたとしても(ということは、ひょっとして人為と温暖化は何の関係もないとしても)、温暖化が後に引き起すかもしれない人類に降り掛かる試練をあり得ない(あるいはわれわれの問題として扱うことが出来ない)と問題そのものを全否定する論理への加担の必要もないだろうということに逢着するのだ。