Archive for April, 2005

「われわれの社会」に関する当たり前のような再認識(その2)

Saturday, April 30th, 2005

■ いわゆる競争が起こりうる路線であれば、オーバーランが少ないと言われている東京近郊の鉄道でも、スピードを競う経営が行われている。「東京=横浜間を35分で結ぶ」みたいな。ということは、そうした私鉄線とJRは、結構危ない可能性がある。たとえば、高架を疾走する京急線、渋谷=横浜を「特急」で結ぶ東横線、JR東日本の湘南新宿ラインなど。頼むから、2分や3分の時間を競うためにスピード競争は控えてもらいたい。むしろ、安全で快適とかを真の経営方針にしてそれを「謳い文句」にしてほしいのである。

(あたりまえな「生活者」のレベルのお願いになってしまって申し訳ない)

「われわれの社会」に関する当たり前のような再認識(その1)

Friday, April 29th, 2005

今回の事態であらためて呼び起こされた「われわれの社会」に関する当たり前のような再認識(その1)

■ 電車というものが、これほどまでに運転士自体の判断や技術によって、そしてプレッシャーを感じる感情を持った人間たちの不断の努力によって「安全」に保たれているということ。つまり、どれだけソフトやハードが洗練され、自動化が進められていても、在来線は人間がハンドルを握り、ブレーキを握り、スピードを常識的に制御することで「正常に」運行されているという事実。ほとんど普段は事故も起こさずに。

悪ルールの犠牲はだれか、そして誰がそれを受け入れるのか

Thursday, April 28th, 2005

「音速の貴公子」と呼ばれたアイルトン・セナがレース中の事故で死亡した時もそうだったらしいが、事故が起こるところには、事故を起こした本人の「力量」だけではなくて、その「レース」を司るなにか「ルール上の」とも言うべき事故発生を誘発するもっと大きな問題背景が隠れていることが多いようだ。セナの事故死の時も危ないルール改正がレースの直前にあって、セナ自身が「危ないからそのような改正は受け入れられない」と身内には漏らしていたらしい。だが、そのルールを受け入れたほとんどのレース参加者によってその言葉は無視された(事故を起こさないように走れば良いのだし、起こす人の力量の問題だろう、ということに違いない)。セナが死ぬ直前にも、彼が心配した通り事故が多発したらしい。だが、結果的にその「危険なルール」を「自らの死を以て抗議・告発する」結果となった。(ちなみにボクはF1のことやセナのことをよく知るわけではなく、セナを愛していた友人から聞いた完全なる二次情報である。)

今回のJR西日本・福知山(尼崎)線の事故にも、「ルール上の問題」というのがどうしてもあるようだ。が、そのルール自体を批判したり拒否したりというような権限を現場にいる一運転士はふつう持たない。あらかじめ決められ、「目標達成のため」という会社から求められる至上命令の前で「その無理なのはダイヤではなくて、その目標をこなせない(運転している)現場(自分)の力量のせいだ」と思うより仕方がないというような「空気」があるわけだ。そして、先輩や管理者からのプレッシャー、経営や管理者からは矢のような効率向上の催促があったはずなのである。

事故がなければ着いていたはずの次の尼崎駅というのは、「神業」と呼ばれるような運転士の技術と時間管理を可能とする「体制」がなければ成り立たないような乗り継ぎと待ち合わせの集約する場所であったらしい。いろいろな関係者の話を聞いていると、どうも競争を勝つためという至上命令を実現するための無理なダイヤであることが想像できるのである。

こうした「無理なダイヤ」を現場がどうにか「こなさなければならない」不条理を感じたベテランの運転士がこの事故が起こる前に自殺している。「日勤教育」という名のお仕置きが日常化していて、それを厭うばかりに鬱になり自死を選んだ。この自殺という事態は、その福知山線区で起きた「純然たる事件」である。だが、もちろんその死を以ての抗議にJR西日本はもちろん答えなかった。その後も、当然のように「日勤教育」は続き、在来私鉄との時間競争を現場に強いた。そのあげくが、今度の事故である。

その難しい現場でおきたおよそ百名の犠牲者を出さなければ、効率優先の経済や社会構造の在り方そのものを問うことはなかったのである。(というか、これでもその「在り方」を問わずにいく可能性の方が高い。)

音楽は、叫ばない(それは個人の心に届くもの)

Wednesday, April 27th, 2005

かーっ、感動した! 「パギやん」こと趙博さんの日記(04/24/2005)。ほとんど何も付け加えることがない音楽家/歌謡家/語り部/芸人の言葉。ふと、昨年に観た南アの反アパルトヘイトの音楽家たちをドキュメントした力作“音楽”映画『アマンドラ』を思い出した。パギやん氏曰く、

 野外でやる意味があるのか、6時間という時間の長さは必要なのか?

 なによりも、音楽の質を問いたい、いや、問い合いたいのだ。

 魂が響かない。

 音に酔いしれない。

 アジテーションなら、それに徹すればよい。

 「歌」は、残念ながら生まれていない。

 すてきな人々、すばらしい反戦思想の輝きがあればこそ、

 よけいに僕は問い返したい。「基地はいらない」「基地は作らせない」

 「オジィ・オバァの願いを…」「ジュゴンの海を守れ」

 −−それを何万回連呼しても、歌にはならないのだ。

 何度も言う、俺は歌を聴き、唄を歌いに来たのだ。

 音楽は、時には暴力になる。

 敵を打ち倒す暴力ではなく、味方をめげさせる暴力だ。

 「世界は一つ」「平和な世を」という一般的正義を呈したフレーズは、

 幼稚な旋律に乗れば空虚な呪詛になる。 etc. etc.

アジテーションはアジテーション(それ自体の意味は音楽とは別のもの)。音楽は音楽。歌は歌。それぞれが、それぞれの持ち場や表現手段の役割について自覚的であるかどうか。何ができて何ができないのか。そこに勘違いがないのか? おそらくそれを問うている。ただ、パギヤンの言葉に自分が「感動して」無邪気に喜んでいるだけでは、ダメだ。ボクも音楽をやりまくって、ものを知りまくって、言葉を書きまくって、喋りまくっていくだけだ。安易な共感や同意も要らない。共に闘う勇気ある者、そして魂に響く言葉を投げ返してくれる友だけを求む。

お薦め!Aquikhonneのライヴ(期間限定告知)

Tuesday, April 26th, 2005

連れ合いのAquikhonneのライヴがあります。

吟遊即興のギタリスト・黒井絹氏とのAquikhonneのライヴは今日のヨル8時より荻窪グッドマンにて。新作の詩と旧作を織り交ぜた詩朗読と、即興ギター(ヴォイス)とのコラボレーションは、文字通り「数年越し」の構想をついにカタチにするもの。期待は大です。幅広くなったAquikhonneの朗読表現をかいま見る一隅のチャンス。朗読/即興マニアならこれを逃す手はない、と思います。

「自滅」を目指せ!(って、目指してるか、別の意味で)河上肇の評論文

Friday, April 22nd, 2005

河上肇評論集(岩波文庫)というのを手にしたが、その最初の方で驚くべき小見出しがあったので、思わず立ち止まって読んでしまった。その評論ひとつが「経済上の理想社会」というどちらかと言うとやや平凡な大見出しであったが、そのエッセイの小見出しのひとつが「宇宙間一切の物は皆なその自滅を理想とす」となっていてドキッとさせられる。この見出しが内容を十分に反映しているかどうかはともかくとして、その評論の文章自体が驚愕に値するものであった。

「それ万物は皆なその自滅を理想とせざるものなし。たとえば病院の目的は如何というに、曰く疾病の治療にあり。故にあらゆる患者の疾病を治療し尽くして、世に病人というものの全くなくならん日あらば、ここに始めて病院設立の終局の理想は実現せられたりというべし。」

「万物」から「病院」に突然飛躍するこの文章を読んで思わず吹き出した人は、(気持ちは分からないでもないが)世の中の根本問題に無関心であるか、本質的な世の理想を想像する力に欠けている可能性もある。彼のこの文章だけではないが、人間の経済活動、人間の運営する組織、そうしたものに潜在する課題、つまり、目的があってからこそ手段として発生した産業なり経済活動の存続が、人生や経営の目的そのものと化してしまう人類活動の逸脱について述べているのである(手段の目的化)。

彼はこのように続ける。

「(略)能く考えて見れば、病院は病院自身の滅亡を理想とすという事、言奇なるに以て実は奇ならず。学校も同じ事にて、無教育者を全くなくするがその終局の理想なれど、もしその終局の理想にして実現せられ、世の中に教育を受くる必要ある人の全くなくならんには、学校は乃ち廃止されざるを得ざるなり。裁判所といい、監獄といい、法律というの類、推して考うれば、皆なまたその自滅を理想とするにあらざるなし。」すごい!

確かに、一見極端な言説だし、新しい人間がどんどん世の中に生まれてくる以上、学校そのものが不要になるはずがない、などと揚げ足取りの反論をする事は出来るかもしれないが、病院も学校も、喩えとして若干のほころびがあるだけの話であって、その謂わんとするところの本質を見逃してはならない。これは、人間の団体というものが本来、目的的に組織されるものでありながら、それが一旦組織化され、そこに定常的な人間の関与が発生すると、不要になった暁でも、「分かっちゃいるけど止められない」という状態になりがちだということだ。肥大化する省庁や増え続ける特殊法人のことを挙げるまでもなかろう。

そして、ただ存続するだけなら大して害はないように見えるが、実は、組織が組織存続のために、仕事を造ろうなどと画策し始める(実際、そうならざるを得ない)や、その組織がほとんど犯罪じみた行動に向かう事さえある、ということなのである。曰く「民の争訟ますます多からん事は裁判所を設けたるの趣意にあらず」だが、実際は、弁護士になってしまえば弁護するべきクライアントが必要だというような「目的と手段の顛倒」は、現実的には珍しくはないし、この評論でも挙げられている病院に関して言えば、まさに自己存続のために病人をせっせと作っているような現代の医療の在り方は、河上肇が理想的なありかたとして述べていることのまさに逆行しているのである。それに「囚徒のいよいよ多からん事は監獄を設けたるの本旨にあらず」にも拘らず、日本でも刑務所のプライベートな企業による民営化などという呆れた方向に進んでいる。

ときに、刑務所の民営化なんていう流れも、考えてみれば「囚人がいなくなればそれが一番良い」という社会の理想の追求という観点から見たら全く逆行しているわけだ。これは刑務所に入る人が増えるほど、私企業が儲かるかもしれない、という実刑判決者の増加を見越した悪しき方向であるとさえ断じなければならない。本来、社会が法律によって「犯罪者」を定義せざるを得なかった以上、それを社会がすすんで「やむをえないので公のこととしてハンドルしよう」とすべきところなのに、そういった公的な事業とそうでないものとの区別さえもできなくなっている。「民間でできるものは民間で」などというのは、根拠が薄すぎる。多くの公共事業がやってできないことはないだろうが、「やれるかやれないか」が、実行することの判断基準であっていいはずがない。「公共でやる」ということには理念上の根拠があったのである。

いや、話が脱線した。この河上肇のこの評論の行き着く先というのが重要なのだ。この文章も、人類がもっと高貴で神的なものに進化したら、それは「人類の自滅」という理想に達すると、ほとんど神学論的に大いに脱線しつつ(好きだ!)も、「経済社会の理想は経済社会の自滅にあり」という小見出しにも表れているように、重要な結論に達するのである。そして、それは窮極的には、悦楽のために労働があるのに、労働自体が人間の生活を圧迫するのであれば、意味がない。どこかが間違っている。という所に論が導かれるのである。それは、「文明の利器」がわれわれを労働の苦しみから全然解放していないんじゃないか、という Posted in Good/Bad Books Memo | No Comments »

預言に「自己成就性」の回避を組み込めるか

Tuesday, April 19th, 2005

ある事態の潜在的危機(とくに軍事や外交問題)について警鐘を鳴らす専門家が、知らず知らずに予想された「その事態」が起こることを切望し、引いてはそれが起こることに加担してしまうというディレンマについて、「テンポラリー専門家」になった人物が自分の体験をもとに証言をしている。「ためらいの倫理学」の内田樹氏は、似たようなことを既にどこかで述べておられるが、それを自ら実感を持って体験したと今回blogにおいて書いているのである(「中国の狼少年」)。

自分には、これが「○○が起こるかもしれないぞ〜」と警告する学者や預言者の言葉や、その警告者の存在自体が、その予言の成就の片棒を担いでしまうという、まさに予言の自己成就性について書いているようにも思えた。これについては、我が身の言葉の在り方を振り返ると同時に、自分は、何らかの専門から局外者の立場であるという、言わば「寄港地を持たぬ船」、あるいは「あらゆるフィールドからアマチュアである」という生き方へも想いが馳せられた。

実際問題、内田氏が指摘するまでもなく、専門家的発言というものの持っている危険性や、専門家自身が自己の論理正当性を明かすのに、それの「成就すること」が、もっとも手っ取り早くしかも効果的であるわけだが、そうした自己陥穽に自覚的な専門家というのも、実は少ないと思うのだ。

特に、「○○が起こるぞ〜」式の警告的トーンの本を何ダースも書いているような小説家や経済批評家や政治評論家や軍事評論家という人種の中には、自己の役割のこうした側面というのに無自覚ではないか、と思われるフシが多々ある。中には、如何に自分の予言がこれまで多く的中してきたか、ということを誇ってやまない物書きもいる。むしろ、その予言が当たらなかったことの方が、本当は「目出度いこと」のはずであるにも関わらず、どれだけ自分の予言が当たったかということを夢中になって誇示する訳である。そうなってくると、この人は、世の中がそうした事態を回避することを喜ぶのではなく、悪くなっていくことにこそ快感を感じ、ほくそ笑んでいるようにも思えてくるのだ。そして、何よりも、そうした物書きはその本をより沢山売ることができる。「あの人の占いはよく当たる」というような評価を以て。

だから、「頼むから当たらないでくれ!」という悲痛な願いの聞こえてくるような予言にこそ、私は敬意を表する。あるいは、どうしたら、その悪い事態が回避される得るのか、という提言を多く含んだ「予言」にこそ、本当は価値があると、言った方がおそらく正しい。いや、予言そのものが、決して成されなければ良かったという視点さえあるのだ。ある局面で、やはり「口は災いの元」ということだ。だが、それは未来予想についてに限った話だ。

また、専門家自身の持っている知識自体が、特権的なものであるという専門職から客観的立場に立てる門外漢(アマチュア)による、批判がつねに意味をなすのだ(と、またアマチュア礼賛をして、終わってしまうのだった)。

日本の「民度の高さ」に乾杯!

Friday, April 15th, 2005

隣国による反日運動を指して、「やはり民度の低い野蛮な国だ」という発言があった。「やっぱりなぁ、そういう他国のネガで自国の優越を感じてしまうひとが日本にはまだまだいっぱいいるんだろうなぁ」と感じ、実に残念。

どんな理由であるにせよ、実は、こうした考え方が、ある一定の現象から一刀両断に国全体を(あるいは民族全体を)演繹的に判断して済ませるお手軽な思考法の典型である。こういう方々は、おそらく今回の反日運動がなくても、そもそもその隣国に対して既に特定のネガイメージというものを持っていて、それが裏付けられるように思ったので、「反日運動」のような今日的現象を進んで取り上げ、満足げに、独りごちるのである。しかも、「日本では 他国の国旗を燃やしたり 中華料理屋や フランス料理店を襲撃したり」しないというような比較で、その隣国に勝っているとでも思いたげである。

こういう方は、そもそもどうしてそのような反日運動があるのか、というような歴史をさかのぼって検証するというような知的作業には、もとより無関心なのであろう。だいたい、それを始めると自分の後生大事に持っていたい独善的「自慰史観」そのものの根拠が失われるからである。

こういうレベルでの他国との比較や自国優越感が好きな方々は、どうやら日本人は「民度が高い」とさえ思ってらっしゃるのだが、その日本人の「民度」たるや、その実態を知れば目を覆いたくなるほど「お愛でたい」ものである。というより、その「洗練された高い民度」が、ある帝国宗主国への「羊の群れ」のような半世紀年以上に及ぶ絶え間ない隷属と「植民地的被支配」を可能にしてきたのだ(しかもそれを被支配者に気付きさえさせずに)。そして、自民族の危機など、必要が迫っても声も上げず、盗られるだけ盗られてよしとする一方的な宗主国への奉仕は、経済的なことのみならず、これからは人命によっても支払われる、そうした国に日本はなっていくのである(このままでは確実に)。だいたい、在日米軍への「おもいやり予算」で支払われているあの金額は一体何だ? 全く正義のない「イラク戦争」に腰巾着のように進んで加担する日本政府の非人道性は一体どういう「民度」なのだ? そして憲法を無視して「集団的自衛権」だと? それが日本人の「民度」の程度なのだ。

経済的なことだけをとっても、現在進められつつある郵政事業の民営化(すなわち、日本国民の数十年に渡って貯めに貯めてきた老後のための箪笥預金などのリスク化)によって、長銀の米投資ファンドによる「買い叩き」どころのスケールでない途方もない大きさで、あれよあれよという間に米帝国への上納金となるであろう(全く「合法的」な手続きによって!)。そのために、着々と小泉首相や竹中経済財政・郵政民営化担当相は(売国奴とも呼ばれずに)そのプロセスを進めている訳だが、こうした自分たちの財産権や安全権を簡単に国家に譲り渡してしまうような意識の低さが、「日本の民度の高さ」なのである。おめでとう!

石を取って、米国大使館に投げつけるくらいの「民度の低さ」にわれわれはむしろ見習うべきではないのか? なんて言うと、まるで破壊行為にひとをアジっているみたいだが、そんなことを頭の中で想像したくなるほど、日本人の国内政策に対する無関心、そして「従順」が、我が「民度の高さ」を支えているのである。Fuck our mindo!

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「歴史教科書」に対する批判は内政干渉ではない

Thursday, April 14th, 2005

歴史教科書を巡る論争と言うのは、日本と朝鮮半島、日本と中国の間にだけ存在したものではなくて、第二次大戦を闘ったヨーロッパの戦勝国と敗戦国の間でも真剣な議論となった問題である。だが、例えば大戦中侵略国であったドイツと、それに対する防衛戦を闘ったロシアやその他の東ヨーロッパの各国の間で行われた教科書を巡る意見交換と、日中もしくは日韓の間で行われているやり取りとを比べると、その質は全く異なるものであると言わざるを得ない。

「歴史教科書問題」(高橋哲哉)

自国の歴史をどう捉えるのか、自国の過去の行いをどう受け止めるのか、というデリケートな問題である以上、「他国からの干渉」と思われるような発言に感情的に反応してしまう事情も理解できないことではない。だが、ここで二国間で感情的なことばの応酬をしても、その扱いを間違えれば、単なる感情的対立では済まされない、将来の互いの安全を損なう火種として残ってしまう可能性もある大問題である。

この辺りの、教科書事情というのは、確かに内政の問題として他国の干渉を許すべきでないという、一見正論に見える意見があるものの、実は、他国との関係、すなわち他国間関係と緊密につながりのある、容易に避けて通れない政治的・外交政策上の課題であることに違いはない。「歴史教科書」に限らず、歴史解釈そのものが、隣国には関係がないと言って済まされるほど、単純な問題ではないのである。歴史解釈、ひいては歴史教科書とは、隣国との関係のありかたをどうしたいのか、という国家の方針の反映そのものなのである。

歴史の共有、もしくは「共有への各国の歩み寄り」の努力なしに、明るい国際関係はあり得ない。自国史は自分たちが信じたいように記述し、それを自分たちの子孫に押し付けるというやりかたからでは、他国からの共感も協力も尊敬も得られないのは自明であり、独善的な自国史観の果ては、完全な孤立と対立しかない。

われわれは、自分たちにとって都合の良いことだけを美化して過去の過ちから目をそらす歴史観を(彼らが批判の際によく使う「自虐史観」ならぬ)「自慰史観」と呼ぶことにしよう。そのような自慰行為から抜け出せぬ国家がどうやって他国と成熟した「未来志向」の関係を築いて行けるというのだろう。(アホくさ。)

参考:歴史の共有に向けて

「靖国問題」に対する批判は内政干渉ではない

Wednesday, April 13th, 2005

国家元首による靖国神社参拝に対する批判は、中国のみならず日本国の内外の誰によって成されても可笑しくはないものである。むしろ、「なぜ」そのような批判がなされるのか、という歴史的経緯について、日本国内での知識や認識がなさ過ぎる。靖国の問題は、日本の宗教と政治を分ける政教分離の原則に反する憲法違反であるという重大事さえ含むが、それをとりあえず棚上げしても、そもそも内政云々の問題ではなく、まさに日本の外交政策そのもののもたらした結果と言って良い。よその国の宰相が批判するということを「内政干渉だ」と呼ぶのは、日本の政権やその取り巻きが批判をかわすために採っている常套表現であって、それをわれわれのような一般人が無反省に繰り返すことは、単なる政府の代弁者になっているに過ぎず、自分で考えたり調べたりしてものを言っている態度からはほど遠い。

そもそも、どうして日本の政治家による靖国参拝に対して批判があるのか、ということについて、われわれはどれだけ分かっているのだろうか?

1978年に日中間で締結された「日中平和友好条約」というのがあるが、その際、中国は日本への賠償請求権を放棄し、形式上、「日本の戦争責任がA級戦犯を中心とする一部の人々にあり、日本国民の多くは犠牲者であった」と、いわば大人の解釈をすることを選んでくれているのである。われわれ現代を生きる日本人が、「戦時中の日本国民の多くは犠牲者に過ぎなかった」という考え方をそのまま鵜呑みにすべきかどうかは、また別の課題であるが、とにかく、条約締結当時の中国政府は、先の解釈を以て、中国の内政的には多くの犠牲者やその遺族を抱える中国人民を納得させ(黙らせ)、外交的には以前の加害国たる日本との「前向きで未来志向」の関係を結ぶことを選んだのだ。

しかるに、条約締結国の一方である日本においてはどうか? 単なる一個人としてならまだしも、国家元首たる首相が、公人としてA級戦犯を祭っている日本の戦時体制を象徴する、その靖国神社(私的宗教法人である)に参拝するということは、大人の判断をしたその中国政府の顔に泥を塗るということなのだ。そうした日本の不誠実に対し中国が怒るというのは、至極真っ当なことである。つまり、靖国問題が単なる日本の内政の問題であるというのは、完全な認識不足であって、まったくもって日本の外交政策上の一貫性と節度のなさに帰されるべき問題なのである。

参照:小泉首相に“歴史観”はあるのか(窒素ラヂカルの「正論・暴論」)

われわれは、植民地支配下で抑圧された経験がない。だが、もしわれわれの立場が全く逆で、暴力的かつ抑圧的な植民地支配をされていたとしたらどうだろう。しかもその支配国と抵抗の闘争をし、多くの同胞の血を流したあげく独立を勝ち取った後も、その植民地政策の加害責任を持つ相手国が、戦争に負けた後でも未だにその加害責任について無自覚であるばかりか、その責任者が「神」となって祭られているところに、いまだに現今の元首がお参りをする… こういうことが起きたとしたらどうだろう。そういう態度を、われわれの目には「不誠実であり反省していない」と映るであろうことは想像に難くない。ましてや、友好関係樹立にあたって、われわれが当然持っている賠償請求を取り下げる代わりに、当時の植民地政策の責任者を敬うのは「今後一切止めろ」と求めるのは当然であろう。これは相手の立場に立って考えられるか、というまさに想像力の問題なのである。

加えて、靖国神社は、断じて単なる戦死者を葬っただけの国立の戦没者慰霊設備ではない。もしそういうものであるなら、日本人/外国人/在日外国人を問わず、あるいは空襲によるか戦闘によるかを問わず、戦争が原因で死んだあらゆる人々の霊を慰めるものでなくてはならない。だが、靖国神社はそういうものではなく、特定の信仰を代表する私的一宗教団体で過ぎないばかりでなく、先の日本の戦争を美化し、戦地にて戦死した軍人だけを軍神として祭り上げた上で、日本に戦争責任などはない、などと未だに嘯(うそぶ)いている集団なのである。そして、A級戦犯として裁かれた戦争責任者が、その他の一兵卒として闘って死んだ兵隊と共に合祀されているのである。百歩譲って、私的宗教法人が何を教義にし、何を信じ、どれだけ信者を集めようと、それはその法人の勝手だが、そこに国家元首が私人としてではなく、公人として参拝をするということは、外交問題になって当然なのである。

中国の学生が騒ぎ始めているということには、「靖国」や「教科書問題」だけでなく、いろいろな政治的背景や動機があるだろう。国内問題を外にそらすという意図がないとは言いきれない。だが、問題の本質はそこではない。そのような政治ツールとして学生運動が利用されているとしても、発端となる種をまいたのは他でもない日本なのである。したがって、今後、日本の対応いかんによってはもっと激化してもおかしくはない状況である。おそらく、日本からの明確な返答があるまでは中国が幾度でもこうした「挑発」ともとれる行動に出ても不思議はない。政治問題である以上、中国の政府主導による陰謀や操作があったって不思議はない。だが、それは、お互い様である。

しかし、中国が今どうしているか、ということではなく、日本がこれまで中国に対し、あるいはその他の植民地支配をしたアジアの諸国に対しどれだけ不誠実であったかということが、そもそもの根本原因であるということをわれわれの方が自覚する必要がある。他国の残酷な植民地政策からなんとか逃れた戦勝国なら、当然持っている賠償請求権を、自主的に放棄した中国政府が、それによって友好関係を築こうとした相手国から、なんらの誠実性も納得できる説明も期待できないばかりか、未だに戦争責任者として裁かれた時の指導者を礼拝しているとなれば、最後は「もはや自国民を黙らせている必要がない」と判断したとしても不思議はない。これは、彼らがそれだけ納得できていないし、怒っているというサインを送ってきているということなのだ。怒っている側の主張に耳を傾け、自分たちに何ができるのかを考えることこそが、隣国と争わずに隣人として共存して行く、本当の意味での「未来志向」であるはずなのだ。

全部賛同できる訳ではないけど、まだ、こういう言い方の方が、まだましだとおもうんですよね。