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死刑制度反対と法遵守の間(はざま)で

Tuesday, August 10th, 2010

千葉法務大臣が死刑執行のサインをし、それに引き続き死刑が執行されたことは、彼女が死刑廃止論者として知られていたこともあって、どうして死刑執行にゴーサインを出したのか疑問の声も聞かれたし、とりわけ死刑制度への反対派から多くの批判が相次いだ。たしかに執行にも立ち会ったともいう彼女の直後の説明が、万人に分かりにくかったこともあり、また彼女が選挙で当選しなかった直後の動きだったことも受けて、相当の逆風が彼女に対しては吹いたようである。

しかしenteeは、千葉法務大臣が単なるバカとも思えず、何か説明の困難なある考えに基づいて、この度の決断に踏み切ったのではないか、と直ちにいつもの想像の羽根がのびたのであるが、つい先ほどそれを裏付けるようなインタビューの記事が載った。

■ 死刑廃止と執行のはざまに揺れる「千葉法相」の言葉

曰く、法務大臣になったときにこのような職責があることは認識していたとあり、どうやら彼女にとって自分の死刑廃止への個人的な思いと、法務大臣としての役割を、分けて考えていたらしいことが伺える。

Q:今回の執行についての大臣の御決断にいろいろな見方があると思うのですけれども,大臣になられて,法務官 僚に説得されて押し切られたのではないかという見方もありますし,実際そういうふうなニュアンスの報道もあったかと思うのですけれども,死刑の執行という ものについて,大臣になられてからお考えを変えられたということ,あるいは率直に言って法務省の官僚に説得されて考え方を変えられたということはあったの でしょうか。

A:それは,私は全く当たっていないと思います。法務大臣を拝命をさせていただくということは当然のことながら,そのような職責を負うことなのだということは,私は当初から,きちっと念頭にありました。

死刑を支持する人間が法務大臣になると死刑執行のオンパレードになり、死刑に反対する人間が法務大臣になるとその執行が止まるというのは、実は考えてみるとおかしい。もしそのようなことが当たり前であるとなれば、大臣のポストは(建前はともかくとして現実自体が)自分の信条を現実に反映させるための道具ということになり、死刑を実質的に止めるためには心情的に死刑廃止の論者を法務大臣に据えるということが、反対派の手段となってしまう(そしてそういうことは過去にあったように思う)。しかし何かのきっかけで死刑制度支持者が法務大臣になってしまえば、突然死刑が定期的に執行される。これは、実のところ、法のサダムルところに従うという法治社会の原則*からはほど遠い。

[* もしソクラテスが生きていたらば、「悪法でも法は法」と、死刑判決に粛々と従って死に赴いた彼なら日本の現状を嘆いただろう。しかし、ソクラテスが現代社会の死刑制度を支持したか反対したかはむろん分からない。いずれにせよ、それを彼が問題にしたとして、そのことと、その法の定めるところに従うということは、別の問題だったことは間違いない。自分に置き換えて考えると、とても筆者にはそのような「区別」は無理だと感じるが…]

例えば、ある具体的な冤罪事件で死刑判決を受けた人間がおり、その人物を救う唯一の手段として、死刑廃止論者を法務大臣の席に送り込み、死刑執行のサインをせずモラトリアムを行うというのは、冤罪の被疑者をとにかく助ける現実的な戦術とは言えるだろうが、死刑制度そのものを根本的に無くすための実効的な戦略とは言い難い。千葉法相は、本質的な法制度としての死刑廃止への路を開くために、このような傍目からは分かりにくい方法を採ったのではあるまいか?

もし心情的に死刑廃止論者である法務大臣の就任がたまたまずっと続いて、「実質的に死刑が停止」したとしたらどうなるだろう。逆説的だが死刑存置/廃止についての議論は一向に始まらず、したがって法制度としての死刑は永久に廃止にならずに、曖昧なまま法的には継続し、必要とあらば、また実効的に蘇ってくることになるのだ。千葉氏は、法に則って粛々と刑を執行しつつ、「はやく、正規の方法で私(法務大臣のサイン)を止めて!」と言いたいに違いない。それが分からずに、われわれは彼女の選択を批判をし、騒ぐばかりだ。そもそも法務大臣の個人的判断にゆだねられる法制度とは何なのか、ということについての疑問がなさ過ぎるのではないか?

千葉法相は、少なくとも自分の信条が明らかで、且つ、変わらぬものであるとして、その信条の実効化の手段としては「自分のポストを利用しない」というa public servantとしての筋道(スジ)を通し、その役割を明らかにした点で、本物の政治家であり、大人物である。(そのために囚人が死刑にされることはまことに残念なことであるが、それは異なる問題圏に属する話だ。)そのひとつの証拠としては、彼女の死刑廃止への信条のために、殺す相手を最期まで見届けるという、殺人者(死刑執行人、あるいは「裁き手」)として、本来もつべき「義務」さえ果たしたところに見出せる。誰かにそれをまかせて自分はどこ吹く風で、死刑制度の支持表明だけはするという凡百のネット上の「死刑支持者」たちとは本質的に違う。

「死刑はいけない。現に私が法務大臣だったときに死刑にサインしなかったし、私のときは誰も処刑されなかった」という戦術的な「死刑執行先送り」の実績ではなく、法務大臣として重責を果たしつつ、しかもその処刑の現実を逃げずに立ち会い、というのは、単なる感情的な死刑反対論とはまったく一線を画するなんらかの《確信》があるように思えるのである。それはインタビュー記事における彼女の返答の行間に伺える。

むしろ「言い訳」がないところが、万人になかなか受け入れられないマイナス点なのだろう。彼女の行為には、このような「解説」がおそらく必要なのだ。

いずれにしても、その辺りの事情を理解するひとは、このインタビュアーである保坂氏も含め、どうも少ない気がする。(ひょっとするとこのインタビューの後に何かを悟った可能性はあるのだが。)