Archive for February, 2007

Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [3]

Tuesday, February 27th, 2007

Candy Cane (pl.)Candy cane (Choco)

図版引用先:CELADON CUPCAKE

■ クリスマス装飾の象徴性

クリスマスに欠かせない装飾の中にはこれまでに見て来たようにリース wreath やクリスマスツリーなどには、色や形、そして構成要素やその数といったものの中に、記憶に残る特徴として無視すべきでないエッセンスがある。あるいはツリーに付随するものとしては、その頂点に掲げられる輝ける星、そして吊り下げられるさまざまな光輝を発する球体(花火の弾のようでもある)というものがある。中でも伝統的にクリスマスに付き物の象徴的アイテムのひとつとしてJ字型のキャンディー・ケイン candy cane(杖型キャンディ)のことを忘れるわけにはいかない。それはクリスマスケーキに付けられることもあれば、リースに絡められることもあり、またツリーに下げられることも多々ある。ポストカードのようなものには単独でキャンディーと思われるデザインがあしらわれることもある。このシンボルはクリスマス期間中、商業主義によっても広く採用され、またはそれに積極的に便乗し、ほとんどあらゆる場所と言って良いほどさまざまな場に現れるものである。

Christmas tree and candy canesWreath with candy canes

図版引用先:

Children’s Cross Stitch Winney the Pooh

NorthlandSent Wreath Company

クリスマスツリーがそもそも何を表すものなのかという基本に戻れば様々なことが憶測できるが、ひとつの重要な解釈には「世界樹」としてのクリスマスツリーと、その枝に撓わに実る《収穫物》という考えがある。クリスマスツリーが世界の中心を表す世界軸(axis mundi)であり、それが一年という季節の周回の閉じる時、すなわち冬至の祭りの時期に登場するということ、そしてその木に稔るさまざまなオブジェは、その垂直に屹立した男性原理としての神的/父権的「リンガ」が子としての人類へさまざまな「実り」をもたらしたことに由来する。

Christmas tree items

図版引用先:Button & Needlework Boutique

クリスマスの時期にプレゼント交換をするという現代の世俗的な慣習も、その文脈で捉え直せば、まったく意味がないこととばかりとは言い切れない。つまりわれわれにとってクリスマスのプレゼントが「メイシーズ*の陰謀」のためだという説明だけで満足できる話ではなく、むしろ商業キャンペーンが始められた時代よりずっと旧い伝統を持つ贈り物の慣習に、商業主義が便乗してグローバル化したものと言うべきであろう。現に、アメリカの百貨店の影響下になかった旧ソ連においても──すなわち一見、脱宗教化されていた時期のソ連においても──この冬の時期にこうした贈り物の交換が行なわれていたことは事実でなのである。これは近年のクリスマスの祝祭的お祭り騒ぎが商業主義のせいだけでは説明できないことを証している。

* Macy’s: アメリカ合州国の有名百貨店。

さて、そのクリスマスツリーの枝に「実っている」さまざまな象徴物のひとつが、J字型のオブジェであることを、われわれはここで改めて捉え直すことができる。それは装飾品がある種の「供儀物」であるという捉え方である。われわれはこうして聖書における様々な鍵を担う登場人物達(特に男性)の名前のイニシャルが英語において、ステッキ状のJに置き換えられていることの意味(理由)に近づくことができるはずである。

Stocking near mantle pieceThree stockings

図版引用先:

Elegant Stitch

“Christmas clangers” @IntakeHigh

もうひとつ思い出されるヒントは、クリスマスイブの夜に子供達がサンタクロースからの贈り物を期待して用意するあの象徴物である。それはしばしば暖炉の近くの壁(マントルピース)に取り付けられ、この中には翌朝、食べきれないほどのキャンディー、あるいはクリスマス・プレゼントなどが詰められているであろう。これはクリスマス・ソックス Christmas Stocking である。この袋状のものに詰められる豊穣の収穫物という範型は、コニュコピア*という豊穣のホラ貝の象徴物と明らかに類型のものである。こうした角笛状の貝には当然のことながら男性原理(陽物)的な暗示があるが、そもそも住居の煙突とは家庭というもうひとつのミクロコスモスにおける世界軸であり、男性原理の象徴としても存在する。そこでクリスマス・イブの夜に子供達に与えられる贈り物の習慣を思い出せば、この靴下が象徴的な煙突の足もとに溢れ出しこぼれ落ちる「供儀物」の分配の一種と捉えることができる。

そして、多義的に解釈可能だが、その靴下がわれわれに注意を向けるよう指し示すものは、容れ物の形状である。それは《J字型の容れ物》であり、キャンディー・ケインと同様に、靴下や飴という物品の持つ機能的属性よりも、その形状的属性こそに表徴的本質があるのである。

Cornucopia

図版引用先:Gary Elliott @FOUNTAINHEAD, College of Technology

記号でありながら、それ自体が具体的な物品であることから、それが比喩であることが了解しにくい。それが、何かを指し示すものであり、指し示される対象が別に存在することが一見すると分からないのである。

記号としての共通点は、“J”で表されるものがクリスマスツリーにしてもソックスの中の菓子にしても「味わわれるもの」であること、そしてそれこそが神への供儀物であり、子供達に与えられる供儀物の分け前なのであることをわれわれは再び思い出すであろう。

* Cornucopia: “Harvest Cone”とも“Horn of Plenty”とも呼ばれる。ギリシア神話における逸話より。山羊の乳で育ててくれたことへの返礼として、ゼウス Zeus が乳母(育ての親)アマルテア Amalthea に山羊の角を贈ったと言われるところから。溢れ出る収穫物が特徴である。

■ 祖型的「自己犠牲」の象徴としての“J”

われわれがもはや記憶から消し去ることのできないほど深いトラウマとして、そして最も広く知られた“J”の象徴の王様は、イエス・キリスト Jesus Christ である。もともとがヘブライ名であったその名前の表記が最初から“J”とされたわけではないことはすでに知られたことである*が、それがやがて欧州のほとんどの地域で“J”をイニシャルに持つ表記となり、ついには固定化された。

これは先述したようにある意味異常とも言いうる事態であるが、それが定着した後なら、「人の子・イエスの誕生日」ということに通例なっているクリスマスの期間の象徴に、“J”形状の記号がかくも多く見出されることは、ある程度は自然であるとも言える。したがって、通説にもあるように「キャンディー・ケインの形状は、Jesus Christの“J”である」と言えるわけである。そしてまた、その救世主イエスを表象する道具である「羊飼いの杖」の形状でもある、とも言えるのである。こうした説明は一般的にすでに受け入れられているか、あるいは改めて説明されれば多くのクリスチャンが抵抗なく「なるほど」と納得できる俗説であるとここではしておこう。

Candy cane as Jesus

図版引用先:The History of the Candy Cane

だが「杖」と救世主のつながりは、イエスの生涯を描いた子供向けの「聖書物語」の挿絵やクリスマスカードにおいて示されている図版の存在という事実にあるのではなく、むしろ「先端の曲がった杖 cane」が、自己犠牲を通しての救済を象徴してきたことにある。「先端の曲がった杖 cane」が、《ペリカン図像》にも見られるようなある象徴機能の範型を共有していることにこそ、より重要なつながりが見出されるのだ。

Alchemy pelican B&WPelican as retort

画像引用先:

Birds in Alchemy @ CRYSTALINKS

Distillation Equipment @ CRUCIBLE CATALOG

錬金術図画にも登場するペリカン図像は、キリスト教の伝統の中でも採用されており、自らの血を購いの血として胸から地上に放出するキリストの象徴である「神の子羊 Agnus Dei, Lamb of God」と同様に、自らの血を子に与える親ペリカンの像として現れるものである。その形状的特徴は図版からも分かるように、「長い首を内側に曲げ、嘴(くちばし)を自らの胸に突き立てる」構図なのであり、その形状のエッセンスを抽出すると、「曲げられた長い棒」ということになる。

つまり杖は、当時三十代前半の若さであったと憶測されるイエスが使用するものとして最も相応しいものであると考えるよりは、「曲げられた長い棒」が、「我が身に嘴を突き立てる」自己犠牲的行為を通しての救済を意味する記号として機能することにある。

ペリカン図像が錬金術の象徴体系等に見られる様な多層的な意味を持つことについてはここでは深入りしない。秘教的象徴を保持する図像群の中で、とりわけ「購いの血を流すペリカン」が、「Jの祖型」のグループに属しており、そのヴァリアントがペイズリーのパターン paisley motif* の中に見出されるようになることだけをここでは断っておこう。

Peclian heraldry in blueAgnus Dei

[ここにペイズリーの画像を持ってくる]

図版引用先:

The Pelican (by Wor. H. Meij) @ Let there be light! (Welcome to the place for Masonic knowledge!)

Agnus Dei @ Wikipedia

* スコットランドのペイズリーで量産されポピュラーになった装飾紋様であったためにこのように呼ばれるようになったようだが、そのオリジンはどうやらインド(カシミア/カシミール)に求められるようである。

Secret Gardens: “Paisley” Motifs From Kashmir to Europe @ Museum of Fine Arts, Boston(http://www.mfa.org/exhibitions/sub.asp?key=15&subkey=617)

Paisley pattern stretches across millennia @ Hindu Widsom(http://www.hinduwisdom.info/Hindu_Culture2.htm)

だがより深い問題は次節で観ていくように、救世主イエスばかりでなく、“裏切り者”**ユダ Judas、洗礼者ヨハネ、福音書家/十二使徒ヨハネ John、そしてヤコブ Jacob やヨゼフ Joseph など、聖書世界のメジャープレイヤーの多くが、同じく“J”の記号を以てその世界を絢爛に飾っているという真の理由の方である。そして(ヨゼフを除いては)その登場人物の幾人かが、《殉教》によってその生涯を終えていることにわれわれは注意を喚起すべきである(洗礼者ヨハネ、使徒ヨハネ、使徒ユダ、使徒ヤコブ)。殉教とは自らが燔祭の羊となることであり、神への供儀物となることである。真偽の評価はともかくとして、それが「救済」へと結びつくと信じられたのである。

* What’s in a name? (By Brian Felland)

ヘブライ語のスペルから考えれば、”Yahuah”か”Yahshuah”であるべき「人の子・イエス」のスペルが、どのような事情で“Jesusとなり得たのかの経緯について言及している。

** 飽くまでも現正統派が編纂し、今日「原典」として知られている新約聖書による解釈。もはやユダが裏切り者であったかどうかについては疑問の余地があるためだが、ここでは深入りしない。

Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [2]

Friday, February 16th, 2007

■ 「J祖型」──ひとつの仮説

だが“I”が果たし得なかった名状し難いある役割を補完するものだというのが、ここでわれわれが「Jの祖型」ないし「J祖型」と呼んでも不当ではないアルファベット“J”の機能なのである。一見すると、代用なしでも表記可能だったある特定の「音」に対し、それに相当するアルファベットを当てずに、その変容した形のアルファベットを充て、そればかりかその新しいアルファベットのために多くの単語の「音」自体の変容が生じた。そこには歴史的なある種の秘密が隠される余地がある。つまり、その特異な使用法によってある種の人名などのスペルは「区別」され「聖化」された、というのがわれわれの憶測である。

さて“J”に関しても以上のような事情から了承できることが幾つもある。それは、“J”という文字に担わされているのが、単に音を伝達するという役割以外の、極めて象徴的に重要な、ある種の目印として、この世界で機能している、ということ。そして、この推量には注意を向けるだけの価値がある。ここからが話の核心である。

■ 聖書における“J”

日本語で「ヤ行」を表す音を表記するアルファベットには“Y”や“I”が存在するが、何故か英語圏を始めとして多くの欧州圏では“J”に変換された。したがって英語のスペルにおいては、イェホヴァ(ジェホヴァ)、イエス(ジーザス)、ユダ(ジューダス)、ヤコブ(ジャコブ/ジェイコブ/ジェームス)、ヨハネ(ジョン)、ヨセフ(ジョゼフ)、ヨナタン(ジョナサン)、ヨブ(ジョブ)、ヨナ(ジョナ)、イェレミア(ジェレミア)、ユダヤ(ジュウ/ジュデア)、などなど、聖書において鍵となる重要人物(男性)や地名の多くのイニシャルに、英語圏を始めとして多くの欧州言語において“J”が当てられており、その例は枚挙に暇がない*。その現れ方はほとんど異常ではないかと言うべき頻度である。重要なことは、頻度だけではなく、これらはラテン語やギリシア語では“I”が当てられていたはずが、かつて同じ母音を表していた“J”に(一見して確たる理由なしに)置き換えられ、やがてそれに与えられた子音表記としての役割のため、英語やスペイン語においては別の音で発音されるに至るのである。

このことは言語発展の理論上も異常なことと思える。つまり単語のなかのある種の音が、伝播される過程で風化し失われていく(ディミニッシュする**)ということは、よくあることだが、例えば「イ」という子音から「ジ」という音に変化するというのは、ほとんど「オーギュメンテーション」(拡張)とすら呼ぶべき現象とも言うべきである。音的には人工的に付加されないと「i」(「イ」音)は「ji」(「ジ」音)になりえない。同様に「iu」(「ユ」音)は、「ju」(「ジュ」音)になりえない。意外にもこれは「拡張」だが、実際にそのような事態が生じたのである。

* 聖書時代から知られる土地の名前の中にはイニシャルにヨルダン、イェルサレムなどが「J」を持っており、またイスラエルには「I」がある。これらをすべて偶然と考えるのかどうかはわれわれ次第である。

** 実際に存在していた音がなくなるという言語発展上の範形は、例えばひとつの言語から別の言語に伝達される時にも起きる。ドイツ語でKnecht(クネヒト)は、英語ではknight(ナイト)という単語として伝わっているが、英語の場合、最初の「K」音は黙字となっていて発音しないこととなっている。だが、時代的に後から出てきた英語単語において(聖書に出てくる人物名が)、それに先立って存在する参照先としての聖書原点よりも音が「複雑になる」ということは、何らかの人為が働かない限り説明がつかないのである。

また、現在英語において“J”で表記されることになったあるヘブライ語やギリシア語の音を“Y”のまま、あるいは“I”のまま伝わったとしたら何が起こったであろう。「音を正しく伝達する」狙いは叶ったであろうが、それが特殊な意味を持ったものと捉えることは難しかったかもしれない。なぜならそれは頻発して使用される母音の記号に過ぎないからだ。それら特殊な意味を持ったコード名を敢えて新手の“J”にすべて相続させることで、語彙の少ない“J”から始まる単語リストに“J”で始まる単語(人名)の一揃いのリストが加わった。これはそれらの単語に特殊性を与え、「目立たせる」のに十分な方策である。これが聖書が翻訳される時点で生じた、比較的新しい表記上の出来事であることは確かで、それをわれわれは皮肉まじりに「Jの陰謀」と呼ぶのである。

ここで起こったことは「音を正しく伝える」ということではなく、年齢的にも歴史的に「若い記号」を使って、特定の名称に「目印を付ける」ということと考えられる。使用頻度の低い記号を、逆に特定種のジャンルにおいてこのように過剰に繰り返えすことによって、特定のニュアンスを保持し始める。

このように観ていくことで、「現代の聖書」や「特定の国名」などが、ある一定の目印として機能しており、われわれに何らかのメッセージを伝えようとしている実体を検討できる。こうして何に注目させようとしているのかという問題にようやくわれわれは移っていくことができるのである。

Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [1]

Thursday, February 15th, 2007

■ 綴り全般の話

アルファベット記号の“J”の歴史は比較的新しい。そもそも“J”の機能の大半はラテン語の“I”がその役割を果たしていたし、その母音を表記するのに機能上不足はなかった。その意味において、“J”は自体の形やアルファベット中に於ける配置からも憶測できるように、“I”の成長・発展した形なのであり、ある種の「利便」に供するために遅ればせに登場したということがまず言えそうである。

Image of J

実際、ある語源事典*によれば、“j”は欧州大陸の中世期ラテン語の筆記体における小文字の“i”を他の字と区別するためのもので、「筆写上の発明だった」と説明している。つまり紛らわしい筆記体を「少しでも視認しやすくする」ための手書き文字のための便宜で、“i”と全く同じ機能を持たされた記号だったことになる。さらに“j”は筆記体において単語の(最初でなく)最後に来る“i”の代用として特に使われ始めたのだということである。これは今のわれわれにとってにわかには想像し難いことだが、どうも本当のことらしい。

* ONLINE ETYMOLOGY DICTIONARY (by Douglas Harper)

ところが、英語においては最後に来る“i”音の表記には“y”が使われることになったので、17世紀に“j”がある種の子音を表す記号として使われるようになるまでは存在しなかったし、辞書においても19世紀まで“i”と“j”は同じ項目に纏められていたのである(やはり“J”の歴史は新しいのである)。これについてはわれわれが時として使う和英辞典でもそのように“i”と“j”が同じ項目に纏められているケースが見出されることからも了解可能だ。だが、本来母音を表すための記号だった“y”と“j”の両方に母音ではなくて「子音を表す記号」であるとの混乱の付け入る余地があったとも言いうる。

一般論としてもアルファベットの各記号は単独使用でもだいたい二つ以上の音価を背負わされている(特に英語に関しては顕著である)。そして文脈というべきか、その並べられ方のパターンによって、どのような音を持つのかが経験的に憶測されるという風に出来上がっている。また同じ記号から成るラテン・アルファベットを広く共有する欧州各国の中でも、各アルファベットが担っている音というのは、おおむね似たものが多いが、必ずしも正確に一致するわけではない。

例えば、現代の英語のアルファベットにおいて「G」というアルファベット一つとっても、それが日本語で言うところの「ガ行」を表すのか「ジ/ジー」の音を表すのかは文脈によって違う。後者の音は“J”で表記することも可能だ。また言語によって「G」は日本語の「ハ行」から「ガ行」までその読み方も幅広い(逆に、「H」が「ガ行」の読みをする言語文化圏もある)。ただし、その記号によって「表される音」が異なっても、ある綴りを持った単語が特定固有の《意味》を持つ言葉であるということを視覚的に伝達することに役立つ場面があり、国や民族によって発音が違っても伝達される意味はおおむね同じ、というようなことが起こりうる。そのケースにおいては、「初めに音ありき」ではなくて「初めに綴りありき」と考えるよりほかない言語の別側面が世界各所に観察される訳である。そこから憶測すれば、(特定の人々によって)受け入れられている語のいくつかが、その言語圏においては「音」に先立って存在したという証拠にもなる。言い換えれば、単語の意味の伝播は必ずしも口で話される「音」によるだけでなく、「すでに綴られた文字」によっても大いに伝播されているということが言える。

表記発端の真相としては、音が綴りを決めるというのが合理的な説明である筈だが、歴史的なある時点において一旦綴りが決定されるや、スペルが「音」に先行することが起こり始める。それに加え、一方アルファベットがそれぞれの民族によって担わされている慣習としての「音」が異なるために、その単語が別の国にやってきた時には当然のこととして「別の音」で発音されることになる。先行したスペルのために、単語の綴りが「音」とは別に単独で影響力を持つのである。(これは親言語としてのラテン語の綴りがよその国に伝播した後もスペルの一部が温存されたことにも見られる。そして綴りは維持されても各国によって発音が違うということが生じる。)

■ 歴史的に若い記号“J”

前出の語源辞典によれば「特殊な子音」を表す“J”の記号の使用法の一例がスペイン語に見出される。そこまで遡れば1600年代前の時点ですでに観察されることになる。だが、われわれが注目しなければならないのは、まず第一にスペイン語の“J”は、英語で表記されたときの“J”とは全く異なる音を筆記するための記号だということである。しかも、どちらかと言えばスペイン語の“J”音は、日本語のハ行、具体的には「フ」や「ホ」の音、ないしロシア語やドイツ語の“kh”や“ch”の音に近い(Julioを「フリオ」、Jorgeを「ホルヘ」と発音するのを始めとして)のである。

その点から言えば、例えばヘブライ民族の多くの男性名のように“I”の母音から始まる語が周辺国のひとつであるスペインに到達した際に、敢えて“J”で表記しなければならない必然性があったようには見えない。だがそれにも関わらず、スペイン語では“J”を当て、しかもその上でスペイン語独特の発音をするのである。もしスペインにヘブライ語の人名が伝わった時点で、ヘブライ語の発音とは無関係に正しいスペルだけが伝わったというのならそれはそれで理解可能だ。だがそれが伝わったかどうかはともかくとして、その音に対してやがて“J”が当てられた。これは不可思議としか言いようがない。音が伝播したのであれば、それに近い音を持つスペルが当てられるべきだし、スペルが伝播したのであれば、音は違ってもスペルだけは正しく伝えられるべきだ。そのどちらでもないことにある種の不合理を覚えざるを得ないのだ。

そのような独特の「音」を表す記号“J”が、なぜスペイン語圏においても英語圏においても使用されるに至ったのかは、合理的に納得することが難しい。英語ならば同様の音を表す記号は、すでに“Y”で可能だった。“J”は“G”と同じ音を表すことになるにも関わらず、“J”がその音に充てられた。スペイン語でもその母音は“Y”で表記可能だったはずである。それをなぜ全く別の子音を表す“J”で代用しなければならなかったのか疑問が残るのである。

いずれにしても、わずか400年の間に“J”は登場し、現在の特異な役割が定着したのである。

(続く)

二つの視点(通時的にしか語り得ぬ物事について)

Tuesday, February 13th, 2007

親しい友人から、私の言説が、地上俯瞰的な(神のような)視点で「国家を論ずる」という一見して「いわゆるゲオポリティクス(地政学)」的な政治評論のように受け取られる危険があるとの指摘があった。言い換えると、そこには生活する人の姿がなく、まさに権力によって押しつぶされるかもしれない具体的個人という視点に欠いているような印象を持たれるということでもある。ここ2回ほど私がアップロードしたような文章(「例えば朝鮮半島の対立が…」「大国の防弾チョッキとしての日本」)だけを読む人がいたとすれば、そういう(全体主義的な)類のものの考え方だけをする人間だと思われる可能性があるというのだ。

確かにそのように受け取られる可能性はある。だが、大きな視点から今の時代や権力勢力図を見るというのと、そうした動きのために大いなる影響を被る個人への眼差しという二つの異なる視点というのは、どうしても行ったり来たりせざるを得ない。そのどちらかを語って好しとするのはどうしても片手落ちの感がするのだ。

俯瞰図とそれを作り出す個々人の人生の両方を同時に「視る」ことはできるかもしれないが、まったく同時に「語る」ことは出来ないのである(いや、詩や映像を利用した「優れた言葉」なら可能かもしれないが…)。それはレコード再生はどうしても一本の針で通時的に行なうしか方法がないということにも似ている。つまりレコードというのは再生されるべき音楽作品が溜められているが、その中身を再生するには一本の溝を一本の針で最初から最後まで地道になぞって行くしかやりようがないということである。それは機械がマルチタスクに対応していないというだけではなく、それを受け取る人間自体が(聖徳太子でもない限り)マルチタスクに堪えないのである。

要は、個人に対する眼差し(仁)があって、そして権力勢力図を視ると言う俯瞰的な視点(賢)がある。このふたつは、心にその両方を思い描き、同時的に鑑みることが可能であっても、それを第三者が分かるように「再生」するには通時的に行なうしかない。レコードの最初の部分を再生するのか、最後の部分を再生するのか、それとも途中だけを再生するのか、ということは再生者に選択の余地があり、またそのようなランダムアクセスは実質的には可能なのであるが、一時に再生される部分というのはどうしても一ヶ所だけなのだ。

そうしたときに、地上俯瞰的な権力図を見る視点は、それに終止すればもう一方の視点の明らかな無視・排除になるが、もう一方の視点に必ず帰ってくるという方針が明らかであれば、その両方を行ったり来たりして検討することは赦されるものと思う。そもそも何度も断っているように、どうして地上俯瞰的な視点に価値があるかと言えば、個人の人生が掛替えもなく大切であるからなのだ。おそらく、その部分が見えないと、人類を権勢だけで(あるいは経済活動だけで)見切ったようなその道の専門家/評論家が出て来てしまうのだ。

大国の防弾チョッキとしての日本

Wednesday, February 7th, 2007

折しも田中宇(たなかさかい)氏(以下敬称略)のウェブ評論紙『国際ニュース解説』に「朝鮮半島を非米化するアメリカ」という論考が載った。まずはそれをざっと読まれたい。本論はそれについての私なりの論評である。

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これは他国との緊張をいたずらに強調し、日本国の防衛力増強論に加担しあるいはその論理に追従する意図を持たない。最後まで読まれれば明らかだろうが、その逆である。象徴的(あるいは無意識的)にプログラムされた民族の「元型的行動」というものを認めた上で、そうなっているから気をつけろと言いたいのである。予言者はそれが如何に否定的な予測であっても心の奥底ではその成就を望む、なぜならばそれが予言者としての権威強化に繋がるから、という金言があるが、私はそのような予言者であろうとは思わない。自分と家族の安全を願う一庶民である。

核兵器を隠し持ったまま(あるいは開発段階の核技術の凍結しただけ)の北朝鮮(北韓)を自由主義経済国の韓国(南朝鮮)が呑み込む形で朝鮮/韓半島が統一され、半島はなし崩し的に核武装された「大」韓民国となる(「青の水玉:月」の誕生)。あるいは、左傾化した韓国が北朝鮮と融和する形で国家統一される。それが平和裏に行なわれるのか、実力闘争の末に行なわれるのかはともかくとして、それが「成る」ことで、この統一国家(「大」韓民国)は中国にとっての「矛」となる。米国にとっての「矛」は依然として日本であり、それを核武装させ、同じく核武装された「大」韓民国と対峙させることで、極東アジアは米中両国にとって真の緩衝帯となる。何か「事態」が起こったとしても、中国も米国も無傷(?)で、大韓民国と日本との間で「青の水玉:月」と「赤の火玉:太陽」の東西対決(蝕)が生じる。これは超・歴史的(ほぼ1万2千年周期)にこの地域で繰り返し繰り返し行われて大地に刻まれて来た元型的事象だ。現在、日本の国技である「相撲」という儀礼の形でも伝えられて来た「裏道教」(密教)が象徴する一大イベントである。

田中宇の論考は、朝鮮半島がいよいよ中国の傘下に入ると言っている(「北との和解は在韓米軍の撤退につながる」)点に於いて、今後の時流を正しく捉えていると言えるが、それに引き続きすぐにでも(2、3年以内)日米の安保解消が起きるというのは、こうした象徴的運動としての歴史観を欠いている証拠であるし、それはある程度致し方ない。ひとにはそれぞれの役割があるのだ。

さらに、現韓国が米国の「勇み足」に躊躇を覚えているという田中宇の主張もおそらく正しい。現韓国政府が中国政府とも比較的良好な関係を維持しているのが前提だとして、また最終的に韓国も朝鮮半島がひとつの国になることを望んでいたとしても、それはすなわち日本との全面対決になることを彼らが本能的に知っているわけで、それは長期的には自国の「悲劇への道」を一こま進めることにしかならないのをどこかで諒解しているからで、しかも対決が不可避であるなら十分に準備をして「安全」を確保した上でそれに臨みたいのである。また、当然のことながら韓国が朝鮮半島統一を自国(南)の主導で進めたいと考えている以上、その右派が「(自国の)“左傾”化を黙認するアメリカ」に対して、憂慮しているというのも十分にメイク・センスするのである。

また田中宇が書くように、北朝鮮とアメリカは質実共に休戦状態であるものの、北朝鮮との休戦協定を結んでいない韓国にとっては、いくら財界同士の歩み寄りがあったにしても、未だに戦争状態(「 」付きの「休戦状態」)である。したがって統一という方向は大局的に望んではいて、そちらへと進んではいても、自国にとって都合の良い形での統一を南北両方が望んでいる以上、それ相応の駆け引きや緊張状態が続くだろうことに違いはない。どちらに転ぶにしても十分な準備期間が必要なのだ。そもそも、もはや米中が(建前上)冷戦を止めている以上、南北朝鮮は朝鮮戦争のお題目をすでに失っているのだ。考えてみても解るが、敢えて自民族同士で殺し合いをするようなことは避けたい。そもそもお題目は対日(反日)の一大勢力としてあるべきであった。アメリカとの関係(あるいは東西対立の関係)の中で「対決」することを忘れていた韓国(南朝鮮)も、久しく対決することを厭わないできた北朝鮮(北韓)によって、その「超・歴史的役割」に目覚めつつあるのである。

朝鮮半島の南北統一は、日本との宿命的対決とワンセットである。だが、日本の普通の人々であるわれわれも、朝鮮半島に住む普通の人々と共に、ヒューマニズムに則って、他者のイベントである南北統一を祝うのと同時に、統一されたその国家との来るべき宿命的対決をなし崩し的に溶解させるだけの超意識(無意識を超克する心)を進展させなければ生き延びることは出来ないだろう。そのために、われわれは地上のあちこちに刻まれた象徴の伝える警鐘の連鎖を読み解き、われわれの生存に役立てなければならない。

アメリカの朝鮮半島からの完全撤退はある。これは田中宇が書いている通り、遅かれ早かれ完遂される。だがそれは普通に行けば日本とアメリカとの「一層の関係強化と一体化」にしか結びつかないし、日本の防衛庁の省への昇格さえ、アメリカからの独立を目指したものでは決してなく、より緊密でよりアメリカの思い通りに動けるようになるための、最初から最後まで宗主国アメリカ合州国の利便のために行なわれる動きとして理解されるべきなのである。その点においてのみ、田中宇の日米関係の自然解消についての「読み」は、当たっていて欲しいが、残念ながらそのように簡単にはならないと言うべきなのである。

例えば朝鮮半島の対立が…

Thursday, February 1st, 2007

国際外交について言えば、物事の表面的な有り様は、それぞれの政府が本当に起きて欲しいと考えていることと、言語化されている上っ面の意見とはまったく反対だ。日本政府も(そして当面は合州国も)、朝鮮半島における二国の分断状態はこのまま変わって欲しくないし、ましてや自分たち主導で朝鮮半島の問題が解決されることも望んでいない。

「Divide and conquer(分割して統治せよ)」という古代ローマ帝国の時代から知られている古典的統治理論を牽くまでもなく、現在の覇権国家アメリカ合州国が行なってきた外交政策から言っても、「解決されないままの国家間紛争」というのはその当事者以外の国にとって、つねに好都合である。第二次大戦後、ヨーロッパに於いてドイツが東西に分割され続けたことを思い出しても分かるが、このことも、欧州において「これ以上ゲルマン民族に問題を起こして欲しくない」という周辺各国にとって、ドイツが分割されているということは脅威の緩和措置と安全保障の要であったことに間違いない。

ちょっと冷静に考えれば分かることだが、どうして現在の日本国政府や財界が朝鮮半島問題(北朝鮮問題)の解決など望んでいると考えるべきなのだろう。それはわからない。どうして自国の隣に、突然有効労働人口が「倍になる」ような強大な国家の出現を喜べるのだろう? あえて断るまでもないが、朝鮮半島に於ける国家分断と対立は当事者にとっては、論じる必要がないほど明白な悲劇である。人道的にはいずれ解決されることが望ましい。このことはあらゆる論理の前提である。

だが暴力装置としての国家「日本」にとっては朝鮮半島が半永久的に分断されたまま凍結され、未解決でグレイな状態のだらだらと続くのが都合いい。とりわけ日本と南朝鮮(大韓民国)との関係が「資本主義国同士である」というお手軽な理由やその他「韓流ブーム」など民間草の根レベルの努力によって、めでたくも「おおむね良好」だとして、市場経済に於ける国際競争力という観点や、国家主義/民族主義的な観点で常にライバルであることに変わりはない。それが、とりわけ戦前の大日本帝国時代の植民地支配によって引き起こされた怨嗟と、植民支配者の敗退に引き続いて起こされた政治的真空状態のために生じた大国間対立(「冷戦」)、朝鮮戦争という「実戦」に於ける大々的な破壊と殺戮によって怨念を募らせている北韓(朝鮮民主主義人民共和国・北朝鮮)が、依然としてその怒りをたぎらせているということは、それはそれでもっともなことで、われわれこそが永年の恨みの対象であることを十分に了解していなければならない。

朝鮮民族にとって、言うまでもない(?)「念願の国家統一」が、韓国の主導で行なわれるにせよ、北朝鮮主導で行なわれるにせよ、《統一した朝鮮半島:“大”韓民国》というものは、日本国にとって実質的に大いなる脅威になるはずである。

資本主義(自由主義経済)の国家として統一すれば、明白な経済競争相手になるだろうし(今でも充分にそうだが)、万が一にでも共産主義国家として統一されれば、それは日本への歴史的怨念が韓国という中間バッファーなしで玄界灘越しに日本と対決することを意味する。

そうなると「近くの他国が紛争している」状態から、「自国が紛争するかもしれない」状態へとコマがひとつ移行したと言いうるのである。米軍の韓国からの撤退縮小はこうしたコンテクストで再認識されるべきなのである。沈み往く船から、寄港地でネズミは退去して逃げるのである。

こう言っては何だが、朝鮮半島の南北統一は、暴力装置としての日本国家にとって、どうあっても避けたい、あるいは先送りを祈念したいところである。彼ら権力者は朝鮮半島における緊張がこれ以上に高まってくれることを願わないまでも、少なくとも「対立が持続して欲しい」と本音では願っている。願ってはいても、そんなやつらも、その国と自国が緊張感を伴った対峙をすることは絶対に望まない。口先では「紛争をやめて仲良くしよう」とは呼びかけてはいても、心の奥底では他国同士がいがみ合う状態であってくれることを誰もが望んでいるのである。それが自分の国の安全を確保するからである。そうした観点で「六ヶ国協議」なるものも視なければならない。

繰り返すが、韓国/朝鮮に力を付けて欲しくない人にとっては、彼らが分断されたままでいることが好都合であり、そのような状態の固定化を実現できる人間は、日本の国益に供する手柄と位置づけられるであろう。だが、やはり「趨勢」は統一である。善かれ悪しかれ統一はいつの日か実現するであろう。それが起こるのが中東に於ける紛争の拡大や解決の後まで先送りされるにしても、である。

だがそのときが、日本が安心して繁栄を享受できる状態から抜け出したのだと一挙に目覚める日になるはずである。そして今の日本国家の動きとはそれを予見してのことと読み直される。

そして「その時」に、米中の潜在的かつ宿命的な政治対立が、どのような形で日本という諸島列島と朝鮮半島の間の緊張を演出するのかが了解できるはずである。彼ら超大国にとって、日本と朝鮮半島という極東地域が、「バッファー/緩衝帯」として機能する対立領域となるのである。米中が「戦争」(冷戦)する時、それはベトナムや朝鮮半島に於いてその地域を分断して行なわれたような紛争が、日本海を隔てて行なわれるのである。そしてその時に祖国荒廃と文化退廃を体験するのは、米中のどちらでもない。彼らは無傷で戦争景気を享受する一方で、痛い目に遭い悲劇を嘗めるのは、朝鮮半島と日本諸島に住む普通の人々なのである。