Archive for September, 1994

この「セキュリティ」は誰のもの

Wednesday, September 21st, 1994

「常任理事国入り」ということの意味を批判的に捉えることの出来る日本国民は極めて少数と言わなければならない。それはなぜか。それは日本の国民の大部分が「国際連合」は善なる存在であるという漠とした、しかも極めて誤った認識を植え付けられてしまっているからである。「『国連』はアメリカによって支配されているらしいよ」という一般教養的な共通の認識はあっても、それが「本当に」何を意味しているのか、を自分の言葉で説明することがこうした人々には出来ないのだ。(自分の言葉で説明し直せないのなら、それは理解したことにはならないだろう。)

それが証拠に、日本国内で、どうして常任理事国入りすることを主張できても、それがどうして「正しい」選択なのかを立派に説明できる人は殆どいないではないか。

そも、『安全保障』と言うが、誰達の安全保障なのか。Whose security is it anyway?

また、常任理事国する事で「より大きな国際貢献」出来るという言い方がある。あるいは、そうすることで日本の国家としての権限を増すことが出来るという言い方がある。

「安全保障理事会常任理事国」などという名称が、その団体の本質から日本人の理解が遠ざけられる原因になっているのかもしれない。(日本が安全保障理事会[Security Council]の常任理事会[パーマネント・メンバー]になって喜ぶのは誰か。)

(日本で常任理事国入りを批判している出版社は、今のところ集英社と講談社の一部くらいのものである。)

むしろアメリカやイギリスと言った先進5カ国の中から、日本の常任理事国入りを積極的に支持している声が挙がっていること自体を、怪しいことと考えられなければならないのに、今の日本人なら、それを喜ばしい(誇るべき)ことと考えているほどである。

「国際連合」(the United Nations)は、早い話が第二次世界大戦時の英米仏を初めとする連合軍(the Allied Forces)とそれに連なるいわゆる戦勝国の連合(union)である。そして「安全保障理事会常任理事国」とは、この第二次世界大戦の主要戦勝国の欧州3カ国(英米仏)及び、戦争集結直前に参戦したロシア、日本に侵略された後に開放された人口の多い中国である。そして安全保障理事会そのものはこの「常任理事国」5カ国、及び選挙されたさらに「非常任理事国」10カ国を足した、計15カ国である。いずれにしても問題の5カ国が第二次大戦の勝った側であることには違いがない。今、日本人が「国連」と呼んでいる機関とは、こうした第二次大戦戦勝国5カ国を頂点とする、「世界平和の維持」を建て前とする、世界支配のための組織である。

こうした歴史的経緯を鑑みれば、何故イタリア、ドイツ、日本の枢軸国(the Axis)側が常任理事国入りできなかったのかは明白である。日独伊は戦後少なくとも50年間は被支配国でなければならなかったし、常に先勝連合国にとって、ある種の仮想敵国であったからだ。

さて、日本がこうした連合国にとって仮想敵国であり続けたという事は、それ自体で「悪い」事であったのだろうか。仮想敵国であったのは当然であるし、それはある意味で「幸いであった」のかもしれないのだ。日本が50年以上前に英米仏の「レッド・ホワイト・アンド・ブルー」に対して反旗を翻したのは、それなりに理由のあることではあった。戦争に負けて、50年経ったからと言って、「レッド・ホワイト・アンド・ブルー」軍団が正しく、枢軸国側の大義自体が悪かったということにはならない。悪かったとすれば、負ける戦争に討って出たことである。戦争をして多くの死者を出して全く犬のように負けたことである。

そう、確かに日本は戦争に負けた。そして負けたにせよ勝ったにせよ、世界への支配権を拡張させ、(他の国々と同様)世界のピラミッドの頂点に立とうと画策していたことに間違いはない。しかし、支配の頂点に立った時点で、日本の世界支配の方法やアジア各国とのつきあい方などにも選択肢があったはずである。日本などの枢軸国側の勝利によってもたらされた世界が、現在の連合国勝利によって導かれたアメリカ中心の支配に比べて悪くなったはずだと言うことも簡単には出来ない。

さて、話を戻せば、「常任理事国入りという動きの本当に意味(意義)とは何なのか」と言うことになろう。それは、戦後50年経ってようやく「日本が本当に連合各国に敗北する」という事である。そして負けたばかりか、「本当の連合国側の完全なる属国になった」と言うことを意味するのである。

我々日本人が日本の「国体」についてウッカリ口を滑らせて、民族自決的な哲学を披露すれば、それだけで、『右翼的』で危険な思想の持ち主ということになる。その一方で、アメリカの国民が星条旗の前に誓いを起てて、『星条旗よ永遠なれ』を喜んで唱い、自国が最も強くて優れた正義の国だと信じることは当然のように受け入れる。日本人が日本国内でそれをしようとすると、「危険で軍国主義的な奴」ということになる。そういう表面的な「軍国主義」なら海の向こうには幾らでもいて、それでもなお我々はそうした典型的軍国主義国の保護の下にいることで、自分だけは「軍国主義的じゃない」と主張したいのである。他人の力を当てにして自分の国の安定を夢見ている方が遥かに狡猾な軍国主義ではないか。取りあえず態度の上では「日の丸」が日本の国旗であることを容易に認めたり、「君が代」が日本の国歌であることを簡単には容認しないものの、表面上リベラルな平和主義であるに過ぎず、その中身は狡猾に生き残りのために立ち回る小さな経済大国の姿に過ぎない。

もし日本が本当の意味でリベラルで平和的な国家になりたいのなら、完全武装をして日本の国体が正当で正義であることを宣伝するか、世界中が手を出せないような各国の秘密を掌握するかしなければならない。そのどちらも日本の「体力・知力・時の運」では無理な上、日本の安全はアメリカに保障して貰うものだと言う常識が、この50年ほどの間に国民の骨の髄まで染み着いてしまっている。日本は戦争に負けて以来、連合国に50年間負け続けているとさえ言える。

さて、日本は大戦に敗北したが、戦争に勝った西側?の各国を経済力的に圧倒するためのものだった、などという言い方が吹聴された時期もあったが、そうした日本の経済活動すらも、「皆、戦勝国側の懐を豊かにし、生活水準を高めるための『暖』であったに過ぎず、日本人自体の生活水準は高まらなかった」と言うことになれば、何のための「経済戦争による勝利」と言えようか。

全くもって日本は、太平洋戦争に負けて以来、連合国達に50年間負け続けているのだ。

常任理事国が実体として第二次大戦の戦勝国であることは述べた。どうしてこの5カ国が他の国連加盟国に比べて特別であるのかと言えば、他の国連加盟国がそれらの国々を「特別扱い」しているからではなく、自分たちが特別な国であると、自ら決心し宣言したからである。それは別に選挙によって選ばれたのではなく、武力で勝り、その世界の「御山の大将」になったに過ぎない。そしてその特権の与えられた常任理事国であることができるのは、国際的な舞台で諸外国と比較して「強い」からである。しかし国際的な関係で「強い」というのはどう言うことか。それは武力、経済力、人口等の諸々の面で「強い」と言うことである。

ここで大事なことは、彼らは常任理事国であるから「強い」のではなく、「強かった」から常任理事国を宣言したわけである。そうなると、なおさら「我が国の軍事的国際貢献は嫌だが、常任理事国入りはしたい」という考えは全くもってご都合主義的である。力でそれを宣言した常任理事国の先輩に、「私には力はないが、仲間に入れてくれ」とお願いしているようなものだ。そして、「よしよし、入れてやろう」と英米仏の3国の首脳が言ったとしよう。これを聞いても、彼ら元戦勝国達が「よしよし、今のところはそれで良いが、仲間に入れば、いろいろやってもらうことはあるし、難しい仕事に関してはその都度覚えて貰うさ」と言っているのに等しいにも関わらず、当の日本の国民達は気が付かない。

さて、五人組のヤクザの仲間入りしてしまえば、簡単には足は洗えない。そしてヤクザの仲間入りしてしまえば、取りあえず自分の身体の安全は確保されたように錯覚するかもしれないが、それは完全な嘘である。ヤクザの道に入ることは今まで以上の危険を引き受けることである。

そればかりか、ヤクザに入ってしまえば、ひろい世間の見る目も変わる。いくら自分がヤクザであることの理由を正当化しようとしても、そのようなことに耳を貸すものはいないだろう。ヤクザにもいろいろと理由はあるのかもしれないが、周辺の小市民にとってはヤクザはヤクザに過ぎない。今まで貧しいながらも伊方気(カタギ)でやってきた連中はもう口も聞かないだろう。もちろんこれから自分もヤクザの仲間入りしようと思っている国(例えばシンガポール)は、日本の常任理事国入りを喜んでいるかもしれない。それは日本が自分をいずれ誘ってくれるかもしれないという計算があるからである。

そして、日本が常任理事国入りするのを「アジアの誇り」であるという言い方が必ず現れるだろう。しかしそれは反対である。カタギの連中はそう思わない。日本の常任理事国入りは、「アジアの恥」として語り伝えられるのがオチであろう。

“親方日の丸”の手足がもがれる日

Wednesday, September 21st, 1994

「国が真に民主主義的だったことなど一度もない。そして暴力団は日本が日本という国家たるために必要なガバメントの手足だった」などと、まともに私の父の世代のいる前で口走れば、何と言われるだろう。

日本の場合、「政府」がもちろん必要ではあったが、政府が民主的に世の中を収めきるというような事は「体力・知力・時の運」が一度と許さなかったのだ。しかし(誰かが)日本を日本として独立した国家たらしめなければならなかった以上、(その誰かが)国家にとって大事な決定を現実のものにするためには暴力に訴えねばならなかった。(まあ、日本に限らず、国家ってやつは暴力組織だからね。)おそらく日本が日本という一国家として認められた時点で、日本の政治は全て陰謀と世論コントロールによって行われることとなったのだ。

日本の場合、国家的な決定を「実行」へ持っていくのにヤクザが使われた。ヤクザは恐い。彼らは人を殺したり脅迫したりすることを何とも思っていない。力でもって人をおびやかし、恐怖をもって人を動かすのは取りあえず暴力団の仕事だったからだ。新宿に新都庁が建てられたのもヤクザの暗躍なしにはあり得なかっただろう。もちろん東京都とヤクザが見て判るような直接つながりを持っていたわけでもないだろう。(全部憶測だが。)見る人が見ればそれは明らかだったのだろうが、そのようなことは映画やテレビドラマにはなってもニュースや新聞には出てこない。新都庁を建てるのにどれだけの人が泣いて、死んでいったのかと言うようなことは、公的に語られるようなことではなかったからだ。

成田空港建設であのように政府によるコントロールが効かなかったのは、初めからヤクザに頼るというエッセンシャルな選択を、当時政府が執らなかったからかもしれない(あるいは執れなくても執れない事情があったのかもしれない)。そのかわり、農民の側に左翼という反対運動をやる別のヤクザが付いた。政府に言わせればこうした左翼運動家こそが国の将来を危ぶむ「暴力団」に他ならないのだろうが。

時間は過ぎていく。(Life goes on.)政府が国家を中心に据えた政治や行政を現実のものにするためには、どのみち暴力に訴えるしかない。日本の場合はヤクザが伝統的にその道を任されていた。おそらく、歴史を振り返ればそうした組織暴力団と国家とのギブ・アンド・テイクの関係は江戸時代ぐらいまで遡れるのだろう。いずれにせよ双方の生き残りのためには互いが互いを必要としていたに相違ない。

国家が国家らしく「国体」を満喫するためには、暴力が必要だったことは明らかだが、アメリカ合州国のようなケースはどうなのだろう。アメリカにも組織暴力団はいた。しかし、それがあまりにも力を持って国家の方針を脅かすようになった時点で、それは徹底的に排除された。今でも州や都市のレベルではマフィアと政治が結びついている部分があるのだろうが、少なくとも連邦政府はそれを「悪しきこと」と歴史のある時点で判断したのだ(おそらく、30年代の禁酒法時代の頃だろうが)。合州国は国をコントロールする方法として、国内のヤクザと「ツーカー」の関係になるよりは連邦政府自体がヤクザになる(ヤクザ組織を持つ)事を選んだ!のだ。

CIAやペンタゴンがそれであろう。CIAは必要とあれば、国家が「計画的将来像」からの逸脱を招くような政治家を政府内に見つければ、殺すことが出来る(ほんとか?)。直接殺すのはプロの殺し屋かもしれないが、殺してもよい、あるいは殺した方がよい、と最終的に意思決定することが政府の情報収集機関であるCIAには出来る。一方、ペンタゴンがヤクザであるという言い方には語弊があるかもしれないが、軍隊が国家的(また国家が保障する)暴力組織であり、自らの生き残りを考えるのが必然である以上、当然、時の政府とさえ諍いを起こすし、都合の悪い人間は殺すなり、スキャンダルを捏造するなりして社会的に抹殺することは出来る。しかもおそらく「合法的に」。しかし、いかなる暴力自体、国が『近代国家』としてサバイブするために必要な力として広く認められている(もちろん善良なる市民はそのようなおぞましい存在は映画の中だけのこと、と信じていればよい)。

さて、それでは日本からヤクザがいなくなるということは、一体何を意味するのだろう。それはある巨人が歩いたり、叩いたり、獣を捕ったりする手足をもがれることと同じ事である。アメリカから国防総省(ペンタゴン)やCIAを奪ったらアメリカがアメリカとして存続できるだろうか。出来ないことは誰でも知っている。日本でもそれは同じ事である。ヤクザが日本の秩序の一部を力で保持していた以上、日本から彼らがいなくなることは、日本が丸腰になるということを意味する。ヤクザこそが、日本の閉じた箱庭のような空間を平和に収める役割を担ってきたのにだ。

ここ数年聞く暴力団に対する封じ込め作戦は、当然日本からそうした規制緩和を取り除こうと画策している「外国」の圧力によって起こされているものに違いない。建設業界の談合事件や収賄事件などがここ数年大きく取り上げられているのも、外国の建設会社参入を望んでいるどこぞの国の圧力によるはずである。(ああした談合・贈収賄は、日本国内でもう数百年続いているのに、ここへ来て突然ダメだというのだ。)

国家ばかりか、純粋に民間のレベルでもそうした暴力組織を必要としていた。いや、常にこうした暴力は政府が直接と言うよりは、民間の企業が仲立ちになって利用されていたのだ。しかし、このたび長いこと必要だった暴力団が、国を挙げての「おまえはもう要らない」と言った三行半を突きつけられたのだ。もちろん、生き残る必要がある彼らは怒る。

「非合法活動」が専門で、わけても元々「暴力」が彼らの得意とする仕事であったわけだから、彼らにとって暴力をもって生き残りのために闘うことなど、何の造作もない。自分で暴力を使うのが恐かった卑怯な連中が、そうした暴力組織を利用していたわけだから、ヤクザが暴れ出したときの本当の恐さをまだよく知らないのかもしれない。しかし、今日NHKで取り上げていた「住友の重役殺害」の真相がその部分にある、と言うのが本当であれば、こうしたヤクザによる財閥への復讐はさらに続くかもしれない。住友の次は三菱、三菱の次は三井と言うようにである。

しかし、そもそもテレビの報道を信じられない私は、住友グループだけが、何か絶対公に出来ない失敗をしているというのも考えられることだ。そして、報道はその真相を隠すための「納得のいく説明」に他ならないとも思えてしまうのだ。つまり、「今回の“住友の件”に関しては、『暴力団との怨恨が原因だった』と言うことにしましょう。そうした面が決してなかったわけではないし、国民も『住友はそんな企業だったのか』と、取りあえず納得するでしょう」と日本のマスコミ全てが「申し合わせた」のかもしれないのだ。今回の殺人事件に関して言えば、全体の汚点を住友だけに集約する事で日本全体の腐敗を隠すことが出来るかもしれない、と言う計算も働いているに相違ないのだ。

(このように私は日本のマスメディアの発表に関しては全く疑心を持ってしか見ることが出来ない。)

いずれにせよ、この暴力団一掃のキャンペーンは、早晩成功し、日本の経済的障壁の門番であったヤクザがいなくなることで、日本の政府は存在しながら全くいないのと同然となる(今日の日本政府の『無政府状態』を考えて欲しい)。そうなった後、規制のなくなった日本へ本当の強さを持った(それこそヤクザのような)米企業がドシドシと奥座敷まで上がってきて、日本の企業を脅かし日本の市場を奪い去っていくことだろう。

しかし、それは日本がここ数年の間に選択した道である。日本が暴力団によって守られた閉鎖的社会から、「国際的」競争の世界へ踏み出すことは、すでに「どこか」で決定されたことなはずだからである。まあ、それもネクタイを付けてスーツを着て、アンクル・サムをバックに付けた別の名を持つヤクザに脅されたから、と言えば納得のいくところであるが。

太陽の胎内は

Tuesday, September 6th, 1994

あのように世界を焼き尽くす獰猛な太陽の中はと言えば...

暖かいばかりであった。あのように真っ青な大洋の上にぎらぎらと皇帝のごとく君臨していた、その輝きの中は、思いのほか静的で時間が止まっているようにさえ感じられた。全てのトーンは柔らかく、例えばラジオやテレビでかかる音楽は、西洋のものであっても、それは全て日本人のテイストでもって巧みにフィルターがかけられていた。

日本人の作る西洋風の音楽は言うまでもなく、日本人が選んだ純欧米産の音楽でさえ、それは柔和を選り抜く目によって厳密に選別されていた。

音楽ばかりではない。高速道路のパーキングエリアにある自動販売機であっても、百貨店の地下の食料品売場に溢れるパッケージであっても、そこに存在するあらゆるデザインは、トーンが心憎いまでも抑制された、まさに「マイルド」で「ライト」なものであったのだ。そこここに溢れるかえるデザインやキャラクターに「意味」を求めようとしても、徒労に終わるであろう。意味などは最初からないのだ。マイルドで差し障りなく調和していることが最も「問題のないこと」だからである。

喫茶店で日本の「洋風ケーキ」を食してみれば、それはまた笑いを誘うように柔らかでトーンに抑制の利いた調和的味わいだけがそこにあるのが瞬時にみて取れた。

しかし、日本のビジネス界に身を投じて柔和を外部に供するべく「身を粉にすること」を依然として始めていない私は、日本における生活の厳しさや外部に於ける調和が、個人の内面にもたらすストレスの存在を無視してしまいがちである。社会的責任を引き受けずに、その美味しい部分だけを享受しているこの刹那では、この日本という国が世界的に見ても、何とも類希なる「暖かで柔和な温室のように居心地のよいところ」(要するに「天国」)、と言う風にしか映らない。

さて、世界の全体を見るに付け、あるいは繁栄を謳歌する国の日の当たらぬところを顧慮するにつけ、このように天国的な場所(東京の両親の住む実家)が、世界にかつて他に存在したことがあっただろうかと感嘆せずにいられないほどである。島であり、「存在の絶大なる正当性」を背負わされた「選ばれた土地」。

その内部たるや、生産への集中的従事だけが許されたあまりに奇跡的な場所であった。ひとつの国家が『太陽』として世界に輝き続けるために注意深く手入れをされた、まさに打ってつけの温室(昔風に言えば箱庭)であった。

私のニューヨークに残る親友の一人がいみじくも言った「卑怯者の天国」とは、まさにそんなところであった。さあ、仕事見つけるか。