Archive for the ‘Good/Bad Books Memo’ Category

『マルクスを再読する』とりあえず読了

Monday, November 29th, 2004

書くことがありすぎて今日はここでは書けない。日記を書き貯めしたのもあるし...。

しかし、あまり良いことばかりは書けない。だからなおさら慎重になるし、どうやって文章を組み立てるかをより真剣に考えることにもなる。いつもやることだが、2度目を立て続けに読もうかも思いもする。だが、どうしたものか...

人から…それも大事な人から譲られた(委ねられた・薦められた)本を批評するのは簡単じゃない。でも、「よかったよ」と言って終わらせるのも、ちょっと失礼になる。本当に「よかった」ならともかくね。

季刊『前夜』が創刊

Sunday, November 14th, 2004

これは「本」ではない。(創刊してちょっと経ってしまったが…)

10月に「文化と抵抗」をテーマとする『前夜』という「抵抗文芸*」雑誌が創刊した。

自分は、運良く創刊に先立つ「プレ・イベント」というのに出る機会があり、彼らの「前夜宣言」を目撃していたし、高橋哲哉氏や徐京植(ソ・キョンシク)氏を初めとする執筆者や編集部の人たちの話を聞いて心底共感していたので、ぜひ何らかの形でこのグループを支持(サポート)したいと思っていた。いろいろなサポートの仕方があるのだが、「財政上」の問題で、とりあえずは向こう3年分の『前夜』を購読できるという、もっともお手軽なリーダーズ(読書会員)というのになった…

という文章をGood/Bad Books Bulletin** に投稿。

* 「文芸」と呼んで良いのかどうかは実は分からない。だが、他に自分で思いつく呼称がなかったので、便宜的にそう呼ぶことにした。「文芸」が「文(文化)および芸術:art and letters」を意味するにせよ、「文による芸:art through letters = literature」を意味するにせよ、言葉による主張を通して、他者と積極的に関わろうとする取り組みには違いない。「文芸」には、幾分「遊び」の要素があるかも知れないが、主張によって命を懸けるとき、それは「遊び半分」でなくなる。実は、本来、あらゆる種類の創作者(あるいはいかなる形であるにせよ、曲がりなりにも「文化」ないし「芸術」的な何かに関わろうとする者)が、生きている時代(の他者)との関係性抜きに表現や主張をするということはありえない。他者に影響を与える積もりのない表現や主張など、もとより意味がない。その中で、「文芸」は、あらゆる表現手段にも増して、その「芸」の機能の意味を明らかにする。『前夜』を“文芸”雑誌であると呼ぶのは、そのテーマを「文化と抵抗」とした彼らの思想を鑑みて、「文化および芸術」の意味での「文芸」に近い意味で私は言ったのかも知れない。

** こうしたリンクを張っても、通常のcgiのbbsだから、投稿が増えるに従って記事自体の位置が移動していく。したがって、後々、該当記事を見つけようとしても、すぐに見つからない。その場合、bbsの「検索」機能を使って見つけるしかなくなる。だからじきに、各記事自体が固有のURLを獲得していくというblogの方がやはり便利ということになるかもしれない。これは、「blogのアドヴァンテージが何なのか分からぬ」とぶつくさ言っていた自分に、数週間前、懇切丁寧に「blogの何たるか」を教えてくれた殊勝なる友人がいたからで、言われたとおり、ほぼそのまんま書いているのである。自分と似たような疑問を持っている人がいたら、これはタメになる知識でっせ。

ヨーゼフ・ロートを語る[2]をアップ

Thursday, October 21st, 2004

今回は、「衒学者の回廊 2004」の方に拙論をアップ。

反宗教主義への論駁を兼ねて...。

あらためて、「宗教は阿片」なのか?

ヨーゼフ・ロートを語る[1]

Tuesday, October 19th, 2004

>> すでに三千年前の昔に「一つの国家」であり、いくつもの「聖戦」を戦い抜き、「偉大な時代」を体験したのちに、ドイツ人やフランス人やイタリア人のように、一つの「国家」であるであることが一体どんな幸せなのであろうか。異民族の将軍の首をはね、自国の将軍を打ち負かしたのちに。「民族史」や「祖国史」の時代をユダヤ人はすでに過去において経験済みである。彼らは国境を占拠占有し、都市を制圧し、幾人もの王を誕生させ、租税を支払い、臣下となり、「敵」をつくり捕虜となり、世界政策を推し進め、大臣を失脚させ、一種の大学や教授や学生を、誇り高き僧侶階級や富と貧しさと売春制度を、持てる者と餓えたる者たちを、主人と奴隷を、過去に持っていたことがあった。彼らはもう一度それを欲するであろうか。ヨーロッパの諸国家をうらやましく思うだろうか。<< (page 14)

一体この文章は誰が書いたモノであろう。実は、これは、「ユダヤ人がふたたび地上にイスラエルを欲するだろうか」と、目前まで迫り来る組織的なユダヤ人迫害を肌で感じているユダヤ人による自問自答である。書かれたのは1926-27の間。著者のヨーゼフ・ロートは、自らの民族を、支配と殺戮とあらゆるわれわれが知っている悪しき国家の制度や権力闘争というものを通過してきたことを認めた上で、それらを二度と欲するだろうか、と問うているのである。そしてその答は、「もう沢山だ」である。

始まりつつある若いユダヤ人たちのパレスチナへの入植という、シオニズムの実行部隊を指して、彼は「一種のユダヤ人十字軍を想起」せずにはいないと言う。その存在のために、ユダヤ人はヨーロッパ人の悪習を完全に否定できないと苦々しく思う。彼は続けてこう語る。

>> (入植のユダヤ人たちは)彼ら自身ヨーロッパ人なのである。パレスチナのユダヤ総督は疑いもなくイギリス人なのである。多分ユダヤ人と言うよりはイギリス人なのだ。<<

>> (われわれユダヤ人たちは)まったく新しい、非ヨーロッパ的骨相を備えた国民に生まれ変わることは、とうてい出来ないであろう。ヨーロッパの烙印がどこまでもつきまとって消えないからである。<< (page 15)

ここでロートの言う「ヨーロッパ人」とは、東方のユダヤ人を迫害する、あるいは時として東方の貧しいユダヤ人たちが憧れて止まなかった、「豊か」な、伝統破壊者としての西方ヨーロッパのことである。ロートにとってユダヤ人とは、東方に存在していた伝統社会を維持した非ヨーロッパ人の一民族のことである。その視点で捉える「進歩的クリスチャン」たる象徴的西欧人が、彼から見た「ヨーロッパ人」なのである。非常に具体的に、彼は「ヨーロッパ」という言葉を用いる。そして「イギリス人」という言葉にも似たようなニュアンスを込める。すでに非ユダヤ化されたユダヤ人が、西方ヨーロッパにはすでに沢山いるということを嘆いているのである。ロートは、自分たち東方のユダヤ人が、もともと抜き難く非ヨーロッパ的な存在であったと断っているのである。

一読してその思索の深さを感じるが、非ユダヤ人であるわれわれが「ユダヤ人について語る」ことは、きわめて難しい世の中であるが、他でもない、マイノリティであって社会の被支配層に属していた当の東方出身のユダヤ人がこのように語っていることには瞠目せずにはいられない。恐るべきパラドックスを生きなければならなかった迫害のユダヤ人が、民族や歴史について真の思想と呼ばれるに相応しい深みまで到達しているのである。

>> (世界が)いくつもの「国家」や祖国から成り立っていることが、世界の意義であることには決してならない(略)。自己の文化的特性を維持しようとするだけであっても、そのためにひとりの人間の生命を犠牲にする権利など、国家や祖国にはないはずである。ところが実際には、もっとそれ以上のものを欲するか、あるいはもっとそれ以下と言ってもよいが、とにかく物質的利益のために犠牲を欲するのである。それらは、銃後の本国を守るために「戦線」をつくり出す。ユダヤ人は、これまで生きてきた千年に亘る苦悩の全期間を通して、唯一の慰めを持っていたに過ぎない。すなわち、このような祖国を持たないという慰めだけを。いつの日か正当な歴史が書かれるときが来れば、その史書は、全世界が愛国的狂気に没頭していた時代に、ユダヤ人は祖国を持たなかったからこそ、よく理性を保ち得たと、その点を彼らの功績として高く評価するであろう。<< (pages 15-16)

現在パレスチナの地で進行しつつある自称ユダヤ人たちによる国家的侵攻プロジェクトをあの世からどのようにヨーゼフ・ロートは眺めているのであろうか。

今後、ロートの著作から多くの言葉を引きながら、民族や国家というものについて、そしてわれわれの住む社会において起こりつつあるさまざまな問題を、マイノリティの視点という視座を借りながら、自分なりに語り続けていきたいと思っている。

引用出所:

『放浪のユダヤ人 ─ ロート・エッセイ集』叢書・ウニベルシタス162

ヨーゼフ・ロート著

平田達治/吉田仙太郎 訳(法政大学出版局)