Archive for the ‘衒学のためのレクイエム’ Category

チリ鉱山事故脱出劇とヴァッハ言説

Friday, October 15th, 2010

Phoenixあれだけわれわれを夢中にさせたのに、自分の周辺では案外コメントの少なかったのが、今回のチリ鉱山落盤事故の救出劇である。みんなも私と同じで、胸がいっぱいで言いたいことも多過ぎて言葉にならない、ということなのだろうと思うことにした。

この感動的な、勇猛果敢なひとびとと絶対に生き残ることを誓った人々の恊働の救出劇に釘付けになっていた自分と、時間をかけて拾い読みしていたヨアヒム・ヴァッハによる『宗教の比較研究』(法藏館)の中に、今回の注目すべき被災者たちのサバイバルの秘密と関係のありそうな信仰についての記述に出くわした。(「勝手にシンクロニシティ」ということで)備忘録として引用しておく。

昔からの成句、「一人のキリスト教徒はキリスト教徒ではない」は、他のあらゆる宗教についても当てはまる。フランスの学者ムルーはこの点をうまく言い表している。「信仰の同志と一体になって、人はあらゆるものの父である神に自己を捧げる。宗教的関係はきわめて個人的なものではあるが、個人主義的なものではあり得ない」。さらに彼は、人が神を求め見出すことができるのは、他者が神を求め見出すのに一緒になって協力する場合に限られると付け加えている。

チリ大統領が、信仰が今回のサバイバルに与えた力について語る(演説する)のを聞いたとき、最初、単なる政治的な意味合い以上の内容を持たない、つまりカトリックを敵に回さない典型的な常套的挨拶の言辞にすぎないと思うばかりであったが、このヴァッハによる記述に遭遇したとき、リアルな意味で、「掛け値なしの信仰」が彼らの生き残りに与えた力、について、まったくバカげたことでないばかりか、「信仰を自分らの力としない」ことに決めて久しいわれわれに送られた何らかのサインのようなものに思えるようになったのだ。

アラン・コルノー監督の死を悼む

Wednesday, September 1st, 2010

Alain CorneauTous les matins du monde DVD

コルノーに関する自分にとってのall & everythingは、《Tous les matins du monde》(邦題『めぐり逢う朝』)の1作に尽きる。これは同監督についての、到底公平とは言い難い論評に過ぎないかもしれない。だが、それほどにこの1作《めぐり逢う朝》については語るべきことが多い。特に、自分の生き方、行くべき方向、何を信じるべきか、などなどの、表現や創作に関心のある人間なら、一度は真摯に考えたことのあるはずの、普遍的とも呼ぶべきテーマについて正面切ってとり上げた(そして筆者にとってはまさにそうした人生における一里塚的な作品だった)映画なのである。それは単に「よくできた作品」などと呼ぶよりは、ほとんど奇跡的な仕上がりとも呼ぶに値する、極わずかな作品のひとつだ。

芸術、分けても《すぐれた音楽》を題材とする映画作品の中で、コルノーの代表作《Tous les matins du monde》が群を抜いているとわれわれが感じるのは、その映画作品全体が、共感と共鳴に満ちているからだ。われわれが映画自体に共感するということは言わずもがな、なのだが、映画作品そのものからにじみ出てくる、製作に絡んだ人間たち相互に発生した共感について言っているのである。

『音楽のレッスン』を書いたシナリオ作家であるパスカル・キニャールの、(パレ・ロワイヤルに関わった人々のような)歴史的人物への共感。コルノー監督自身のキニャールのシナリオに対する深い理解と共鳴。作中人物(サント・コロンブなど)への全身で表現される俳優たちの経験した共感。そして何よりも、実在する音楽への演奏家(音楽監督)たちの共感。そして演奏された音楽へのわれわれの共感。それらが緊密に結びついて、映画全体を堅固な要塞のような完璧な作品に仕立て上げている。

それにしても、(繰り返すようだが)その結びつきの最も重要な要素は、何を差し置いても《音楽》自体である。これは抽象的な意味での「音楽」が主人公なのだと言いたいのではなく、マレン・マレやサント・コロンブといった実在の作曲家と、それを実際に音として再現する演奏家の紡ぎ出す「おとづれ」が、映画を鑑賞しているわれわれの元にやってきて、その音楽の「人生」を生きるという体験について言っているのである。

まさにこれらの具体的な音楽が、1992年というその時代において本格的に生き返り、今を生きる人間たちの血になる(栄養になる)ということが、映画という媒体を通して起こったのだということが重要だ。それは、また音楽のみの蘇りにとどまらない。17世紀に実際に起きた人間の精神活動が、音楽の復活とともに同時に再生され、われわれの生きる指針として機能し始めるということなのである。

こうしたすべてを可能にし、筆者の人生を何倍にも豊かなものにしてくれた、アラン・コルノーは死んだ。ひとつの作品を終えた直後の話だという。あたかもトリコロール三部作を残して間もなく急逝したキェシロフスキのように。映画製作というものが、かくも命を削って行うものだということが、このふたりの死に様からも伺える。自分の生命を賭けて行われる創作というものが、この世にあるということが、この少ない事例からも想像できる。心から、彼の創造を讃え、その死を悼む。

K・キェシロフスキ作品:
三部作 トリコロール《Blanc》論

Wednesday, August 18th, 2010

終末論的・超歴史的・救済論的理解によって読み解くキェシロフスキ論(その1)

彼が直接監督した作品の意味で、実質的な遺作とも言えるTricoleursシリーズの《Blanc》(White, 白)について。この作品が、キリスト教の秘教的解釈やグノーシス思想などへの理解を基礎に出来上がっており、映画の登場人物や出てくる小物大物を含む舞台装置、そして台詞などによって巧妙に暗示されていることを理解することは、この映画が単なる男女の愛憎劇や喜劇風の復讐劇を造ることを目的としたものではなく、いわゆる神話時代から変わることなく扱われてきた《普遍的題材》を扱った類希な、真の芸術の名に値する作品であることが諒解されよう。キェシロフスキは、この三部作において、ほぼ完璧とも呼ぶべき物語をつくり、タルコフスキー以来、比類なきレベルの象徴的映画作品を完成したということができよう。

Kieslowski portrait

キェシロフスキは、本人が自叙伝でも述懐しているような「象徴の映画は作らない」(キェシロフスキ著『キェシロフスキの世界: Kieslowski on Kieslowski』)などという言説が、多くの鑑賞者をあえて欺く、全く正反対の虚偽(まやかし)であって、むしろそうした象徴的映画を生涯最期まで俗的な装置の中に意図的に混淆させ、また「隠匿しつつ提示する」というオカルティズムの伝統に根ざした表現を選び、またそのような読み解きの可能な優れた鑑賞者に対して、ある種の目配せを送っているものと考える方が妥当なのである。

むしろその上で、そうした象徴(奥義)への理解だけでは足りないのだという、より至高のメタフィジカルなメッセージをも映画に含有させることに成功しているのである。だが、このこと、すなわち「足りない」ということは、そうした内容への理解だけでは十分条件ではないが、奥義接近への必要条件であることに違いはない、とも言い換えられるのである。

小論においては、続いて、登場人物名、時系列による場面解釈などを、いちいち記すことで、キェシロフスキが無駄のない選択と気配りを一切の要素に対して行っていることを論証していくことにする。

■ 登場人物名
Karol Karol
『Blanc』の主人公カロル・カロル(Karol Karol)にはその名前にいくつかの暗示が込められている。最も基本的には、Karolはヨーロッパ文化圏には一般的な名前(Karl, Carl, Carlo, Charles)のポーランド語やスラブ語に置き換わった変種であるが、象徴記号としての役割のひとつはアルファベットの「K」、すなわち現世的・近代的な「J」に続く「やがて来る」の時代に当てられた記号である。それを姓名の両方で繰り返すことによって、ひとつにはアフォリズム的なドラマの持つ非現実性を強調すると同時に、数字のぞろ目(222, 777, JJJ)などの方法と同じ「繰り返し」の手法によって「そこに記号が存在すること」についての自己言及を行っていると見ることができる(ぞろ目については、キェシロフスキ自身が三部作の『赤』において、主人公の通うカフェのスロットマシンを使ってきわめて暗示的に扱っているのであり、彼がぞろ目の意味の重要性についてわれわれに目配せを送っていることは明白である)。

アルファベットの「K」自体には「11番目」の意味があり、「KK」と二度繰り返すことにより、「1111」という数性を読み取ることも可能である。そこには周回する時代(エイオン)の「原始、始まり」に相当する数性の、およびわれわれにとっての未来のエイオンの暗示を見ることができる(われわれの時代は3回繰り返される数字によって「3度目の世界」であることが暗示されているが、未来の未来は4桁の数字によって「4度目の世界」であることが暗示されるであろう。現実にそうなるかは別として、論理上はそうなるのである)。このことは、これから説明して行くタロットに於ける《愚者の旅》の愚者(the Fool)自身として主人公が「繰り返し」を生きることについての暗喩として機能する。

Karolという名前のその原意は、「夫」「男」というものであるが、このドラマの意味を考えたとき、その主人公の記号として元型的な《男》という意味の名を当てたことには偶然以上の意味が込められている。また、英語の語源辞典をあたると、Charlesには、「自由人:freeman」の意味が見出される。これは「奴隷でない人間」「奴隷を克服する男」のことである。そこには成長する愚者が、その道程で隷属の頚城(くびき)を断って、自立を得るために目指す別の「K」、すなわち、まずは「Knight」に、そして最後は現世の王(King)となることの意味も含まれている可能性がある。現に、欧州ではCharles/Karlは、王の名としてもきわめて高い人気があることは偶然ではなかろう。

Julie & Zbigniev

Dominique
カロル・カロルの相手役である準主役の女性の名前。
ドミニクのヴァリアント(変形種)は、以下に示すように実に数が多い。それだけこの名も欧州文化圏では男女を問わず人気があると言えるだろう。意味は「神の、神についての」というようなもので、「神の年」の意味を持つラテン語の「anno domini」(これが西暦のADに相当する)もこの語幹を持つものだ。

【資料:Dominiqueのヴァリアント】
Domaneke, Domanique, Domenica, Domeniga, Domenique, Dominee, Domineek, Domineke, Dominga, Domini, Dominica, Dominie, Dominika, Dominiki, Dominizia, Domino, Dominica, Domitia, Domorique, Meeka, Mika, and Nikki.

さらに「支配、優性」といったニュアンスの語彙に転じた「dominant, domination」などの単語との関連性がある。事実、主人公にとって異国の地であるパリにおいては、Dominiqueは、常に主人公のKarol Karolに対して、「優性」であり、「支配的な」地位にある。これこそが、主人公が(三色によって象徴される)異邦の地において「性的不能」に陥った主たる理由なのである。

Mikołaj ミコワイ
慣習的ににNicholasのポーランド名とされるが、キェシロフスキは明らかにこれをMichael(ミハエル)のポーランド名として採用している。これは大天使の名前であり、彼が4人でプレイするブリッジ・プレイヤーであることから、四大天使のひとり(ミハエル)であることが暗示されている。彼はまさにメッセンジャーであり、また主人公を支援・守護する霊的な存在(聖ミハエル)でもある。

Mikolaj & Karol Karol

■ 時系列による場面解釈

「死と再生」の祖型として
Karol Karolの映画進行に伴う変化は、主人公の《成り行き: progress》および「死と再生」の範型をなぞるものであり、それはタロットにおける「愚者の旅」であり、また新しいところでは新約中の救世主の「死と復活」にも見出されるパターンである。

Karol Karolに降り掛かる不運(というよりはむしろ「受難: Passion」であるが)は、裁判所に着いた時点で鳩の糞が彼の《肩》に落ちてくることで暗示される。これは同時に彼という主人公が「白」という属性を持ったまさに本編の中心的な存在であるための目印の意味がある。「肩に目印がつく」という伝統はキリスト教のイコンにおける母マリアの肩に付けられている八芒星の位置とほぼ同じであり、そうした聖像の伝統を実はキェシロフスキはきちんと踏まえているのである。

裁判によってすべてを失ったKarol Karolは、地下鉄の駅で知り合うミコワイの助けを得てパリ脱出を図る(ミコワイの役割は、その名の通り、空を飛んで世界を駈ける「羽根を付けたメッセンジャー:天使」としてふさわしいものである)。その際、Karol Karolはポーランドには戻れるが、ゴミの最終処理場という、言ってみれば「故郷の最果ての地」で4人組の犯罪者たちに囲まれ、袋叩きにされることによって一旦終わる。故郷の最果ては世界における辺境を意味する。これは言わば蘇りをもたらすために必要な形式的な死である。しかもそれは敵による「殺害」によって実現されなければならない。これは世界の四隅(つまり東西南北を含む人間世界そのもの)を表す4人の盗賊たちによって囲まれ、打ち倒されなければならず、言わば救世主の受難、すなわち主人公の弾圧と殺害をこのゴミ処理場における暴力が象徴している。

ところが、Karol Karolを迎える「死」は、「仮死」とも言いうる状態で、それはヘアサロンを経営する兄のいる家で毛布を頭まで被って三日三晩寝続けて、復活への時期が熟するのを待つことによって表現される。山のように盛り上がった毛布の中における暗闇は、キリストが磔刑死後、葬られる石によって塞がれた墓所と同じ意味を持つ。毛布から出てきたKarol Karolのその後の活躍は、まさに墓場から石を退けて出てきた救世主の姿にオーバーラップするのである。キリストとの重ね合わせについては後述する。

【象徴的第2日】
彼は、無事に帰って来ることのできたポーランドで、過去の自分の象徴である2フラン硬貨を川に向かって投げ捨てようとするが、それはあたかも救世主の手に付けられた「聖痕(スティグマ)」のように掌にくっ付いて離れない。ここにもキリスト教のイコンを模そうとするキェシロフスキの意思が容易に読み取れるのである。これは硬貨の数性“2”を利用して、さらにスティグマを思わせる身体的な部位にそれを配置することによって、Karol Karolと救世主の間にある(皮肉な)相関関係への暗示を強化するのである。

また、その2フラン硬貨の数性そのものによって、Karol Karolの生きる次周回の世界(エイオン)における、文明進捗の度合いを同時に意味する。すなわち、七日間の中の何日目であるかを同時に表す道具としても機能している。

このあとは、七日間の内の何日目であるかを表する数性がひとつひとつ進んで(progress)行く。これ自体が救世主「復活後」の物語なのである。

【象徴的第3日】
数性“3”は、主人公を含む3名の人物が、これから開発が予定されている田舎の農地を「巡礼」することによって、3人のマギを模していることが暗示される。彼らがその巡礼の際に乗っているクルマがメルセデス・ベンツであることは偶然ではない。メルセデスの3つのスポーク(輪留め)を持つ丸い車輪のロゴマークは、まさに三位一体の象徴であり、当然カメラがそれを効果的に捉えている。そして、この「巡礼」の際に、謀(はかりごと)を思い付いたKarol Karolは、その後、ミコワイを訪れる。

【象徴的第4日】
久しぶりに二人は再会したするが、ブリッジの行われているカード荘において、ミコワイを含む4人がプレイしている様子が一瞬映し出される。これは時代が数性“4”に到達していることを表現している。ここでは、4人全員は画面上に登場しないものの、正方形のテーブルで4人がプレイしていることは明白である。しかも堕天使としてのウリエルは画面上には捉えられていない。これはキェシロフスキ一流の目配せとヒューモアであろう。

【象徴的第5日】
次に、Karol Karolは計略によって仲間を出し抜いて開発予定地の一部を確保するが、それは5ヶ所の地所である。これは数性“5”の暗示となる。それを10倍で売却し大金を入手する。ここに5の倍数である10であることは偶然ではない。遺言により、出し抜かれた彼の元雇用者(マフィア)から自分の命の守ることに成功し、大金を手にしたKarol Karolは、ミコワイとともに事業を興す。

彼はどうやら不動産投資などをしているものと見られるが、ある時、一見本筋とは全く関係なさそうなビジネスの一場面が映画では描かれている。 Karol Karolは、自分のパートナーのひとりに壁の厚さが何センチかを訊き、メジャーで厚を測らせ、「46センチメートルである」ことを知ると、「あと4センチ足して50センチにするように」と指示を出す。これは全くのナンセンスであるように見えるが、まさに数性“5”の窮極の状態であるオカルト的な50という完全数にこだわる様子を描いているのである。これはもうひとつの重要な「三色旗同盟」のひとつであるアメリカ合州国が、国家として50州から成っていなければならないとする、言わば「象徴マニア」であることに対する当てつけと解釈することができよう。

【象徴的第6日】
やがてやってくる《6の時代》は、五芒星と六芒星が「565」という順でKarol Karolの右肩の上当たりに茫漠とであるが掲げられているのをカメラが捉えることによって表現される。こうした小道具を視野の中に入れることにも監督の演出の意思が関与している。演出に偶然は何一つない。これは3つ並んだ六芒星による「ぞろ目」と関連のある伝統表現が前提となったもので、数性はぞろ目の「666」にまだ至らないが、極めてそれ(週/周の六日目)に近いことを意味しているのである。

また同時に、街に吊るされたこの星は、クリスマスの到来を告げる典型的でありふれた街の装飾でなければならないし、同時に象徴的なドラマとしては、神が休む安息日前日の六日目は、クリスマスの到来に近い時期でなければならない表現上の事情を踏まえている。言うまでもなく、これはキリストの磔刑の前日が、「過ぎ越しの祭で忙しい時期」として描かれてきた聖書時代からの伝統に則っているのである。

断っておくが、これはクリスマスと過ぎ越しが一年のうちの同じ時期であることを意味しているのではなく、ドラマが死と再生と関わりの深い象徴的な「区切り」の時期に遭遇することを意味しているにすぎない。こうしたひとつの時代の死と復活という同様のテーマは、はやり描かれるドラマの季節がクリスマスの時期と設定していたTerry Gilliam監督の映画『新世紀ブラジル: Brazil』にも共通見られるもので、ヨーロッパにおける暗黙の共有事項と考えられるものである。

次の救世主の誕生(伝統的聖誕祭)は、旧い救世主(王)の死によって、まずは区切られなければならない。

したがって、Karol Karolは象徴的な最後の日、「六日目」をどのように終えるかを思案するのであるが、この周回する世界は《偽造された主人公の死》によって完成されるのである。これは伝統的な救世主としてのキリストの死も、偽装であったかもしれないとする異端的/異教的なキリスト教に対する批評的理解についての、映画作家・キェシロフスキからの目配せが含まれているのである。ドラマ上、かくして主人公は「二度目を死ぬ」のである。

一度目はすでに説明したように帰国時、故国ポーランドのゴミ処理場で。そして二度目はフランスにいるDominiqueを彼女にとって異邦の地であるポーランドに呼び寄せる巧妙な手段として。あくまでも偽装であるが。

だが、この二つの形式的な「死」によって、短いドラマの中に限られた幅(長さ)を持った直線の始点と終点の2点を設定することが可能となるのであり、その主人公の成り行きが、あたかも「文明の進捗」についての始まりがあって終わりがある(アルパでありオメガである、とも表現される)ドラマの典型を描くことができたのである。むろん、キリストのパロディあるいは「カリカチュア」として。

二度目の死の儀式を成立させるべく、お金を出せば買えないものはないという自由化されたばかりのこの地(ポーランド)で、Karol Karolの事業グループは、顔がつぶれて身元が確認できない死体さえ購入するのである。そしてその身元不明の遺体をKarol Karolであるとして葬り、葬儀も行うが、このとき、自分の過去の時代の象徴であり、また主人公としての彼の存在論的な意味性(つまり救世主であるということ)を表示していた《聖痕》である2フラン硬貨を偽装死体の入った棺の中に入れる。「自分が本当にここにいた」ことを偽装するためであり、また自己の過去世を同時に葬り去るためでもある。

【象徴的第7日】
このようにして彼の偽装死は功を奏し、かつての敵(かたき)であった先妻Dominiqueを、Karol Karolにとって故国であって彼女にとって異邦の地であるポーランド(ということは彼女にとってあらゆる点で不利である地)におびき寄せ、また彼女を保険金殺人の犯罪者として刑務所に送ることにさえ成功する。

Dominique in jail

牢獄への女性の幽閉は、象徴的には神の安息日(第7日)に呼応する状況である。これはまた、これまでに繰り返された救世主の仮死(偽装死)、すなわち男性原理視点では発展停止(ないし不在)の時期に相当するが、女性原理の視点においては休息(刺激の絶無)に相当する。しかし、この二人、すなわち男性性と女性性の象徴的存在は、互いが互いに対して「必ず帰って来る」ことが約束されている点でも、神話的な元型を表現していると言えるのである。

刑務所に収監されているDominiqueを訪れたKarol Karolとの間で「手話」のような会話が行われる。Dominique曰く、「私は死と天国を望むほど絶望しているのでしょうか? いいえ。私はここを出たらあなたのところに真っすぐ赴くでしょう」(そのように筆者には読めた)。人里離れた地に幽閉することにより、ようやく愛する者を支配下に置くことのできたKarol Karolと、異邦の地でかつての夫の嘗めた辛酸と同じ境遇を骨の髄まで味わったDominiqueとの間で、初めて相互理解と和解が成立したかに見える。主人公は、自分への理解と愛を獲得するために、かくも込み入った仕掛けと努力を払わなければならなかったのである。そしてその仕掛けは、まさにわれわれの住む近代文明そのものの発展の姿に、そしてわれわれ人類の姿にオーバーラップして来る筈である。

◇◇◇

付録:国旗の色による映画に込められた複層的意味合い
「白」の主人公Karol Karolの故国、ポーランドの二色旗(白・赤)と主人公の相手であるDominiqueの故国、フランスの三色旗(青・白・赤)には、それぞれの国に伝わる色に関する一般的解釈(通念)があるが、それとは別の秘教的な解釈、およびキェシロフスキが意図した個人的象徴の顕示の機能が持たされている。

France flag Polish flag

フランス国旗については、青と赤の原色の間に《侵されざる白》が配置され、正反対の要素の間でバランスをとっており、それが一種の「三つ巴」となって力学的な均衡作用を起こしている。さらに青という水によって象徴される属性と赤という火によって象徴される属性とが直接ふれあわないようにするバッファーのような間隙(blank/blanc)として白が機能している。一方、ポーランド国旗においては白と赤という二要素が(上下に)直接拮抗している。《Blanc》のドラマの中で主人公は無垢で弱い白——それは彼が憧れる白い少女の石膏像によってもその壊れやすさが暗示されており、また中身のない「空:からっぽ」の意味の Blank——で象徴され、その生身の相手役、Dominiqueは、情念の炎の赤で象徴される存在である(彼女は振った男を追い出すためであれば、パリで自分の経営するヘアサロンに火さえ放つ)。Karol Karolにとって「異邦の国」であるフランスにおいて、彼は男性優位であることができない。そしてまた、「青:水:自由」の要素を含んだその地において性欲の「炎」は、つねに「水」の脅威によって消される潜在的脅威がある。しかし、その(国旗上)「水」のない(水入らずの)ポーランドにおいて、あるいは「白が赤の上位に置かれた」ポーランドにおいて、彼は男性としての機能を回復し、Dominiqueを逆に「支配」することができる。これは《白》を本体(国体)とするポーランドの、《赤》(他者/例えば過去においてはロシア)に対する優位を希望する国民的心理の祖型的な現れでもあるとも言えよう。

映画トリコロールにおいて「博愛/愛」を意味するとされる映画『赤:Rouge』では、別種の赤の属性を持つ主人公がイレーヌ・ジャコブ演じるValentineによって提示されるが、映画『白』においてはまったく対極的属性をもった赤の象徴が、ジュリー・デルピーによって提示されているのである。この Dominiqueの赤は、「博愛/愛」の赤ではなく、むしろ煩悩として現世や生を焼き尽くす「性愛」の赤である。同時にキリストの(侵されざる)白に対する(マグダラの、あるいは記号的な)マリアの衣のような「信仰と情熱」の赤なのである。ポーランドにおいて、赤は「自由」(あるいは自由獲得のために流される「血」)の意味であり、同じ「自由」がフランスとはスペクトル上も全く正反対の色(青)によって置換されている一方、白が現在、「共和国の尊厳」の意味に転換されている。ポーランドにおいて、「尊厳」(自決と死)は、自由に対して優位の地位を得ているのである。無論、二色旗が数性“2”を通して、カトリック優位のポーランドの宗教事情を暗示している面があるのは前提の上での話である。

罰するべき相手の《望み》を如何に聞くか

Saturday, July 31st, 2010

すでに故人となってしまった旧いウェールズ人の知り合いから、抱腹絶倒のブラックジョークを教えてもらったことがある。

サドとマゾの会話。

女:殴って、叩いて、私を罰して!
男:…(黙って見ている)
女:さぁ、何をしているの? 早く殴って!
男:…(相変わらず見ている)
女:ほら、叩くのよ、思いっきり罰して!
男:(相手をじっと見ながら、冷たく、ゆっくりと)ダメだ。

すぐに分からない人には申し訳ないが、殴られたいマゾといじめたいサドの間で、本当に殴るサドがいたら、悪いがそれは本当のサドではない。相手をいじめて苦しむのをみて快感を得るのがサドであれば、《殴らない》ことで相手をいじめることができる。

自殺願望がある人間が死にきれず、自殺する代わりに殺人を犯して裁判で自分を死刑にしてくれと言う。そしてその通りに司法は死刑判決を下し実際に死刑にしてしまう。ボクに言わせるとそれはアマい。

罰するのが司法なのであれば、「自分に死を与えよ」と迫ってくる犯罪者に死を与えるのは「殴って(罰して)!」と迫ってくるマゾヒストに殴打を与えるのと同じくらい底が浅い。なぜ罰しようという相手の望みを聞くのか? 相手の望みを叶えないことこそ、《処罰》の名にふさわしいことではないのか? われわれに彼らを本当に罰する気があるのなら、絶対に彼らを死なせてはならない。

われわれは死刑に期待して殺人を犯し、死刑を求める犯罪者に対し、じっと相手を見ながら、冷たく、ゆっくりと、ダメだ、と言わなければならない。

(これは、人が人を罰することができるのか?というメタな問いについて便宜的に棚上げした上での話だ。人が他者を罰することが前提とされている現世へのちょっとヒューモラスな示唆だと思ってもらえれば良い。)

《愛》に関する短いエッセイ

Wednesday, May 12th, 2010

愛を口にするのは恥ずかしい、という日本人の心理をどこまで掘り下げることができるのかは分からない。だが、ひとつの「仮説らしきもの」なら打ち立 てることはできそうな気がする。

そもそも「愛」という概念自体が日本初のものではなく、西洋発の概念を「翻訳したもの」ではないかという通説も存在し、それを根拠に「日本人の心象 表記にはふさわしくないことばだ」と結論付けたくもなってしまうのだが、事情はそんな単純なことではないかもしれない。いずれにしても「愛を口にできな い」ことには、ひとつの説明が可能だと思い至った。

今「西洋発」と言ってしまったばかりだが、英語の「love」には実に漠然と広い意味合いが賦与されている。日本語でなら「恋」とでも呼びたくなる ような概念、すなわち、相手(対象)に対して沸々とわき上がってくる抵抗しがたい「とても好きで、それなしでは生きられない」という(好意や独占したい) 気持ちを、その言葉でしばしば呼んでいることはきわめて確かなことだし、性的な交わりや愛撫さえも「love」という単語で彼らが表現する*ことは知られ ている(to make love = to have sex)。われわれの感覚からすれば、これはエロス的な側面、すなわち肉欲に属することであって、この「愛」は、博愛や友愛とは何の関係もない**コトの 筈なのだが…

一方、いま言及したばかりの博愛や友愛といった自己犠牲が前提となるような、まさにこれこそ「真の愛」とでも呼びたい《愛》も、「love」という 語で示すことができてしまう。なんと「love」という語は広漠とした概念であろう。しかしこの多義性によって、西洋発の愛(love)は、それを口にす る者たち自身が大いに戸惑い、誤解し合い、場合によっては殺し合うような混乱の原因となっているような気もするのである。異なることを同じ名前で呼び合っ たら、コミュニケーションに齟齬が起こるのは当然であろう。「愛するが故にあなたを捨てる」とか言い始めると、殺人なども起こりうるワケである。その 「愛」は一体なんなのか?と。

したがって、われわれにまず必要とされるのは、相手を強く求める気持ちも、相手のためなら自分が犠牲になって(窮極的には死んで)も佳しとする自己 を喜捨する気持ちも、どちらも「愛」と呼ぶことが定義上の問題を孕んでいることをよく認識することであり、更には、それらに別々の適切な名称をあらためて 付与することではないのか?

ひるがえって、日本では西洋人が日常的に口にする類いの「love」に対し、「恋愛」という賢明かつ便利な訳語を当てた。つまり、ふたつの明確に異 なる概念を「結婚させる」ことによって、それが「love」の本質なのだと宣言し、「恋」と「愛」の両方を援用してそれを名付けることを歴史的に選択した のだった。

相手を求める気持ちは《恋》(乞い/請い)であって、あくまでもその動機は自己愛(自己充足を目指すもの)である。一方、《愛》は自らを虚しくする 自己犠牲であり、その動機は相手を生かすこと(相手の生存の充足を目指すもの)である。そして、この自己に向かう「愛」と他者に向かう《愛》(自己犠牲) とがうまく噛み合うことが「恋愛」の成立には不可欠である。どちらかが求め(奪ってやまず)、どちらかがそれを許す(与えてやまない)ことによってしか、 「恋·愛」関係は成立しないからである。もちろんそれが時と場面によって旨い具合に入れ替わるということは、相思相愛の仲にはあるのであろうが。

英語を使う者たちが「I love you.」を口にする際に彼らが表現していることとは、第一義的に「相手を好いて(求めて)いる」こと(しかも相当の強さで求めていること)なのであり、 そこには(あなたのためなら死んでも良い、というような)「自己犠牲の宣言」の意味があるわけではない(と思う)。もちろん、修辞的に「死ぬほど好き」と 言うことはあるだろうが、本当に自分が死んでしまえば、相手を所有し鑑賞し味わう主体が失われてしまう訳であるから、それを文字通り望んでいる訳ではなか ろう。つまりそこには何ら崇高なる喜捨の精神があるのではなく、相手から自分にないものを奪って自己の充足にあてるという、より良い生存への獰猛な意思が あるのみである。

しかし、西洋文明の基礎を成している宗教の宗祖として知られているイエスが説いたと伝えられているような《愛》の本質は、自己犠牲であり自己の喜捨 であったはずではないのか? それを知っていて彼らは日常的に「I love you.」を連発できるのであろうか? それとも単にその幅を持った「love」の多義的定義の雲の中を自由に泳ぎ回っているだけなのだろうか? つまり 時としてそれは「博愛: compassion, humanitarianism」を意味し、また時として「性愛: Eros, sex」を意味しながら。

そんなとき、真の愛というものの実現困難性について、一般的にキリスト教化されていないとされる日本人が、むしろその真理について本性的に敏感で、 それについて沈黙を守る、ということはあるかもしれないなどと思ったのである。つまり、それを口にする「気恥ずかしさ」は、実現困難性、「そんな、《愛す る》なんて、とてもとても!」あるいは「自分にはそんなご立派なことはムリ」という自己の限界についての自覚が強いのではないか、とさえ思われるのであ る。

それとも、「愛」という言葉から連想される人間の生のエロス的側面について意識的なあまりに「気恥ずかしさ」を感じるという方が正しいのであろう か?

最後に、こうした自分の定義上の理解ないしは「戯れ言」(それは大学時代の哲学教授辛島氏に多くを負っているのであるが)を横に置いておいて、現在 自分が興味を持っている《愛》をめぐる興味とは、女性視点ではどのように捉えられているのか、ということである(むろんそんな一般化はナンセンスかもしれ ないが)。こうした自己犠牲をこそ唯一にして真の愛とする定義は、男性(「救世主」はしばしば男性だ)に特有な妄想的な理想主義に過ぎないのか、いやい や、むしろ女性にこそ行為を通して実現できることと捉えられている何かなのか、そのあたりのことについてである。

脚注
* ドナ・サマーの実質的デビュー曲に「Love to Love You Baby」という問題作があるが、このタイトル自体(歌詞としても曲中でひたすら呻きながら繰り返される)が、第1の「Love」が「死ぬほど好き」を、 そして第2の「Love」が「〜と性交すること」を意味することは説明するまでもないが、こうした用法が可能なのが英語の「love」なのである。

** とは言え、ヒッピー文化など20世紀に発生したある種の宗教性さえ帯びたサブカルチャーが、「性的な愛」と「人類愛」とを——意識的に混同させたか、ある いはまさに筆者が問題にしたような言葉の広義性による混乱によるものかは分からぬが——同じゴールに到達するための手段と捉えていたらしいことは、ジョ ン・レノンとオノ・ヨーコらによる「ベッドイン」という目立ったプロテスト活動を牽くまでもなく、注目に値するひとつの着眼点を提供するのである。

《本》という愛すべき「インターフェース」について

Monday, May 10th, 2010

Books Photo: OSIRIS BOOKS

本がなくなるかもしれないことについて、自分はノスタルジックな理由で心配はしない。自分が読んでいる本、あるいは読み続けるだろう種類の本が、電子書籍の形でしか存在できなくなるということは、「ほとんどあり得ない」と愛でたくも信じているからだし、万が一すっかり電子媒体に置き換えられてしまったとしても、すでに本の形で持っているものを簡単に手放してしまうことは考えにくいことだからだ。それはLPなどのアナログ盤を現役の音盤ソースとして変わらず自宅に維持し続け、またMP3化の時代に入ったからと言ってこれまで買い求めたすべてのCDというインターフェースを捨て去るわけではないことを鑑みてもあり得ないことだからだ。

むしろ自分が真に心配するのは、電子媒体に置き換えられることによって、現在自分に有益と思われる本を提供している出版社自体が存続できなくなる可能性が高いこと、であり、彼らが存続できなくなったら、自分が読みたいような書籍は、今後いったいどこから供給されることになるのであろうか? 電子出版者がそういった種類の書籍を本当にデジタル化してくれるという保証はあるのか? そういう心配なのである。音楽もアナログからデジタルへと移行した時、結局デジタル盤として再発されなかった作品というものが存在することを考えれば、この心配は決して杞憂ではないだろう。

単にメディアが変わるだけで、内容は一切変わらないと言うならあまり心配もないが、メディアの変遷が提供されるべき内容の安定供給に影響を与えるということであれば、それは単なるノスタルジックな心配というレベルの問題ではないのである。

それに忘れてはいけないこととして、「紙の媒体の特性」が厳然と存在することだ。簡単に言えば、電子媒体と紙媒体とで比べたときにどちらが耐久性の面で優れているか、という点である。一体電気の供給が止まるというような「有事」の際に、どれだけの電子媒体が世代を超えて生き残ることができるのであろうか? もちろん、そういうときは飯を食うこともできなくなるから本の心配どころではないヨと言う御仁もいらっしゃるようだが、飢えて自分が死んでも本は残り続け、いつか誰かによって読まれる可能性はあるのである。この点がどうしても譲ることのできない紙媒体の優位性だと感じるのである。それを姿を変えたノスタルギア(懐古趣味)であると仰るなら、それはその方の自由であるが、偏った想像力であるというべきであろう。

電子媒体の優れたところはひとつしかない、ということを言った畏友がいる。確かに彼が言うように、その優位性は無視できないほどに大きなものである。“検索可能性”がそれであるが、電子媒体が現れる前だって、それなしになんとかやってきた実績が人類にはある。検索可能性とは、その情報に信頼性がある場合に限るが、何かを「一瞬で調べる」ためには便利だということである。Googleの検索サービスがどれだけわれわれの生活を便利にしているかを考えれば、ほぼ疑いのないことであるように見える。だが、それだけで媒体の価値や優位性が云々できるのであろうか?

ひとつには検索可能性がわれわれの想像力や思考力を助けるわけではないことがある。実は想像したり工夫したりしなくていい、要するに「努力しなくていい」という点で、われわれの生活に供するものであり、それ以上でも以下でもない。仮想的に外部記憶装置の助けを借りて「物知り(博識)」になることは、文献学や博物学など、ある種の学問にとって必要条件ではあるかもしれないが、優れて独創的な学問的成果をもたらすためにはならないのである。むしろこうした情報を外部記憶装置に放り込んで「いつでもアクセスできる」という状態は、われわれの記憶のための努力を怠らせ、記憶力をつかさどるある種の知的な「筋力」を細らせるのではないか?

つまり、自分の関心に引き寄せて言えばだが、ある種の「学問的な総合」とは自分の努力によって記憶したことについての、知の総力を掛けての《総合》であり、自分以外の誰か(あるいは何か)に記憶してもらって成し遂げるようなことではないのである。たとえば、われわれの敬愛するエリアーデの博覧強記が、単なる膨大な知識ではなく、ある種の《総合》を目指して収集されていった《必然性を帯びた知識の集成》であったことを思えば、諒解できることに違いない。

同じようなことが、真に独創的な科学的な発見について、広く言えるに違いない。自分の脳でない誰かに覚えてもらっている人間が何かその記憶から生み出すことができるだろうか?

さてこういう、難しい話を脇に置いておくとして、便利という点だけとっても、その検索可能性という便利さに負けず劣らず、《本》という媒体に備わっている特性とは、機動性(可動性)とアナログ的な身体感覚による情報へのアクセス性である。本や紙の厚みや重み、あるいはある特定情報の存在する位置感覚が、指の先で感じられ記憶される。こうした物理的・身体的な情報も、「名状しがたい内容」の一部なのである。

それは、電子媒体を利用したeBookの様なものがいくら「本らしさ」をシミュレートしても、そう容易に獲得できないだろう、本と人間の間にある皮膚感覚であり、誰もがそれまで意識していなかったが、これからわれわれが「大いに懐かしむ」ことになる、優れたインターフェース性ということなのである。

文明神話化の速度

Wednesday, April 14th, 2010

文明が失われた後、いかに急速にわれわれの知っている歴史が神話化するか、それを想像してみるのが良い。紙の媒体に書かれたものならば、それを大事に取っておくとか筆写してコピーを作るとか、石に刻み付けるとか、様々な努力によって可能な限り「正確な」記録を取ることはできようが、電子媒体となったものは、ほとんど再現できずにそのまま失われるだろう。

あと我々に残っているのは、記憶を総動員してそれを口伝(オーラル)で伝承することくらいである。人が遠くはなれた人間と会話をするとか映像や画像を送って相手を確認しながら会話をするとか、そもそも人間が空を飛んだとか、宇宙まで人間を送ったとか、地球を周回する装置を空中に浮かべたとか、そのような記憶は3、4世代過ぎれば信じられないようなことになるだろう。またそうしたことを可能にした装置は、使えなくなってスクラップとなってあちこちに放置されるだろうし、必要であれば、そうした道具はバラバラに解体されてまったく別の用途のために再利用されるかもしれない。

こうしてシロアリがたかるようにかつての祖先たちが作った文明の痕跡に巣食って、それぞれがそもそも何であったのかが分からなくなるほどに解体されるのに10世代も必要ではないかもしれない。つまり、自然の力による浸食や風化以上に、人為による解体が一挙に進む可能性がある。それに加えてもちろんこうした自然による破壊が跡形もないほどにそれらを「埋葬」してくれるに違いない。

それでも世代を超えて次のエイオンまで残るかもしれないかつての文明の痕跡は、七不思議としてわれわれの謎解きを待つことになるかもしれないし、あるいは、「庚申塚」や「鬼子母神」あるいは「道祖神」のようなものがその上に建てられるかもしれない。

G・ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』を読む #4

Friday, March 26th, 2010


第二の種類の聖なる行為で、多くの宗教できわめて重要な役割を演じているのは、供犠である。ここでは、浄めの場合のように、力との接触を持ったり、断ったりすることだけが問題なのではない。供犠はさらに進んで、多くの場合、人間に直接に力、神的力を所有させる。(中略)

 頻繁に用いられる説明は、神が私にお返しをしてくれるよう、私は神に犠牲を捧げるという、ギブ・アンド・テイクの考え方による説明であり、供犠は贈り物とお返しの体系をなすことになる。多くの供犠が、これやこれと似た考え方から説明できるのは、全く自明のことである。しかし、ギブ・アンド・テイクの公式が、供犠一般の心理学的根拠を説明できるわけではない。(中略)これを一般的で本来的な動機として持ち出すことはできない。供犠が本来は打算以外の何ものでもないとすれば、最も初期の諸宗教現象は何ら宗教ではないであろうとジェヴォンス[1858-1936、イギリスの宗教学者]が言ったのは、全く正しい。(中略)

 誰かに何かを与えることは、未開人の思惟では、われわれにとってとは別のことを意味する。贈り物は、それをもらった人をただ好意的な気分にさせるだけではなく、呪術的な意味でその人に「働きかける」。考え方や言葉と同じく、贈り物にも強制力があるわけである。(中略) 贈り物、供犠は「力」の給付である。多くのマナを持っている王が、そのことを示しており、王は多くの贈り物をすることで、それを証明する。(中略) 何かを振る舞うことは、力を流動化することを意味する。供犠と金銭(Geld)は、その起源でつながっている。古代高地ドイツ語で供犠という単語は「ゲルト」(gelt)であった。金銭は供犠の供物として、神聖な起源を持っているのである。未開人の贈与から、一方では神聖な活動である供犠が、他方では世俗的な活動である商業や金融業が発達した。贈り物に「価値がある」(gilt)とは、力を呼び起こすという意味である。北アメリカの「ポトラッチ」のような風習、つまり互いに競って一見無意味な浪費をし、価値あるものを破壊することもここに由来する。

「神と人間──聖なる行為──」(の章)より、「A 外的な行為」の「26. 浄化、供犠、聖餐」より(page 201-203)

 

浄化と供犠が同列に論じられる場面とはそもそもどういう場面だろう。犠の字面からも想像できるが、「供犠」には生き物の血が流されることが多く、それはむしろ土地を血で汚す事態であるとさえ言えるのであるが、ここにも典型的な「反対物の一致」の範型が見出されるのである。血を汚れたものと考えるのは、流される血が身内(仲間)のものなのか、身内外のものなのかなどの視点の遷移によっても自在に変わり得る。また、血を流す目的によってもそれに賦与される価値観は多様であり得る。

 

また血を誰が流させるのか、誰が供犠として「生きていた者」を死者として神の元に「帰す」のかによっても、その流される血の性質は変わる。供犠の供物として選ばれるのが、世界を不浄のものにしている邪悪で俗なる存在であれば、それを殺害し、供物として神の元に「帰す」のは善なる行為と本人たちによって位置づけられるであろうし、その血によってこれまでの罪過は購(あがな)われ、打ち消されさえするであろう。そのような「血」であれば、この血に「浄化する力」があると理解されても不思議はない。

 

だが、レーウ自身も強調するように、「浄化」という言葉の、われわれが連想しやすい表面的な部分に捕らえられてはならないという面も同時に存在するのである。浄化は、すなわち旧い世界の更新、そして新たなものを生み出すための儀礼的な動作でもあり、「モノや場が祓われてきれいになる」ということとは別次元の意味があるのである。もっと具体的には、邪悪なものがこの世から一掃されるという事態は、「世界が浄化された」と捉えられたとしても何の不思議はない。つまり敵の血は不浄のものであると同時に、それが流される時は世界を浄化する契機となる両義性を持つのである。

 

われわれの生きる現代という時代においても、このような「供犠」が実際に行われたことは記憶に新しい。それはきわめて宗教的な用語——ホロコースト——で呼ばれているジェノサイドである。それが「世界の浄化」というような位置づけと規模とを以て行われようとしたことは特筆すべきであり、それが宗教的な儀式の体を成していそうな側面について、われわれはもっと注意を向けても良いだろう。むろん、この用語の定着が比較的最近のことであり、またシリーズ『ホロコースト』のようなテレビ作品がその役割を担ったことは疑いがないものの、その後それが特定の歴史的事象を表す固有名詞として定着したこと自体が、件の事件をそのように捉えようとする事前の心理が働いていることは少なくとも認めることができよう。

 

ご存知のように、その規模や組織性については未だ諸説あり、その歴史的事実を巡ってさえ未だにその真相が解明されていない面があるという主張もあるそうだが、本論において、こうした政治的な動機に突き動かされた恣意的な歴史決定に関して、われわれは口を挟むべき意見を持たない。だが、第二次ヨーロッパ大戦の最中に行われたユダヤ人の大量虐殺が、現在、「丸焼きの供物」を意味する「ホロコースト」と呼びならわされていることには注目しても良いだろう。つまり、この歴史的な大規模弾圧/殺戮を「燔祭の供物」と捉えようとする考え方があるということだ。

神の名に見られる反対物の一致

Thursday, March 4th, 2010

「神」というよりは《神性》とでも呼びたくなるような、語源に現れるユーラシアの「deus」の家族たちの善悪併せ呑む二元性。これまで見てきた「反対物の一致」とはまさに神々を記述するためにこそあるのではないかと思われるほどに、引き裂かれた二元論とそれらの和合(一致)が特徴なのがこの「deus」なのである。

筆者は言語学が専門ではないので、自分がここで深入りするべきことではないのであるが、一旦これまで記述してきた「反対物の一致」の小論の最後を飾るのに《神》の西洋語源をざっと鳥瞰することを差し置いてないのではないかと思われるのである。

deusとギリシアのZeusとの関連はよく指摘されることであるが、deusと同根の単語は、英語の世界だけでも相当の裾野の広がりを持っている。

divine, divinity
devil, devilish
demon

こうして観てみると、神と魔的な存在が同じ根を持った言葉に分かれていることがわかる。その他の派生語をメモとして残しておく。

diva, deva

deity

theo: theology, theosophy,
thei:
theism
atheism
monotheism
polytheism
autotheism

ユーラシア西端へと到達した《鶏》

Tuesday, March 2nd, 2010

しまねイン青山にてオクサス学会の第1回講演会が行われる。講演者で、発足者のひとりである前田耕作氏の講演タイトル「曙を告げる雄鶏」を見たときから、これは期待が持てそうだという予感があったが、まさにそれは的中した。

Peter's Denial

Peter's Deinal 2Denial cross

le coq sportif logo

▲Le Coq Sportifの正式ロゴ

(三つ又に分かれている尾は、フランスの数性”3″を反映している。)

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雄鶏の象徴物が、アスカランとクシロフから出土したということから、この地域と雄鶏の象徴との浅からぬ関連が示唆される。そして、雄鶏が繁栄や豊穣を意味することが説明される。配られたレジュメには、さりげなく「使徒的利用」という文言が、取り立てた詳述もなく、記載されているが、この「使徒的」というのはなんであろう?それについては後ほど自分の憶測を述べるかもしれない。

前田氏は講演の中でゾロアスター教の教典アヴェスター(XVIII 13-29)における記述を引用する。

いざ起きん。雄鶏が我を起こせり。二人のうち、初めに起きし者は、初めに極楽に入るべし。最初の良く洗いたる手にて清き薪をアフラ・マズダーの子なるアータルに持ち来たりし者は、アータルはその者に喜び、怒ることなく祝福して言えり。牝牛も子供も殖えよう。汝の霊魂の喜びに生活するをえん。

言うまでもなく、ここで言及されているところの「起きる」とは、「早起きは三文の得」というような世俗的な倫理観を説く、睡眠からの日々の起床のみならず、別の意味の《覚醒》をも暗示する二重の意味構造を持つものだと考えるのが妥当であろう。文明の光に当てられた人には、かくのごとき恩寵があるのだという風に読むこともできる。朝の太陽光に照らされるという恩寵に先立って、それを可能にするのは誰よりも早い時間に起きて、人を目覚めさせるために時間を告げる鶏の声(神の呼び声)に他ならない。

一方、「清き薪」という供物についてだが、ここでも朝のルーティンとしての「薪集め」ということもあるのだろうが、「特定の火」を崇めることとの連関が、この節にも怠りなく言及されていると考えることができるのではないだろうか?

前田氏のレジュメに雄鶏と雌鳥の対で「豊穣」(女性原理)と「繁栄」(男性原理)を象徴するという記述があったが、「繁栄」というのは言い換えれば「男性的な生殖力/精力」のことであろう。つまり豊穣は「孕む力」であり、精力は「孕ませる力」である。面白いことにrooster(雄鶏)を表す言葉に「cock」(仏語では「coq」)があり、英語では隠語にも事欠かない類義語の存在もある。

さて、講義自体はムハンマドの「白き雄鶏はわが親しき友なり。その悪魔の敵なるがゆえに」という、悪の支配の終わりを告げ、人々を惰眠から目覚めさせる曙(あかつき)のファンファーレに言及されて終わったのであるが、講演が一通り終わり、パーティーとなったときに、食事をする前田耕作氏に新約聖書と東方の伝統の関連について尋ねようとして、次のことを訊いた。「嬰児イエスの誕生を告げるベツレヘムの星を目指して東方からやってくる三賢者(マギ)が、ゾロアスター教徒であったことが、先生の著書『宗祖ゾロアスター』でいきなり断定されていましたが、そうした関連がキリスト教とゾロアスター教の間にあるのであれば、なおさらですが、雄鶏と耳にしてすぐに連想するのは、福音書におけるペテロのイエス否定(Denial)のエピソードです。イエスが雄鶏が鳴くまでにお前は私を3度否定すると予言し、その通りになった話ですが、それとの関連は?」

私の話を聞いて深く前田氏は頷いた。その反応に満足した自分は、さらにLe Coq Sportifというフランスのスポーツウェアメーカーとそのロゴ、そして映画『炎のランナー』でも見られるような、陸上のフランスチームが来ていたウェアにはっきりと見えたLe Coqのマーク。どのような関連がフランスと雄鶏の間にあるのか?

Iron Helmet of Gallic Warriors

Gallic helmet

le coq cap

▲ガリア人ならぬ現代人も「闘う者ども」は、鶏のデザインの帽子を冠る。

Blue Gauloise

▲雄鶏の羽をつけたガリア人のヘルメットをあしらったオーソドックスなゴロワーズのパッケージ

Old Gauloise

▲旧ゴロワーズパッケージ

Gauloise with Rooseter Back

▲パッケージの裏には雄鶏が

すると、鶏を意味するラテン語の単語が「gallus」であること、そしてそれが「ガリア:Gallia」や「ゴール:Gaul」の語源であること、などを説明した。そして「ガリアはつまり(ローマ時代の)フランスだ。雄鶏はフランスのもうひとつのシンボルだ。もっと言うと、タバコの銘柄、ゴロワーズ:Gauloise」も同じ」というのだ。そして、時間が許せばそこまで話をしようと思っていた、というのだ。なるほどフランスと雄鶏はこうしてローマの時代につながっていたのである。雄鶏はことによるとゲルマン民族などに追われてユーラシア大陸の西端に到達するが、そのとき暁を告げる雄鶏も共に西欧に至った訳である。

Online Etymology Dictionary で調べると、確かにGaulはgallusと関連しており、さらにGallicからは、Gaelic(ゲイル語/ゲイル人の)との関連が指摘されていて、つまりフランス人の蔑称としても使われることのあるGallicには、ケルト由来のGaelicとも類縁関係にあることになる。

さて脱線するが、面白いことに、シャルル・ド・ゴール(De Gaulle)もまさに語源的には「Gaul」を持っていて、それがフランスの政治世界を代表する指導者であったことは偶然であったとしても、やや出来すぎた話なのである。Gaullist(ド・ゴール治下の)やGaullism(ド・ゴール主義)などの固有名詞「ド・ゴール」から派生した現代語も存在するのである。

Charles De GaulleGallia Cigarrettes

▲その名も「ガリア」というフランス・タバコ。並べてみると、ド・ゴールの帽子をかぶったシルエットと驚くほど似ていなくもない。(タバコ「ガリア」においても雄鶏の尾が「三つ又」に分かれていることに注目。加えて、「TRIPLE FILTRE」であることも興味深い。)

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真の問題は、雄鶏とフランスという国が象徴で結びつき、さらに雄鶏が「ペテロの否定:Peter’s Denial」と結びついたときに、それが福音書にどのような解釈を許すことになるのか、ということである。福音書が「過去にメシアの上に降り掛かった受難: Passio」を伝えるものであると同時に「未来への福音: Gospel/Godspel」、すなわち未来への先触れ(予言/予兆: Herald)であると理解できる時、福音書を読み解く役割を持っているわれわれは、「フランスが来るべき世界において、どのような役割を果たすことになるのか、あるいは果たしつつあるのか」、ひいては未来の神話の地(聖なる地所)となる、今日の脱聖化されたヨーロッパにおいて、どのような役所(やくどころ)が与えられることになるのか、というところまで洞察しなければ、未来の象徴学の《総合の要請》に応えることはできないのである。

図像引用先/参考サイト

Learning Disabilities: Beyond the Classroom

Rainbow Tracer Novelties

聖ペテロの否認

Cock on the Walk

lasagacigarette.com

Roman Numismatic Gallery

La Wren’s Nest

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