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いまさらながら《身体行為》としての音楽

Sunday, July 9th, 2006

これは、書くことが好きで、しかもできる限り持続的に書くことを自分に科しているような人なら、日常的に経験していることだろうと思われる。何か書き始めて一旦調子付いてくるや、その内容があらかじめ自分の頭や「考え」から出て来ているとは思えないような結論や発見に導かれることがある。その筋立てや言い回しは頭で考えて作っているというよりは、勝手に出てくるものだ。

私の「考え」では、それは「自分の考え」から出て来ているのではない。

書いて何らかの結論やアイデアをほじくりだす「身体行為」をしているのは確かに自分だが、掘り出されたものが「自分」に属するものなのかどうかは何とも言えない。それが自分の思い付いたものなのか、「普遍的なイデア」に属するものなのか、それは分からないし、そのなことはこの際、どうでも良いことかもしれない。

猛スピードで、緊迫しながらしかもくつろいおり、調子良くバイクやクルマを操縦している人なら感じているかもしれないそんな「自分がドライブしているのではなくて、自分はハンドルに手をかけているだけで、走っているのはクルマの方。自分はその乗り物にドライブされているだけだ」という感覚。書く行為というのも、それに近い感じになると良い。何度もエンジンが止まってその都度イグニッションをひねるような感じだと書かれたものに流れが生じない。これは、書く行為が頭だけで行っているのではなくて、非常に大きな割合で、それが身体的な行為として可能となっている証拠なのではないか、と感じることもある。

武道家だって、「刀の長さはこのくらい、重さはあのくらい。なら、このくらいの力と早さで振り下ろせば敵が倒せるはず」などと頭の中だけで組み立てたイメージだけをもとに、勝負を計算したり予測したりはしないだろう。それで巧い武道家に成れるなどとは誰も思うまい。とにかく、具体的な刀なりなんなりを手にして、何度も振り下ろしたり振り上げたり何かに斬りつけたりして試行錯誤をしながら、運が良ければ達人になっていくのだろうと思われる。

音楽に関していえば何をか言わんやである。音楽も頭でやっているのではなくて、好きな音やフレーズになるまで何度も何度もやっているうちに自分の音が出てくる。それは頭でこのような量の息を吹き込み(あるいは弓を引き)この程度の早さで舌や指を動かせば、あのような音になるはずだ、などと考えてやるのではなくて、身体がそのような音を探し出すまで何度も「トライアル&エラー」(試行錯誤)を繰り返した挙げ句に、(運が良ければ)至るものだ。

確かに、しばらくのあいだ武道家なら刀を置いて、音楽家なら楽器を置いて、ちょっと別のことをしていたり、ぼんやり何かを眺めたり、別のことを考えていたら、突然「どうすれば良いのか」に思い至ることだってあるだろう。だが、それは刀や楽器を一度も持たずにただ仮想的に巧い剣術や気持ちのいい音楽を頭に思い描いていてそうなるのではなくて、日常的に自分の道具に触れているのが前提で、あれこれ試している中で得た身体の覚えている情報が、別の何かをきっかけに、ふと頭脳のある場所のベルを鳴らすみたいにして起こる。

だから、頭を働かせることも(あるいは「意識」して頭を働かせないことも)時には必要だが、それは身体的な積み上げが前提として有っての話だ。

音楽が作曲家の頭だけで出来上がったものではなくて、何か身体的な実践や実感の集積の果てに、成立して行くものであって、そういう身体感覚を持った人間が演奏をするから、音楽が現在の音楽のようなものであってくれるのであり、楽器やその操縦法の身体性を知らない人間が、漠然と「このような音」と思い描いたところで、良い作曲家に成れるはずがない(誰も言っちゃいないだろうが)。

さらに言えば、作曲家が音楽を思い描くことができるのも、身体を通して実際に表現された「歴史的な音」というものが存在するからだ。それは音楽を作ろうという人が、「演奏家の音」を繰り返し聞くことによって初めて出逢うだろうし、自ら楽器を手にいろいろな音を出してみることによっても実感できるだろう(というか、究極的にはそれ以外にないだろう)。しかし、そうした音を創りだすことの身体性を無視して、頭だけでも音楽が創られると思うならそれは大いなる誤謬だ。人類が如何にさまざまな作曲手法やテクノロジーを獲得したところで、最終的には人間の身体の創りだす音にわれわれは耳を傾ける。われわれの多くが生の楽器と「打ち込み」の音を区別し、また多くの場面で人間の奏でる音に慰めや興奮を見出すのは、それが人間の肉体を使った行為によって具現化されていることに、聴く者の身体も共鳴して反応するためである。

例えば12音技法やセリエ技法で「作曲」された作品であっても、それは観念的で電子音的な装置でプログラムされたり自動演奏されたりするのではなく、音楽家の身体が経験によって身に付け記憶した伝統的奏法と、すでに確立された快感をもたらすことが分かっている伝統的楽器によって「生の音」に置き換えられるのである。だからこそ、「音楽」として聞こえるのである。大概の「作曲」でも、すぐれた演奏家の手に掛かれば、それは音楽に変容する。作曲家が如何に「人為」を排除する方法を悪戦苦闘のうえ考案し、それを譜面上に置き換えたところで、それが多くの「身体」が受け入れ、築き上げてきた「奏法」によって楽音に置き換えてしまえば、人間の音楽になってしまう*(そして年月を経たその恩恵をそうと知らずに受けているのが、少なからぬ「現代の音楽」作家である)。

* もちろんそうした伝統音楽における抜き難い身体性を自覚するあまり、生の楽器や演奏家を排除する「作家」や「作品」があるらしい。それをあえて「音楽」の領域でやろうというのだから、大抵の音楽好きが一顧だにしないとしても何の不思議もない。そうした作家は、《音楽》に関心があるのではなく、あらゆる「伝統」と名の付く人間の文化的創作に対する怨嗟で行為しているのであるから。音楽を文学か何か**だと思っているのであろう。

** もちろん、文学を感じさせる良好な音楽というものだってあるだろう。だが、音楽の本領は、美術的でも文学的でもない。それは官能で解されるひとつの表現なのだ。

そうした楽音の身体性というのは、作曲家が創りだしたものではなくて、演奏家の耳と身体感覚が、言語化の困難な名状し難い快感原則に忠実であり、長い修練を通じて集合的な同意(コンセンサス)の上で築き上げてきた伝統なのである。それを無視して、音楽が「作曲」という自立した精神活動が創りだしている(だせる)と思うのは、特定の「好事家」や評論家の勝手であるが、《音楽》の現実はそういうものではない。音を出す現場にいる人間は、譜面に表されているあらゆる素材を音楽化せずにはいられない。そのような音楽の抜き難い身体性という歴史的コンテクストの中で、特定の指向性と共に修練を経た技能者なのである。したがって、音楽が演奏家を前提としないで成立するように思うのは、「作曲」という行為を至上のものとして捉えたい、いかにも現代的な幻想の類なのである。

まあそれはそれで着想の新規さを喜ぶ人たちは、「類は友を呼ぶ」で、ナンセンスをシリアスに追求することに生涯を費やせば良いのである。