Archive for the ‘Other people's blogs’ Category

あきんど根性に災いあれ!

Tuesday, January 24th, 2006

ある人のブログで「市場は人間を疎外する、ということを、金で人間は買えると言い換えただけ」という名文句があった。おそらくホ○エモンへのある種のシンパシーを表明しているのだろうと想像したのだが、そうだねえ… かなり賛同。彼は、「皆さんの信奉する不文律のルールって要するにこういうことでしょ!」とみんなのために言語化してあげて人々の反感を買ったが、彼が言語化しなくたってそういう考えで動いているもっとたちの悪い「大物」が一杯いる。そして絶対にそんなことは言語化しないが、もっと猾いことをしているのだ。

だが、自分が本当に言いたいことはそれだけではなくて、もっと言うと「市場は人間を疎外する」の根っこには「お客様は神様です」の思想があって、そんな市場「至上」主義を疑いようのないものと思ってサービスを提供しなければ、世間では商売にならないし生きることも出来ない、というのが皆さんの常識なら、「金で人間は買える」というのはなくならない。だって、お金のためなら何でもして差し上げますってのが「お客様(市場)は神様です」の思想じゃないですか。何しろ「神様」なんですからね。そして「お金(商売)のためなら何でもして差し上げます」の人がいる以上、「金で買えないものはない」というホ○エモンの言語化した考え方はなくならない。「何でもやって差し上げよう」と言って自分を他人の足下に這いつくばらせても構わない人間が、他人に対しても同じ物差しで測り、自分だけでなく、他者の人間性さえも疎外する「偉そうなお客」に豹変する。

やはり「お客様は神様です」をまず克服しなければ「市場は人間を疎外する」も「金で買えないものはない」も、どれも克服されることはないだろう。この標語の中にほとんどの「労働問題」は集約されてるんじゃないのか? だいたい「お客様は神様です」なんて言い出したやつはどこのどいつや。お客が何でそんなに偉いんや。サプライヤがいなくて困るのもお客やろ。みんなお客であると同時にサプライヤ・サイドでもあるんだから、互いに「わがままな客」になるのをやめてもう少し我慢を知ろう!

「お客様は神様です」式の「国民的標語」に限って、誰が言い出したか分からない「迷言」なんだ。お客とサプライヤは、「サービス」と「お金」を同じくらい必要としている者同士の等価交換が基本だろ。買う方も売る方も、同じくらいプライドを持たなきゃいかんし、相手を尊重しなきゃいかん。

「市場」という顔も実態も分からないものを絶対視する「あきんど根性」に呪いと災いあれ!

「自己解体」を内包しない人間の組織/運動について
ショーレムとエリアーデの理説に絡ませて

Friday, September 16th, 2005

フェミニズムそのものの現実については、私はまったくの局外者である。したがって、とりあえず「そのようなこと」もあるのかな、と内田氏の感覚をとりあえず信じるか疑うしかない(経験的にはおそらくcredibleである)。だが、その具体的内容の方ではなく、ひとつの「運動」について、「人間のなし得る」運動の本質について、その周囲にあつまってくる寄生虫のような連中が、その本質さえ危ういものにするというその捉え方にはまったく共感を覚える。また、昨日ちょうど用意した自分の記事とも連動するので、いつものように引用する。とにかく、「人間の組織/運動」というものが持っている度し難い「普遍的性向」についての言及であると捉えた。あるいは、一旦できあがってしまった「人間の組織/運動」というものが「自己解体」を知らず、学ぶ事の無い自己目的化とでも呼ぶべき方向へひた走る傾向についての…

インデント「隆盛であるもの」には必ずコバンザメのようなタイコモチのような、「支配的な理説の提灯を持ってえばりちらすやつ」が付きものである。フェミニズムがその威信の絶頂にあるときに、どのような反論批判にも「男権主義者」「父権制主義者」「ファロサントリスト」と鼻であしらって済ませる、頭の悪いコバンザメ的論客がそこらじゅうでぶいぶいいわせていた。(中略)これはフェミニズムの罪ではない。

支配的な社会理論には、それがどのようなものであれ、必ずそれを教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する「寄生虫」が付着する。

バーバラ・タックマンの『愚行の世界史―トロイアからヴェトナムまで』を繙(ひもと)く必要さえ無いかもしれない。私がよく取り上げるキリスト教団について言えば、ローマ教皇庁の長年の口にするのも穢らわしいほどの放埒と堕落とがある。それは、どんな宗教者や信仰家にとっても真摯に一旦認めなければならない歴史的事実であろう。それについて言えば、さしずめ…

支配的な宗教教義/神秘体験には、それがどのようなものであれ、必ずそれを教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する「寄生虫」が付着する。

と言い換えることが出来る。これがフェミニズム運動とまったく同じなのかどうかは分からないが、キリスト教団においては明らかに、その長い歴史の中でまさに「支配的な理説の提灯を持ってえばりちらす」寄生虫が、むしろ教団の中核的指導者として君臨した(おそらくそうした時代の方が長い)。

ある程度成功した「人間の組織」としての宗教団体というのは、キリスト教団に限らず、案外大同小異である可能性が高い。幸か不幸か、自分はいかなる宗教団体に属したことが無かったので、その実情も自分のリアルな体験として実感したことは無いが、宗教の<本質>とは全く別個に、「人間の組織」としての宗教団体というものは、どうもそういうものであるらしい。

そうした事柄を一旦踏まえた上で、昨日の「ショーレム再読」があるのである。つまり、周縁的な神秘体験者と「(そうした現象を生み出しさえする)宗教団体」の権威との間の緊張関係とは、まさにそうした「理説の本当に生成的な要素」とそれを破壊しつつ君臨する支配の論理との間の葛藤であり、時として共犯関係となる二者の関係でもある。

むろん、君臨する支配的中核の「権威付け」の熱心な「働き」によって、教団が絢爛たる塔や美術品の数々を欧州のみならず世界各地にもたらす事が可能になったし、そうした目に見える「作品」や「相続品」の中に、その教義や密儀の数々が保存されたり、また非信仰者さえ触発 (inspire) し、場合によっては「伝統的権威の生れ出たその同じ源泉」に遡る個人的神秘体験を発生させたことが事実でない、などと主張する気もない。

つまり、俗的支配と腐敗を恣(ほしいまま)にした教団中核やそれをサポートするパトロンの存在(富の極端な偏在)さえ、神秘体験と全く無関係ではないという、グロテスクなパラドックスが存在するのだ。これは無視できない要素であり、宗教の一体何が良くて何が悪かったのか、ということを即断する事も実は容易でないのだ。

筆者は、宗教団体についての大いに聞き伝えられた「現実」をもって一刀両断に行なう宗教そのものについての価値判断にも、宗教団体の内部から発信されるインサイダーによる教義注釈による価値判断にも、そのどちらにも決して与する事は無い。

しかし、宗教というものが、「かつて或る時にわれわれの上に降り掛かったある事態」を契機に発動されたものであり、その「記憶」の維持もしくは回復をなし得る知恵の宝庫であり、またそうした出来事の「永遠回帰」を必定のものとせず、いかにして「再現」を回避しうるのか、いかにしてそれを「神話の再創造」から切り離すのか… そうしたわれわれの「今後の生存」に緊密に結びついた、歴史を超える至宝としての宗教の重要性は、絶対に揺るぐ事は無いのである。

(いかにも「エリアーデ風」というか、彼が言いそうなトーンではあるが…)

聞こえているものの先に、聞こえないものを聞こうとするする思い」に報いること。

Tuesday, August 2nd, 2005

うーむ、あっちでもこっちでもツナガって、「タコ足配線」地獄じゃ!

我が畏友、ランドスケープ実践家 兼 風景批評家 兼 GPS地上絵師の石川初のblogに、なんとも刺激的で、あたかもボクに対して「読め」と発信してきているような、ひときわ目を惹く題名あり。

『「見えるものの先に、見えないものを見ようとする思い」に報いるということ。』

今回石川が「孫引き」引用している加藤典洋の風景論というのに「足を止め」て思わず読み入ってしまった。ここでそっくり引用すると「曾孫引き」になってワケの分からないことになるので、このblogをお読みの方は、そちらで読んで頂きたい(だってそういうのが簡単にできるのが、ネット技術なんだから)。音楽についても多重にこの「エンガージュマン」と「デガージュマン」が適用されそうなことに気付く。ただし、今回はそう簡単に当てはめられない事情もある。

それは、人間の恣意が関与しない前提としての「風景」と、人間の恣意が関与するのが前提としてある「音楽」が、容易に同列に語れないという社会通念上の事情があるからだ。しかし、それでも、コトを見る目の高さ(心理的レベル)を変えてみると、それが適用されうる「断面」が、音楽においても浮かび上がってくるという興味深い事実にも思い至った。

いつものように、石川の「孫引き」に代入して適当に文章をアレンジする。(最近、代入が好きだな、ボク…)

まず最初の方は、「音楽内部についての話」として読む方法(必要)がある。たとえば下などは、容易に理解できる適用例だ。

>> 眼前にある様々な音のパーツのひとつを対象として注目している限り、「音楽」を聴いているという意識が生じないのだった。<<

実際問題、極端な例だが、聴者がオケのメンバーだったりすると、他のオケを聴いていても自分の普段担当している楽器のソロとか、あるいは内声部を選択的に聴いていたりして、全体として(作曲家の意図している意味での)音楽を聴いているという感じの体験とは違ったものになってしまう(もちろん、鑑賞の達人になってくると、そういう普段なら聞こえにくい声部を「耳」が抜き出して、セカンド・ヴァイオリンやヴィオラパートを楽しむなんていう“倒錯した”音楽の楽しみ方もある訳だが…)。そんな、極端な例を挙げなくても、案外よくあることなんではないだろうか。つまり、“「音楽」を聴いているという意識が生じない”というのは、言ってみれば「音楽鑑賞以前」の状態という訳である。

>>(だから、純粋に音楽の全体を「全体」として楽しむなら、)ひとつひとつの対象(楽器のひとつひとつの音やメロディーのひとつひとつ)へのデガージュマン[身の引き離し]があって、そのデガージュマンがそのままアンガージュマンを形成するような瞬間に「音楽」は聞こえてくる。したがって、ひとつひとつの楽器の音やメロディーではなくて、音が一旦「音楽」として聴かれ始めると、今度はそれ自身(作品全体)が注目されるもの、聴くことの対象になる。<<

ふむふむ。ま、最後の方は当たり前の話では、ある。音楽を全体として「一つの構造」として聴き取る、ということが、まさに「音楽を聴く」態度であり体験だからだ。だが、こうした言い方が成立するのは、ここまでだ。

>> こうした「音楽」の成立のうちに、・・・・・「音楽」は消えるのである <<

本当に「音楽は消える」のかと言うと、音楽そのものの内部の話をしている限り、あるいは音楽そのものの内部だけに関心が注がれている限り、そう簡単に音楽が「消えて」しまうことはない。音楽はたいていの場合、特に西洋音楽の場合、通常、作曲家や演奏家は「譜面に書いた音、鳴らされるべき音、そのものを聴いてくれ」と迫ってくるからである。(少なくとも、そのように思われているように見えるな、大概の西洋音楽は!)

したがって、こうしたレベルでは、相反する二つのものを同じ「音楽」の名で呼ぶことから生じる「音楽論の混乱」というのは、あまり問題にならない。ただし、例外的に即興音楽においては、そうしたことが大いに(鑑賞にとって)課題となる[後述]。そして、ある特殊な聴者の心理状態においては、ほとんど音楽的体験と呼ぶに相応しからざる「音楽体験」というものがあるのも確かだ。

つまり、これを音楽を含んだもっと広い環境・状況というところまで拡大すると、面白いことが言えるのだ。つまり、適用できなかった最後の部分が、適用可能であり、それこそが、音楽を鑑賞する体験の中でも、最も面白い部分ということになる。

>> 聴かれることの対象となった音を「音楽」と呼ぶなら(そして事実私たちが日常「音楽」と呼んでいるのはこちらのほうだ)、この対象としての「音楽」の成立のうちに、・・・・「音楽」は消えるのである。<<

たとえば、音楽会で音楽を集中して聴いていて、あるいは静かな環境でゆったりくつろいでレコードを聴いていて、「音楽が消える」という体験を想起するのだ。(オーディオマニアが、「本当に良い音は、オーディオ装置が消える」とか言うが、そういうことに、ここでは深入りしない。)すなわち、音楽にわれわれが本当に没頭したときに、我々は本当に音楽(音)を聴き続けているのか、という設問である。素晴らしい音楽体験とは、全くもって内面的(心理的)なもので、それは「音楽自体からの感動」とは別物であることがある(あるかなぁ、みんな!)。音楽がきっかけとなって、我々は別の場所に勝手に到達してしまうからである。こうした体験さえも「音楽の体験」と同じ言葉で呼んでしまうと、確かに混乱がある。

音楽家が作り出す作品(音)までは音楽家の責任だが、それを通して得てしまう「聴く側の能動的なはたらき」による体験は、必ずしも音楽体験そのものとは限らないからだ。そうしたことが聴く側の内部で起きる時、楽器ひとつひとつの音色やメロディーは、「既知のもの」でありながら、体験としては「未知の領域」に入ってくる瞬間だ。そして、更に言うと、鑑賞者が<普遍的題材>に触れる劇的体験があるとすれば、その刹那にこそやってくるのだ!

ここからは、ふたたび石川の言葉への「代入」となる。

>> (こうした聴者の内面で生じるかもしれない)「音楽体験」をあらためて「音楽」と呼ぶことにすれば、これと区別される「それ自身が注目されるもの」としての「音楽」を、たとえば「純音楽」と呼んでもいいだろう。今日、多くの「音楽」の議論はほとんど、「耳に聞こえてくる音場空間のみを」対象として、それをいかに「われわれにとって快い知覚経験をする場」とするか、が問題にされている。<<

あるいは(別テイク)

>> (こうした聴者の内面で生じるかもしれない)「知覚体験」をあらためて「音楽的神秘体験」と呼ぶことにすれば、これと区別される「それ自身が注目されるもの」としての「音楽」を、たとえばこれまでのように(カギ括弧なしの)音楽、と呼んでもいいだろう。<<

話は脱線するが、

石川の文章:

>>「ランドスケープ」は、デザイン「できない」ものが「ある」ということを前提にする。「ランドスケープ的アプローチ」をとるなら、何よりもまずはそこに「デザインできないもの」の存在を認めるところから始める。そして、それを「デザインできるもの」に置き換えたり、覆ったりするのではなく、そういう「デザインできないもの」「コントロール不能なもの」を示唆することを目論む。<<

の部分は、いわゆる「環境音楽」「アンビエント系音楽」などに関係した主張の典型として読むことも出来る。つまり、サウンドスケープや“ジョン・ケイジアン”の立ち場だ。

「サウンドスケープ」は、(音場に)デザイン「できない」ものが「ある」ということを前提にする。音楽の領域において「“ランドスケープ”的アプローチ」をとるなら、何よりもまずはそこに、環境音、すなわちカラスの鳴き声、虫の声、風、豆腐屋の笛の音、万年物干竿屋の拡声音、子供の泣き声、自転車のブレーキの音、などなどの「デザインできないもの」の存在を認めるところから始める。そして、それを「デザインできるもの」に置き換えたり、覆ったりするのではなく、そういう「デザインできないもの」「コントロール不能なもの」を示唆することを目論む。

というわけだ。なかなか「模範的解答」となるぞ、これは。

さて、「即興」について、通常音楽と区別して語ってきた事情から言うと、最後にそれを言及しないで済ませる訳には行くまい。ここからが、やっと本番だ。

即興音楽と風景の類似性について<ことさら>に発言したくなる理由のひとつとして、それらに共通なリアルタイム性、スポンテイニアス性がある。つまり、即興音楽家たちは、集団即興においては特に、それぞれがある程度自分にとって既知の「持ち札」(特定の楽器やテクニック)を持ってステージに登場する。だが、ひとたび音が出されるや、自分という音を出す主体以外の「未知な要素」「予想不可能な要素」というのに、必然的に遭遇する。そして、本人の演奏し始めて初めて分かる「体調の認識」と遭遇する。そして、それへのリアルタイムの「対応」が求められる。大きく分ければ、そうした「未知なる要素」に対して、それを「無視して進む」というのと、それを「利用して進む」という態度の「二大選択肢」があらゆる瞬間に出現し、それへの判断を忙しく行なわなければならない。音は生き物だから、待ってくれないのである。まるで、風景のようだ。しかも、どのように無視するのか、そのように利用するのか、というほとんど無限の選択肢の中から、もっともカッコいい方法を(ほとんど本能的に、瞬時に)選択しなければならない。

無視することによって生じる二つの(三つの、それ以上の)世界の、同時的な顕現が、まるで写真の二重(三重、多重)露出のような効果を以て生起し、とてつもなく象徴的な音場を築いてしまうこともあれば、単なるやかましい雑音に堕することもある。一方、「未知なる要素」に対して、互いに利用して進むということでしか発生しない、リアルタイムに醸成される協和的で調和的瞬間が—-まるで「人生」のように—-音楽的に「意味あるもの」を構成することがある。

いずれにしても、「風景のデザイン」と同じように、他者の存在や偶然という制御不可能性を受け入れることによってしか、立ち行かない「創作」の在り方が、即興音楽にはあるのだ。

即興音楽においては、「われわれを取りまく環境のある状態・状況を指しているものであって、その状況のもとにおいてデザインという行為が表象するものと、表象が指向する対象の間に」絶え間ない緊張の関係が築かれる。

石川が…

>> そこに意味のあるつながりを見出す観察者による「風景化」の「契機」の生成を試みる。つまり、ランドスケープデザインが「デザイン」しうるのは「風景」それ自体ではない、というわけだ…<<

と、いみじくも言っているように、音楽においても(即興音楽であればとりわけ)、演奏者は、そこに意味のあるつながりを見出す観察者(音楽鑑賞者)による「音楽の風景化/ドラマ化」の「契機」の生成を試みている。つまり、即興音楽家が、「デザイン」しうるのは実は「音楽」それ自体ではない、のである。

鑑賞者がその中からリアルな「劇」、あるいは「物語」と呼ぶに相応しいものを見出す「契機」を、即興音楽家は、あるいは音楽家は、試みるのである。そこには、予定調和的な大団円はない、かもしれないし、ごくまれなチャンスで、あたかも譜面にプランされたとしか思えないような、浪漫派的な「歓喜の物語」をリアルタイムで生み出す可能性を秘めているのである。

そこにこそ、即興音楽の醍醐味があるとenteeは、考えるのである。

かくして、かの石川のオツな導きによって、数年前に『ランドスケープ批評宣言』(INAX出版)に寄せた、拙文(即興性と計画性に見る風景と音楽のアナロジー ある即興音楽家の夢想的「風景」論)は、再び日の目を見るのであった。(と、せいぜい“我庭引水”して、終わるのであったー!)

(more…)

「可動域」についての自覚

Thursday, July 28th, 2005

内田樹氏の文章のパロディー

「映画」に「音楽」を代入する。

「寝ながら学べる構造主義」の内田樹氏のblogでは、読んで楽しい映画評もある。良い映画評であるかの基準は、作品に部分的な課題があるにしても、その映画を自分で鑑賞して何かを掴み盗ってやろうと思わせてくれることが、一つである。その基準から言えば、とりわけ内田氏の映画評は素晴らしい。その氏が先日、次のような文章を含む面白い論考(映画評/映画作家表)を発表した。こういうものがタダで読めるというのは実にありがたい。

<< よい映画に共通するのは(映画作家自身が)自分の映画史的・映画地政学的「立ち位置」についてのはっきりした認識を持っていることである。自分がどのような「特殊な」映画を選択的に「見せられて」育ってきたのか、どのようなローカルな「映画内的約束事」を「自然」とみなすように訓練されてきたのかについての自覚があるということである。>> 「内田樹の研究室」2005年07月22日のblog「目を開け」より

全文は、ぜひ彼のblogに行って直接読んで頂きたい。

『オープン・ユア・アイズ』(Abre los ojos, by Alejandro Amenabar:

Eduardo Noriega, Penelope Cruz、1997)

自分の悪い癖かもしれないが、人のこういう刺激的な文章を読んでしまうと、自分の「関連領域」でも同じことが言えてしまうのではないかと「不吉な予感」がして一旦立ち止まって、「検討」してしまう。彼の言うところの「よい映画」が「よい音楽」に置き換えられてもその有効性は依然として残るのか、などと…。そして、もしそれが「よい音楽」にも都合よく置き換えられてしまった場合、それによって自分は何を学ぶことになるのか、どうしよう…など。いろいろ考えてしまうのである。そして案の定、私はそれに正面から反応してしまうことになる。

以下は、内田樹研究室のblogの「目を開け」のパロディーである。こういうのは、違法なのかどうか知らないが、聡明な内田氏のことだろうし、忙しい彼が、詰まらぬことであれこれ言うことはないだろう、と勝手に決めつけることにした。もし問題あれば、すぐに引っ込めます。

「耳を開け」(「目を開け」の部分パロディー)

よい音楽に共通するのは自分の音楽史的・音楽地政学的「立ち位置」についてのはっきりした認識を持っていることである。

自分がどのような「特殊な」音楽を選択的に「聴かされて」育ってきたのか、どのようなローカルな「音楽内的約束事」を「自然」とみなすように訓練されてきたのかについての自覚があるということである。

音楽家としての自分の「可動域」について、自分が作れる音楽の制限条件について自覚をもっているということである。

そういう自覚を持っている音楽家は決して「まったく新しいタイプの音楽」を作るというようなむなしい野心を持たない。音楽による「自己表現」とか、音楽をつうじての「メッセージの発信」というような愚かしいことも試みない。

自覚的な音楽家は音楽的「因習」をむしろ過剰に強調することで桎梏を逃れ出ようとする。伝統的な演奏・作曲技法以上にくどい演出をし、出会い頭に空前の美しさを持つ旋律が出現し、歓喜は苦悩の果てに勝利し、曖昧なものは退けられ、錯綜したメロディーラインが、最後にすべてシンプルで口ずさめる旋律の登場によって説明される「ご都合主義」という形容では収まらないほど好き勝手な劇場的音場をこしらえる。

しかし、音楽的「常識」に過剰に寄り添うことによって、不思議なことだが、彼は「音楽という制度」に対する聴衆の無防備な信頼をむしろ揺るがせることになる。

「音楽って、本来『こういうもん』だったっけ?」

というすわりの悪い疑問が聴衆の中にすこしだけ芽生える。

でも、聴衆は無防備だから「『こういうもん』ですってば」とささやかれると、「そ、そうだね」と簡単に信じてしまう。

そのようにして「音楽」なるものの棲息可能条件をゆっくりと拡大してゆくこと、それが野心的な音楽家に共通する手法である。

ってことになる。お〜い。これって俺たちの課題として読めませんか〜?

<< 音楽的「常識」に過剰に寄り添うことによって、不思議なことだが、彼は「音楽という制度」に対する聴衆の無防備な信頼をむしろ揺るがせることになる>>

願わくば、そういう(カギ括弧抜きの)音楽を演っていきたいものである。

縁の不思議

Friday, July 15th, 2005

先日、カール・ベアストレム=ニールセン氏の短い東京訪問と彼とのインフォーマル・セッションについて書いたが、驚いた事に、小宮暖さんの名前をセッション時にカールさんが言及したために私が小宮さんに個人メールを書き、今小宮さんが東京近郊にいるのかどうかを訊いたところ、驚いた事にNYを引き上げ帰国していることが分かった。日本で音楽療法で本格的な仕事の基盤を築こうとしているとの事。

だが、カールさんをNYで紹介された小宮さんがカールさんと連絡を取ろうとして、訪日先が関西である事を知って諦めた彼は、カールさんが急遽東京に来た事を知らず、私は小宮さんが帰国している事実を知らず、木下さんはカールさんが何者なのか知らず、先週末何が起きていたのか、全体として理解している人は3人の中で誰もいなかった、というおかしな話。だが、3人がそれぞれが1本の糸のようなもので結びついていた事が今回判明。これを小宮さんと往復書簡をしている木下愛郎さんが面白く書いている。

これは、今後の出会いがもっと面白い事になりそうな事を予感させる「前振り」だったと私は思うのである。

木下さんのblogの記述の中で、事実関係的な訂正があるとすれば、「日曜日に一緒にステージをやった」の部分で、やったのは荻窪グッドマンを借りての「インフォーマルなセッション」であった。ライヴをやった訳ではないのです。一応念のため。

Shine on your babies, crazy parents.

Friday, June 3rd, 2005

<< ほとんど人生の目的に達したような目眩がするほどの「至高の瞬間」>> かあ! ゆうてくれるやないの!

でも良い話だな。そいつは良い音楽を即興的に作ったと思えたときの瞬間に似ているな。でも「子供を抱いている人」が得られる感慨だと言われれば、うぬぬ?と立ち止まって、生来の負けん気が頭をもたげるのであった!

「子供持つ者 vs. 子供持たぬ者」の勝負ってのは、明らかに「持たぬ者」方の分がワルい。だって、こと<子供>に関しては、どんな「持つ者」でも最初は「持たぬ者」を出発点としているからです。つまり、「持たぬ者」は「持つ者」の経験の中に一見包含されてしまう(本当は違うと思いたいけどそれは後述)わけです。その論理は{子供を持つ豊かな人生}⊃{子供を持たない人生}という図式で表されます。そして、「持つ者」はこう言うことが出来るのです。「昔なら自分も想像もできなかったけどサ」。決定打です。「持たぬ者」は尻尾を巻くしかない(ホントはそう思ってないさっ)。

「子供を持つ」ということはおそらく生得的に「特権的」なものだし、まさに「特権」というもの(=「持てる」ということ)の主たる特徴をまさに含んでいます。

つまり、「子供を持たぬ者」という人類共通の、「原初の状態」を経由して、自分が「持つ者」という今の状態に変化(成長・昇格)して来たと言わんばかりの自信と優越、しかもどうしたって「否定のしようのない」ある種の経験の“非不在”が彼ら口調には有る。彼ら「持てる者」たちは、確かにそのほとんどが「持たぬ者」が子供について語ろうとする以上のことを知っているんだろう。そりゃそうだ。でも自分の優越感に「おやばかなんです」という一言で話をファイナライズすることの出来る強烈なレトリックを持っているところもいかにもズルいんですよ(爆)。自分を免責してお話は終わりだ。ヒットエンドランです。好きなだけ自慢されて、「オレ、バカなんです」と言って逃げちゃうんだからまっことタチが悪い(爆)。むしろ、持てる者だけが得られるだろう「全き味わい」を自分が知っているという「優位」が「特権」に他ならないことをよーく自覚してもらえればいいです。

さて、子について話す人に子を持つ経験の“優位”を主張する気なんかなくても、「子供を持つ者」が子供との経験に関連して何かを話すのを聞くと、「持たぬ者」にとっては十分に“劣位”を感じているのだということを知って欲しい。だって、他でもない「私」がその“劣位”感じてるんだから。なんか哺乳類として完璧でないみたいな“劣位”をね。

オレたちの親の代ならまだ言いそうな「人間はコドモを育ててこそイチニンマエ」みたいな乱暴な言説は、いまでこそ少なくなったが、子供を持った人は結構本音ではそういう「考え」になっているんじゃないか、「転向」しているんじゃないか、と想像するわけです。はっきり言って、子供を作ってしまったひとはその大抵が「転向者」なんですよ。すっぱり180度転向してしまわないと、post-child(ren)の人生の条理に合わない。

少なくとも、子育てにまつわるどんな「苦労話」でも、その背景には高らかなる「勝利の鐘」が鳴り響いているのが聞こえてくる。これは単なる思い込みじゃない。でもね、そこで「持つ者」が「だったら自分も持てば(作れば)いいじゃーん」と言うのは、「なし」に願いますよ。そういう風に話を持ってっちゃうひとは結構いるんだなーこれが。そういう話を聞くと、「だったら日本人になっちゃえばいいじゃーん」と言われた在日朝鮮人みたいな行き場のない気持ちになる(あくまで想像だけど)。人の気も知らないで気軽に言わないでくれ、ほっといてくれってことにもなりかねない(でも、「肝心なとき」にはほっとかないでくれ)。

知的であることと知的たろうとすることは違うのは分かる。アエラに載っていたという記事のように、一見知的な「子供に対する言説」というものが、無思慮であればあるほど反感を持つ親が出てくるのも分かる。まともな親ほどそうだろう。そういうことに疑問を感じる人にこそ親になってもらいたい(無理な願いだけど)。でも、そういうことを言うヤツは、子供を育てることを知らないから口惜しいだけなんだよきっと。だって悔しくないと言えばやっぱりウソになる。

「持たぬ者」が「やっぱり持つべきだった」と後悔することはあっても、悔しいかな、「持てる者」が「やっぱり持つべきでなかったーっ」と後悔するケースはほとんど無いだろうことも想像できる(不慮の事故があったりとか、子供が「極悪人」とかにならない限りは)。つまり「持っている」ことが親の人生の前提となり、それ以前の状態に自発的に後退することは、滅多なことでは起きないからです。持たぬ者は、持つことで得られるかもしれない「人生のオルタナティブ」をとりあえず「想定しない」ことで、持たない自分の人生を好しとする以外にない。どうです。やっぱり分がワルいじゃないですか。

だから子供を持たぬ(持てぬ)以上、どこかにそもそも劣等意識(コムプレックス)が潜んでいるかもしれないことを子供を持てる特権階級たちは「知っている」べきだと思うんですよ。「持てる者」たちが子供にかまけて素晴らしい「人生の体験」を積み上げているその瞬間にも、それに負けないような経験を積んでやろうじゃないの!という「持たぬ者」なりに特有の負けん気が生まれる訳です。これは言わば権利を周囲と同様に保障されていないマイノリティとして生まれて来たようなもの、に近い感覚かも。従来なら味わえたはずの「人生のオルタナティブ」を頭の中から排除して跳ね返すしかない訳です。

そんなこんなで、いろいろ「創造的なこと」やらせてもらってますわ。ま、見てて下さいな。ボクの「子供」がどういう発展を遂げるかを。可愛いもんですよ〜。おむつの交換とか要らないし〜。

さて、なんか相当アプセット(狼狽)しているように聞こえるかもしれないので、それを差し引いてあまりあるのではないかと思うような、美しい真実らしき言葉が綴られている別の日記を紹介して、今回は終わりましょう(これがなんとも突き放しながらもジーンと来る文章なんですよ)。Shine on your babies, crazy parents. (Have a marcy!)

(でも、かくも転向者を執拗にbashingする人間が「転向」したときのその転向ぶりってのもみものらしいから、気を付けようっと。ぽりぽり)