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閑話休題:相互言及する象徴群との付き合いについて

Monday, April 3rd, 2006

象徴に関する論述は、結局は真の意味で科学的記述にはなりにくい面があるのは否めない。「論理実証主義」をある理論の妥当性を証す態度としてある程度までなら模倣することはできても、窮極的にわれわれにはそれを「可能な限り目指す」ことができるだけである。すでに証明済みでかつ容易に共有可能な命題を元に、更なる新規な仮説の証明を積み重ねて行くというよりは、象徴物自体が本性的に「相互言及的」であり、「A=BとB=Cのふたつの等式が正しいことが証明されたので、ようやくA=Cと断定することができる」というほどに単純な証明の手続きを経ることが困難なのである。象徴主義や図像学において、A=B、B=C、A=Cの等式の全てが正しいことが共時的に諒解されるという体験を通してで一挙に把握されるのが、そもそも象徴的な通過儀礼において期待できる効果なのであり、象徴の顕示するものについての論述とは、ある程度の知識や知性を要求しながらも、多かれ少なかれ、ある段階においては知性を超えた性質の「理解」を扱うものなのである。

それだけではない。文章においてはどうしてもこれらの等式を一斉同時的に並べることができない。そのため一般的な知性にとっては、結局ひとつひとつを個別に見ていき、ひとつひとつを個別の事象として一旦は納得することしか提示者のわれわれにはできないのである。そしてそれを読み解く側も解きほぐされ「一列に並べられた」論述を通してそれに接するしかない。最初の爆発的な象徴理解というものが鳥瞰的であり、複雑に絡み合った一本の紐の作り出す結び目の文様のような一瞬にして把握できる「絵」であったとしても、それを他者に再提示する際にはすっかり解(ほぐ)された一本の「紐」として時間軸上に並べるしかないのである。そしてそれを再体験しようとする者達にとっては時間の経過と供にそれを辿って行くしかないのである。

だが私が敢えて主張するまでもなく、「再提示」の方法に関してこれだけの不利点を抱きながらも、それらの事実を以て象徴関連の記述そのものの価値を一刀両断に判定することは誰にもできないであろう。むしろ論理実証主義的な態度で書かれた果てしなく長い「詩」のようなものであると人々には了解されて味わわれることの方が、その論述者にとってそれ以上の期待のできないほどの光栄であるに違いない。

こうした汲み尽くすことのできない繰り返しに思える個別の事例の積み上げという作業と、それに付き合うことのできる未来の僅かな知性にとっては、それを追い求めるという経験が、いつの日か驚くべき洞察をもたらす可能性があることに期待すべきであるし、追究の努力を厭わぬ人々は、そのための種をこつこつと内面に捲いているのであり、退屈に思えるかもしれない手続きの、ある程度の積み重ねこそが、将来的な爆発的な包括的理解の肥やしになったことがやがて分かるであろう。そしてその時の知的伸展が、あたかも「芥子種の比喩」のように、巨大な樹木の全体を内包したひとつの粒であることとして諒解されるに違いない。そして、ある時は「麦の種の比喩」のように、あるタネは干涸びてしまい、そしてあるタネは鳥によって啄まれてしまうだろうし、またあるタネはついに芽を出すことなく忘れ去られるだろう。だが、<あなた>という肥沃な土地に落とされたそのタネは、やがて大きな収穫をもたらすに違いないのである。