Archive for the ‘Politics!’ Category

「愛」を強制する奴らの本音

Tuesday, May 17th, 2005

愛することは心の中に自発的に生起する感情であって、愛することを強制することはできない。いや、百歩譲ってできるかもしれないが、強制によって「期待した通りの愛」を得ることなどはできない。また、愛は自覚的な相互関係によってこそ、もっとも健全な形で培いうる。ここで言っているのは、子供や弱いものに対して自然とわき上がる母性や父性と同根の、いわば反射的・動物的感覚としての「愛・慈」を指しているのではない。もしそういう意味での「愛」を指しているのであれば、なおさらそのような感情が全体主義に資するようなものとして期待できるはずもない。ここで問題になる<愛>とは、やはり、相互に尊重し合い、尊敬し合う大人の愛(友愛・敬愛・仁愛)のことになるであろう。

だが、こうした「愛」を憲法やら法律、そしてやがては警察力などの強制(暴力)によって得られる(得るべきだ)と考えているらしい御人らがいる。その歳になるまで一体どこで何を学んで来たお方なのであろう。このことは、既にどこかで書いているが、大のオトナがテレビなんかで相も変わらず「愛国心」の必要性、愛国心育成の重要性について激しく主張していたので、唖然としながらまた書く。

一度ならず書いたが、「我を愛せよ」と迫ることで得られることは、「蔑み」や「畏れ」ではあっても、愛ではない。(「哀れみ」くらいはあるかもしれない。)それはどこまで行っても「愛に非ざるもの」なのである。「求めるほどに得られないもの」が他人の心に宿る感情である。後でも書くが、「愛せよ」と求めてくる者たちが本当に求めているのは「愛」ではない。「従順」である。

むしろ、この期に及んで「愛国」の必要性を謳う輩(やから)の本音は、「国家への忠誠」の養成であろう。各人が心でなにを思っていようが「忠誠を示させる」ことはとりあえず強制できる。彼らが「国柄」や「天皇」という特殊なコードでもって今日ふたたび「議論」の対象にしようとしていることの本音は、国家への忠実な従属を行為で示せる人々の育成、すなわち「支配の強化」に他ならない。もっと言えば、戦争するときに命を投げ出すことのできるロボットの作成だ。

もし、「愛国心の必要性」を主張する人間自体が、そうした「国家への忠誠の必要」だということに、気付かずに言っているのだとすれば、それは度し難い愚かさである。

だが、自分の言っていることに気付いていて、主張しているのであれば、そいつは相当な悪党である。愛国を求め、新憲法にさえ滑り込ませようとしている当人たちが、命を賭してでもわれわれの安全を守ろうとか戦争になった時に最前線に身を投げ出すなどという「愛」を発揮して見せてくれることは絶対にないのである。あるいは、彼らは、愛国を憲法に盛り込み戦争を準備することに汲々としても、その動物的な父性・母性愛は、自分の血縁の子供たちを戦場に赴かせることは絶対にしないのである。

一体われわれに「愛」を強制する奴らが、われわれを「愛」したことなどあっただろうか? もちろん否、だ。「愛国」なるものは、弱者の支配強化の別名に他ならず、無条件な従順の強制以外の何ものでもない。われわれを愛することなく、地獄に突き落としてしゃぶりたいだけその生命のエネルギーをしゃぶり尽くす化け物に付けられた甘い名前なのだ。

左右に分かれて議論になっても、親米側も親中側も、反米側も反中側も、「誰でも国を愛していることには違いない」などと立場をまとめに掛かったり、安易な妥協を口にするが、「愛国」という思想そのものの持っている、巨大に閉じられた身内(国内)だけに向かう「愛」というものの持っている欺瞞性を考えたことがあるのか。その危険性を、一度も吟味することも相対化することなく、「やっぱりみんな自分の国が好きだ」というような単純化され、沈思せぬ者どもの共感を容易に集めてしまう論理自体に与する前に、「一体国家とは何であるのか」「国家はこれまでに何をして来たのか」「自分の生まれ故郷、イコール国家(政権)なのか」と一度、自らの胸に聞いてもらいたいのである。

音楽は、叫ばない(それは個人の心に届くもの)

Wednesday, April 27th, 2005

かーっ、感動した! 「パギやん」こと趙博さんの日記(04/24/2005)。ほとんど何も付け加えることがない音楽家/歌謡家/語り部/芸人の言葉。ふと、昨年に観た南アの反アパルトヘイトの音楽家たちをドキュメントした力作“音楽”映画『アマンドラ』を思い出した。パギやん氏曰く、

 野外でやる意味があるのか、6時間という時間の長さは必要なのか?

 なによりも、音楽の質を問いたい、いや、問い合いたいのだ。

 魂が響かない。

 音に酔いしれない。

 アジテーションなら、それに徹すればよい。

 「歌」は、残念ながら生まれていない。

 すてきな人々、すばらしい反戦思想の輝きがあればこそ、

 よけいに僕は問い返したい。「基地はいらない」「基地は作らせない」

 「オジィ・オバァの願いを…」「ジュゴンの海を守れ」

 −−それを何万回連呼しても、歌にはならないのだ。

 何度も言う、俺は歌を聴き、唄を歌いに来たのだ。

 音楽は、時には暴力になる。

 敵を打ち倒す暴力ではなく、味方をめげさせる暴力だ。

 「世界は一つ」「平和な世を」という一般的正義を呈したフレーズは、

 幼稚な旋律に乗れば空虚な呪詛になる。 etc. etc.

アジテーションはアジテーション(それ自体の意味は音楽とは別のもの)。音楽は音楽。歌は歌。それぞれが、それぞれの持ち場や表現手段の役割について自覚的であるかどうか。何ができて何ができないのか。そこに勘違いがないのか? おそらくそれを問うている。ただ、パギヤンの言葉に自分が「感動して」無邪気に喜んでいるだけでは、ダメだ。ボクも音楽をやりまくって、ものを知りまくって、言葉を書きまくって、喋りまくっていくだけだ。安易な共感や同意も要らない。共に闘う勇気ある者、そして魂に響く言葉を投げ返してくれる友だけを求む。

日本の「民度の高さ」に乾杯!

Friday, April 15th, 2005

隣国による反日運動を指して、「やはり民度の低い野蛮な国だ」という発言があった。「やっぱりなぁ、そういう他国のネガで自国の優越を感じてしまうひとが日本にはまだまだいっぱいいるんだろうなぁ」と感じ、実に残念。

どんな理由であるにせよ、実は、こうした考え方が、ある一定の現象から一刀両断に国全体を(あるいは民族全体を)演繹的に判断して済ませるお手軽な思考法の典型である。こういう方々は、おそらく今回の反日運動がなくても、そもそもその隣国に対して既に特定のネガイメージというものを持っていて、それが裏付けられるように思ったので、「反日運動」のような今日的現象を進んで取り上げ、満足げに、独りごちるのである。しかも、「日本では 他国の国旗を燃やしたり 中華料理屋や フランス料理店を襲撃したり」しないというような比較で、その隣国に勝っているとでも思いたげである。

こういう方は、そもそもどうしてそのような反日運動があるのか、というような歴史をさかのぼって検証するというような知的作業には、もとより無関心なのであろう。だいたい、それを始めると自分の後生大事に持っていたい独善的「自慰史観」そのものの根拠が失われるからである。

こういうレベルでの他国との比較や自国優越感が好きな方々は、どうやら日本人は「民度が高い」とさえ思ってらっしゃるのだが、その日本人の「民度」たるや、その実態を知れば目を覆いたくなるほど「お愛でたい」ものである。というより、その「洗練された高い民度」が、ある帝国宗主国への「羊の群れ」のような半世紀年以上に及ぶ絶え間ない隷属と「植民地的被支配」を可能にしてきたのだ(しかもそれを被支配者に気付きさえさせずに)。そして、自民族の危機など、必要が迫っても声も上げず、盗られるだけ盗られてよしとする一方的な宗主国への奉仕は、経済的なことのみならず、これからは人命によっても支払われる、そうした国に日本はなっていくのである(このままでは確実に)。だいたい、在日米軍への「おもいやり予算」で支払われているあの金額は一体何だ? 全く正義のない「イラク戦争」に腰巾着のように進んで加担する日本政府の非人道性は一体どういう「民度」なのだ? そして憲法を無視して「集団的自衛権」だと? それが日本人の「民度」の程度なのだ。

経済的なことだけをとっても、現在進められつつある郵政事業の民営化(すなわち、日本国民の数十年に渡って貯めに貯めてきた老後のための箪笥預金などのリスク化)によって、長銀の米投資ファンドによる「買い叩き」どころのスケールでない途方もない大きさで、あれよあれよという間に米帝国への上納金となるであろう(全く「合法的」な手続きによって!)。そのために、着々と小泉首相や竹中経済財政・郵政民営化担当相は(売国奴とも呼ばれずに)そのプロセスを進めている訳だが、こうした自分たちの財産権や安全権を簡単に国家に譲り渡してしまうような意識の低さが、「日本の民度の高さ」なのである。おめでとう!

石を取って、米国大使館に投げつけるくらいの「民度の低さ」にわれわれはむしろ見習うべきではないのか? なんて言うと、まるで破壊行為にひとをアジっているみたいだが、そんなことを頭の中で想像したくなるほど、日本人の国内政策に対する無関心、そして「従順」が、我が「民度の高さ」を支えているのである。Fuck our mindo!

(more…)

「歴史教科書」に対する批判は内政干渉ではない

Thursday, April 14th, 2005

歴史教科書を巡る論争と言うのは、日本と朝鮮半島、日本と中国の間にだけ存在したものではなくて、第二次大戦を闘ったヨーロッパの戦勝国と敗戦国の間でも真剣な議論となった問題である。だが、例えば大戦中侵略国であったドイツと、それに対する防衛戦を闘ったロシアやその他の東ヨーロッパの各国の間で行われた教科書を巡る意見交換と、日中もしくは日韓の間で行われているやり取りとを比べると、その質は全く異なるものであると言わざるを得ない。

「歴史教科書問題」(高橋哲哉)

自国の歴史をどう捉えるのか、自国の過去の行いをどう受け止めるのか、というデリケートな問題である以上、「他国からの干渉」と思われるような発言に感情的に反応してしまう事情も理解できないことではない。だが、ここで二国間で感情的なことばの応酬をしても、その扱いを間違えれば、単なる感情的対立では済まされない、将来の互いの安全を損なう火種として残ってしまう可能性もある大問題である。

この辺りの、教科書事情というのは、確かに内政の問題として他国の干渉を許すべきでないという、一見正論に見える意見があるものの、実は、他国との関係、すなわち他国間関係と緊密につながりのある、容易に避けて通れない政治的・外交政策上の課題であることに違いはない。「歴史教科書」に限らず、歴史解釈そのものが、隣国には関係がないと言って済まされるほど、単純な問題ではないのである。歴史解釈、ひいては歴史教科書とは、隣国との関係のありかたをどうしたいのか、という国家の方針の反映そのものなのである。

歴史の共有、もしくは「共有への各国の歩み寄り」の努力なしに、明るい国際関係はあり得ない。自国史は自分たちが信じたいように記述し、それを自分たちの子孫に押し付けるというやりかたからでは、他国からの共感も協力も尊敬も得られないのは自明であり、独善的な自国史観の果ては、完全な孤立と対立しかない。

われわれは、自分たちにとって都合の良いことだけを美化して過去の過ちから目をそらす歴史観を(彼らが批判の際によく使う「自虐史観」ならぬ)「自慰史観」と呼ぶことにしよう。そのような自慰行為から抜け出せぬ国家がどうやって他国と成熟した「未来志向」の関係を築いて行けるというのだろう。(アホくさ。)

参考:歴史の共有に向けて

「靖国問題」に対する批判は内政干渉ではない

Wednesday, April 13th, 2005

国家元首による靖国神社参拝に対する批判は、中国のみならず日本国の内外の誰によって成されても可笑しくはないものである。むしろ、「なぜ」そのような批判がなされるのか、という歴史的経緯について、日本国内での知識や認識がなさ過ぎる。靖国の問題は、日本の宗教と政治を分ける政教分離の原則に反する憲法違反であるという重大事さえ含むが、それをとりあえず棚上げしても、そもそも内政云々の問題ではなく、まさに日本の外交政策そのもののもたらした結果と言って良い。よその国の宰相が批判するということを「内政干渉だ」と呼ぶのは、日本の政権やその取り巻きが批判をかわすために採っている常套表現であって、それをわれわれのような一般人が無反省に繰り返すことは、単なる政府の代弁者になっているに過ぎず、自分で考えたり調べたりしてものを言っている態度からはほど遠い。

そもそも、どうして日本の政治家による靖国参拝に対して批判があるのか、ということについて、われわれはどれだけ分かっているのだろうか?

1978年に日中間で締結された「日中平和友好条約」というのがあるが、その際、中国は日本への賠償請求権を放棄し、形式上、「日本の戦争責任がA級戦犯を中心とする一部の人々にあり、日本国民の多くは犠牲者であった」と、いわば大人の解釈をすることを選んでくれているのである。われわれ現代を生きる日本人が、「戦時中の日本国民の多くは犠牲者に過ぎなかった」という考え方をそのまま鵜呑みにすべきかどうかは、また別の課題であるが、とにかく、条約締結当時の中国政府は、先の解釈を以て、中国の内政的には多くの犠牲者やその遺族を抱える中国人民を納得させ(黙らせ)、外交的には以前の加害国たる日本との「前向きで未来志向」の関係を結ぶことを選んだのだ。

しかるに、条約締結国の一方である日本においてはどうか? 単なる一個人としてならまだしも、国家元首たる首相が、公人としてA級戦犯を祭っている日本の戦時体制を象徴する、その靖国神社(私的宗教法人である)に参拝するということは、大人の判断をしたその中国政府の顔に泥を塗るということなのだ。そうした日本の不誠実に対し中国が怒るというのは、至極真っ当なことである。つまり、靖国問題が単なる日本の内政の問題であるというのは、完全な認識不足であって、まったくもって日本の外交政策上の一貫性と節度のなさに帰されるべき問題なのである。

参照:小泉首相に“歴史観”はあるのか(窒素ラヂカルの「正論・暴論」)

われわれは、植民地支配下で抑圧された経験がない。だが、もしわれわれの立場が全く逆で、暴力的かつ抑圧的な植民地支配をされていたとしたらどうだろう。しかもその支配国と抵抗の闘争をし、多くの同胞の血を流したあげく独立を勝ち取った後も、その植民地政策の加害責任を持つ相手国が、戦争に負けた後でも未だにその加害責任について無自覚であるばかりか、その責任者が「神」となって祭られているところに、いまだに現今の元首がお参りをする… こういうことが起きたとしたらどうだろう。そういう態度を、われわれの目には「不誠実であり反省していない」と映るであろうことは想像に難くない。ましてや、友好関係樹立にあたって、われわれが当然持っている賠償請求を取り下げる代わりに、当時の植民地政策の責任者を敬うのは「今後一切止めろ」と求めるのは当然であろう。これは相手の立場に立って考えられるか、というまさに想像力の問題なのである。

加えて、靖国神社は、断じて単なる戦死者を葬っただけの国立の戦没者慰霊設備ではない。もしそういうものであるなら、日本人/外国人/在日外国人を問わず、あるいは空襲によるか戦闘によるかを問わず、戦争が原因で死んだあらゆる人々の霊を慰めるものでなくてはならない。だが、靖国神社はそういうものではなく、特定の信仰を代表する私的一宗教団体で過ぎないばかりでなく、先の日本の戦争を美化し、戦地にて戦死した軍人だけを軍神として祭り上げた上で、日本に戦争責任などはない、などと未だに嘯(うそぶ)いている集団なのである。そして、A級戦犯として裁かれた戦争責任者が、その他の一兵卒として闘って死んだ兵隊と共に合祀されているのである。百歩譲って、私的宗教法人が何を教義にし、何を信じ、どれだけ信者を集めようと、それはその法人の勝手だが、そこに国家元首が私人としてではなく、公人として参拝をするということは、外交問題になって当然なのである。

中国の学生が騒ぎ始めているということには、「靖国」や「教科書問題」だけでなく、いろいろな政治的背景や動機があるだろう。国内問題を外にそらすという意図がないとは言いきれない。だが、問題の本質はそこではない。そのような政治ツールとして学生運動が利用されているとしても、発端となる種をまいたのは他でもない日本なのである。したがって、今後、日本の対応いかんによってはもっと激化してもおかしくはない状況である。おそらく、日本からの明確な返答があるまでは中国が幾度でもこうした「挑発」ともとれる行動に出ても不思議はない。政治問題である以上、中国の政府主導による陰謀や操作があったって不思議はない。だが、それは、お互い様である。

しかし、中国が今どうしているか、ということではなく、日本がこれまで中国に対し、あるいはその他の植民地支配をしたアジアの諸国に対しどれだけ不誠実であったかということが、そもそもの根本原因であるということをわれわれの方が自覚する必要がある。他国の残酷な植民地政策からなんとか逃れた戦勝国なら、当然持っている賠償請求権を、自主的に放棄した中国政府が、それによって友好関係を築こうとした相手国から、なんらの誠実性も納得できる説明も期待できないばかりか、未だに戦争責任者として裁かれた時の指導者を礼拝しているとなれば、最後は「もはや自国民を黙らせている必要がない」と判断したとしても不思議はない。これは、彼らがそれだけ納得できていないし、怒っているというサインを送ってきているということなのだ。怒っている側の主張に耳を傾け、自分たちに何ができるのかを考えることこそが、隣国と争わずに隣人として共存して行く、本当の意味での「未来志向」であるはずなのだ。

全部賛同できる訳ではないけど、まだ、こういう言い方の方が、まだましだとおもうんですよね。

今度はわれわれが「勝ち組」にいられる、と言うつもりか

Wednesday, March 30th, 2005

子供の頃のことだが、戦争の時代に幼少の時代を過ごした両親に、「どうしてお父さんやお母さんは戦争に反対しなかったの?」と訊いたことがある。今から考えれば満足のいく答えではなかったものの、「周囲のみんなが戦争することをいいことだと信じていたし、学校でもそのように先生から四六時中教えられていて、日本の正義を信じ、戦争を支持し、大きくなったら戦争に参加して国家に貢献するんだという考え以外を思いつくことが出来なかった」というようなことを言われた。「じゃあ、お母さんの両親はどうだったの?」と訊いたら、「戦争に負けた時、すごく残念がって怒っていたのを覚えている」と言った。これも答えとしては満足できるものではないが、先の戦争で私の両親の親たち(祖父母の代)が「勝てると思っていたし勝つ気でいた」ことは十分伺える。「勝つ気でいる戦争」であれば、おそらく正しい戦争を闘っているという意識が彼らの世代にあったらしいことも想像できる。

このことからいくつか考えられることがある。われわれの親を育てた上の世代の人たちは本当にどこまで「戦争の正しさ」を信じていたのか、ということがひとつだ。負けたときに見せたという祖母の「悔しさ」からは、戦争の正しさと日本の正義を信じていたように見える。だが、われわれの両親の世代が言うように、彼らを教育した当事者である親の世代が「自分たちの正義」のよりどころにしていた情報や知識というものが、すでに時間をかけた国家的キャンペーンの果てに、報道管制や戦争遂行者や支持者たちによってコントロールされていた(実際にそうだった)としたら、よほどの批評精神というものを伸長させていない限りは、知らされているわずかなこと以外の考えや思想に到達することが出来ない。近代化という明治維新以来の国家的目標を欧州の考えや方法を手本として踏襲していた以上、「植民地を持つこと」の正当性は、ある程度力ある国家にとって当たり前であって疑うべくもない価値観であったかもしれない。だが、そこには支配されるということがどういうことなのか、被支配者側がどのようにそれを感じるのか、という視点や想像力が完全に欠如している。というか、そうした欠如こそが植民地主義(コロニアリズム)を可能にするのだ。

実際問題、学習するほどに、両親の親の世代でも戦争に抵抗する論陣を張ったり活動した勇気あるひとびとが一部にはいたし、拷問の上殺された非協力者もいた。大正時代にはデモクラシーの思想的運動が席巻したことさえある以上、「知りようがなかったし、仕方がなかった」という、その後の時代の「捉え方」が完全であるとは思えないが、ほとんどマジョリティと呼ばれる大多数の人々が、当時の政治や軍部を疑わなかったとすれば、情報統制は相当に成功していたことも確かだ。だが、騙されたと言って自己免責をどこまで認めるかというのは別の問うべき問題なのだ。

翻って、われわれはまだまだその気になればいろいろなことを知りうる立場にいる。例えば、与党が提出する新しい法案等がそうだ。それに間違った政策やわれわれを暴力に駆り立てうる思想に反対を表明することも出来るし、また過去の国家的な暴力的行為をあえて肯定しない態度を採ることも出来る。

問題は、現在、子供を育てる親の世代になっているわれわれが、子の世代に何をして何を伝えるのか、ということである。われわれの親の世代が少なからず(加害国内での)戦争犠牲者であったし、周囲に戦火と災禍を広げたのに、われわれは再びやってくる「今日の戦争」の危機にどう対応したのか、ということが未来に問われる。悲惨を巻き起こした到底一方的に主張できない「戦争の正義」や、それへの消極的/積極的加担へと頽落していくとき、「お父さん、お母さんたちはそのとき一体何をしていたの?」と子たちに問われるのである。実際われわれは、自分たちがまずい方向に向かっていることに、実はほとんど自覚的ではないのか? 「仕事で忙しかった」とか「あなたを育てるのに忙しかった」とでも言うのだろうか? その「忙しかった」ことが、育てた子供を戦場に駆り立てたり、われわれ自身を空襲(今風にいえば「空爆」)の危機にさらす「時流」そのものをサポートしていたということに後から気付いて嘆くのか? そして今後起こっても不思議はない国の内外で個人に対して生じるあらゆる種類の悲劇について、かつての世代が「(独走した)軍部のせい」にして、“知らなかった”自分たちを「どうしようもなかった」と免罪して済ませようというのだろうか? だが、それは実際に正直とは言えないだろう。

60年前の戦争についても、「日本だって他の西欧列強と同じことをしただけなんだから俺たちだけが悪かった訳ではない」と言いたい人が今でもゴマンといるようだが、でもそうしたことを後世に伝えるのか? それとも、旧日本軍や財界が朝鮮半島や満州でしたことは、西欧列強の植民地主義と(その植民地政策による後遺症で今日も苦しむ)多くの新たな独立国がかつて体験したこと、現在でもし続けていることと同じものをアジアにもたらしたのだし、支配者側に都合の良い独善的な差別感情や自国民の一方的な優越観が支えた思想の結果だった、ということを正直に伝えるのか? こういう、選択の時期に来ているのである。

帝国アメリカ合州国がやっているというイラク戦争に対して、心情的に「不支持」であっても、過去の日本国民の所業が清算されていないということに無知であれば、結局われわれはまたしても清算しきれない負の遺産を子孫たちに残す側に再び立つだけなのである。

いまこそ、われわれの話す勇気が試されているのである。そして最後のチャンスをどう生かすかという一か八かの勝負が提示されているのである。

個人情報保護法は、明日から施行される。「人権擁護法」というメディア規制法もそこまで来ている。教育基本法の改悪も予定されていて、その後は憲法改正だ。今声を上げて子供たちを守ろうとせずに、一体いつ「羊たちの沈黙」を破れるというのでしょう? 羊さんたち!

うそまみれのニッポン3

Sunday, March 27th, 2005

キャッシュカードを持っている人なら、ここ1月くらいの間に大抵の方々が銀行から「キャッシュカード限度額設定届けのご案内」みたいなDMを受け取っているだろう。そして、それに先立って「ある特定国」からやってきてカード偽造を組織的にやっているらしい「窃盗団」への警戒を促すメディアの過熱的な報道も見聞きしているだろう。「キャッシュカードが危ない。磁気式のカードは簡単にコピーできる。ICカードへの切り替えが急務だ。」こんな報道は、ひと月ほど前まではもっとも熱いニュースだった。

「限度額設定」というのは、面白いことに銀行からの一方的な通達でない、ということが実に注目に値する。つまり、カードを使っての自分の預金からの現金下ろしの額について、“銀行預金者であるわれわれが「自発的」に上限を設ける”という気の利いた手続きを採らせているのである。銀行が、預金者の1回に下ろせる現金の上限を決めるのではなく、預金者自身にその設定を「迫って」来ているのである。自己責任で。そして、一連の「キャッシュカードが危ない」という危機意識を煽る報道の波に乗って。

だが、ちょっと考えみれば分かることだが、銀行から下ろせるキャッシュの上限を設けたら、それは、本当に大金を必要とする事態が起きた時に困るのは、預金者自身である。たとえば、銀行が破綻してみるとしよう。そのときに起こることは、自分の設定した「上限」の為に、「自らが自らのために預けた自分自身のお金」を、自分の自由に下ろせなくなるという事態である。「取り付け騒ぎ」が起こった時に預金者が銀行に殺到しても、「お客様自身が設定した利用限度額」の契約のために、「これ以上、今日はお返しする訳には参りません」ということが起こる訳である。クレバーだね。

生涯遭ったこともないし多分遭うこともない「カード偽造団」への警戒心を煽って、「ご利用限度額」を自ら低めに設定した、銀行のお客様たちは、いざという時に、自分のお金を下ろすことができない訳です。それも自発的に設定した限度額のために。

だいたい、腹が立つのは、「ご利用限度額」という言い草である。われわれの稼ぎは、「給与振込」と「源泉徴収による税金支払い」の抱き合わせという世にも希なる不可思議な銀行都合の制度でもって、われわれのなけなしの稼ぎを根こそぎ「投資」させられているのであって、その給与をほとんど無条件に「ご利用」しているのは銀行であって、自分で稼いだ金を自分の好きな時に使うことを「ご利用」とは何事だろう、と思う。

いままでだって銀行からの「ご親切」は、われわれ預金者の利便のためだったことは一度もなく、無条件に巻き上げた人の現金の上にあぐらをかいている銀行のためだった訳だが、この「ご利用限度額設定」という「ご親切」も、そうしたことにオブラートを着せてわれわれを騙すだけの「ウソまみれのニッポン」の一例に過ぎないんじゃないだろうか?

うそまみれのニッポン2

Saturday, March 26th, 2005

もう一つの嘘。「ペイオフ解禁」という新聞や雑誌や広告でばんばん出てきている表現だって、陰謀臭い。だいたい「ペイオフ解禁」という言葉から、それの意味が理解できる人がどれだけいるんだろう? 「ニジマスの解禁」じゃあるまいし、「解禁」などというと、まるでわれわれ生活者にとって「得な」ことが起ころうとしているような印象があるじゃないか。だが、その実態は、単に、銀行はこれまであったような預金の保証をしなくても良いという、全然われわれにとって得でもなんでもない話だ。解禁って誰にとって得な「解禁」なんだよ。

3/22の新聞に載った政府公報。これがまさに「すべて本当」のことが書いてあるが、本当のことはできるだけ分からないようになっている。

政府公報「四月からペイオフ解禁!」

金融機関・農漁協等の預貯金は、預金(貯金)保険制度で守られています。ペイオフ解禁後は、全額保護される「決済用預金・貯金」以外の預貯金については、一千万までの元本とその利息等が保護されます

だと。「いっせんまんえん」なんて拝んだこともない額だからオレたちには関係ないって? そうかもしれない…。でも、これはわれわれのご先祖さんたちや両親には十分に関係のあることだし、もしあなたが相続を期待している「パラサイト系(及びその予備軍)」なら、ものすごく重要なことだぜ。この広告のトーンアンドマナーでは、まるで「保護される、だから安心でしょ」という風にミスリードしているとしか思えないじゃないの。これが政府公報が新聞にどうどうと打った広告である。「保護される」じゃなくて、「(わるいけど)一千万円までの元本とその利息等しか保護されません」でしょ。「これまでは保険制度で全額守られてきました。でも今後は銀行を保護するために、あなた方が血の滲むような思いで老後に備えて貯めてきたお金は保護されませんよ」というのが、真相でしょ。「あなた方の今までしてきた苦労は報われません。銀行(や郵便貯金)に貯めてきたお金が、破綻によって回収できなくなっても、「自己責任」です、と、われわれの最低限の生活を保障するべき政府が、その権力者としての義務を果たせません、放棄しました、と言ってきている訳ですよ。

「ペイオフカイキン」って何だって外国人に訊かれる。それって英語で訳すときは、「the end of the guarantee of full bank savings deposits」とか「removal of the full deposit guarantee」ってなるわけです。つまり、「普通預金の全額保証の終わり」「全預金額保証の撤廃」って言う意味です。これならその言葉の意味する本質が分かる。

それでも、こんな嘘だらけの「この国」に忠誠を誓う価値や意味があると、あなたはお思いですか? 郵貯がアメリカの投資ファンドにただ同然で買い叩かれて泣くのは、一体誰ですか? 

うそまみれのニッポン

Friday, March 25th, 2005

それらの名称だけから言うと、「個人情報保護法」には、「個人情報の保護」という一般生活者の権利保護という名目があり、「人権擁護法」には、一般生活者をメディアの餌食から守るという立派な名目がある。そして、ついにやってくる(かも知れない)「国民投票法(案)」には、国民が憲法改正などに関して直接投票できますよ、という印象を与えるものである。どれも、一般生活者の視点から彼らの権利を守るモノだと言わんばかりの名称と名目である。だがどれも嘘ばかりの悪法だ。

「個人情報保護」というのは名ばかりで、その法の遵守を迫る人々の本当の関心は、企業の機密情報管理だ。個人情報の保護という目的領域から完全に逸脱した拡大解釈もいいところだ。企業のための企業による企業人の管理を正当化するための「口実」にすぎないことが明らかになりつつある(だが、考えてもみよ、企業人だって家に帰ればただの生活者だ)。つまり、メディア規制の別働隊だ。「人権擁護」なんかに関して言えば、メディア規制が主たる目的にすぎない。そして「国民投票法」なんかは、投票権を下々の者に与える風を装って、その実、メディアには「何人も、国民投票の結果に影響を及ぼす目的をもって、新聞紙又は雑誌に対する編集その他経営上の特殊の地位を利用して、当該新聞紙又は雑誌に国民投票に関する報道及び評論を掲載し、又は掲載させることができない」(罰則は2年以下の禁固刑!)って一体全体何だよ。こんな乱暴なことを自民党は通そうとしているのか! そうなったら、「ものすごい数の人々」が読みにきている私のサイト!では、もし投票の結果に影響を及ぼす目的もって発言をしたら、タイホされる、なんて日も来るかもしれない訳だ。雑誌でも新聞でもないから大丈夫だって?(そう考えたあなたは「愛でたい」。)

これは、一体どういうことなのか? われわれの向かっている道というのはまさに闇ではないかの? だが、一体どれだけの人々が自分たちの問題として、こうしたことに関心を持って調べたり、話したり、耳を傾けたり、必要によっては声を上げたりしているだろうか? 

(孤独な戦いになりそうですよ。なんかあったら骨でも拾ってやって下さい。)

Suginami Trench

Thursday, March 24th, 2005

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オレの一日は大変だった。でもまだ一日が終わらないで、塹壕のような湿った溝の中を這い回ってボクたちに水を供給する仕事をしている人がいた。「あと、2時間ばかり」掛かるそうである。寝室の下で、工事のポンプの重低音が鳴り響く。午前1時に。