Archive for January, 2005

& aspects & vol. 1/3 に出演して

Tuesday, January 11th, 2005

河合拓始さんの主催する& aspects & vol. 1/3に出演。河合さんのイベントに参加するのはこれで3度目。最初は吹奏楽器とトリオ、二度目はピアノの3人連弾。そして吹奏楽器四重奏が今度のもの。一度目のトリオに4人目のバスクラリネットが加わったもの。

しかし単に一人分楽器が増えたというような単純なものじゃないのは音楽の世界の常である。一人が増えれば音は一つ分増える訳だが残の3人にも影響を与えるので、変化の量は3倍だと思えるほどである。もちろんそんなに算術的に計算できるようなものではないが。

今回加わった花島さんによって、aspects Bは、前回と比べてずいぶん違った内容になったことは確かだ。彼の登場によって、河合さんの作曲の方法がやや変わった。実は一番大きな変化はその「作風」への影響であったかもしれない。即興パートが増え、特にそれの花島さんへの配分が大きかった。

前回、和声というか和音の作り出す音のゆっくりした歩みというのは、やや影を潜めた。第1曲では、前回にあったようなロングトーンを主たる演奏手法としたものではあったが、全面的にその手法によって曲を伸展させた1曲40分に及ぶ1回目の大曲とは当然のことながら異なる結果が生み出された。短いだけに演奏するものからすれば時間による制限がより強く感じられるものだったように感じる。第2曲は、音の相対的な長さとおおよその高低だけが決められた「半譜面」のようなものを利用した「楽曲」である。もっとも作曲を強く感じさせるものであったかもしれない。少なくとも聴いている人にとっては。そのかろうじて決められている相対的な「音の長さ」は、最初4人が殆ど同じ縦の線で動いているように見えて、曲が(というより時間が)進行していくに従ってだんだん縦のつながりを失っていき、それぞれの楽器が勝手に演奏しているようにしか見えないようなカタチへと移行していく。「譜面」を見るとその「逸脱」していく筋書きを書いている河合さんが、楽しんで企図したであろうことが伺えて面白いのである。だが、なによりも面白いのは「逸脱」が生じてから、自分の譜面を追いかけようとしすればするほど、他の人が何をやっているのかを把握できなくなるような譜読みの難しさがある。ランドマークのような他人の音が明確にない(あっても急に渡された譜面なので分からない)ため、他の人を注意し聴こうとすると、指定された音の高低の中でどのような即興をやれば良いのかに俄然気が回らなくなると言う矛盾が仕組んである。当然、譜面上の「縦線からの逸脱」は、演奏者の「譜面からの逸脱」とそれを何食わぬ顔をして譜面を追い続けている「振り」をすると言う「芝居」が発生する。どこまでそれを企図したのやら。企図したんじゃなかったら、ゴメンなさい、河合さん!

第3曲は第1曲にあったようなロングトーン、ロングトーンを短く切ったように奏する同音程スタッカート、そして、楽器に吹き込む風切り音だけを「吹奏」する部分、そして「ほぼ自由即興」などのもっともバリエーションに富むセクションを含む、いわば、今回の「まとめ」のような「楽曲」。しかもその楽器配置はソロやデュオやトリオの状態が公平に生じるようにということに特に留意して企てられたもののように思えた。ここで、花島さんがソロイストとして捉えようという河合さんの配慮を感じた。そして、狩俣さんは相変わらず、非常に水際立ったひらめきとロマン派を感じさせる熱い即興を聴かせてくれた。

自分に取って難しかったのは、前回よりもマイクによる集音に依存したかに思える音響設定(おそらく意図したというよりは、そうなってしまった)のため、河合さんのピアニカの生の音を捉えがたく、自分の音色や音量を以前のように彼の音に親和させるというライヴ中の工夫があまり生かせないように思えたこと。チューニングを最初にやらなかったせいだろうが、狩俣さんのフルートと音程が取りづらかったことなどもある。これは正直かなりつらかった。私のオーボエの音程が高くなりがちなのはあるが、狩俣さんの音程が相対的に低く感じられた。やはり、基本的なチューニングはカタチだけでもやっておくと、仮に音程を完全にできなくても、始まって泡食うことがないのである。これは反省である。オーボエ奏者なんだから、せめて河合さんに最初に促しておくんだった。

いずれにしても、今回の参加によって得るところは実は多かった。それは、もちろん作り上げた音楽自体のことでもあるのだが、花島さんと知り合ったことも大きいのだ(それは、翌週のもんじゅ連[27]ライヴのときにより痛感することではあるが)。木管楽器奏者というのは、いそうでなかなかこの世界にはいないのである。木の音を感じさせるバスクラの響きを再発見したというのは大きいが、アドリブをどうやって組み立てるのか、というところにも学ぶところが多かった。そして、高ぶらない誠実な人柄にも救われたのである。

とにかく、こうした機会をまわしてくれた河合さんには感謝なのである。

第8回「風の、かたらい」

Sunday, January 9th, 2005

石内矢巳の主催する詩の朗読と器楽即興を中心としたパフォーマンスあり。今年最初のライヴにふさわしい楽しい展開。主催者の石内さんはビジネスで不在であったが、皆の機転と、そして何よりも彼の一任した松田景子さんの「しきり」によって、難局を乗り切る。彼女には感謝。

出演者はいつものように多様にして多彩。前日に別用で電話連絡のあった黒井絹さんに助っ人を頼んだら快諾。電気ギターを持って駆けつけてくれる(そしてレギュラー出演者よりも早く現場で待機してくれていた)。ラッパの斉藤剛さんにも声を掛けたところ、顔を出してくれる。実に、頼もしい人々なのである。あとは、レギュラー出演者の小川圭一さん、永山、松田景子さん、えみゅさん、佐野さん、そして第3部に遅れて登場した廃人餓号さん(即興俳句、声)。

全体を三部に分けることにした。(以下敬称略)最初のセットで、小川+黒井+ナ カ ミ ゾ のトリオで始める。思いのほか、というか、推して知るべしというか、よく「合う」3人なのである。それを好しとすべきなのかどうかは、人のテイストにもよるだろうが、黒井さんと自分はかなり満足ができたのである。そのトリオに松田、永山の2人が機を逃さずに登場。

第2部は永山のプロットによる「朗読プレイ」。あらかじめ用意しておいた朗読用のテキストを永山+えみゅ+ナ カ ミ ゾ の3人で同時に読み始めるという一見ナンセンスな試み。テキスト朗読の即興性と偶然性を味わうという至ってシンプルなアイデアなのであるが、それを石内さん不在を良いことに試してみる。5人のヴォイス集団、「空・調・音・界」以来の試み。永山はこれが実に好きなのである。鑑賞者側にいた佐野さんは、実に率直かつ批判精神に富んだ反応を客席からしてくれて、正直なかなかつらいところではあったが、永山が演者側に招き寄せることでなんとかやり過ごす。その後は、小川さんがサックスで入り込んできたことをきっかけに、器楽即興の世界になし崩し的に突入。景子さんの朗読が始まると、フロアタムとシンバルを叩いてみようと思い、それを実行。

第3部は、やや演奏し過ぎのきらいを感じた自分は、聴く側に回る。最後はアルメニアのダブルリード楽器のduduk演奏を結局してしまったが、ピアノに切り替えて曲を終わらせてしまった。これには小川さんはやや不満のご様子だったが、時間的にはちょうど良かったのである(などと言えば、暴言かな)。

ライヴ後は、青梅街道沿いの中華料理店の二階に、餓号さん、黒井さん、えみゅさん、永山、そして自分の5人で打ち上げ。打ち上げの集まりとしては5人は少ないが、ここではまた、黒井さんと餓号さんが中心になって、「癒し系」「ニューエージ系」など音楽のジャンル談義が始まってしまった。究極的には、「カテゴリー」は各人の解釈の問題であり、解釈者の主観を如何に面白く、説得力あるカタチの器に盛るか、のハナシでしかない。それはそれで悪くはないが、いくら解釈してみても、音楽のあるがままの実態は、あるがままのものとして存在する。それは、何をどう捉え、位置づけたいか、享受者の希望を反映したものにすぎず、実態を把握することとは別問題なのである。

ニューエージと呼ばれて、嬉しい人がいないと言ことう(私の主張)が、いわゆる、後になって「ニューエージ」と呼ばれる音楽カテゴリーの、もっとも端的に現れる「本質」の一つだと自分は考えるが、それはなかなか分かってもらえない。第三者が名前を与えるカテゴリーから、実は、あらゆる創作者は逃れようとするものなのである。それは「ニューエージ」だけの話ではなく、「ジャズ」から逃れる、「ヒュージョン」から逃れる、「ロック」から逃れる、という感じで、名前の数だけ、われわれが逃れてきたいカテゴリーがある。「あんたの音楽はニューエージミュージックだ」と呼ばれて喜ぶ音楽家を、私の前に連れてきてもらいたいもんである。

それは、「癒し」の商品化に伴って、ビジネス上の便宜で付けられたというのが、おそらく真相だろうし、それをわれわれ鑑賞者が正面切ってそれを真に受ける必要などないのである。

それにしても、「ニューエージ」への分類というのは、実に悪意に満ちている(というのが言い過ぎであれば、「否定的感情と結びついている」)典型的分類だと思う。

During these new year days

Tuesday, January 4th, 2005

この正月休みにあったこと。

忙しければなおさら書けない、という典型的状況...と思いきや、大したこともせずに時が過ぎ去ってしまった。やったことと言えば、iDVDやらToast 6を試験運用してDV映像の「取り込み」とそれの「DVD化」がうまくいくかどうかの「気の長い」「気の遠くなる」ような作業とbaby-sittingである。そうしたことの合間に、以下のようなことがあった。

年末に観たビデオ作品。

『昭和残侠伝3 一匹狼』監:佐伯清(3作目ということもあるのか、これまでのテンションから言うとやや緩い。高倉と池部良の出会いにもあまり緊迫感がない。)

『日本侠客伝4 血斗神田祭り』監:マキノ雅弘(野際陽子が登場し、かわいい女を演じるのが珍しい。)

『総長賭博』監:山下耕作(仁侠映画の中でも「博徒」だけを中心に、ヤクザ一家の分裂と「兄弟」間の不条理を描ききる異色の作品。)

1/1(土)

実家へ。夕方6時頃到着。姉夫婦と下の甥っ子の3人と合流。甥の長男は高校生で、こういうところにはいよいよ顔を出さなくなった。それにしても、久しぶりの姉弟・親子一緒の夕食。父の撮った写真のスライドショー鑑賞をテレビで。もちろん花ばかりの画像。持って帰るために、いくつかの画像を持ってきていたPBG4に取り込む。一緒に持参していたAirMac Expressを父の家庭内LANに接続して実験すると、そのままネットをワイヤレスで「間借り」できることがわかった。これは便利。

1/2(日)

一泊して翌日午後に帰宅。仁侠映画をビデオで観る。

『緋牡丹博徒3 花札勝負』監:加藤泰 名作。

『昭和残侠伝4 血染の唐獅子』監:マキノ雅弘

1/3(月)

午後から神田川沿いを浜田山の天満宮まで歩く。ビデオ撮影。MさんとCさんの二人と浜田山の珈琲館で待ち合わせ。浜田山駅踏切近くの酒屋・伊勢屋で日本酒(牧水)を仕入れ、四人で我が家へ。燗を付け、おおいに飲み、食べ、よる9時頃まで楽しむ。自分は断酒解禁を謳歌する。

「マルクスを再読する」を巡り、話に花が咲く。さすがに酔ったが、本書の結論、「市民社会そのものの否定」に対して、むしろ「その緩やかな解体」と「ダメージ最小限化」のための処方箋として、ボクは「減価する貨幣が有効」という持論に結びつける。Cさんの「減価する貨幣」への批判(そのような貨幣は誰かがババを引く、あるいは時の権力が黙っていない論)は、予想できたものであるし、気持ちはわかるが、反論可能だと考えている。むしろ、現代社会を支える「プラス金利」を生む貨幣こそ、世の中に「ババを引く」人々をこしらえるのだ。だが、そこへどのように話を持っていくのか、というのは酔った頭ではうまく説明ができず、フラストレーションを感じる。酔った頭でも理路整然と持論を展開できるだけの理論強化が必要と実感。

1/4(火)

正月休み最終日。あっという間に終わってしまった休暇。買い物に出ようと思ったが、夕方近くになって久我山まで散歩がてら夕食の買い出しをすることでお茶を濁す。目当ては自家解体をしている鶏肉屋である。価格はスーパーより安いのに遥かに質のいいものがある。

久我山の駅は、駅ビルを造っているようで雑然としている。完成すれば、「急行の停まる駅」にふさわしい、線路の両側から踏切を渡らずに出られる構造になるのだろう。ピーコックの品揃えはさすがにスーパーが一つしかない富士見ヶ丘のSEIYUよりは全然マトモである。街にスーパーが一つしかないのは寡占市場になるので問題なのである。その点、久我山には競争の原理が働いている。

Playing Numbers

Sunday, January 2nd, 2005


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