Archive for the ‘Politics!’ Category

いよいよ始まったぞ、電話加入権集団訴訟!

Thursday, June 1st, 2006

「電話加入権の引き下げで損害を受けた」–NTTと国を相手に集団提訴

電話加入権集団訴訟参加のお誘い

「加入権」とか言って支払いを強制されたのに、電話解約の時には払い戻しがないのは、一方的で変な話だとは思っていたんだよ。だからNTT回線を使わない今でも、じっと解約しないで持っていた。きっとこの時を待っていたんだよ。参加するゾ、集団訴訟!

ボクたちの「覗く」権利

Friday, August 26th, 2005

時間のない方のための

ショートバージョン(笑えます)


巨大文字の上をクリックしてください。スライドショウが始まります。

朝家を出る直前に、ワイドーショー的なテレビ番組を垣間観た。所詮、三面記事的「ニュース」を垂れ流し、似非評論家がとるに足らぬコメントを吐くという下らない番組だと言ってしまえばそれまでだ。だが、今朝たまたま観た番組の特集は「盗撮」を巡るもの。湘南かどこだかの海岸に「盗撮」だけを目的に現れる男たちが、海岸で遊ぶ水着姿の女性たちを携帯付属のカメラやビデオカメラを使って撮影してその映像(画像)を持って帰ると言う。そしてそういうことはケシカランということで、海のセーフガードたちが自主的な「取り締まり」をしているらしい。しかもこの“自主警護団”は「盗撮画像を提出しなければ警察に通報するぞ、二度とするな」という警告や指導をしている。こうして撮影された女性たちの映像は、違法な覗き映像のビデオやDVDとして違法プロダクションとの間で取引されたりする場合もあると言う(一部は確かに本当かもしれないが)。本番組では「自主的取り締まり」や「取り調べ」の映像や、盗撮する男性の隠しカメラによる映像などが、モザイク処理の上テレビに流された。また、水着姿でくつろぐ女性たちの「そういう人たちの行動は絶対いや!」というインタビュー映像なども紹介された。

最後に、司会進行者や評論家の集まるスタジオでの生放送映像に戻った。曰く、こうした「盗撮」を取り締まるための法律はなく、かろうじて自治体などで制定した禁止条例などで注意・指導することができる程度であるということで、つまり罰則はない。また、「盗撮取り締まり」の法律の早急な制定が望まれる、というような優等生的かつ予定調和的なコメント(宮崎哲弥)などで締めくくられたようだ(全部は見られなかった)。

この「盗撮」を巡ってはいくつかの想定できる議論がある。

被写体本人の意向を無視して映像/画像撮影、そしてそれらの取引が行なわれるということ自体は、当然非難されて然るべきかもしれない。これについては議論を単純化するために、いったん便宜的な前提としてもよい。

しかし、敢えて言うが、「女性の盗撮 = 悪」という、いかにも誰もが無条件的に不快を表し、「取り締まり」に賛同するというような分かりやすい文脈をもって「盗撮 = 悪」という図式が既成事実化されてしまって良いものなのだろうか? 筆者はここに非常に危うい「悪 = 取り締まり対象」という安易な法至上の論理を見出す。そもそも「本人の承諾を得て行なわれる撮影」というのは、どこまで実質的に可能なのであろうか? 

ちょっと考えてみても、たとえば、海岸で遊んでいる男女が互いにカメラで撮影するときに、背景に入ってくる無数の水着姿の「内輪でない人たち」をすべて画面から排除することは不可能である。それでは、彼らは撮影機器を持って海岸に来ること自体が許されないのか。そういうことではあるまい。もし「取り締まり」を徹底するなら、それをしなければ完全実施はできない。ということは、カメラの海岸への持ち込み自体は制限できないことになる。となれば「悪しき意図」をもった撮影と「良心的意図」をもった撮影の両者をどうやって区別する必要があるが、いかにしてそれは可能なのか? 服を着たまま海水浴場に入ってくる男性は、すべて「盗撮」目的なのか?

翻って、NHKの夜7時のニュースなどで挿入される「今の渋谷の映像」などは、いつカメラの前を横切るか分からないあのような不特定多数の人々に、いかにして「映像使用の許可」を得ることができるというのだろう(できやしないし、していない)。あれは、私に言わせれば公共のお金と電波を使った立派な「盗撮」である。あの時刻、あの場所にいてはならない事情をもった人が、あのカメラによって捉えられ、本人の承諾を得ずに全国に垂れ流されてトラブルになったというケースはないと言えるのだろうか? それは誰がどこにいようと自由であって、それを秘密にすることも自由であるという個人の持つ当然のプライヴァシー権の侵害ではないのか? 

あるいは、いわゆるジャーナリズム全般はどうなるのであろうか? 政治家と財界の癒着を暴くようなスクープ映像、あるいは戦場における軍の卑劣な行為を、いったいどの報道メディアが「本人の承諾」を得た上で撮影する(あるいは、しなければならない)というのだろう? もちろん、単なる下らないゴシップ記事を紹介して読者の覗き趣味を満足させるような下世話な「ジャーナリズム」もあろうが、政治スキャンダルというのは、一般の選挙権を持った人々に知らしむべき重大ニュースである。このような報道に、被写体になった本人の「肖像権」や「承諾権」というものが認められて良いはずがない。

筆者が断るまでもなく、「盗撮」というのは、ジャーナリストが確保していなければならない闘うための戦術のひとつである。しかるに、今朝の番組の意図は、「覗き」や「盗撮」はいけない、「だから取り締まりを強化せよ」という方向に安易な世論を誘導するものである。番組の意図は、「あらゆる盗撮の取り締まり」というような長期的視野まで持っていたのかどうかは分からない。だが、そのための布石にひとつなのではないかとまで「穿ちたくなる」ような内容であった。つまり、「正義の人代表」を誇らしげに演じる司会者や評論家やタレントたちが、その果てにある未来まで想像することなく、そうした悪しき布石を打っていくのである。

さて、法的に何らの権限も持たない海岸の屈強なセーフガードたちが自主的に行なっている「取り締まり」や「取り調べ」は、まさに「盗撮の取り締まり」が法的に可能になったときに警察などによって堂々と行なわれるであろう状況を先取りして象徴している。「盗撮」がバレた人は、強制的な同行を求められ、カメラを没収され、そのカメラに収められた映像の提供と破棄を求められる(番組で実写紹介された)。あの海岸で実際に盗撮をしていた連中でも気の弱い人たちは、大して抵抗らしい抵抗も見せず、逃げずに「取調室」に赴き、そこで強く求められるに応じて写真画像を提出する(これは本当にヤラセではないのか)。そして、「もう二度と致しませんから、今日は勘弁して下さい」と言って、その場を許してもらう訳だ。だが、カメラに収められている映像の提出を言下に断る人もいる。彼らは実際に盗撮をしていても、それが違法行為ではなくて、単なる「迷惑行為」に過ぎないことを承知しているから、絶対に自主的に提出などしない。

はたして「盗撮の被害やその深刻さ」を視聴者に訴える状況として、裸に近い男女が互いに視たり視られたりすることが前提である海水浴場という場が、そもそも適当なのであろうか? 彼らは互いに記念撮影したりはしないのだろうか? 当然多くのグループがしているはずである。これは所有者が決まっているプライヴェート・ビーチでもない公共の海水浴場における話である。そして、そもそも「視られる」ということに関して、肉眼でリアルタイムで視られることと、ファインダーやモニター画像を通して視られることと、彼ら水着を晒す若者達にとってどの程度の違いがあるというのであろうか?(不穏当な発言は承知だ)。もっと言えば、いったい、視る異性が誰一人としていない「女性専用車両」のような海水浴場があったとして、どれだけの若者がその海岸に魅力を感じるのであろうか?(もちろん、プライヴェートビーチにそういう類の「海岸」があったっていいのであるが。)確かに、これは「海水浴場で盗撮があり得るのか」という前提を問う議論になってしまうのは分かっている。

話が逸れた。

われわれは「盗撮取り締まり」の法律によって、当然持つべき自分たちを守るための方法や手段(権力の腐敗を監視したり知る権利)の放棄をしてはならない。われわれは、覗かれ取り締まられるばかりの「対象」ではない。我々は権力の乱用を監視する(覗く)側でもあり、そのための手段を維持しなければならない。それをくだらない「性的」画像の盗撮のために、権力者に売り渡してはならないのだ。女性の水着姿を盗撮させないための別の方策か、そのような事態が「ある程度は不可抗力である」ことを我々は知るべきなのである。

郵政民営化と「テロ」

Tuesday, August 9th, 2005

組員(国民)の最低限の安全と生活を保証するのが「ヤクザの親分」としての権力の役割だとすれば、組員を世間の厳しい競争原理に晒すことは、親分としての義務の放棄である。親分が、「もっと大きなマフィアが海外から攻めてくる。悪いが自分たちだけでなんとか生きていってくれ」と言い、それだけならまだしも、これまで組員が苦労して集めた資金を「攻めて来るマフィアに渡すが文句を言うな」と言えば、それは詐欺も同然の無責任/腰砕けなのである。そんな親分はさっさと首を取った方がいい。たとえ話だが、日本国政府による郵政民営化というのは、要するにそういう「親分」たる権力家の義務放棄に相当する。

自由主義経済の競争原理が必ずしも生活する人の「ため」にならないことは、すでにカリフォルニアでの電力の自由化ほか諸々の例によっても証明済みである。カ州においては電気の供給が滞ったのである。そのようなことは、郵政の民営化によって今後起こってくる。しかし、郵政三事業民営化というのはそのような「民間でできることは民間で」というようなことだけで収まらない問題を含んでいる。国の権威を利用したシステムによってこれまでに築き上げた(吸い上げて来た)国民の生活資金の保護という義務を、今度は国の都合によってそうやすやすと放棄していいのか、という議論に尽きるのである。「民営化による小さな政府の実現」など差し障りのいいコピーに過ぎず、状況が変われば幾らでも「大きな政府」へ舵取りを変えることを厭わない連中である。信用してはいけない。「小さな政府の実現」など、本気で考えているはずがない。

これまでの亀井静香氏の恫喝的な物言いなどイケ好かない部分も多々あるものの、今回の郵政三事業民営化法案への反対表明に限っては終始一貫した論理と呼べるものがあった。そして、今回のこの法案の持っている意味の核心を突いた意見を直截に述べている。

「350兆の膨大な国民資産を昨年12月のアメリカ国務省の郵政民営化を求める対日要求に応え、民間金融機関に流れ込むようにして外資が圧倒的にこれを飲み込んでいった場合、日本経済に与える影響は決定的にマイナスである。」

ここで書かれているように、郵政三事業民営化の計画など、竹中平蔵郵政民営化担当大臣を始めとする、アメリカからの「対日要求」に応えようという「属国の典型的な考え」にのっとったものに過ぎない。国民のなけなしの金を危険に曝すことが「国益」と言うなら、その根拠を隠し立てせずに国民に問うべきなのだ。それが「日本の安全保障」のために必要だと本当に信じているのなら、一体どのような恫喝を日本国政府が受けているのかを公開すべきである。その上で、日本が依然として属国であることが良いという国民の総意を得るならば、それが日本人の生きる道ということだ。

郵政民営化は、「民間でできることは民間で」という、まったく説明責任も果たさず、論理的でもなく、単にスローガンを繰り返すだけの、将来に禍根を残す悪法であって、実現されてはならない、そして阻止可能な「国家の過失」である。この法案自体は、単なる「郵便」事業の民営化というものとは全く異なる意味を持っている。これは国民のひとりひとりに大きな影響を持つという意味で、「国鉄の民営化」よりも、また別の、破格に大きな意味を持っているとさえ言えるかもしれない。

「郵便局」などの事業の民営化では「サービスを受けられなくなる地方が出てくるからダメだ」とか、「そんな地方無視はあり得ない」、とか「そういう不便が起こらない方策が民営化の方法の中にはある」いうような窓口業務についての争点で語られがちだが、その議論は、その法案の更に大きな目的を曖昧にする隠れ蓑に過ぎず、その法案の核心とは、日本人が働いて貯めてきた「お金」のリスク化ということに尽きる。

「郵便貯金が安全でなくなったら、預金を別の銀行に移せばいい」というような呑気な話ではない。他の銀行は、もっと早い時点で「リスク化」されているのだ。「ペイオフ解禁」という訳の分からない名称によって。つまり、金融機関に預けられているわれわれの「生存のために必要なお金」は、誰からも守られないということである。すなわち、リスクは郵便貯金でも同じであるということを決定付けるのが郵政事業の民営化の「本質的意味」である。

その辺りをまるで了解せずに、「自民党の票田を解体する意味がある」とか、そういう政局的な意味合いだけで民営化に賛成する「リベラル派」が一部にはおられるようだが、それは民営化のひとつの側面ではあっても、本質を無視した主張に過ぎない。

これは、実に最初から最後まで「お金のはなし」なのである。そして、それは全世界を見渡してみてもそのような額の資金源(350兆円)は、もはや地球の表面のどこにも見出すことの出来ないような、ハイパー超高額の「現金のプール」なのである。それが、それを稼いだ人々のために保存されるのではなくて、その国を力で支配している宗主国への貢ぎ物として恭しく献上されるということなのだ。他ならぬ親方日の丸によって。

その金が「自由化」されて売買の対象となること(日本人にとってはリスク化される)をアメリカの金持ちたちは、首を長くして待っている。喉から手が出るほど欲しいのである。この現金が「自由化」されたら、確かに日本はもう一度世界にバブルを起こすかもしれない。だが、そのことは、日本人をこれまでより自由にしたり豊かにすることはない。失われた老後の資金を再び稼ぎ出すため(つまり生き残るため)に、日本人はこれまで以上に奴隷のような長時間労働を強いられることになる。我々の将来は、「資金」という名の「数字」となり、投機の対象となり、売買されることになるのだ。そして、売った者はそれをもう買い戻すことは出来ない仕組みになっている。

したがって、外国の禿鷹たちがその「魅力的な投資対象」の確保が出来なくなるかもしれないとなるや、それを狙っている連中は手段を選ばない方法に訴えて、結局それを手に入れようとするだろう。その手段とは東京での「テロ」である。彼らを我々と同じような人間と考えてはならない。

それが9.11の参院選挙の前(直前)に起これば、危機管理体制の重要性を訴える現連立与党が、「郵政民営化選挙」を雪崩式に勝利してしまう可能性がある。一発の「テロ」が、民営化選挙を「テロとの戦い」という文脈にすり替えてしまう。そして、結局「郵政民営化」も実現してしまう。東京での「若干の犠牲」という人命やインフラ破壊という「トークン」を支払うことで、現与党は「宗主国」への献上金の自由な扱いを勝ち取ってしまうことになる。そのとき、そうした「テロ」が誰によって引き起こされるのかを考えてみるが良い。

もちろん一番いいことは、このような暴力沙汰(テロ騒動)は起こらずに、しかも現与党が野に下って、当面郵政民営化は出来なくなること、である。しかし、小泉にどうしてあれほどの自信と「据わった腹」があるのかと考えると、そうした「ウルトラC」の存在を視野に入れているからか、と勘ぐりたくもなる。

もし「テロ」が起きてしまったら、郵政民営化だけでなく、他のもっと最悪のことも同時に実現してしまう可能性がある。もちろんその「テロ」が、日本人の政財界における「訳の分かった人々」にとって、「金の亡者」からの明確な「脅しのサイン」としての意味を持ったとしても、「テロ」自体は、一般民衆からそのように了解されることは、ほぼ間違いなく、ない。それはイラク戦争に自衛隊を送っている日本国政府への「イスラム過激派による警告」と解釈されるだろうし、あるいは最悪の場合、「北の工作員」による日本の中枢の破壊活動と体よく解釈されるかもしれない。そのどちらに転んだとしても、「犯人」らしき人が捕まるか「自爆死」が確認され、それから急速に用意される「テロ対策」を、日本をより悪い状態(言いたいことを喋れない状況)に持っていくための口実に使うに違いない。一発の爆弾の炸裂がわれわれを不自由のどん底に突き落とす。

しかし、もし万が一こうした悲劇的な一撃が起こったとしたら、忘れてはいけないが、それはイスラムの聖戦でも「北の破壊工作」でもなく、われわれに笑顔でDMを送ってくる連中のためであり、言い換えればそれは「金のため」なのである。しかも莫大な。グロテスクな話である。人間は金に目がくらめば人をも殺すのだ。それは要するに平和な街角を舞台に突然起こる戦争なのである。

郵政民営化が実現してもしなくても、その後に待っている日本人の運命を考えると暗然とならざるを得ない。

これは、予言ではない。予言にはその的中を望む自己成就性の罠がある。しかし、「テロ」がこのタイミングで起こるとしたら、その事件によって誰が利益を得るのか、誰にその動機があるのかを推量するだけの想像力を皆が抱き、それを言語化して声高に叫べば、その計画の断念につながる可能性はある。「郵政民営化」も「テロ」も、そのどちらもが実現しないに越したことはないのである。それは何度繰り返しても多すぎることはない。

▼ 郵政事業民営化についての関連記述

日本の「民度の高さ」に乾杯!

日本の政治を分かりやすくする

記念すべき8.8

Monday, August 8th, 2005

政治的発言。

郵政三事業の民営化法案が参院本会議で否決。ビッグニュース。「記念すべき日」として思い出される1日となったと言っても良いだろう。だが、一方で、これは東京における「テロ」の危機が増したという別側面がある。分かる人にはこれの意味が分かる。

今後、このために自分が「より高い何か」を支払わなければならないとしたら、この瞬間が別の意味を持ち始めるだろう。いずれにしても、この「否決」に投じた幾人かの議員たちの英断を評価したい。

誰が「主義者」か?
私が使った「主義」用語一覧 since September 2004

Friday, July 29th, 2005

つい先頃、ある親しい友人から、私の文章にはたくさんの「○○主義」という言葉が使われていて、それは他ならぬ私自身がいろいろな硬直した「考え」に凝り固まっていることを表しているのではないか、ともとれるような興味深い指摘を受けた。直ちに私の直感はそれが当たっていないと判断したが、惜しむらくは、それをその場で「論証する」ことができなかった。もちろん、批判する以上、それを指摘する本人がきちんと「論証す」べきところなのだが、それをせずに、なーんとなく全体的な印象を喋っただけのことなのだろうだから、まったく意に介さずにいるべきだったのかもしれない。だが、ちょっと悔しいのと、その認識を訂正しなければ、「なーんとなく」の印象をそのままずっと引き摺ったまま私の文章に接する(あるいは接しなくなる)可能性が否めないので、私の方から自己弁護することにした。

まず、これから続く長ーい「反証」に突入する前に、その種の主張に対して私が一言で何か言えることがあるとしたら、以下のことである。

「主義」に反対/反論するには、それに言及しないわけにはいかないだろ

ということである。それで終わってもよかったのだが、以下、どれだけその指摘が的を得ていないかを示すことにする。ある種の遊びだと思って始めたのだが、それをやったら却っていろいろなことに気づいたので、「怪我の功名」として、このblogで公開する。

(more…)

日本の政治を分かりやすくする

Tuesday, July 5th, 2005

郵政事業民営化法案はたったの5票という僅差で本会議で可決された。そして参議院に送られた。「今日」という日は、日本の「普通の人々」が身を粉にして働いて稼ぎ出した、言わば「タンス預金」もしくは「財布」にあたる一般家庭の資金(郵便貯金)が、アメリカ合州国の禿鷹たちによって自由に狙ってもらうために、献上金として差し出されるわけで、今日はその第一歩を踏み出した記念日となるだろう。

これについては何度か書いたので、あまり付け加えることはない。あるいは、窒素ラヂカルの笑劇「郵政民営化」が参考になる。

一つ言えることは、国民のなけなしの財産にあたるこれほどの「貢ぎ物」をしても、合州国政府は日本に安全を保障するどころか、これまで以上の義務と労役を強いてくるだろうということだ。しかも、その義務と労役が誰のために行われるのかということもほとんどの人には無自覚なまま。極東に於ける国家間の政情不安定の「演出」も、実質的な戦争も、アメリカの国益という都合から体よくコントロールされるという事情にも変わりはなく、日本国内では日本の国益*ではなくてアメリカの国家を支えるために、これからは、もっと時間外労働が増え、労働災害も過労死も増加の一途をたどり、アメリカ並みの「勝ち組」「負け組」の貧富の二極化に陥る可能性が高い。

* 「国益」でものを考える人たちにとって重要なはずだ、という意味で。

日本国内においては本当の「敵」はいない。日本においては、本当の敵であるアメリカの政権に対して「協力派」と「非協力派」がいるだけである。今回の郵政事業民営化法案の本会議可決を巡って明らかになったのは、敵であるアメリカに対して協力的であろうとする側と非協力的であろうとする側に国会自体が真っ二つに分かれたということである。その差は僅かに5票である。これは極めて象徴的なことである。

ここで明らかになったと思うのは、日本の政治は自民党とその連立政党、そして非自民という諸政党との対立を軸とした本質的な「政策」による二極化ではなくて、アメリカに対して協力的であるか非協力的であるかという、政党を超えた二極化が本来のあるべき姿であるという事だ。私はそもそも二大政党制など日本に住む人々のための何の効力も感じないし、危険な政治体制であるとしか思わないが、もし日本の選挙権保持者がほんとーに「二大政党制」を望むなら、アメリカ協力党(親米党)とアメリカ非協力党(反米党)の「二大政党」であることですべては明白にすべき(なる)と思う。日本に於ける政策というのは、「日本人の日本人による日本人のための政策」と「日本人の日本人によるアメリカ人のための政策」の2つに大別されるわけだし。

言い換えれば、アメリカの実質的な属国として親米路線を現実的であると考える「協力派」とそれをなんとか乗り越えようとする「非協力派」によるそれぞれの政策運営があるということに他ならない。だが、そうした「本来あるべき姿」の政局が、実際問題では、さまざまな政党が様々な政策を立案し、それが複雑に絡み合うことによって、そして自由民主党内の親米派と反米派の恥ずべき混在によって、まったくもって不明瞭になっている。

37人の反対票と棄権・欠席をした自由民主党員は、自民党の再生などという小さな大義の旗を振るのはさっさと止めて、非自民への大合流を果たすことで、本当の日本の政治改革を実現すれば良いのである。

賛成233票

反対228票

良い二大政党の雛形になると思うが。

最高裁判決への戦い方

Wednesday, June 29th, 2005

憲法違反の行為を平気で成す政府、憲法違反の判決を平気で下す最高裁。こうした厚顔無恥な権力者たちのトレンドは、どうやら日本だけの専売特許ではなさそうだ。むしろ日本国の政権が宗主国として崇め奉っているアメリカ合州国でこそ、全体主義への零落は明らかなのかもしれない。だからこそ属国日本も何のためらいもなくその宗主国の傾向に習っているのかもしれない。だが、決定的に違うのは、その権力者による憲法違反への人々の反応と対応である。

当然のことながら、合州国では私有地の政府による接収というのが憲法によって厳しく制限されている。一方、憲法修正第5条の例外規定によって「公共使用のための例外を除いては政府による個人財産の接収は禁止」という表現がなされている。

だが、ここへきて所有権護持を主張する活動家を怒り心頭させる連邦最高裁判決が下され、大いに物議をかもしている。米国の新聞などで報道されているが、その判決によれば、橋や高速道路などの公共プロジェクトに限らず、「スラム」化した地域の「浄化」や土地の再配分という名目でも私有地の接収ができるばかりか、「公共目的」の中に、不況に喘ぐ地域に仕事をもたらすならば「私的企業が土地の買収開発をする」ことを州政府命令で実行することが含まれる、としたのだ。

コネチカット州において、私企業が開発するオフィスビル建設のために土地を追われようとしている住民が、明確な「公共使用」でない開発事業のために土地を立ち退かなければならない理由はない、と当然の権利として訴えていたケースに対し、連邦最高裁が、公共の利益にかなっているので「公共使用」であると解釈できると判断を下した訳である。これは今後、どのような土地でも、現時点で生み出している以上の利益を生み出すプロジェクトによってより多くの税収が見込まれるとすれば、私企業が自由に、何の制限もなく人の土地を接収できるという最悪の判例を造ってしまったことを意味する。当然のことながら「貧困層」や「高齢者」が住んでいる宅地自体は、オフィスビルや工場ほどの「利益」を生み出さない。当然だ。私の住んでいるアパートは、私が住むことによっては私の払う家賃しか生み出さない。こうした人々の土地は、金を持つ人間が望むなら、州政府命令でいつでも私企業にそれを売り渡さなければならないわけである。ここで財産権の侵害を禁止する憲法の理念がねじ曲げられるという一歩が踏み出されたわけである。

CNNの記事

Washington Postの記事

この判決に敗訴した住民のみならず、この最高裁判断を「重大な憲法違反である」と反応した数多くの人々がいる。当然の話である。

この最低の最高裁判決を下した一人であるスーター判事の住むニューハンプシャー州 34 Cilley Hill Road という地所を州政府指導のもとに接収した上で、買い取り、ホテルを建てるという計画を立案したのだった。そしてそのホテルはウェア市の当局にスーター判事がそこに住み続ける以上の経済的利益を作り出し、市はより多くの税収を確保するだろうと伝えたと言う。

天才的な活動家、Logan Darrow Clements氏の計画によると、ホテルの名前は「The Lost Liberty Hotel: 自由喪失ホテル」で、ホテル内には「Just Desserts* Caf?」というウィットの効いた名のカフェをしつらえ、公共に開かれた博物館まで付随させるというものらしい。博物館ではアメリカに於ける自由の喪失をテーマにした常設展示を行う。そして普通のホテルによく備え付けられているギデオン協会の聖書の代わりにリバータリアンのアイン・ランド女史の小説『肩をすくめるアトラス』を置く。

* やったことへの当然の報いとして与えられる「デザート」。行動にふさわさしい末路として行為者に与えられるもの。当然の結末。

これは新たな戦いの始まりだ。もし公共の利益になるという理由で私的企業が他人の財産を接収できるというのであれば、ブッシュ大統領やチェイニー副大統領の私邸を私企業が買い取ることもできる。こうした闘うための基金を募って公共の利益のための「買収」というリベラル活動家による<合法的>な動きはあちこちで起こるであろう。なぜなら、連邦最高裁が下した判決という「お墨付き」があるからである。最低の判決に対する最高の抵抗である。もちろん予断はゆるさない。裁判所が三権分立の理念を平気でねじ曲げる理念無き輩の集まりであるとすれば、大物政治家や裁判官自身の私邸を接収の対象にすることなど、容易には認めないだろうからだ。だが、こうした抵抗に遭うことこそ、彼ら権力者が「やったことへの当然の報い」「当然の結末」なのである。

freestarmedia

確かに憲法というものは「文章」であって武力も警察力も持たないものである。おそらくこのように何の強制力も持たないから権力者は好きなことを始めているのかもしれない。だが、そうした新自由主義には倫理もヒューマニズムもない。理念や理想に生きるものが<人間>である以上、憲法を平気で違反できるその心は人間に属するものではない。

以前なら、憲法という「文章」そのものに対する畏敬の念というものがあった。それを勝ち取るのに抑圧と闘争のプロセスがあったからだ。憲法を単なる文章だとしか考えないとすれば、それは思想の敗北(人間の「考える力」というものを過小評価するもの)であり、権力者の堕落であり、次なる<時局更新>への引き金(口実)を敵(われわれ)に引き渡すような恥知らずで無知な行いなのである。つまり法律自体が遵法しているかどうかを測るための、保守も革新も、どちらの側も無条件に守らなければならなかった超法規としての憲法は、それを生み出した合州国でこそ死文化しつつあるのだ。

だが、それに対して戦う方法を編み出すのも、かの国のヒューマニストたちの着想であり、工夫であり、実行力なのである。

「ありふれたファシズム」(ある映画作家の慈愛と洞察)

Tuesday, May 31st, 2005

われわれの日常的な無関心やそれに深い根を持った言葉、均一化、同質化への期待。同じでないことへの無意識の忌避。こうしたことは毎日の行動や言葉の中に現れる。

リュボーフ・アルクス編『ソクーロフ』(西周成訳)p. 200

>> ボリス・エリツィンはなによりもまず言葉の人間である。(略)しかしエリツィンのモノローグはひとつも映画に入らなかった。ソクーロフの根拠は無慈悲なものだった。「果たして政治的レトリックが人間について何かを語ることができるだろうか? それは彼個人ではなく、集団に属しているのだ」。<<

そう、われわれの言葉は、われわれの心が弱い時こそ、集団を根拠に口から出る。エリツィンでなくたって、われわれは時として、政治家のように語る。「みんながそういっている」と口が滑る。それはだが、集団に属している意識と、集団に属さないものへの愛の欠如がそうさせるのだ。

われわれは個人の咽喉から漏れ出てくる言葉にこそ、個人の言葉を聞き取る。誰彼が言っていた、みんなが言っていた、という、あたかも<あなた>が世間を代表するかの言い分ではなく、<あなた>が<あなた>自身の言葉で<私>に話しかけることができた時、それは個人の言葉を聞き取ることになり、<私>にとっての真実となる。まかりまちがっても顔の見えない不特定多数の誰かを<あなた>が代表できるかの幻想を見てはいけない。

(「犯罪者」を、笑いもし、泣きもし、痛みも感じる「ひと」として捉えた某ドキュメンタリーフィルムに関してそれを制作した某映画作家に投げかけられた言葉)

鑑賞者「犯罪の被害者がこれを観たらどう思うと思うんですか?」

作家「こちらに被害者の方がいらっしゃるんですか?」

鑑賞者「… ここにはいないかもしれませんが、もし観たら怒りを感じると思いませんか?」

作家「怒りを感じるかもしれないし、感じないかもしれない。でも、ここにはいないですよね。それともいらっしゃるんですか?」

鑑賞者「いないかもしれませんが、もしいたとしたらどう感じると思うか訊いているんです。」

作家「私はこの映画を通して、犯罪被害者の方にではなくて、あなた方がこれを観て、自分でどう思ったかを、あなた方に訊いているんですよ」

彼は、このやり取りを回想してこう言った。「これを観たこの会場にいるみんなの中に、この犯罪被害者の方はいらっしゃらない。犯罪被害者でないあなた方が、犯罪被害者の気持ちをあたかも想像し、それを代表できるかのように思い込んで、そして私の作品を批判する。あなた方は、ここにいもしないし会ったこともない人々の気持ちがわかると思っていて、その癖、そのいないかもしれない人の架空の言葉を以て、人の作品を非難する。良いですか、こう言うエピソードがあるんです。ある知り合いの方が、駅前で死刑廃絶の呼びかけの署名運動をやっていた。そうすると、必ずいるんですよ、こう言うことを言う人が。『そんなことやって! 犯罪の犠牲者の家族の方があなたのやっていることを見たらどう思うと思うんですか!』と。そしたら、この署名運動をやっている方がこう答えたそうです。『私の息子が犯罪の犠牲者になったんです。』」

われわれは想像できているつもりで、充分に想像できていない。何が人をしてある種の行動に掻き立てるのか。いろいろな経緯や気持ちというものがあるだろう。しかし、犯罪の被害者の家族が、加害者の救済を主張することを通じて「あらゆる暴力(殺人)を否定する」という崇高な思想の貫徹をしようとすることがある。

しかし、良心的で公平だと思っている被害者の立場でものを言う、言えると思っていて、ある種の表現を封じ込めようとする正義の人がいる。しかしその人自身が、自分が自らの言葉を語らずに、大衆や「みんな」の意見として、何かを主張し、ある表現や立場に対する弾圧に手を貸す。自分こそが弾圧者側にいることを容易に忘れる。「ありふれたファシズム」は、こうした「正義の人」の中にも容易に巣食いうる。

「毎日」北村正任社長の「腰砕けメッセージ」読めます

Wednesday, May 25th, 2005

「新聞よ、さらば!(って今さらだけど)」という文章を書いてからしばらくして、今度はこの新聞社社長の言葉をそのまま広告コピーにしたとしか思えない中吊り広告を何度か電車で見た。最近も、連れ合いが同じ広告を見て「なにこれ」と不快に思ったと言ってきた。しかも「マイニチやめて良かったね」とも。今度は、あの腰砕けの社長メッセージをそのまま広告コピーにして公に晒してしまった訳だ。「毎日」は、新聞の中でまだマシな反骨精神を持っている方だと思っていた(バカだね自分も)が、新聞社自らがジャーナリストしての役割を放棄するその社長宣言が、今度は広告として現れたわけだ。つまり、「毎日新聞」社長(北村正任)は、あれでいいと本当に思っているということだ。

毎日新聞社内でもこの社長宣言はそうとう重要であると位置付けられているらしく、ネット上でもその全文が読める。新聞に掲載されたものと全く同一であるかどうかは記憶に定かではないが、主旨は同じであることは確かだ。

そして次は、「新聞よ、さらば!(って今さらだけど)」を読んで欲しい。

こんなものを見ても、「ふ〜ん」という風にしか、ほとんどの人々は思わないのだろうか。これが「当たり前の感覚」になってしまうのであろうか。すくなくとも、こんな新聞にこれから「育てられる」社会人たちは、そうしたものだと思うのだろう。

「世代論」を私は好まないが、普通の社員なら、まさにリタイアの時期に入っているこの齢63の社長であるが、その言い草に、まさに「逃げの団塊」を地で行くようなトーンを感じるのだ。「最後まで逃げ切るつもりですね、登って逃げたら、今度はさっとハシゴを取り去る訳ですね。われわれははしごを取り払われた世代ということになります」と自分の世代を代表して言わしてもらいますわ。でも世代を根拠にした恨み言はこれくらいで十分。

件の、「北村メッセージ」を引用しつつ、改めて批判を試みる。

>> 新聞社が高見から読者を見下して、一方的な意見を押し付ける時代は終わりました。高度に複雑化した現代社会では、さまざまな視点があることを提示して、自ら考えることの大切さを分かってもらう手助けをすることが重要です。「毎日を読めば全てが分かる」。考え抜き、議論し抜いた社論とともに多様なオピニオンを紙上で戦わせる「論争の広場」が、毎日新聞なのです。<<

前回の文章でも指摘したように、<<新聞社が高見から読者を見下して、一方的な意見を押し付ける時代は終わりました>>と一方的に断定する。その一方で、<<自ら考えることの大切さを分かってもらう>>と宣う。そんなことは社長椅子の「高見」から言われなくても分かってますよ。自分の言っていることのどうしようもなさを自覚するために、ホント<<自ら考えることは大切>>ですよ、社長さん。分かってもらえるかな。<<多様なオピニオンを紙上で戦わせる「論争の広場」が、毎日新聞>>というのも、一見すると「論争させるんだからマトモだ」と言いたげだが、そこには「第三の権力」と言われ、一方で期待され、一方で特定の人間たちから畏れられてきた新聞社の存在、という歴史的立場への自覚がない。そもそも新聞を発行するということは既得権なしにはあり得ない。それ自体が多くの犠牲によって成り立っている「私設の公器」なわけです。自分だけの努力で紙やインクや流通網を確保した訳ではないでしょう。国家権力や時の政権が読者にとって危ない存在になったときに、読者と供に闘うという気概をここで見せなくてどうするというんですか。それとも、まず社内の組合をつぶして、のメッセージ発信だったんですかね、北村さん。

あのね、「教え導く」というのならむしろそのほうがいいんです。立場が分かりやすい。国家権力にだまされ、あちこちで泣き寝入りしているだけのシモジモの庶民を、啓蒙し、騙されていることに目覚めさせ、権力の横暴に歯止めをかけさせる。それが役割でしょ。実際問題、新聞も「権力」なんだから。その代わり、きちんと責任を持って教え導け、と言っているんです。そして導き間違ったら腹を切れ、ということです。だが、あなたの言っていることは、そういう権力者としての自覚も気概もない。要するに、重役のくせに「あー、会社はみんなものだからみんなで話し合って決めてねー」と言っているのと同じ卑怯者な訳です。そんなあなたに誰がついていくんですか。<<日本で最も伝統ある毎日フラッグの下に集まってくれることを心から願っています>>だって? バカな!冗談言ってはいけない。他でもないあなたのそのメッセージを見て、購読をやめたのです。

<<また、自立した個人が主人公の社会を目指す一方で、バラバラになりがちな人と人との心を結びつけ、他者への思いやりを育てる役割も忘れるわけにはいきません。これは新聞記者としての私の信念でもありました。読者の琴線に触れる記事で、「独善的な個」を乗り越えてやさしさを呼びさます「共感の広場」。それも、毎日新聞なのです。>>

まったく「広告コピー」そのものだ。左右どちらの側にも良い顔をしている。だが、そんな方法で人の心を掴めると思いますか。<<バラバラになりがちな人と人との心を結びつけ、他者への思いやりを育てる役割>>を忘れるわけにはいかない、ですと! つまり新聞はそういう道徳指針を皆に示す役割があると思っている訳です。「他者への思いやり」だと? そんなことを言っているのが「高見」から見ている証拠なんですよ。「他人への思いやり」を読者に向かって言う前に、あんたは、これまでジャーナリストとして闘って来た末端の記者を思いやったことありますか。そして、バラバラな人間をまとめるというところに全体主義への指向があり、「他人への思いやり」の欠如がある、などということなど、あなたにはきっとお分かりにならないでしょうね。

<<「独善的な個」を乗り越えてやさしさを呼びさます「共感の広場」>>なんて、体のいいコピー以外の何ものでもない。全然「意味」あるメッセージとして、どうしたいのかということが伝わって来ない。新聞がほんとうに「やさしさを呼び覚ます」んですか? 議論の場を提供すると言って自分は責任逃れをして、「バイバイ」とハシゴを外してしまうあなた自身は「独善的な個」そのものと思われているんじゃないですか。本当の優しさを示そうと言うなら、戦争状態へと傾斜するこの世で、ジャーナリズムの精神と一緒に討ち死にする覚悟で犠牲を示して下さい。それならあなたの言う「思いやり」とやらを信じてやりますよ。

「弾圧」を実体化させるな!

Monday, May 23rd, 2005

例えばさぁ、の話である。

誰かが「理想の地」を海外に見出し、ある種の芸術活動をしようとして、最初は同地に合法な手段で入国し、その後、ビザの効力が何らかの理由で切れてしまうとしよう。(海外に生活基盤を求める人が増えている以上、このようなことは世界中のあちこちに起こっていても不思議はない事態である。)しばらくは出入国管理所のチェックもなく、問題もなく経過していたとして、ある日、何らかの詰まらない理由で「不法滞在」が当局側にバレてしまうとしよう。そして、やがては強制的な国外退去命令が下る。これは、政治亡命や難民でない限り、芸術をやろうと、ある種の文化活動をやろうと、ビジネスで一旗揚げようと、どんな理由で同国に渡ったかによらず、それは単なる「個人的な法的な手続き上の問題である」と言える。

そこでだ。単なる個人的な「法的手続きミス」なのに、それによって生じたトラブルに過剰反応して、周りがその問題を「文化弾圧だ」と騒ぎ立てるとする。すると、どうなるか。それは、単なる個人的な「事故」や「判断ミス」であったかもしれないのに、そのことは「文化弾圧」であるというコンテクストで読み返され、再解釈されることになり、それは「社会的な事件」となる。

「起きた現実」と「人間のこころが成す解釈」の間にギャップが起こる。あちらでもこちらでも起こる。そしてその際、「解釈」はおそらく渡航した本人の出身地と本人を受け入れてきた当地の両方で、あるいは立場の違いによって、さまざまなギャップの諸相を見せることになる。だが、十分に意識を向けなければならないのは、「文化弾圧である」と考えたい人々の思う通りに、結果として、その問題が「現実化していく」という可能性についてである。つまり、「予言の自己成就性」のように、「事象」の方が主張する解釈の方に近寄っていく、という主客の顛倒が起こる。

すなわち、その「個人的ミス」が「大きなミス」へと発展する可能性がある。

そうなったとしたら、海外における文化活動の実践基盤を守ろうとする側にとっても、政権当局者の側にとっても、どちらにとっても不幸な結果が待っている可能性があるのだ。

つまり、ある特定の政治活動家の反対運動が、「○○の自由を守れ」とコールすることで、権力側に「本当の弾圧」をするきっかけ(口実)を与えてしまうということである。権力者側だって、人間の集まりである以上、「あらぬ腹の内」を探られれば感情的にも反応するし、一旦感情的にある特定の集団を視るということになれば、彼らも自己保身の論理で動いているのであるから、「火の手」が大きくならないうちに、「弾圧」を強化して、もともとはありもしなかったその「運動」を抑えようとするかもしれない。最初はどこにも問題はなかったのにも関わらずだ。そうすれば、運動をする側からしても「それ見たことか、これが権力の正体だ」と一層の運動の激化を呼びかけるかもしれない。そして、弾圧する側はその力をさらに高める。これを「意地の張り合い」と呼ぶ。

それは、果たして芸術活動をしようとして実際に他国へ渡った表現者当人の立場をよくすることなのだろうか? 渡った表現者自身が政治活動を展開するために、意図的に「ビザが切れて不法滞在する」ことを計った、とでも言うのだろうか。それは十中八九違う。彼/彼女にとっては、今まで通りにその国に滞在できて、好きな表現活動を続けられて、その地で見つけた友人知人たちと楽しくやっていくこと、だろうと私は容易に想像する。

政治権力に関わる問題とは、もちろんあちこちに存在する。だが、なんでもかでも「それ」であるとラディカルに反応することが、どういう結果をもたらすのか、ということまでクールに想像する知力が必要なのではないか。

たとえば、果たして、このことを「政治問題」として読み替えることが、渦中の人自身の福利になるのかどうか、あるいは、今後その地で表現活動をしたいと思っているわれわれ自身の福利になるのかどうか、そこまで考える視点、つまり「闘争せずに勝利を得る」という視点と戦略とを十二分に吟味しているだろうか。こうしたこと一切を、あらためて熟考する必要がある。

フルスケールの「政治闘争」となって得をするのが誰なのか、そして、誰が一番貧乏くじを引くのか、考えてから行動したい。保守的に響く発言だが、今は「その渦中にいる人」がどのようにしてそのトラブルから離脱できるのかを優先して行動する(あるいは、行動せざる)べきではないだろうか。ここはひとつ新たなニュースが来るまで黙って見ている、というのが良い。(という自分が、こんなものを書いた矛盾には、どうか皆さん目をつぶって下され。)

まったくもって、抽象的な「例えば」の話なんだよね、これは。