Archive for September, 2005

エリアーデ語録 #1

Monday, September 12th, 2005

天や死後の生命に関する形而上学的・神学的探究は無意味である(公冶長篇一三、述而篇二〇、先進篇一二)。

「君子」はまず第一に、現実の具体的な人間存在に関心を持たなければならない。霊的存在に関しては、否定しなかったものの、その重要性には疑問を持っていた。敬うのは構わないが、「それは遠ざけておけ。これこそが知恵というものだ」(雍也篇一八)。霊的存在に奉仕することについても、「もし人間に仕えることができないなら、どうして霊的存在に仕えられるのか」(先進篇一一)と述べている。

エリアーデ『世界宗教史 II』筑摩書房「孔子──儀礼の力」より

これが宗教研究者のが引用した孔子の言葉だと知れば、驚く方もあるかもしれない。だが、ここには宗教というものに付き物の「霊性」や「神秘主義」以上に重要な「生きる人間の生存」に関わる事件に関する共通の記憶を扱うものであるということについての、控えめではあるが重要な示唆がある。

人類史に関係のない神秘思想などというものはない
そして神秘と名付けられるにふさわしいことは唯一つであり
それは同時に神秘ではないということについて

Sunday, September 11th, 2005

体験自体は私事に属することではある。留学中の1991年の1月末に私に起こったある名状し難い体験は、私の人生において向かうべき方向を決定的に変えてしまったが、その受け取った内容が、如何にヴィヴィッドなイメージを伴うものであったにも拘らず、私の知性はそれをそれとして全面的に肯定した上で受け止めることは難しく(もちろん、大いに振り回され、周囲の人を振り回したものの)、私の思い込みなのではないかという懐疑とは恒に背中合わせであったことは否定できない。だが、それはその後、3年以上に渡って私の内部に居座り続け、私を「あること」に対する恒常的な畏敬とも畏怖とも呼ぶべきなのかも分からない精神状態に釘付けにした。自分の「危機的」体験を裏付けるような証言か、それを中心的課題として論じているようなまじめな論考がどこかにありはしないかという思い(あるいは否定されて欲しかったかもしれない)が生じ、それから経済の許す限り神秘主義やシンボルのリソースの収集が始まった。

それら神秘主義関連図書に共通する事は、ほとんどどれもおなじか似たような図版の複製を見せ、それなりの博物学的な必要最低限の解説を用意しているにも関わらず、一番肝心なところを説明していないと感じられたことだった。つまり、こうした図版集はほとんど何の説明もなしに、ただその図版を読者に見せる(そして勝手に考えさせる)ことが目的なのではないかと思われるほど、一致して紋切り型であるか単に網羅的だった。そして、ちょっとましな解説に出会っても、やはり肝心なところに言及するとなると、いきおい曖昧かつ迂遠な表現になるという共通の傾向はやはり否めないのであった。

ここで私が考えたのは、ひょっとするとこうした図版の提示者自身が、自分の「見せているもの」の意味をまったく理解してはいないのではないか、ということ。あるいはこうした図書に現れる図版の内容が重要であればあるほど、それが本当は何を意味しているのか語るのに提示者本人が「ためらい」を感じているのではないかということ。そのどちらかであるということであった。それが、事情を了解しない第三者の目には、どちらも「神秘主義」であると映る。

ただ、特に有名な作家の中には、博物学的な網羅主義に陥っているとしか思えない、関連のありそうなものすべてを、ただ一見して関連がありそうな印象を以て、どれもこれもを同じ札のついた袋の中に雑多に詰め込んだような印象を与えるものもあって、その博物学者本人が自分の扱っている対象の重要さの度合いを勘案しているとは思えないことさえあるのであった。

私にとってこうした一連の図版との邂逅と自分なりの手探りの探求とは、ある具体的内容に関連していると思われる、古今東西を問わない、まさに歴史的著述の中の「証言探し」の試みでもあったのだが、1994年秋の帰国後、直ちに開始した歴史や宗教研究家による和訳されている書籍の類の乱読の中で、遅ればせに出会ったのがルーマニア出身の宗教史家・比較宗教学者のミルチア・エリアーデであった。

彼の大著『世界宗教史』の第二巻の中の「ヘレニズムの錬金術」の章における記述に、相変わらずの、いわゆる「論理実証主義的な冷厳な態度」が不可欠に求められるらしい、悲しいほどにアカデミックな学者の論述の中に、論証不可能なある内容についての「明らかな暗示」が行間に残されているのを発見したのであった。それはほとんど詩人による詩の言葉として聞こえてくるようなトーンと警鐘の響きをたたえた明かなメッセージとして私には届いたのである。

この日、私の個人的体験によって得たある種のビジョンと歴史体系が、もはや「私という個人」に属する幻想の類でないことが確固として決定付けられたのだった。いったいどれだけ古い起源を持つものなのかが分からないような象徴の体系が、現代人の中に再生され再構築されたのであった。そしてエリアーデ自身の書籍を始めとして、立て続けに幾人かの著作者による言葉の数々の中にも、同様の「内容」についての暗示や、明らかな言及を次々に見出したのだった。それらは、およそ言葉にできないことを言語化するという途方もない先人たちの努力の賜物であった。

故あって、現在、二度目の通読を行い始めた『世界宗教史』であるが、その第1巻の巻末にある訳者(荒木美智雄)による解説の中で、再び驚くべき記述を発見した。それはエリアーデが高く評価し大いに魅せられていたというハシデウの「歴史に関する大胆な仮説」というものであった。荒木氏によれば次の3つにまとめられるという。

冗漫かつ韜晦に感じられるかもしれないが、何を語っているのかを理解できる人には明瞭にその意味が伝わる内容である。

(引用開始)

1.認識論的なレヴェルでは、歴史の解釈学は「総合の要請」を必然的なものとする。

2.歴史を書くことは、歴史的状況の深い理解を前提としている。この理解は、現実的に、聖なる、あるいは象徴的なる超歴史的秩序の意味へのイニシエーションなのである。この種の理解は物語としての歴史の価値を排除するものではなく、具体的な文化や共同体を構成する、基本的な宗教体験の重要性を承認する歴史を要求する。そして、これらの具体的な体験は、神秘とシンボルにおいて顕わにされているのである。(太字は引用者による)

3.現象の起源に帰ることの重要性である。それは、歴史的に日時を測定できる起源と言うことではなく、存在的な出来事、存在の与えられた質、あるいは構造の最初の体験を意味している。聖なる現象の根源的な意義を把握することによって、われわれは歴史の解釈することができるようになる。なぜなら、その理解こそ解釈の過程全体を生み出し、導き、体系化する意味の「中心」を用意するものであるからである。(太字は引用者による)

(引用終了)

長く引用したが、私には「歴史の(秘密への)理解」が、今という歴史的「時点」への理解そのこと自体に言及する、これ以上によく書かれた記述を想像することができない。全く持って、戦慄すべき正確さで語られている。もちろん、詩の言葉を除く、いわゆる「論理実証主義」的なマナーに則った記述、という「狭い世界」の論述様式の中での話であるが。

どれも比較困難なほど重要なことが書かれているのであるが、特に筆者が注目した記述は2そして3である。ここでは、「イニシエーション」と呼ばれている体験が、まさに「歴史」とその起源への理解ということと不可分であることを、如何なる曖昧さも排除したトーンで語っているのだ。

ここで私が言い換えた「歴史の秘密」とは、まさに「セーフェル・ハ=ゾハール」(光輝の書)に書かれている「この世界は、ただ秘密によってのみ存続する」に関わるものであり、それは、これが「秘密」でなかったら、いまわれわれが生存する「壊れつつある世界」は、いまの形で存在すること自体ができなかったという意味での「秘密」である。これが「秘密」と化すことなく、大多数の「生存者」にとって当たり前の前提であった世界(時代)は、われわれが眼前に目撃しているようなスケールで「間違う」ことがなかった。だが、それが「秘密」になった時に、始まりがあって終わりがある世界というものの「起源」への記憶が喪われた。そして、いまの世界を成り立たせるためには、それが人類共有の財産であってはならないということになって忘却されたか、あるいは、その「自明な出来事」は特定の人間集団の中だけに注意深く隠匿された。あるいは、俗化された神秘主義結社における通過儀礼の形で、その意味も解されることなく伝えられることとなった。

そして、その隠匿、もしくは喪失こそが、われわれの眠りを意味し、この世界を耳を覆いたくなるほどの喧噪にしているのだ。つまり、夜の世界の彼らは「目覚めて」いたのに、昼の世界のわれわれは「眠って」いるのだ。その眠りがわれわれを「間違わせて」いるのだ。

ただし、その隠匿は局部的なものであったし、それらは神話の中や建築や美術といった表現の中に保存され「それ」と了解されることなしに、あからさまに、露出されながら伝達された。それはあらゆる喧噪や混乱の中で、ひときわ輝く徴として、いまでも奇跡的に生き続けている。(私がいまもこうして生き続けているのは「俗中の聖」という扉が、あちらこちらに未だあることを認められるからだ。)

そこにこそ、「現象の起源に帰ることの重要性」とそれに至る「鍵穴」がある。つまり、世界を成り立たせる「秘密としての歴史的事実」の再共有化・顕教化が、神話解釈・宗教の包括的理解の眼目なのである。つまり、「それはもはや秘密ではない」というような「歴史認識」の回復こそが、「今後の世界」をかつて起こった如く終わらせるか否かの、ターニングポイントとして求められる。すなわち、エリアーデによって開示されようとした宗教の本質的役割というものは、それほどかように緊急性を帯びたものであり、それはすなわちわれわれの生き残りに直接連関したものであって、いかなる科学技術による「解決策」にも、政治による「全体的解決」にも及びもつかないほどの重篤な意味を持った内容なのである。そして、「基本的な宗教体験の重要性を承認する」という研究や学問のより公正な評価がいまこそ求められるのである。

あるいは、二度とその重要性は承認されることなく、聖脱化の方向へ驀進する我らが文明の、その刻々と変化する傾向によってのみ、最期的で大団円的な「聖化」の企みは成就するであろう。そして俗化の究極の姿が、後の世界における「聖なる地所」を改めて捏造するであろう。

次いで、3の中で言及される「存在的な出来事、存在の与えられた質、あるいは構造の最初の体験」だが、分けても「構造の最初の体験」とは、言い換えれば、世界を現在のようにあらしめている構造の「端緒」を築く、かつて人類の上に現実に降り掛かった「最初の」体験のことであり、ほぼ約束されたかに見えるわれわれにとっての「最後の」体験とだぶって見えてくる巨大な薬玉を天空で無数に割るような「大祭」である。最後であると同時にそれは最初の体験となり、その壮大な地球規模の体験は、人類を「精霊で満たす」という経験に匹敵するものにするだろう。

その体験は、起きたことがあまりに自明な時代においては秘密になりようがなかった。だが、その劇的体験を直接持っている人々は急速にいなくなり世代が交代されるに従ってそれは「言い伝えられたもの」へ、そして神話へと変容した(ヒロシマやナガサキにおける被爆体験の記憶さえ、世代交代によっていかに急速に失われ得るのかということを、すでにわれわれは目撃し始めている)。われわれが現在目にしている類の技術文明の恩恵を受けることのない後世の人々が、実際にわれわれ祖先(神々)の上に降り掛かったことを合理的に説明する方法や言葉はすぐに失われるが、禁止事項(タブー)として実生活を律する律法による強制的実践という形で、歴史時代以上の長さを持ったひとつの「夜の時代」を形成するだろう。そして、この変化することと記述すること自体を禁じる時代の始まりこそ、終わりも始まりもない時代の始まりなのである。

むろん、言い伝えられたことが「秘密」となり、「超歴史的秩序の意味」がイニシエーションを通じてのみ伝えられ、それを共有する人々の間に「共犯関係」のみを築くようになるまでは。

7.7と来て、8.8と来れば…

Thursday, September 8th, 2005

数字の並びについて

「数字の並び」というのは、スロットマシンのお陰か(笑)、「777」など特に、「芽出たい」ものと思われているようだ。それが芽出たいか不吉なのかどうなのかはともかくとして、「ふたつ以上並んだ数字」というのが(エソテリズムや象徴主義の伝統の中では特に)重要な意味を持つことは知る人も多いだろう。大いに語りたいことだが、ここではそれには深入りしない。だが、数字が二つないし三つ並ぶことで「意味ある日時」などを「記憶」しやすくしたり、「注意」を喚起したりすることができる。「繰り返し」というのは一つの心理的効果なのだ(「記憶術」や「陰謀論」の一種)。

例えば今年ロンドンで起きた「同時テロ」は、7月7日。覚えやすい。世界(というか、ウォールストリート)が見守る中、参議院本会議において郵政民営化関連法案が否決。これは8月8日。そして明日は9月9日。朝の9時と言えば、ラッシュ時だ。しかも、奇しくも誰もが忘れもしない「9.11」に予定されている“郵政”衆議院選挙のぎりぎり2日前だ。何もないことを心から願う(自民党が「圧勝する」とのまことしやかな投票前情報が出回っているところからしても、東京は当面「安全である」可能性が高い。安全なのは願ってもないことだ)。あとは変な番狂わせがないことを心から祈るばかりだ。

こう言うことを書くことは、自分にとっては「防衛」の一種だ。単なる被害妄想狂の戯言かもしれないが、映画『隣人は静かに笑う:Arlington Road』(1998) は、人ごとでない。犯罪の成就をもっとも怖れる主人公(研究者)が、単に「犯罪の成就」に手を貸すばかりか、そのテロ犯罪の道具とされてしまうという恐るべき逆説。世間にとってもっとも信じ難い「途方もないこと」が、実は真実であり、もっとも信じ得るストーリーこそが虚構であるという戦慄すべきプロット。あらゆる細かな事柄が「彼がテロ実行犯である」ことを見事なまでに指し示してしまうという天才的なテロ組織の作る完璧なシナリオ。

こうした映画を作ってしまうアメリカという国の二重性を表す好例だが、まったくもって、ひとりでも多くの人に観てもらいたい最近のアメリカの産んだ佳作である。9.11前に作られたということも特筆に値する。

…と、突然映画話に成ってしまう「数字のゾロメ」話であった。

農耕は殺戮する(プレゼンバージョン)

Sunday, September 4th, 2005

時間のない人のための、「農耕は殺戮する」

要点だけを伝える、最強のメソッド。

これで納得できた人も出来ない人も、

時間のある人は、どうぞ9/1の記事を。

「農耕は殺戮する」Returns!
今も残る山本七平の「民族論」の罪科

Thursday, September 1st, 2005

「日本人には農耕民族としての文化的背景があり、腰をおとした田植えの動作がリズムの基本となっており、欧米人は騎馬民族として、乗馬の動きがリズムの基本となっている」

これは『日本音楽療法学会誌』に掲載された「パーキンソン病患者の歩行障害に対する音楽療法の効果」という研究論文に出ていたという一文だそうだ。木下愛郎さんの楽しいブログに引用されていた。木下さんの名誉のために言っておくと、彼には他に語ることが沢山あるので、この稚拙な民族観に「鋭い突っ込み」こそ入れていないものの、「全面的には信じにく」いと断っていることは明記しておこう。

「日本人=農耕民族、欧米人=騎馬民族」という論議。「欧米人=遊牧民族」あるいはもっとひどいのだと「欧米人=狩猟採集民族」などなど、いろいろな混乱したバリエーションはあるものの、どれも大同小異に単純化された浅薄な民族観/歴史観である。というか、この手のことをすぐに口にする連中の「民族観」というのは、実にこの程度のものがほとんどである。しかも、それを疑問の余地のない前提として、自分の主張の強化を図ったつもりになっていて、いまだにあちこちに見出されるのだ。

「この問題」については、われわれの間では既に十年以上前から言い続けている言わば「古典」に属する議論で、今さらいちいち反論するまでもないはずの自明のことだった。決定的な論考として、盟友石川初の名文もある。

「日本人=農耕民族」を始めとする唾棄すべき単純な論法が、『日本人とユダヤ人』を書いた真性衒学者・山本七平あたりに起源があることを指摘し、その論理の浅薄さや山本の根拠とする聖書理解そのものを徹底的に批判した浅見定雄論文(『にせユダヤ人と日本人』)がある。これらにはほとんど付け加えることがあると思えないほどの広範かつ深い聖書への理解と洞察があり、相当多くの人がすでに引用している。だが、深く考えない連中はいつまでも「日本人は農耕民族だから…」という、とうの昔に相対化され無効になっているひどく単純な論法にしがみついて「何かを言ったつもり」になっている。そのすでに何の意味も有効性もない浅薄な根拠を基に、「自分たち:日本人」や「他者:欧米人」を理解したり説明した気になっている。今回引用したものも含めて「農耕民族としての日本人」を根拠にした論文などは枚挙に暇がない。そしてこれが日本の「アカデミズム」の程度である。だが、どんなアカデミックな装いをしても前提が間違っている以上、主張していること自体に大層価値のある内容があるとは思えないのである。

前出の石川のエッセイ『農耕は殺戮する』でもすでに述べられているが、およそ文明(都市文明)と呼ばれるに相応しいものは全て、農耕活動が基盤となっている。定住せずに土地を移動し続けるいわゆる「騎馬民族」や「遊牧民族」が、定住が条件である都市文明を築くことはない。都市文明の破壊者としてヨーロッパ史に登場する東方の「騎馬民族」などは確かに存在したが、彼らがそのまま都市に定住し、彼らヨーロッパ人を制圧し、その文明を継承したというような話もない*。

* チンギス・ハーンなどを初めとして、ユーラシア大陸を移動しながら都市文明を破壊したり「保護」したりした騎馬民族の例外的な隆盛というものは歴史上存在したが、彼らは文明の建設者であるというよりは、文明の僭奪者(横取りするもの)として、一瞬存在したのみだ。なぜなら、彼らが都市文明の頂点に君臨するという支配の雛形自体を異民族支配の方法として採用せず自分たちの移動式のライフスタイルというのを固持したからだ。だがこうした遊牧民の「文明」の存在は、「遊牧民族/騎馬民族としての欧米人」という論理を、何らサポートしない別史的な事実なのである。

また生産活動の高度な分業を要とする都市文明は、すべて<貨幣経済>を頼みの綱としており、その貨幣自体が農耕によって作り出された「余剰生産物」、すなわち自分たちが消費する以上の作物の生産と蓄積がまず発端としてあり、そしてその蓄積された物品の交換手段として登場したものであり、それらを保証し司る権力の集中などの出現なしにはあり得ないものであった。つまり、古今東西を問わず、文明(都市文明)と呼ばれるものは、すべて農耕と定住を生活の基盤とする生産者階級、そして第一次産業に従事しない都市生活者という分化された社会階級制度と、それらが緊密に組あわさった社会構造および法制度があって初めて成り立つものなのである。一方、移動する民族としての遊牧/騎馬民族たちは、移動が生活の基盤である以上、余剰生産物の蓄積ということが生活の中で採用できない。放牧に必要な草のあるところを目指して牧畜たちと移動し続けるしかなく、居住スタイルは基本的にテント式である。

地域によって、農耕や分業という経済制度の導入が歴史上どの時点で起こったのかという時間的な差異はあっても、現在のわれわれが断絶なく継承している文明活動としての農耕は、今からわずか3000年から6000年位前から、地球上のあらゆる場所で起こっていたダイナミックな流れであったのだ。その農耕化(文明化)の度合いや、農耕開始時期の差異によって、「農耕民」と「非農耕民」の悲劇的邂逅があった。当然、定住する農耕民は土地の所有が必要な訳で、人口を爆発的に増加させる農耕文明は、増えた人口を更に養うために、所有する土地の拡大が絶対に必須となる。一方、定住せずに移動を続けざるを得ない土地の所有の概念も計画生産もない「非農耕民」たちは、増加していく農耕民によって制圧される運命にあった。

遺跡などから発掘されるあらゆる文明の跡とは、こうした農耕が経済基盤として存在した都市文明の名残なのであって、西ヨーロッパが文明を築き始めた2000年前の時点で、一部の少数派を除いては、歴史の表舞台に登場する「記録する側」の人々は、すでに「狩猟採集」や「遊牧」などのフェイズはとうに脱却していた。むしろ生き残った遊牧や狩猟採集の生活を営む人々は、文明圏の外に暮らすいわゆる「低開発地域」の人々や、後からやって来た「殺戮し定住する」農耕民族たちによって迫害・殺戮され、土地を追われた「ネイティブ」の人々なのである。無論、日本列島で起こったことは、世界中に見られる迫害の対象としての「ネイティブ」の人々の上に起こったこと(卑近な例としてはアメリカ大陸、オーストラリアなど)と、大同小異であり、言わば歴史時代以降に起こったこととは「農耕」(特に稲作)をもたらす侵略者と、農耕という文明制度をまだ知らなかった狩猟採集の先住民たちの衝突であった。むろん、土地を耕すなどの生産手段をもたない、すなわち自然の供給する量以上の生産をしない狩猟採集民は、自然を可能な限りあるがままの状態として保存し、それとの共存こそが生きる道であり、おそらくほとんど定住することなく列島の隅々に散って移動しながら生活していたはずである。むろん、こうした非定住民に衝突したのは後からやって来た「農耕民」なのであり、侵略者たる農耕民族こそが「殺戮する側」なのである。

このあたりが旧約聖書の「カインとアベル」の逸話として残っていると考えることが出来る。計画生産する(未来を見通して土地を耕し種を蒔く)計画する「農耕民」と、その兄弟であるが農耕をしない(自然の与えるもので満足し、明日のことを思い煩わない)「非農耕民」との間の緊張関係として描かれている点で、すでに聖書時代にその宿命的対立の萌芽があったことを示している(これについては浅見のみならず、エリアーデによっても同様の指摘もある)。そして石川が指摘するように、神はカインの行なった農耕に対して「憂鬱」なのであった(神はアベルの供物を喜んだがカインの供物[農作物]を喜ばなかった)。そして、都市文明に属するわれわれは、すべからくカインに付けられた徴(原罪)を背負っているのであり、「決して負けることのない」農耕民、そしてその発展の終末期に差し掛かっているわれわれは、文字通り「カインの末裔」なのである。そしてカインに復讐するのは、アベルではない。それが出来るのは「神」(自然の摂理)のみである。つまり、自然から一方的に収奪したいだけ収奪する「農耕民族系」文明人たちは、最後の最後に、自分たちのやってきたことに対する報い(自然の大逆襲)を受けるのである。

もし、非定住民系の先住民が農耕民族と混血したのだとしたら(そして実際にした)、現在の日本人を果たして「農耕民族」と呼ぶことが出来るのであろうか。日本に都市文明を築いた我々の直近の祖先は確かに農耕をする人々であったかもしれない。だが、同時に農耕をもたらした大陸系の人々が馬をも日本列島にもたらしているのであるとすれば、祖先の一部は「騎馬民族」でもある。どちらも文明のもたらしたものと考えれば、農耕民族=騎馬民族でさえあるのだ。

したがって、日本人に遊牧民族の血が混じっていないことにも根拠がない。日本には稲作をもたらした民族の血も、馬をもたらした民族の血も、そして制圧された狩猟採集系の生き残りの血も、混じっていると考える方が自然なのである。

冒頭に引用したような文脈においては、「農耕 vs. 騎馬」という対立軸ではなく、同じ農耕を必要とした両文明において、どのような文化的な相違があるのかを論じた方がまだ有益である。例えば、日本人(そして広い東/東南アジア地域に分布する人々)の「稲作」に対して、欧州の「小麦作」という対立軸。日本の「田植え歌」に対して欧州の「農民歌」という対立軸のほうがまだましである。いずれにしても「日本の田植えのリズムに対して騎馬民族の馬のリズム」という対立軸というのはあまりにお粗末である。そもそも日本人の文化のひとつとも言うべき「海洋生活者」としての側面は無視しても良いものなのだろうか? あるいは山岳生活者としても。民謡として現在も残っているものは田植え歌ばかりではない。船頭歌もあれば、防人(軍人)歌もあっただろう。あらゆる雑多な業種を持った人々の集まりが日本人である。それは翻って「騎馬民族」と一方的に断じられてしまった欧米人にしても同様である。いったい、どれだけの欧米人が「乗馬」を文化として共有して来たというのだろうか? 一部の支配階級の人々だけではないのか? そして彼らは日本人が稲作を始めたより以前(もしくは同じ頃)から、一般庶民が乗馬をして来たと言う根拠でもあると言うのだろうか? 「騎馬民族」と呼ばれた欧米人はそのような言説を単なる悪ふざけ以上のものと受け取りはしないだろう。それがある学問領域において「アカデミックな論文」の体裁を以て発表され、しかも日本においては(あまりに馴染んでしまった価値観のためか)本質的な反論も起きない。

この「論文」を書いた人は、おそらく日本の音楽も欧米の音楽も、歴史も文化についてもほとんど不勉強だ。おそらく「日本人=農耕民族」という山本七平が流布し極度に単純化された言説を「不動の真理」として何の批評も加えずに、ただ受け入れて、それを持論の展開にお手軽に利用しているだけの話なのである。こうしたことを平気で論ずる人々に限って、「田植えのリズム」など、およそ自分の身体に染み込んでもいなければ、「内的な実感」を持っているのでもない。完全に稚拙な観念論であるに他ならないのである。

こうした文化的に(後天的に)伝えられ、社会的に発展されて来たものが、すぐに遺伝子(DNA)レベルで刻まれ、伝えられて来たものであるという考え方に結びつける人々の考えにも、疑問の余地がある(絶対にDNAレベルでないとは言い切れないが)。だが、ここではあまり風呂敷を広く拡げすぎない方が良いだろう。

「日本人には農耕民族としての文化的背景があり、腰をおとした田植えの動作がリズムの基本となっており、欧米人は騎馬民族として、乗馬の動きがリズムの基本となっている」だって…。もういい加減、このような歴史観や民族観を卒業しようではないか。