Archive for the ‘衒学のためのレクイエム’ Category

加速する回転遊戯器を止めよ!

Saturday, August 1st, 2009

〜カリユガを生きる自分たちに捧ぐ〜

文明の利器が「人の仕事を奪う」のは当然のことである。仕事を奪うと言うのが不正確だというのであれば、その目的は「人の仕事を減らして労働需要の絶対的総量を少なくする」のがそれである、と言い換えてもいいだろう。しかし、現実に起きていることとして、あるいはこれまでの実績ベースで歴史的経緯を見るにつけ、《技術革新はほとんど人類の労働時間を減らしていない》。何故ならば、この技術文明においては、減ったはずの労働時間(稼いだはずの時間)を、別の仕事に当てるのが当然とこの世界では思われているからである。

こうした事象の背景として、「労働賃金が労働時間を基準に支払われる」という制度が、相も変わらず産業革命以前の頃と同様に、多かれ少なかれ当然のように信じられ採用されているというのがあるように思われる。そうである以上、文明の利器によって生産手段が高度に洗練され、如何に生産プロセスが加速されたとしても、《余った時間に労働者は別の仕事をしなければならない》わけで、結局労働時間短縮にはならない。これが第一の問題なのである。

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知らないことを誇る

Monday, February 9th, 2009

知らない、ということは恥であるという「知」に対する基本姿勢はあるものの、あきらかな偏見と思われるような言説と出会って、人が誰かについて悪く言うのを聞いていると、そうした偏見を築き上げるだけの「知識」を自分が持ち合わせていないことを、幸いだと思うのである。つまり、あなたより(そのことについて)知らない私は、「少なくとも偏見を醸成しない種類の無知」を喜んでいるのである。

宿命論を越えて

Monday, December 10th, 2007

プロメテウス朗読会の最終回となったその日、梅崎さんたちが宿命ということについてと、そのわれわれの精神への作用について言及されていたのだが、今になって思えば実に印象的であったので、それを書き留めておくことにする。

宿命論は、理解できる。あなたがどう関与しようが(関与しまいが)、すべてはどうなるか決まっているという考えだ。宇宙はその開闢以来、宇宙の内部で起きつつあるあらゆる出来事は、その寸前までに起きていた出来事の影響を受けて、寸分違わずどうなるか決まっているという考えだ。因果の連鎖。原因があって結果がある。理由があって効果がある。なるほど。これは宿命論でもあると同時に機械論的だ。つまりメカニズム的に宇宙を解釈するという(こう言って良ければ)ひとつの純然たる人間的思想だ。

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「河合隼雄」という問題

Monday, September 3rd, 2007

まず前提を理解しなければならない。ユングは全体主義的な哲学とは縁もゆかりもない。彼の根底に流れる通奏的な思潮は、むしろ「反近代」とさえ呼ばれるに相応しいものである。

欧州大戦中にナチズムに加担したということが言われるユングであるが、以下のようなユング自身の記述から伺い知れるのは、そうした全体主義的な時代精神というものに対する、むしろ批判と嘲笑なのである。

ウィルヘルム一世の戴冠式がヴェルサイユで行われたというニュースを聞いたとき、ヤコブ・ブルクハルトは「それはドイツの破滅だ」と叫んだ。すでにワグナーの諸元型が扉を叩いており、それとともにニーチェのディオニソス体験があらわれた。それは陶酔の神、ウォータンに帰するものという方が良いかもしれない。ウィルヘルム時代の傲慢はヨーロッパを不和にし、1914年の惨禍へと道を拓いた

(ヤッフェ編『ユング自伝・2』みすず書房 page 50)

彼はそうした時代精神が怒濤のように流れ始めていることを肌で感じとってはいたし、そのことの「意味をよく理解していた」が、彼の時代に対する眼差しはむしろ客観的である。例えば、次の記述は国家主義というものの本質を見事に捉えていて、自由主義という名の下に国家への隷属は強化されるのだという、今日においてさえ重大な警鐘となることを述べている。

輝かしい科学的発見によってわれわれは恐るべき危険にさらされていることは言わずもがな、大いなる自由という希望は国家への隷属の増大によって帳消しされていることを、認めようとはしない。われわれの父や祖父たちの求めたものを理解しなければ、それだけわれわれはますます自分自身を理解しなくなる。かくして、われわれは個人としての根源と、自分を導く本能とを断ち切ることに全力をあげて加担し、その結果ニーチェが「重力の精神」と呼んだものによってのみ支配される集団の一分子となるのである。

(ヤッフェ編『ユング自伝・2』みすず書房 page 52)

などと、引用しながら『ユング自伝』を楽しく通読していたら、先頃死去した故河合隼雄の追悼式があったという報道が入って来た。

河合隼雄追悼ニュース

死者に鞭打つようだが、彼の業績についてはユング紹介者・翻訳者・研究家としての側面しか評価することはできない。

それにしても何ゆえに、晩年の河合隼雄は国家権力のこういうしょうもない手先みたいな輩に成り果てたんだろうか。いわゆる「知識人代表」として、文化庁の長官を務めた後、文科省文責の悪名高き“道徳”の副教材『こころのノート』の編集に積極的に携わるなど国家官僚的なエリートとして終わったということは、アカデミックな人間の極めることのできる頂点のひとつであって、世間における“成功”の一例なのだろう。だが、これはまさに生前のユングが背を向けたことではないか。そして彼の周りにいたよき理解者らしい知識人たちは一体彼のそうした奇行をどのように眺めていたのだろう。それが不思議でならない。

『ユング自伝』によれば、ユングは常に悩みながらも内なる声を意識化することを心がけ、内面の心の力と向き合った。また自己#1と自己#2の間でそのバランスをとり、ふたりの自分の間の矛盾に自分なりの折り合いを付けた。

それに対して、日本におけるユング紹介者・河合隼雄は、晩年、国家(権力)としての日本の、国際競争力と未来において「闘争し勝ち残れる子供たち」の製造に心血を注いだ。これは彼の業績の中で、掛け値なしに恥ずべき汚点だ。道徳教育の全面的な復活という最終目標が持つ意味について、彼が十分に深く考えたとは考えにくいほどの浅薄な懐古主義と呼ぶべきであろう。

河合隼雄がアカデミーの中で成功していくうちに、だんだんと国家権力側の方に取り込まれていったと思われる軌跡は、彼の著書の出版社や共著者の面々から見ても伺える。岩波や朝日新聞社などから刊行された本は多く、共著者としても、鶴見俊輔、大江健三郎、谷川俊太郎、村上春樹、山田太一、中沢新一、鎌田東二などの諸氏がいて、彼らが河合隼雄の、後の時期における国家権力への偏向(否定し難い権力志向)は誰にも予測できなかったのであろう。

河合隼雄のそうした偏向は『モラトリアム人間の時代』を書いた小此木啓吾との交流辺りから出てきたのではないかと推量する。小此木啓吾のモラトリアム人間についての論理が何を導くために意図されたのかは分からないが、「国民」が国家にとって有用な労働力であるべきだという権力/国家中心的な視点に力を与えることになったのは確かである。いずれにしても河合隼雄は反全体主義や反戦思想を持った知識人との交流を持ち、共著の多くをそうした人々と協同して出版することでキャリアを始めたが、最後は極めて国家主義的・全体主義的・反動的な思想を述べるスポークスマンとなった。極めて遺憾なことである。

一方、日本ではユングについて語ることは、その思想の初期の紹介者であり数少ないエラノス会議への日本人参加者の一人であった河合隼雄を、不幸にも連想することなしには行なうことができない。河合隼雄の晩年の国家官僚としての奇行は、ユングについて語り論じるとき、確実にわれわれに困難をもたらすだろう。

ユングの元型論や集合的無意識論というものが、河合隼雄が与したような全体主義や国家主義(自己の優先的生存)へとわれわれを駆り立てるような論理を本質的なものとして含むものではないにも関わらず、そのようなものである印象付けが、正統で余りある良心的な反・河合論者の側から成されつつあることが、実に残念なのである。ユング理論と晩年の河合の道徳論とは、明確に分けて論じる必要がある。

それにしても、日本ユング研究会会長をやっている林道義をはじめとして、日本におけるユング派がどこか「ロクでもない人たちの集まり」であるようにも思え、不信の念を拭えないのである。

「河合憎ければ袈裟(ユング)まで憎い」式のユング批判もある。主張の中心にはむしろ共感するが、こうした研究者によって河合批判のみならず、ユング批判にまで及んでいくことは、今後その批判の矛先が自分にまで及んでくる可能性を暗示しているので、時間を掛けて思潮の整理と我らが理論の強化をしなければならないのである。

参考サイト:続・日本ユング派 河合隼雄批判

前田耕作『宗祖ゾロアスター』を読む #3

Wednesday, July 18th, 2007

(引用開始)

「東方の三博士」とは、マタイの福音が説かれたパレスティナの人々にとっては、「マゴス」のことであったと芸術家たち[“東方三博士の礼拝”をテーマに競い合って取り上げた中世〜ルネッサンス期のヨーロッパの宗教画家たち]には分かっていたであろうか。

「星」に導かれてやってきて、「夢」を説いて帰っていった博士(マギ)たちというイメージには、占星術に通じたカルデアのマギと、夢占いにたけたメディアのマギが重ね合わされているように思える。しかし新約のマタイ伝には、旧約の「エレミア書」や「ダニエル書」が伝えるマギの姿影はすでにない。(略)

だが彼らが捧げた三つの贈り物に、古意の残存を見ることもできる。三つの贈り物=供物には、きっと彼らの出自と関係のある象徴的な内意がひそめられていたにちがいない。バンヴェニストのようにいえば、それによって社会が自らを表象する姿の総和を凝縮したものにほかならないからである。「黄金」は富、「乳香」は神に捧げられる薫香として祭祀を象徴し、「没薬」は血止めとしての薬効から、戦士に関わる象徴と考えたらどうだろう。

(略)「マタイによる福音書」のこのくだりほど象徴的な意味に満ちあふれている個所は無い。隠喩の豊かさが「福音」(よき便り)に宗教的な深い彩りを与えるのである。「マタイによる福音書」はマギについて語ったけれども、彼らの祖師ゾロアスターについては沈黙を守ったままである。だが旧いキリスト者たちは「東方」がペルシアであることも、「博士たち(マギ)」の祖師がゾロアスターであることも知っていた。(p. 28-29)

(引用終了)[ ]は引用者による補遺。

今回はやや長く引用せざるを得なかった。この重要な想像力を掻き立てる解釈的示唆がこれ以上の簡略さでもって説明されることは、著者の前田氏によっても考えられないことだったかもしれない。いずれにしても、ここで語られていることほどに聖書の「歴史的記述としての価値」を再評価できる箇所もあるまいと思えるほどの驚くべき指摘である。(正直、enteeは久しぶりにドキドキするほどの興奮を覚えた)

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神の恩寵に与ることは原罪を背負うことと同義であることについて

Tuesday, July 10th, 2007

Fall

罪の意識とは、そもそも論理的には関係性や条件性の中にしか存在しえないものだった。「○○をしなければならなかったのにしなかった」とか「すべきでないのに○○をしてしまった」というような、「罪が犯される」に先立って、すべき、せざるべき、という何らかの約束や契約などの条件がなければ、そもそも罪は成立しない筈のものである。これは、善や悪がそうであるのと同様で、あくまでも善は悪の存在を前提としなければ存在できないし、悪も善の存在を前提としなければ存在できないという二者の相互依存にも似たもので、罪と契約(約束)は、相互に切っても切り離せないペアなのである。約束のないところに罪はない。したがって、生まれながらにして罪を持っているとか、祖先から相続されてきた罪があるというような、条件を必要としない罪というものがあるかの説が信じられるには、一体どのような「前提」が必要になるのであろうか。

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過去における他者の《死》が未来におけるあなたの贖罪になる理由(あるいは詭弁)

Monday, July 9th, 2007

Pieta

拙論は、

イエスがみずからの身を十字架にかけることにより「贖罪(罪をあがなうこと)」を全人類のために果たしてくれたから、とキリスト教では教えている*

というキリスト教の中核ともいうべき(だが大胆な)教義の記述についての解釈論である。

過去に行なわれたキリストの十字架上の刑死が、未来の人間であるわれわれの罪を消し去る「贖罪 しょくざい」であったという考えはどのように成立しうるのだろうか?** そのようなことが論理的に成立するのかと言えば、どうしても否と言う誘惑を感じないわけには行かない。。だが、こうした不可解もキリスト者にとっては当然のこととして躊躇いなく受け入れている部分のようである。そもそもどうして過去の聖者の自ら選んだ死が、未来の人間の過ちまで含んでそれらを消し去ることに通じ得るのか? 

* 「新約聖書とイエスの歴史的受容」Wikipediaのという項目からの引用。

** こうした疑問は決して真新しいものではなく、キリスト教に対する懐疑の発端としては古典と言うべきものである。例えば、「贖罪【しょくざい】論 」として書かれている解説にもそうしたトーンが反映されているのを見て取ることができる。これは一読の価値がある。

ある意味、これは現世を生きる人間にとって大変「便利」な教えである。現世を生きるわれわれがこれほどまでに堕落し、「間違って」いるのは、この免罪符をすでに手に入れたと考えたためではないかと思われるほど、われわれにとっていかにも有利な教えである。もし、「イエスがみずからの身を十字架にかけることにより贖罪を全人類のために果たしてくれた」と受け容れることが、キリスト者への第一歩であるとすれば、そこには信心することに付随する苦悩が存在しないように思えるではないか? 一体このような「決心」のどこが困難な修練となるのであろうか? 聖書時代から視れば、すでに未来の時を生きているわれわれの犯した(あるいはこれから犯す)罪が、過去の“聖者”による行為によってあらかじめ「消し去られている」のであれば、われわれは何をやっても良いという風にさえ、あえて解釈されはしないだろうか?(いや、現にされているのではあるまいか?)私ならそうするだろう。

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「解釈」や「自覚」を越えて

Friday, June 29th, 2007

「ブラックサバス問題」だが、それは個々の作品と、作品の時間的/空間的「連なり」をどう捉えるのか、言い換えれば作品自体に個別に対峙するのか、作品群の中に個別の作品の特定の位置を発見して発展史という文脈の中でそれらを捉えるのか、という二者択一の問題に行き着く。

そこまで書いて、ふと一昨年の今頃書いた「自覚的であるということが、創作内容の芸術性の決め手となるか?」という文章を思い出した。

(時間のある方は後で読まれたい。)

まあ言ってみれば、大なり小なりマニア的な(あるいは熱心な)芸術の愛好家というのは、単に行き当たりばったりに個々の作品を鑑賞しているのではなくて、往々にして作品を「文脈:コンテクスト」として捉えられるほどのまとまった量で鑑賞するものであるし、そうした横断的な鑑賞法がもたらす感慨には、個々の作品から単独で得られる感動と同等か、もしくはそれ以上に興味深いことがある、ということを知っているということなのだ。そして評論家が評論家である理由というのは、こうした歴史的文脈で「作品を理解する」ことができる歴史鳥瞰的な眼を獲得したということに外ならない。だがもちろんこれは評論家だけの特権ではなく、あらゆる創作者が持っていても「損はない」ひとつの視点ではある。そこまでは便宜上、認めても良いだろう。

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イエスの墓がどうかしたか?

Sunday, June 17th, 2007

[イエスの墓]「発見」論争熱い欧米 エルサレムは冷ややか

すぐにリンクが切れるだろうから画像をここに。

宗教の教示した神秘や驚愕的価値はこんなところにはないぞ。言っておくが。

私が以下のリンク先の記事などですでに何度も繰り返しているように、「史実としてのイエス」なるもの信憑性にいちいち一喜一憂して振り回されているようでは(それを否定する側とそれを肯定する側の双方にとって)まだまだ本当の意味で宗教の役割の意味や聖性の本源に触れるのにはほど遠く、なんら成長の機会がないとしか言いようがないのである。私はキャメロン氏の映画はそれなりに評価しているが、イエスの墓に夢中になるようではまだまだ底が浅い。

われわれにとって、イエスの史実性とはまったく副次的な価値しか持たないものである。イエスの存在が史実であれば、地球の表面のどこぞにその骨のひとかけらくらい残っていても不思議はない。だが、それはわれわれが探求することをやめないその対象なのであろうか? われわれは未だに聖杯を追い求める冒険者のレベルに留まっていていいのだろうか? その答えは断じて否である。

それではわれわれは信仰者として、「神の子」イエスを崇拝することでその役割を果たしているのか? 否。否。断じて否である。イエスを神の子と呼びたいその心がわれわれを欺瞞の壷の底に叩き落としているのである。何度も繰り返すが、聖書でさえイエスのことを「人の子」と呼んでいるではないか!

われわれにとってのキリストの価値とは、それがイエスであったのか、それが「救世の主」であったのかどうなのか、そのようなこととは何の関係もない。われわれにとって、「イエス」なるコードネームは、どこぞの聖書考古学者が生涯をかけて追い求めるような、物質的な対象物でもなければ、復活をして天に昇ったとされる信仰者の対象たる「神の子」でもない。

それは「死してまた甦る」という「死と再生」を表す神話的元型の、最もわれわれに近い時代を生き延びた「最後の神話」としての価値がある。そしてその「神話」を完成させるべく、現在進行形のプロットとして、われわれの文明が進捗しているという事実に、本当の価値が見出されるのだ。これは過去の象徴的物語であると同時に、未来を占うものである。

【過去の参考記事】

流行ったものは廃れてしまう(栄枯盛衰のことわり)

http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=159554

宗教の「第三の機能」への一瞥

ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本』を読む [1]

http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=159740

イエスとマグダラの「婚姻」の意味するところ

http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=164039

これ以上何を言うべきであろうか? キャメロン氏には悪いが、彼が全く無自覚に造り上げた商業的大作『タイタニック』にさえ、それを解く鍵が象徴的に隠されているのだ。

http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=116222

「死と再生」と「世界の更新」から観た『タイタニック』考

真性《オカルト》論について
あるいは「日本語において言葉の倒錯への傾斜は余りにも急だ」

Saturday, June 16th, 2007

真性《オカルト》論について
あるいは「日本語において言葉の倒錯への傾斜は余りにも急だ」

あるネット上のコミュニティで、「スピリチュアル」という言葉の濫用によって、その言葉を使うことが躊躇われるような状況に今の日本はなっているという嘆きの言葉が載っていた。その正統な指摘はそのコミュニティでなくてもそのように感じている人が多いのではないかと思われるほど、否定しようのない活況を呈しているのは実際本当であろう。

そこでの発言のいくつかをそのまま引用してみる。

人間性にとって最重要なトピックである”精神”の問題が、多くの日本人にとって、オカルトの文脈で語られてしまっている、ということなのだから。

もうひとつある。

例えば、「オウム」の仏教の本来的意味は、「永遠」です。しかし、いまやこの言葉は死んでしまいましたね。あーこのままでは「スピリチュアル」が「オカルト」になってしまう・・・

「スピリチュアル」という言葉が本来の意味で使いにくくなってしまったことを嘆くこの二つの意見は、「オカルト」が怪しげな精神主義やカルト宗教絡みのものであるというような、あきらかに否定的意味で使われている典型的事例とも言うことができる。だが、そもそも「オカルト」という言葉にそのようなニュアンスはあったのだろうか? 私の考えでは、それは単に「隠された秘教的伝統(神秘主義)」のことに過ぎず、それ以上でも以下でもない。むしろ「隠された」という意味内容が、長い時間の経過の過程で別のものに置き換わってしまったことを端的に表す例のひとつであるように思えるのである。

このことは現代人によってはなかなか理解しにくいことであろうが、「Occult オカルト」が、きわめて暗い内容を含む対象を指すものであるにしても、その研究自体はそうした否定的な意味を持たず、ある正当な理由で、むしろ正面切って論じるべき価値のある真剣なサブジェクトであった。その意味においては、1630年頃の欧州で、“あーこのままでは「オカルト」が「似非神秘主義」になってしまう・・・ ”と嘆きたくなるような事態があったと言えるのである。つまり、目下「スピリチュアル」という言葉の濫用によって起こりつつある迷惑事態は、遠い昔に「オカルト」という言葉にも起こっているのである。

今日では真面目に「オカルト」を論じようと思っても、論敵を揶揄して使う際の「オカルト」というニュアンスの方が今では勝ってしまっており、そうした怪しげな似非神秘主義(目に見えざるもの全てを含む似非科学など)などの否定的意味以外の本質を伝達する力を失っている*のである。その点では、こうした本質的意味の回復を図ろうという論理は、それが如何に正しかろうと、おそらくほとんど現実的な効力を失ったことを認めざるを得ない状況にあるわけである。

* このような事態になった理由には、70年代にブームになった「オカルト映画」というジャンルの登場もあるだろう。『エクソシスト』や『オーメン』、そして『キャリー』といった悪魔払いや黙示録的預言の実現、あるいはサイコパスによる猟奇事件といったテーマが大々的に映画の題材として扱われ、それらが十把一絡げに「オカルト」の名前で呼ばれたことが大きいと思われる。今上げた映画はどれも同じようなテーマを扱っておらず厳密には何の共通点もない。

だがそれでもあらためて、「オカルト」の持っていた失われた《本義》に戻った時、その言葉は「心によって把握できず、人知を超えたもの」という1545年頃の本来の定義説明によって意図されたような、「隠された真実」「隠し伝えられた秘儀」「隠された秘教的伝統」の意味に限定して使われるべきなのである。それは、そうした学問/研究領域を端的に表す言葉がそれ以外に存在しないから、とも言えるのである。無駄なことであるかもしれないが、オカルト研究家の立場としてはそのように言いたいところなのである。

あらためて「隠された」という言葉の意味内容を考えてみよう。それは「visibleな肉体的/物理的事象」に対する「invisibleな精神的/心理的事象」というような意味で、「目に見えない」ことを扱うのではなく、ひとつにはその問題の現実性を論じるための証拠が「遥かに古い時代に失われている」という意味で「隠された」と表現する以外にないような《何か》を指す言葉なのであり、別にスピリチュアルの意味でも精神性の意味でもないのである。あえて誤解を恐れずに記すなら、どちらかと言えば、真性の《オカルト》はどこまで行っても物理的事象なのであり、また可視の問題を扱うものでしかない。それが現実的には不可視であるのは、単にそれが人知を超えた現象であり、また大変昔*に起きた現象であるという意味ででしかないのである。

* 「大変昔」とは言っても人類が地上に現れて以降の話なので、地質学的なスケールの時間領域を扱う訳ではない。あくまでもわれわれの知っている文明を築く傾向のある人類の登場以降の最近の話であるとも言える。

そしてそれが「隠された」と言われるもうひとつの理由は、その内容の重篤性によって無かったことにされた――すなわち文字通り「隠された」――ものであることを忘れるわけにはいかない。つまり「歴史*」的なある種の事実(祖先たちの《上》に起こったあるできごと)が、そのことの重大さと信じ難さのために、われわれによってハンドルし切れないこととして隠されたということなのである。それは、「隠しながら伝える」を本義とする秘教的/神秘主義的伝統とその価値を理解する者たちにとっては、あまりに自明なことであるが、真実を述べ伝え、危機への意識を共有すべき役割を持っていた筈の幾つかの宗教が、その役割上の転向を起こし、隠すだけの組織と堕してしまったことにも原因がある。それはそれだけで論じるに値する課題を持つのであるが、「忘れられた宗教の機能」についての長い補足でも説明したように、宗教がそのような転向**を行ない、真実の「保存と伝達」から、真実の「積極的隠匿」へと走るのは、人間の組織としての宗教団体が、言わば資本主義に象徴されるような近代主義の片棒を担ぐことになってしまうことにも原因を求めることができる。それはこうしたヒトのヒューマニティの目醒めという力強い流れには宗教さえ抗することができなかったこと、そして組織としての生き残りを優先すれば、その発足の理由(悲劇の回避のための知恵の伝承)さえも忘れることができたこと、などが挙げられるであろう。

* 「歴史」と括弧付きで表記したのは、歴史時代(有史以降)が記録が残っている時代という意味であるならば、記録のないきわめて古層の歴史的事実を扱うものであるからである。アカデミックな言い方をすれば有史以前であるからそれは歴史と呼ばれるべきものでないという意見もあろう。

** entee memoで「転向」という言葉を検索した結果

確かにオカルトはスピリチュアルな問題とも接していることは否めない。したがって広義にはスピリチュアルなこととして論じることも可能だが、それは今の段階では問題を不要に複雑にしてしまう時期尚早な態度であるということができよう。問題を精神論にまで発展させる以前に、歴史的事実としての「オカルト的事態」「隠された歴史」があったということを実感として諒解することが、目下のところ最優先されるべきなのである。

例えば、コリン・ウィルソンの名著『The Occult オカルト』が、オカルト領域を真面目に言わば肯定的に論じたこともあり、その言葉の名誉挽回を図ったと言うこともできるばかりか、その著書自身が知的興奮を引き起こすに十分なものであったとも言えるのであるが、彼自身のオカルト理解が、結局その後の彼の関心が向かうところのESP(超能力)や魔術といった方面の「疑似オカルト」に引っ張られていることは否めず、《オカルト》という言葉の(歴史的に隠された秘教的伝統であるという意味での)正統的な理解を助けるものではなかったのは残念としか言いようがないのである。

だが、著書全体がわれわれに向けさせようとしている領域の面白さは否定のしようがないと思えたので、敬意を表してその著書の英語版表紙の画像を添付した。

The Occult