Archive for May 8th, 2007

前田耕作『宗祖ゾロアスター』を読む #2

Tuesday, May 8th, 2007

(引用開始)

ヤズドに赴いた(ポルトガル人ペドロ・)テイクセイラは、そこで「太陽と火に仕える人びと」を見た。そこには、三千五百年以上ものあいだ絶やされることなく保存されている火」があった。「火はヤズドから一日行程で行ける山の上にあり、“火の家”とよばれ、多くの人びとが常にそれを見守っていた」と語り伝えている。

彼こそゾロアスター教徒が今日なお、イスラーム支配下のペルシアに生存しつづけていることを報告した最初のヨーロッパ人であった。(p. 41)

(引用終了)

これを読んだわれわれは「三千五百年以上ものあいだ絶やされることなく保存されている火」の逸話に驚くかもしれないし、むしろそのような記述を信じようとさえしないかもしれない。だが、もしそうだとすればそれはその火そのものの指し示す意味や、それを維持しようとした儀礼の象徴する内容に思いを巡らせられないからである。

実は、3500年どころでない永きに渡って「絶やされることなく保存されている火」というのがある。それはわれわれの身近に存在する。われわれの生きる文明それ自体がそれである。その「火」はわれわれの文明が安全な場所として絶えることなく維持されるべく燃やし続けられてきた。その努力たるや、「三千五百年以上ものあいだ」火を絶やすことなく保存すること… どころでない真に遠大な構想と規模を持った壮大なグループワークなのである。そしてそれはことによるとすでに一万年ちかく続いている可能性さえある。

われわれの文明維持のための技は、個々人の短い人生において個別に発展させられたり維持されたりしているものではない。個々人はその遠大な事業を可能にする役割のごく一部を担っているだけである。それは親が直立歩行しているのを見て、それを真似して直立歩行しようと子供が努力するくらい、言わばあたりまえに見られる「社会学的」な現象でもあり、また、一度も絶やすことなく維持されてきた書き文字の文化や、火を起こしたり水を制御したりすることを含む、われわれの安全な生存に必要な技術の伝承によって成されてきた。文明とはまさに一度熾(おこ)した火を絶やすことなく集団で役割分担や交替等をしながら雨風から守り通す行為そのものである。

だが、情報の集積と情報の学習によって、火を維持する技術はそれをただ維持するばかりでなく、世代を経るに従って洗練さえされてきた。

ことによると、その火の維持の儀式によって伝え切らなかったことがあったのかもしれない。それは、火の規模拡大の禁止である。家族何人かを暖かく維持し、食事のための煮炊きをするのに必要な、細々とした火の維持をしつづけるのではなく、その火を一ヶ所のみならずあらゆる場所で、しかもいつでも再現したり取り出したりできるものとして「開発」することが、単に安全な生存の確保以上に、便利で豊かな生活を可能にならしめた。もはや一旦消えた火を七転八倒の苦しみを経て熾す必要もない。それはいつでも取り出せるものとなった。

そして、それは単に消極的に「火」の維持をするばかりでなく、ひとつの個人の人生が終わる度毎に一から学び直されることではなく、一旦、前世代によって学ばれた「炎の維持」についての知識を、既存の技術や自明の知識の上に新たな方法や手段を積み重ねることによってより「進化」させることを学んだ。それはつまり火の規模の増大である。

それは絶やすことなく維持される火であったのが、大きくなりすぎる火を消して回り続けなければならないような危険な《大火》へと成長することになるのだ。

プロメテウスが人類に手渡したと言われるその「小さな燃えさし」は、いまや巨大なダイナモを回すための松明の炎となった。強大に成長したダイナモはあたかも地上の生ける神となり、更なる燃料を要求した。そして人類は開けることのなかった「炎を閉じ込めた厚い壁」を破る方法を学び、ついには太陽に由来しない炎を手に入れた。そしてその炎はダイナモを止めることなく回し続けることができるようになったかに見えた。

拝火教徒とも呼ばれるゾロアスター教徒の儀礼の炎は、このようにして確実に今に伝わったのだが、肝心のゾロアスター教徒(パールシー)は数多く見出されていない。現在インドなど僅かな場所で──だが特別な地位をもつエリートとして──存在しているという。しかもインドにおいて、原子力発電産業は少数派のゾロアスター教徒らによって運営されている*という。遠大なエイオンを越えて《火》の秘術を伝えた拝火教徒は、我らが世界においてもその名に相応しい役割を担っているのである。

* ユダヤ人たちが伝統的に金融業(金貸し)などの領域にその活路を見出したように、被差別の少数派が、ひとが伝統的にあまり関わりたくないと考えるような「汚れた」職業に就かざるを得なかったために、特定の産業部門にそのようなマイノリティがよく見出されるというような社会的なメカニズムによって似たようなことが、インドにおけるゾロアスター教徒に起こったと言うことができるかもしれない。

忘れられた宗教の機能

Tuesday, May 8th, 2007

当たり前のことを言う気はない。だが換言して、これほど当たり前のことも無い。

宗教の機能の一つ。それは何と言っても過去の“歴史”を伝えるということ。

人類にとって忘れるべきでない「なんらかの重篤な事態」が、「なんらかの原因」によって引き起こされたということ。すなわち因果についての学であること。

翻って、それを再び繰り返さないための智慧も同時に提示(教示)するものであるということ。

「因果」というのは人間の欲望が文明的な、《始まりがあって終わりがある》という人間の運動を惹き起こすということ。

すなわちわれわれの生きる世界が、「αであってΩである」という運動についての学であると言うこと。

滅びがあるのは発端があるため

という原理に到達する(悟る)こと。

文明行為という発端が、滅亡をも約束する。その因果応報を阻止することが「地上における輪廻からの解脱」である。そこに霊的な概念を持ち込む余地はない。あくまでも地上的な「出来事」にたいする学として、対策として、宗教は存在する(した)。

忘れ去られて歴史にも記録されることができないほどの旧さを持った「ある出来事」に関わる「因果」について伝えるのが、宗教というものの本来持っていた内容である。あるいは神話の形で残っているのがその断片である。

しかし、そうした因果の法則を理解できない、あるいは実際に起こった事態を、それとしてリアルに実感できない「その後のひとびと」(子孫)によって、宗教の役割が早々に見失われる。「とにかく守らなければならない因習」と形骸化しているものが、宗教を起源とするさまざまな因習・作法であり、また伝統と呼ばれるものである。

意味を考えることなく、「伝統の伝えるところをとにかく守り続けていれば安全である」ということを言い出す教条主義がまかり通る。そして、それをするのが僧侶であり、それを支持するのが信仰者たちである。

宗教の中でも教条のみが強調されているのが、われわれの現在知るところの「宗教」である。だが、本来の宗教の伝えようとした歴史の真実や、因果の法則を理解し、それを今後の時代に伝えるために、宗教との関わりのなかでわれわれにできることは「信仰者」になることではなく、「宗教」の伝える断片を解明し、正しく理解し、それを再構築することである。

それが宗教学である。

現在「宗教」となっているものの多くは、かつては人間に関する科学であり、あるいは社会科学であり、また心理学であったものである。