Archive for February 11th, 2005

天国と地獄が混在したようなライヴ、その後

Friday, February 11th, 2005

morishigeyasumune + nakami zo duo (tempo primo live II)を終えて。

私が目指しているものを「予定調和」と呼びたければ呼ぶが良い。だがそれは注意深くボクの相方によって回避されたらしい。だが、音楽の方はどうか? おおきな疑問符が頭上に浮かぶようなライヴであった。もちろん、結果の「責任」を自分が引き受けての話である。

げに、何一つとしてナメてかかってはならないのが即興音楽である。音楽そのものだってナメて掛かったことはないつもりだが、即興の難しさも重々承知のことだ。だが、やはりナメたのか? いやナメたつもりはない。だが、結果的にナメていたと思われても仕方がないような、予想不可能性と即興につきものの根本的困難が露呈したライヴであったと思う。

もうひとつナメてはいけないのは観客の方の判断である(当然である)。どうしようもなかったと絶望して終わったライヴを絶賛してくれる人が現れ(それが社交辞令であると思えないいくつかの根拠があるんだがそれは割愛)、それで幾分なりとも救われたと思ったら(思った事自体がまた間違いだったんだが)、それと前後してきわめて貴重かつ鋭い批判の言葉を頂戴し、別の意味で頭を抱える、ということが起こった。

しかし、人に言われて初めて頭を抱えたと言うわけでもない。批評がすべて納得のいくものではないにしろ、最善からはほど遠いという事自体、やった本人が一番自覚していることではある。そして、どんな表面的な繕いが可能でも、本当に感じたことは相手にも十分伝わっていくということである。

最初の話に戻す。「tempo primo」というプロジェクト名は、二人が共通して持っているある種のタイム感覚を暗示している。即興していて、自然と二人が収まってしまうある種のビート感を「戻ってくるテンポ」と捉え、それを「原初の速度」、あるいは「最初のテンポで」という速度記号「Tempo I (primo)」と掛け合わせたものだ。だが、相方のmorishigeさんは、それで旨く行くという方法たるtempo primoを、演奏本番中に注意深く避けるという選択に出た。一方、morishigeさんが普段からある意味得意としているある種の「非楽音」以外の(おそらくもっと謡った)何かをボクは期待しているところがあって、そこにまず最初の音楽実現上の課題が潜在していた。

即興(の質)を優先する(これがどういうものなのかを自分には説明できないんだが)アプローチと、少しでも既視感ならぬ「既聴感」のある音楽性を選択することにためらわず、本能的に音楽的結果を優先しようとするボクのアプローチ(これは即興者の間では糞飯モノであるらしい)との間で緊張が起こる。どちらがどちらを引っ張るかは力関係でもあるが、どんな力で引っ張ったって相手がそれについていかないと決心していたら、それを音楽的にスポンテイニアスに相手に伝えることは不可能である。伝わっていてもそれを「無視する」という選択が可能だからである。そして、即興が安易に相手の思うようにしない、という選択の自由を含むものである以上、無視されるという事態も受け入れなければならない。むろん、この日のボクの演奏にmorishigeさんを無条件に「したがわせる」だけの力がなかったことが第一にある。いや、それは力の問題ではないのかもしれない。それはひょっとすると音楽以前の互いの間にある何か感情に起因する何かなのかもしれない。だが、それが何であったかなど、終わってしまった今は、観客にとってはどうでも良いことである。

いずれにしても、私から観たmorishigeさんは、普段見せるような「非楽音」をあまり多用しない、ある種、積極的に謡うチェリストとして存在していた(これを観客は賛同しないかもしれないが、それは依って立つ観点の相違である)。私はそれに喜んでノルべきだったのだが、その見慣れないmorishigeさんの積極的なアプローチは、私にとってはむしろかなり未知な部分であった。未知は未知で問題はない。それへの対応をする相方としての自分は、即興者としては十分にそのアプローチを生かす方向に切り替えられなかったのである。即興者としては実に落第である。

では、謡う音楽家として自分は及第だったかと言うと、その点でも自分は中途半端であったとしかいう他ない。自分の中で、自分の普段通りのスタイルとmorishigeさんの(私が思い込んでいた)スタイルとの間のギャップをどう埋めるのか、という前提からして間違った発想から抜け出すことが出来ず、苦しんだ。

確かに一度は期待したのにそれを得たいときには与えられず、それが与えられたら今度は受け取ることができない、というディレンマである。

こうした即興演奏中の不自由を、苦しみに変えず、楽しい過程(プロセス)へと置き換える何かが存在するとしたら、それはおそらく自由をハンドルできる強い精神力なのである。morishigeさんには、確かにそれにチャレンジできる強さがある。それが音楽の魅力ではないのかもしれないが、そうした強さによってこそ支えられる自由人の強さを、彼のファンはmorishigeさんの音楽から見いだしているのかもしれない。

セイフティ・ネットがなくてはしばしば不安を感じるボクのような人間が、即興にコミットすることが、そもそもマチガイなのかもしれない。(だが、わかっちゃいてもやめられない、のが他人と演る即興音楽なのである。)