Archive for February 25th, 2005

敵をつくるわれわれの心

Friday, February 25th, 2005

排除しようとするわれわれの心がやがて排除しきれない敵を作る。敵は最初から敵ではなかったし、敵もわれわれの敵たろうと想像だにしなかったにもかかわらず、相手を敵だと分け隔てるわれわれの心が、敵を顕在化させる。最初に敵意を抱いたわれわれの心が相手を敵であると確定する。

そして、一旦「敵対関係」が築かれると、双方に生き残りをかけた闘争が生じ、敵を抑圧する力が強ければ強いほど、敵となった相手はより一層の力で生き残りを賭けた反撃をしてくるであろう。それをさらにわれわれの力で抑えようとすれば、そこにはもはや力と力がしのぎ合う悲劇的な悪循環しか生まれなくなるだろう。

しかるに、われわれは敵だと思う相手を、自らの心が招いたものだと省みることがあるだろうか? 在日朝鮮人が怒っているのも、ユダヤ人がこれほどまでに力を付けて反ユダヤ主義に対するアンチ「反ユダヤ主義」を伸長させたことも、歴史上なかったかもしれない。こうした一切が、われわれとわれわれ以外という分け隔ての心が生み出したものだという反省があるのか? そもそもどちらが先に敵意を抱いたのか? それは無自覚に人を抑圧したことへの反発であったに過ぎないのではないか? われわれが信用されないのだとすれば、それはわれわれがかつて蒔いた種をきちんと清算していないせいではないか? われわれの心が十分に洗練されていなかっただけではないか? そのように考えてみることは出来ないのであろうか?

自分が間違っていたのではないかと自省できることが、相手からの尊敬を得ることはあっても、周囲の軽蔑を招くなどということにはならないのである。力を振るっていなければ、あるいは主張し続けなければ自分の尊厳が維持できないというその考えそのものが、周囲を過小評価する態度なのではなかったのか? それは、自分がそうであるから周りもそうであるはずだ、という単に甘えた想像力の欠如ではなかったのか?

排除するのではなく、理解し合い、共生するという心を互いに育もうではないか。

われわれは何に「反対」しているのだろうか?

Friday, February 25th, 2005

私の住むF町では駅前の斎場建設に対する住民の反対運動がある。「反対運動」などと言うとどれくらい大げさなものだろうと思われるかもしれないが、昨年の一時期は結構な盛り上がりを見せた。街宣車は走り回り説明会にみんなで行こうと呼びかけたり、建設予定地付近には赤と白の段だら模様の横断幕やら提灯によるデモンストレーション・メッセージが商店街の至る所に付けられ、そこを通りかかっただけの人なら一体何事が起きているんだろうと思うほどであった。何がきっかけかは分からないが、その後一旦は静かになったが、今、建設予定地に立っている建物の解体が始まるや、また運動に一定の活気が戻ってきている。つい昨日も駅を出ると外で反対運動のビラを渡された。

今、「住民」と書いたが、中心になっているのは主に駅前商店街の店主たちである。反対の理由は、「駅前商店街の道はただでさえ狭い(それは確か)のに、そのようなところに遺族のクルマが大挙して押し寄せたり、霊柩車が停車していたりしたら、通りが今より危険になる」というのが主たるものだ。理由付けとしてはそれなりに無難な言い方だとは思う。

だが、真相は葬儀屋の経営する斎場など「きもちわるい」「町が暗くなる」というのがおそらく本音である。火葬場ではないが、遺体が運ばれて来ることは確かだし、喪服を着た人々が出入りして、半日そこで葬儀をやるという場所になるのであろう。それは駅前で撒かれている建設反対のビラなんかを見ていても、そうした「暗い」側面を強調して住民の共鳴を得ようとしているところからも、ある程度うかがえる。

さて、住民の反対運動だが、「運動」であれば反対する側に必ずしも「分がある」とは言いきれない面も残念ながらある。そんなことは賢明な読者諸氏には断るまでもないことだろうが…。そもそも、住民の側に、いかなる職業の人が、どこで、どんな店を開くのか、というのを決める権利があるのだろうか? 斎場だったらダメだが、百円ショップだったら良いのか? はたまたお金を落としてくれるパチンコ屋だったら大いに歓迎なのか? それとも経営者が特定の在日外国人だったらやっぱりダメなのか? もし葬儀屋がダメだとすれば、それはもう職業による一つの差別とは言えないのか? こんなキレイごとを言ったらすぐにでも反対者を刺激しそうだが、合法である限り、そして騒音や異臭を放ったりという物理的被害を周囲に与えない限り、誰にでも「職業選択の自由」はあるんじゃないだろうか。どこでどんな商売をしようが、自分の土地だったら勝手だろう、というのは、十分に説得性のある主張であり得る。もちろん、借地だったら土地を貸す権利者が、そこで行う業種を指定して特定の業種を制限するというような契約のあり方というのもアリだろうが、おそらく、今回は賃貸する側がそれを問題にしているということではなさそうなのだ。

もちろん、新しい土地にその土地にない商売をもたらすためにやってくる業者が地元と旨くやっていく気がないとすれば、それはそれで「商売上の得策ではない」と分別臭く言えるかもしれないが、それは私のような立場の人間がどうこう評価するような話ではない。その「商売」が地元の人(とくに周囲の商店)相手でなければ、商店主たちがどうのこうのというのを、特に意に介さないというビジネス上の態度選択というのもあっておかしくない。確かに、地元を敵に回すような展開をしようというのであれば、十分に賢明だとは言えないような気もするが、やはり法的にはおそらくこの葬儀屋は何の問題もないのであろう。あるのは住民の一方的な権利意識である。

しかるに、この周辺住民は「とにかくいやだ」と言い始めた。こういう意思表明を見聞きしていると、ある特定の宗教団体に属している人が、居住先の区役所や市役所で住民登録を受け入れてもらえず、こどもが学校へも行けなくなるというような状況や、移ってきた教団の近所に「監視小屋」を立てて、四六時中監視したり、様々な嫌がらせをしたりと言う、ある種、戦前戦中の隣組的な「自発的弾圧」を思い起こさせるところがあって、複雑な思いがする(もちろん私は生来の天の邪鬼だが)。被害者意識を持っている「弱い立場」の人が、実は率先して人権弾圧をする側に回っているという構図である。

F町に暮らして3年以上経ち、お酒屋さんなど数は少ないものの近所の商店への行き来もある。そうした人たちに対して親しみを深めるほど、彼らが「困っている」事自体については同情の念を覚える一方で、彼らが寄ってたかってしようとしていることそのものを、手放しで肯定することも出来ないのである。私の気持ちは複雑だ。

もし、斎場経営をしようとしている葬儀屋自体が、何か違法な手続きをしてその土地を入手したとか、手続き上、何か後ろめたい気持ちがあって必要な報告事項を正直に記載しなかったとか、何らかの不備があったのかもしれない(これは憶測)。そしておそらく「そうした不誠実が、そもそもの発端だ」と住民側は言っているのかもしれない。だが、もし万が一、葬儀屋が業種や職業を偽って申請したとして、それをわれわれは責められる立場にあるのか? いわゆる被差別職業というものがあって、世の中に必要なものであるにもかかわらず、一般には忌避され、あらゆる場所から閉め出しを喰っているとしたら、彼らは彼らで生き残りを賭け、あらゆる手段を講じて土地を入手したり、借り受けたりするのではあるまいか? この場合、どちらが被害者なのだろうか? そもそも、特定の職業を持っているという理由で、これからやってくる人々のプライヴァシーに関わる情報を、むしろあらかじめ不法に周囲が入手しているということはないのだろうか? 

あと、「住民弱者説」について。「住民は弱い立場の人だから支持しなければならない」と言うかもしれないが、三里塚闘争の農民ならともかく、F町の住人は果たして本当に「弱い立場」の人たちだろうか? それについてもいろいろな見方があっていい。少なくとも、彼らは既にこの町で商売の地盤を築いているか、土地を所有し、一軒家を建て住んでいるような人々である。そして、彼らはおそらくこの斎場でのサービスを必要としないだけの広い家に住んでいる。そして、安全で、静かで、「忌まわしいもの」がない生活を暮らしている。だが、その生活を「既得権」として主張しているのである。自分の自宅の向かいが斎場の裏手出入り口にあたるような近隣住人には大いに同情は出来るが、残念ながら彼らは幸運でなかったわけだ。

いずれにしても、政府が土地の接収をするというようなケースを除けば、後からやってくる人(後から来る移民)が、新しい土地においては常に「弱い立場」なのではないか。

その辺りの私の疑問に答えられる方はいるのだろうか。私の疑問は公平に欠いているだろうか?

この疑問が解消してからでないと、住民の運動に対する支持も不支持も決められない、というのが私の見解である。どうして、確たる根拠もなく特定のサイドに与するという態度決定が可能であろう?(そもそも、このF町はわれわれに無関心であってくれるし、われわれも干渉しない。互いにその静かな暮らしを享受しているので、「どちらの側にも興味がない」というのが、実は率直なところなんだが、どうも特定の側に取り立てて納得できる理由もなしにシンパシーを感じる人が身近にいるので、敢えてこれを書くことになったのだ。)