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自覚的であるということが、創作内容の芸術性の決め手となるか?

Thursday, May 5th, 2005

表現者が自分の役割に関して自覚的であるということが、芸術家であるかどうかの決め手となるということに、何か根拠があるのであろうか? 自分にはそれがまだ分からない。これについては、4/9のblogでも言及した。

ここ数日、美術に親しむ日が続いているために、それについて集中的に考えるきっかけとなった。それで随分前から購入していたがきちんと読んでいなかったS・リングボムの『カンディンスキー ─ 抽象絵画と神秘主義』を取り出して読み始めている。するとこのような一節が出てきた。「カンディンスキーが自らの使命を、ニーチェをも含めて他の先駆者たちの功績と全く類似するものとみなしていたことは間違いがない。また、カンディンスキーの初期の文章は、彼が抽象を芸術の最終段階の始まりと見なしていたことを十分すぎるほどはっきり示している」。

以上の2つの文章には実は二つの異なる課題が含まれている。「自分の使命を他の先駆者たちの功績と類似するものとみなす」というのは、結果として自分の行っている(きた)ことが歴史的にどのように位置付けされるかということについて<考えたことがある>、という意味であって、それが自分の「使命」である、と考えたかどうかとは別問題であるということ。また、仮にそこで彼が「使命」を自覚したとして、その自覚によって彼の創作の内容自体がわれわれの今知るものと違うものになったかどうかは分からないということ。

さらに、カンディンスキーが「抽象を芸術の最終段階の始まり」と見なしていたかどうかも、もちろん検討の余地のあることだ。彼が、画家ではなく、美術史家と同様の美術手法について歴史を概括する目を持っていたとすれば、そうした「最終段階の始まり」との認識を抱いた可能性はある。だが、彼が「芸術における最終段階である」という時代感覚を得たとして、そうした世界観を美術そのものから感じ取っていたとその根拠を美術にだけ求めることは片手落ちであろう(むろん、リングボムもそのようなことは言っていないが)。

自分について言えば、「ある種の音楽手法が、音楽の最終段階の始まりである」という認識を持つことができても、自分がやれることというのは、そうした時代認識とは別に存在することを「自覚」している。時代認識的な「自覚」が私にある種の音楽手法を採らせているのではないのである。そうした認識は、自分の行為の後から「後付け」でついてくるものに過ぎないのである。しかし、自分の役割の自覚こそが芸術であるかの「決め手」となるのだとすれば、私はどこまで行っても「芸術家」であることはできないであろう。そして、そのような自覚が芸術を規定すると言うのであれば、私は「芸術的であること」自体に背を向けることすらやぶさかではないのである。

つまり、そうした意味での「自覚」とは、歴史とに関係のあるものであって、自分が如何に生きるか、と言う、内的動機とはどこまでいっても無関係のものであるからである。内的衝動(動機)を肯定するのであれば、自己存在の歴史的位置づけとは次元の違う行為にコミットしているのであって、一方、自己存在の歴史的位置づけへの自覚が芸術を規定するのであれば、「内的衝動」などというものは、何の価値もないものであるはずだ。

リングボムによれば、カンディンスキーの生前にすでに起きつつあった人文上の大変動、<宗教>、<科学>においては、それらが神智学、心霊・心理学、物理学といった、当時同時多発的に生起し始めていた欧州地域に於ける革命的な新領域への展開があり、それはシュタイナー、フロイト、ユング、そして中でも物理学に於いてはおそらく1905年に発表されたアインシュタインの「特殊相対性理論」によって行われた。一方、<道徳>に関しては、ニーチェによる<神の死亡宣告>があり、宗教教義の規定する道徳律の転覆が起きた、というわけである。そして、美術においては、そうした各方面に起きつつあった革新的な動きに類比できるような革命をカンディンスキー自身が、「非再現的芸術への転回」を以て行い、「非対象絵画」を起こしたというわけだ。だが、リングボムが憶測するように、カンディンスキーが、自分の後にやってくる未来の歴史に関する鳥瞰的な視野を獲得し、「自分の役割を自覚していたかどうか」を確定することが、この際、われわれにとって何か重要な意味をもたらすのであろうか。

以上のことが、美術史家にとって重大な問題であることは想像に難くない。だが、それは、果たしてわれわれに関係のあることなのだろうか、と私は問うているのである。あるいは、具体的には、彼の作品の伝えようとした内容やその価値が、こうしたカンディンスキーの「自覚」によっていささかも変化し得たか、ということを私は問いたいのである。カンディンスキーの絵画の価値は、歴史的な意味付けよりも、その絵画によって描かれている内容そのものによって判断されるべきではないのか?

美術史においては、カンディンスキーが当時起こりつつあった「非再現的芸術」をより高い抽象表現の領域まで高めたことや、当時はやりつつあった超心理学的な思想や仮説を反映しようとするかのように、「非対象的世界」を絵画の<対象とした>ということは、解釈上重要であることに理解を示せないわけではないのだが、「描くべきことを描く」という最も第一次的(プライマリー)な創作家自身の動機が、自らの「立ち位置」への自覚のために、そっくり何か別のものによって置き換えられてしまうというようなことがあるだろうか? 私の考えによれば、否、である。

創作家の「自覚」が問題となる、全く別の局面があり得ることを否定する気はない。つまり、現世的な評価がまったく期待できないにも関わらず、その手法なり方法が、その後の世界に於いて、広く一般の人々にとって意味ある表現手段の獲得につながることを知っていたとしたら、「自分の登場」というのは未来の歴史にとって意義深いものとなるかもしれない、という憶測にすがるということである。

また、ものを喋る人が自分の言葉がある種の前提を必要とするということ、すなわち条件的でしかない、ということを知っていること。これは「自覚」という呼び名に相応しい表現者の態度である。

カンディンスキーは自らをあまり説明しなかったようだが、物を喋るという点に於いて、条件が伴うということを知っていたとすれば、それは「自覚」の一種である。だが、彼が未来の美術史に於いて意味ある存在となる、ということについて自覚していたかどうか、は分からない。また、自覚していたとして、それが彼の創作手法の決め手になっていたかどうかには疑問の余地がある。ただ、彼が創作を続けるにあたって、そうした「考えられる自己存在の意味」について文字通り自覚していたとすれば、それが、彼の創作行為へのコミットメントを勇気づけたことは想像に難くない。だが、それ以外の局面に於いてその自覚が何らかの意味を持っていたかどうかは、今の私には分からないのである。

リングボムの著書を最後まで通読し得た時に、また書くことになるかもしれない。