Archive for July, 2007

宗教学者と宗教家(信仰者)の対話 #01

Friday, July 13th, 2007

あるいは

「宗教と信仰に関する交差しがたい平行的関係について」

●:宗教学者/宗教史家

○:信仰者/宗教家

●どのような結果をもたらすものであるにせよ、宗教を正面から捉え、その重要性をわれわれほどに認識しているグループもあるまい。宗教について語らせるなら信仰者による特定の宗教や教団の弁護やの勧誘の言葉ではなく、われわれ宗教学者、宗教史家の言葉にこそ耳を傾けるべきである。

○「宗教の中身」とは、信仰そのもの、そして信仰生活のなかにある。したがって、あなたがた宗教学者たちが宗教を扱うようにそれを「研究」することによっては、その内実を明らかにすることは一向にできないだろう。問題は、そこに信仰があるかどうかなのだ。信仰が宗教的問題のすべてなのだ。「重要なのは信仰なのだ」。

●なるほど。いかにも信仰者が言いそうな予想通りの言葉だ。信仰がわれわれの扱う範囲を超えているのは確かかもしれない。然様、われわれは対象化できるものを研究の主題としているのであって、当面はあなたがたの心の問題や内的体験にまで立ち入る気はない。人間社会における宗教というものの占める領域、社会的影響力、すなわち知覚可能な世界における宗教の果たしてきた役割やその影響を調べ、それを言語化するのがわれわれの第一義の仕事なのだから。

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神の恩寵に与ることは原罪を背負うことと同義であることについて

Tuesday, July 10th, 2007

Fall

罪の意識とは、そもそも論理的には関係性や条件性の中にしか存在しえないものだった。「○○をしなければならなかったのにしなかった」とか「すべきでないのに○○をしてしまった」というような、「罪が犯される」に先立って、すべき、せざるべき、という何らかの約束や契約などの条件がなければ、そもそも罪は成立しない筈のものである。これは、善や悪がそうであるのと同様で、あくまでも善は悪の存在を前提としなければ存在できないし、悪も善の存在を前提としなければ存在できないという二者の相互依存にも似たもので、罪と契約(約束)は、相互に切っても切り離せないペアなのである。約束のないところに罪はない。したがって、生まれながらにして罪を持っているとか、祖先から相続されてきた罪があるというような、条件を必要としない罪というものがあるかの説が信じられるには、一体どのような「前提」が必要になるのであろうか。

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過去における他者の《死》が未来におけるあなたの贖罪になる理由(あるいは詭弁)

Monday, July 9th, 2007

Pieta

拙論は、

イエスがみずからの身を十字架にかけることにより「贖罪(罪をあがなうこと)」を全人類のために果たしてくれたから、とキリスト教では教えている*

というキリスト教の中核ともいうべき(だが大胆な)教義の記述についての解釈論である。

過去に行なわれたキリストの十字架上の刑死が、未来の人間であるわれわれの罪を消し去る「贖罪 しょくざい」であったという考えはどのように成立しうるのだろうか?** そのようなことが論理的に成立するのかと言えば、どうしても否と言う誘惑を感じないわけには行かない。。だが、こうした不可解もキリスト者にとっては当然のこととして躊躇いなく受け入れている部分のようである。そもそもどうして過去の聖者の自ら選んだ死が、未来の人間の過ちまで含んでそれらを消し去ることに通じ得るのか? 

* 「新約聖書とイエスの歴史的受容」Wikipediaのという項目からの引用。

** こうした疑問は決して真新しいものではなく、キリスト教に対する懐疑の発端としては古典と言うべきものである。例えば、「贖罪【しょくざい】論 」として書かれている解説にもそうしたトーンが反映されているのを見て取ることができる。これは一読の価値がある。

ある意味、これは現世を生きる人間にとって大変「便利」な教えである。現世を生きるわれわれがこれほどまでに堕落し、「間違って」いるのは、この免罪符をすでに手に入れたと考えたためではないかと思われるほど、われわれにとっていかにも有利な教えである。もし、「イエスがみずからの身を十字架にかけることにより贖罪を全人類のために果たしてくれた」と受け容れることが、キリスト者への第一歩であるとすれば、そこには信心することに付随する苦悩が存在しないように思えるではないか? 一体このような「決心」のどこが困難な修練となるのであろうか? 聖書時代から視れば、すでに未来の時を生きているわれわれの犯した(あるいはこれから犯す)罪が、過去の“聖者”による行為によってあらかじめ「消し去られている」のであれば、われわれは何をやっても良いという風にさえ、あえて解釈されはしないだろうか?(いや、現にされているのではあるまいか?)私ならそうするだろう。

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