Archive for February, 2005

現代女流書展

Saturday, February 12th, 2005

東急渋谷本店、毎日新聞社主催、「現代女流書展」というのに、連れ合いに誘われて行ってみる。「書」というのは、自分の親や親族がかなりのめり込んでいる分野なので、全く関心がなかった訳ではないが、今回見に行ってみた創作書の世界は、実に面白いということが分かった。

まず言葉(俳句/短歌/オリジナル)の選び出しがあり、選び出した言葉をどう処理するかという大雑把な方針の決定があり、紙の質や大きさの選択がある。そして、墨の濃さに選択があり、筆の大きさに選択がある。考えてみれば当たり前の話だが、そうした、あらゆる選択の末に選ばれてくるここ一番という「最後の形」がある。

書の世界の中にもそれこそ内部にいなければ分からないようなあらゆる事情があったりするのだろうし、そういう見えない部分を感じる鑑賞者も多いかもしれない。しかしそうした一切を知らないボクは、ただ、完成型の作品だけを先入観なしに鑑賞出来る立場にあったとも言える。ただ一言、面白い世界があることをかいま見た、というのが全般的な感想だが、忘れないうちに書いておくと、墨には色があり、筆の流れに音楽があるという感動的な発見があったのだ。

(これについては、後でもっと加筆したい。)

天国と地獄が混在したようなライヴ、その後

Friday, February 11th, 2005

morishigeyasumune + nakami zo duo (tempo primo live II)を終えて。

私が目指しているものを「予定調和」と呼びたければ呼ぶが良い。だがそれは注意深くボクの相方によって回避されたらしい。だが、音楽の方はどうか? おおきな疑問符が頭上に浮かぶようなライヴであった。もちろん、結果の「責任」を自分が引き受けての話である。

げに、何一つとしてナメてかかってはならないのが即興音楽である。音楽そのものだってナメて掛かったことはないつもりだが、即興の難しさも重々承知のことだ。だが、やはりナメたのか? いやナメたつもりはない。だが、結果的にナメていたと思われても仕方がないような、予想不可能性と即興につきものの根本的困難が露呈したライヴであったと思う。

もうひとつナメてはいけないのは観客の方の判断である(当然である)。どうしようもなかったと絶望して終わったライヴを絶賛してくれる人が現れ(それが社交辞令であると思えないいくつかの根拠があるんだがそれは割愛)、それで幾分なりとも救われたと思ったら(思った事自体がまた間違いだったんだが)、それと前後してきわめて貴重かつ鋭い批判の言葉を頂戴し、別の意味で頭を抱える、ということが起こった。

しかし、人に言われて初めて頭を抱えたと言うわけでもない。批評がすべて納得のいくものではないにしろ、最善からはほど遠いという事自体、やった本人が一番自覚していることではある。そして、どんな表面的な繕いが可能でも、本当に感じたことは相手にも十分伝わっていくということである。

最初の話に戻す。「tempo primo」というプロジェクト名は、二人が共通して持っているある種のタイム感覚を暗示している。即興していて、自然と二人が収まってしまうある種のビート感を「戻ってくるテンポ」と捉え、それを「原初の速度」、あるいは「最初のテンポで」という速度記号「Tempo I (primo)」と掛け合わせたものだ。だが、相方のmorishigeさんは、それで旨く行くという方法たるtempo primoを、演奏本番中に注意深く避けるという選択に出た。一方、morishigeさんが普段からある意味得意としているある種の「非楽音」以外の(おそらくもっと謡った)何かをボクは期待しているところがあって、そこにまず最初の音楽実現上の課題が潜在していた。

即興(の質)を優先する(これがどういうものなのかを自分には説明できないんだが)アプローチと、少しでも既視感ならぬ「既聴感」のある音楽性を選択することにためらわず、本能的に音楽的結果を優先しようとするボクのアプローチ(これは即興者の間では糞飯モノであるらしい)との間で緊張が起こる。どちらがどちらを引っ張るかは力関係でもあるが、どんな力で引っ張ったって相手がそれについていかないと決心していたら、それを音楽的にスポンテイニアスに相手に伝えることは不可能である。伝わっていてもそれを「無視する」という選択が可能だからである。そして、即興が安易に相手の思うようにしない、という選択の自由を含むものである以上、無視されるという事態も受け入れなければならない。むろん、この日のボクの演奏にmorishigeさんを無条件に「したがわせる」だけの力がなかったことが第一にある。いや、それは力の問題ではないのかもしれない。それはひょっとすると音楽以前の互いの間にある何か感情に起因する何かなのかもしれない。だが、それが何であったかなど、終わってしまった今は、観客にとってはどうでも良いことである。

いずれにしても、私から観たmorishigeさんは、普段見せるような「非楽音」をあまり多用しない、ある種、積極的に謡うチェリストとして存在していた(これを観客は賛同しないかもしれないが、それは依って立つ観点の相違である)。私はそれに喜んでノルべきだったのだが、その見慣れないmorishigeさんの積極的なアプローチは、私にとってはむしろかなり未知な部分であった。未知は未知で問題はない。それへの対応をする相方としての自分は、即興者としては十分にそのアプローチを生かす方向に切り替えられなかったのである。即興者としては実に落第である。

では、謡う音楽家として自分は及第だったかと言うと、その点でも自分は中途半端であったとしかいう他ない。自分の中で、自分の普段通りのスタイルとmorishigeさんの(私が思い込んでいた)スタイルとの間のギャップをどう埋めるのか、という前提からして間違った発想から抜け出すことが出来ず、苦しんだ。

確かに一度は期待したのにそれを得たいときには与えられず、それが与えられたら今度は受け取ることができない、というディレンマである。

こうした即興演奏中の不自由を、苦しみに変えず、楽しい過程(プロセス)へと置き換える何かが存在するとしたら、それはおそらく自由をハンドルできる強い精神力なのである。morishigeさんには、確かにそれにチャレンジできる強さがある。それが音楽の魅力ではないのかもしれないが、そうした強さによってこそ支えられる自由人の強さを、彼のファンはmorishigeさんの音楽から見いだしているのかもしれない。

セイフティ・ネットがなくてはしばしば不安を感じるボクのような人間が、即興にコミットすることが、そもそもマチガイなのかもしれない。(だが、わかっちゃいてもやめられない、のが他人と演る即興音楽なのである。)

黒井さんの「家庭急襲」

Monday, February 7th, 2005

「ダメモトで」「仕事が早く明けたので」と断りつつだが、黒井さんが吉祥寺から遠慮がちに電話をしてくる。ちょうどボクが「食事前のちょっとした練習」を終えた9:30pm頃、そして食卓に夕食が揃い始めたタイミングで電話をしてきた。こういうコールは実に嬉しい。ウチは、こういう突然の友人の訪問に基本的にウェルカムである。と言うより、皆さん遠慮されるのか、こういう粋な「家庭急襲」をしてくれる人はなかなかいないのだ、最近は。「食事をしてきた」と言うが、こういうときは空腹で来てほしいモノである。連れ合いに言わせると、食事の準備は2人分も3人分も変わらないということだ。

先日のDenny’sにおける非マックユーザとのマック話の続きをしたり、日曜日の小川さんのソロの録音を聴いたり、徐々に始めているという引っ越しの計画などに話が転々として、どんどん時間が流れる。食事後は、ホットカーペットの上の丸テーブルに毛布をかけて事実上「こたつ化している」リビングに三人で丸くなって会話が弾んだ。そして、時計の針が知らぬうちに12時を回った。

黒井さんが使っているSharpのPDAは、液晶画面は驚くほどの高解像度で、本当に手の平サイズのパソコンなのである。そしてSD cardに取り込んだサウンドファイルの再生音は非常に良く、まるでMP3 playerのようである。SD cardがひょっとしてボクのカードリーダで読めるかどうか試してみた。カードのフォーマットが違うだろうと言う予想に反して、何の問題もなくPBG4でそのファイルを開けてみることも、データを呼び込んでくることも、逆にカードへコピーすることも出来るのである。あのカードは一体どのようにフォーマットしてあるのだろう?

あたらしいパソコン購入者にマックを薦めると言う黒井さんは、私の知る限り唯一の非マックユーザの「マック・エヴァンジェリスト」なのである。はやく真性マックエヴァンジェリストになって下さい。

小川さんのダブルヘッダー(ボクの予行演習)

Sunday, February 6th, 2005

ライヴの数を減らそうと思っていたので、今月は「風の、かたらい」への出演を断っていた。しかし、連れ合いが出演するので結局グッドマンに向かう。新しい録音装置のテストも兼ねて観客の一人として、と自分に言い聞かせながら。前回登場できなかった石内さんは、1回のブランクを埋めようとでも言うように、熱烈な(というかほとんど天井知らずの激烈さで)朗読パフォーマンスを見せてくれた(なんどもなんども)。嬉しくなって、思わず連れ合いと顔を見合わせて笑ってしまうことしばしば。あれには、そうとうなカタルシスがあっただろうな、石内さん… 。

休憩時間中に、石内さんがボクに、「小川さんは、今日このあとヴィオロンでライヴなので、行ってあげて」と言う。え? ということは、小川さんは昼のこのライヴと夜のライヴとダブルヘッダーなんですか? 

特に、ヴィオロンでの小川さんのライヴが「ソロ」だとは知っていたので余計に驚くが、本人に確認するとやはりそうだと言う。石内さんが共演者の小川さんに確認しないでブッキングするからこう言うことになるんだよ。まあいいや。しかし、これから「ソロライヴ」をやる人とは思えないほどの熱い演奏を「風の、」でも繰り広げていた。まったく惜しみない自己投機的な演奏。ゲストが多く出入りする「風の、」も面白いが、こういうレギュラーだけが作り上げるパフォーマンスも捨てがたい。この日の「風の、」を聴かなかった人は、音源を聴いたらおそらく羨ましがるほどのものだったね。「お客」として聴くのも良いものだぞ。

結局、ほとんど強制的なプッシュに答える形で自分もちょっとピアノを弾いたりはしたが… 。断るこれといった理由もないが、断れない雰囲気でもあるのだ。ただ、純粋にお客でありたいということも正直ある。

「風の、」の後、連れ合いは石内さんに付き合って買い物に出た。ボクは小川さんと共に別行動。「本番前に居酒屋に行きたくない」という小川さん(とボク)と、阿佐ヶ谷の具体的な居酒屋を指定してくる石内さんとの間で割れたのである。小川さんとは、荻窪駅西口の魚介系定食屋「さかなやの親戚」に行く。ここは、日本酒でも出したらそうとう「呑まれる」だろうと思うようなうまい魚料理(どんぶり中心)屋なのだが、ビール一つメニューにない。だから、というわけではないが(酔客を相手にしたくないのか)、このような界隈にあって妙に清潔な印象を受けるお店なのである。とにかく安く、美味い。サーモン+イクラ丼や中落ち丼なんかを800円以下で食べられるのであるから実にお得である。お通し代も請求されないし、お酒を飲まない人には一押しでお薦めなのである、「さかなやの親戚」。

7時前にヴィオロンに小川さんと行き、まだ時間があったのでいろいろ話す。話しているうちに、小川さんは録音する用意もないというので、ボクが持ってきていた機材を「ダメもと」で試してみることに。いつも使っている自分の標準マイクは持ってきているが、グッドマンと違ってヴィオロンにはマイクスタンドがない。椅子にテープで固定しての簡易録音となる。

店の床の低くなったところを「ステージ」とするが、そのための座席やテーブルの移動にはどうもルールがあるようで、それをマスターに教わる。これは今週金曜の自分のライヴのための予行演習のようなものだ。小川さんのために録音を設定したりしながら、電源の位置なども確認できたのである。最悪の場合、録音に「電源」は要らないが、ほかの機材には電源が必要だ。いろいろやりながら今度のライヴのための立ち(座)位置などを想像したりする訳である。

小川さんのライヴは7時を少し過ぎてから始まった。ライヴに来ることさえグッドマンに行くまで定かでなかったのに、当日しかも演奏前の1時間くらい前にいきなりゲスト出演を頼まれた。前半と後半のそれぞれ1回ずつ、ピアノを弾く。この重たいアップライトピアノを弾いたのは永山とのデュオライヴをやって以来。これも計らずに予行演習のたぐいとなる。しかし、小川さんとのデュオというのも、いつやっても楽しい(後半のときはやや苦しかったが、苦しみが頂点に達したときにブレイクスルーがあった)。

「店によって(客層によって)演奏の内容をある程度変えた方が良い」とお客さんを選ぶようなことを言うひとがいた。その意見は確かに理解できるのだが、そうすることがお客さんのためにも、自分のためにも良くないということが、あるのだ。お客さんの「聴き分ける能力」というのを過小評価してはいけないのだ。ただ、自分にはそうした「正論」はあっても、その意見の意味もそれはそれで分かるのだよ。問題は、そんなに器用に自分を使い分けられていない、という技量の問題でもあるんだけど。聴きやすい音楽を、という個人的なテーマはある。だが、それを急に頼まれたフリー即興の(それも小川さんとの)ライヴでやるほどに自分をまだ鍛えていない、というのが真相。

黒井さんとのランデヴー (with PBG4)

Saturday, February 5th, 2005

どうしてもまた聴きたい、あるアイリッシュ・フォークバンドのCDを探しに、久しぶりに荻窪の杉並区中央図書館に行く(かん芸館の裏あたりだ)。しかし、図書館に到達するまでがっ。

まずは、浜田山まで徒歩で行き(20分近く歩く)、ラーメン虎ジに寄る(ここのラーメンは来るたびに美味くなっている)。浜田山と言えば、もう硬派麺屋の「華月」オンリーだと思っていたが、ここは営業時間が短くて自分の行ける時間帯は、店の前まで行っても開いていないことが多い(特に週末は)。今回も同じ。こっちに住んでいたときは、しょっちゅう来ていたんだけどね。だから虎ジで手を打った。でも旨かった訳。浜田山の有名中華ソバ屋「たんたん亭」も、2年に一度くらいなら悪くないのだが、魚ダシ系のラーメンは自分の評価外なんだよね。どうして魚ダシ系中華ソバ屋って行列ができるほどの人気なのか、自分には皆目理由が分からない。敷居が高いし第一、値段が高い。ダシ系のラーメンなら、そば屋のラーメンがうまい。明大前の立ち食いそば屋「高幡そば」のラーメンは必食だぞ。ラーメン話に脱線するな。

ラーメン後は、区の経営する100円ミニバス、すぎ丸に乗って阿佐ヶ谷へ。この車窓から見える阿佐ヶ谷住宅は、とにかく情緒あふれるエリアなのだ。ここをのんびりバスで走っていると、一瞬日本じゃないのではないかという幻惑(めまい)を感じることがある。あの丘、あの芝生、あの鬱蒼たる茂み。なんか懐かしい感じがする住宅群。それを通過してほどなくして阿佐ヶ谷の杉並区役所前で下車。阿佐ヶ谷からは、荻窪まで徒歩。そんなことをしているから、図書館に着いたのはもう4時20分を過ぎていて、必要なものを探す時間しか残っていないぞ。アイリッシュアイリッシュアイリッシュ。それらしいのがあったが、探していたCDじゃなかったぞ。そして、徒歩で荻窪駅まで戻る。

本当に実に久しぶりだな、この場所。しかし、5時からの黒井さんとの約束が迫っているので、阿佐ヶ谷から中央線に乗って吉祥寺に向かう。

吉祥寺で会った黒井さんは夜勤明けで眠そう。夜勤の後でも、日中はあまり眠れないこともあるらしい。Denny’sなるファミリーレストランに5時過ぎに入り、黒井さんは今日最初の食事。ボクは、コーヒー。それからあらゆるパソコン話に花が咲き、店を出たのが10時近くだったので、かれこれ5時間近く粘ったことになる。こんな客相手じゃ、商売にならんだろうな。PowerBookは、テーブルで開くわ、デモンストレーション始めるわ。それにしても何度も惜しみなくコーヒーを変えてくれたものです。しかも泡のたったかなり美味いやつを。多分自分は、5杯以上のコーヒーを飲んだ。そんなことをしていると、眠れなくなるのである。

黒井さんがPBG4を持ち歩いている日を見るのは、近い。

『恋人までの距離』を計ってみる

Friday, February 4th, 2005

見目麗しき男女の出会いと、気の利いた会話。魅力的な舞台設定と心憎い選択の音楽。そしてやがて来る切ない別れ。

敢えてこの映画『恋人までの距離』の“特殊さ”をあげるなら、それら映画を成り立たせる要素が、ありそうでいてやはり現実にはあり得ないようでもあり、現実にありそうにないようで、だがひょっとしたらあり得るかもしれないという、リアリティに関して絶妙のところを選んでいる点であり、その点に付いて言えば、まずはクレバーである。だが、待てよ。それは特殊性ではない。どんなドラマもその辺りを狙っているではないか。いずれにしても、脚本家のスマートさ、博識は、セリフからある程度明らかだ。そしてこれらの台詞を覚え、淀みなく捲し立てられる俳優の技量に関しても舌を巻く。このひたすら心憎いまでのクレバーな映画は、それでも、果たして映画と言えるのだろうか? 換言して、これで芸術としての条件を満たしていると言えるのか、ということには疑問の余地があるのだ。これは、おそらくひたすらクレバーなエンターテイメントに過ぎないのである。そしてより適切な表現をすれば、「駆け足の観光映画」なのである。

おそらく、この映画で主人公たちに感情移入が出来て心底共鳴し、「こんなメにあってみたーい」とさえ感じる若い鑑賞者(がいるとしたら、彼ら)は、私の疑いに対してもうすでに反発を感じていることであろう。

いいのである。これをいい映画だと思える人は。これで満足できることに何の問題もない。

この男女がどのような「再会」を果たすのか、続編『Before Sunset』をわくわくしながら期待すればいいのである。だが、この映画『恋人までの距離』(原題『Before Sunrise』)は、もっと良い映画になれる可能性を持っていたし、あるいは、もっと良い映画が将来作られるための、ヒントの宝庫であることに違いはなかった。そうは言っても、依然、反感を感じるひとは感じるであろう。だがこうして続編が出来てしまうと、制作者(あるいは主人公)たちが、再会までの9年でどのように「成長」したのかが、さらにジャッジされることにもなる。もちろん、主人公たちに起こってしかるべき成長がなかったら、それこそ問題である。そして、「主人公たちに起こってしかるべき成長」とは、映画を作る者たちにこそ起こっているべき9年間の成長でもある。『Before Sunset』で、この映画製作関係者は、はたして成長したのであろうか? もっともそんな「高みから見る」ような映画の鑑賞を万人に推奨したい訳ではないのだ。

ディテールこそがこの映画の主たる要素である。そのディテールとはつまり登場する二人の男女間でのべつ幕無しに展開される会話である。しかも映画のほとんどが2人の男女間の会話であるのだから、ディテールこそが同時に全体でもある。だが、このディテールはドラマの強度によるものではなく、あくまでも会話自体によるものなので、いくらでも話題はあちこちにリープし、ひとつの緊密に統一されたテーマとしてまとめられることがない。映画は、「思想」らしきものや、センスの良い「発見」らしきものの断片を会話を用いて無造作に投げ出すばかりだ。この知的ひけらかしはそれ自体が驚きではあるのだが、一切深められることはなく、また、本質的なレスポンスが相手側から返される訳でもない。彼らは「急いでいる」のであり、そのような時間はそもそもないのである。そのような会話を可能にしている自分自身の隠れたセンスやそのような会話を可能にしてくれる相手の存在に酔っているのである。それは現実にあっても不思議はないことだ。だが、そんな会話をつなぎ合わせているのは、シナリオと手慣れた編集の技量によるのである。

ストーリー上、ウィーンを舞台にしなければならなかった必然性もない。それは、おしゃれなヨーロッパの一都市なのであり、おそらく、ドラマの舞台として使い古されたロンドンやローマであるのではなく、やや憂鬱なウィーンが戦略的に選ばれているにすぎない。極端な話、あれは東京でもシンガポールでも良かったのだ。

映画の冒頭でH・パーセルのオペラ「Dido and Aeneas」の序曲(しかも古楽演奏で、朝もやのように曖昧な出だしのバージョン)が使われる。これは、決して結ばれることのない運命にあるカルタゴの女王ディドとトロイの王子エアネスの物語である。二人の出会いを象徴する音楽としては、このオペラの序曲が使われたことも極めて賢明であると評価できる。二人が結ばれないということは、一番最初に暗示されていたのである。だが、この朝もやのような曖昧な序曲自体が、その始まりが決して引き延ばされることはなく、すぐに忙しいドラマへと移行する。これは、まさにこの二人の関わりに相応しい短い序曲なのである。

2人の出会いのときにそれぞれが列車で読んでいた本というのが、男の方が『クラウス・キンスキー自伝』で、女の方がバタイユである。見る人が見ると、おそらくなるほどと思わせるクレバーな選択なんだろうが、もはや若いとは言えないボクには何の関係もない。だが、そんな若い知的ツッパリである彼らが、プラターの大観覧車に乗ったときも、それが映画『第三の男』において二人の男が密会する場所として使われたことを、この若い二人が知る風ではないのもまた興味深い。そんなことは、おそらく基本中の基本なんだろう。何よりも現実感が乏しい部分は、ジュリー・デルピーが、若いフランス人にしては上手すぎる英語を話し、英語で押し通すほかない典型的米国人のイーサン・ホウクの方は、英語で会話を押し通すその方針を「バカで粗野なアメリカ人さ」風の軽いジョークではやくも免責される。この点に関しては、リアリティがあると認めても良い。

こうした一切は、要するに彼らがシャレモノであることを意味しているだけだし、実現不可能そうな再会の約束をするのかしないのか、その辺りだけに現実の恋人同士の間にもありがちな緊張感として存在している。その再会か否かの一点に関してのみ、真剣な会話は何度か戻ってくる。

さて、鑑賞者はこの映画から一体何を?み取るのであろう。ひとつひとつの会話の断片に感心するだけか? それとも、いかにも賢明に見える離別の決意とそれを自ら覆す「果たせないだろう再会」の約束に、ほろ苦い情緒をみいだすのか?

どちらに楽しみを見出すにせよ、映画がより良くあろうとするなら、あらゆる批評に耐えなければならない。本来、映画における会話は退屈な男女の逢瀬を飾るためだけの時間つぶしであってはならないし、結末をより意味のあるものとするために、結末と関連のあるディテールを提供しなければならないはずだし、映画の結末は、気の利いた詳細をより納得出来るものとするための、いわば結論であるべきだった。しかし、この作品はそのような賢い哲学的断片をよどみなく披露出来る男のスマートさと女の感受性の豊さを表現し、そんな男(女)と恋に落ちてみたいという凡百の若者たちを熱くさせるものではあり得ても、何ら具体的な思想上のブレイクスルーも提示出来ずに終わる。つまり、会話は気の利いた人物を描くための手段に他ならず、ストーリー全体を強化することに役立たない。

この作品の重要な存在意義は、以下の何点かに尽きる。

つまり、会話という形式で思想や哲学をよりさらっと披露することが、映画では可能であるということ。ということは、交わされる会話の中に重要なメッセージを入れ込むことが可能だということ。きちんとした必然性を持った場所やシチュエーションの設定で、会話の内容により深い意味を発生させることが出来ること。一方、会話の内容を強化することの出来るより究極的で非日常的な場面を設定することが考察可能であるということ。

だか、以上のような学べる価値というのは、おそらく観るものにとっての価値ではなくて、映画を自分の表現手段として有効だと思っている人たちにとっての価値にすぎないのだ。

ここまで相対化が可能な『恋人までの距離』(Before Sunrise)であるが、パリを普通の人の目線から、しかも美しい画面でもう一度見たいという、いかにも世俗的な欲求を満たしてくれそうな映画であるという理由だけで、続編『Before Sunset』を観てみたい気もするのである(そして登場人物たちの「成長」も)。結局、観てしまったら映画製作者の勝ち(売った者勝ち)であるが。

競馬がこんなに…

Thursday, February 3rd, 2005

映画『シービスケット Seabiscuit』を観る。こんなに良いんだったら映画館で観ときゃ良かった、と心底後悔。

動物モノの映画は、どんなにショーモナイものでもそれなりの客の動員がある、というようなことをどこかで聞いたことがある。それほどに、ボクらは“動物映画”に弱いらしい。考えてみたらこの映画もある種のドーブツ映画であるのかもしれないが、見終わるまでこれをドーブツモノであるという考えは一度も頭をよぎらなかった。映画に関してもだいたいジャンルを意識して鑑賞するということがないのだが、これはあくまでも人間モノ、その中でも、「敗北者人生挽回」映画なのである。「年齢不問青春映画」と呼んでも良い。

ある意味、Seabiscuitというのは、動物でありながら、あくまでも人間の操る乗り物(競争馬)なのであって、「動物と人(特にこども)との間の心温まる異種間交流」というような展開にはならない。むろん、Seabiscuitという名の馬自体を映画がまったく描かない訳ではない。描かれるにしても、その馬に関わる周囲の人間たちを描くような距離感(あるいはそれ以下)を伴うものでしかなく、小説で言うなら、複数の主人公たちを結びつける「ハブ」のような役割を果たす登場「人物」の一人のような役割を担っているに過ぎない。だから、カメラは過剰に馬に近づかない。馬のいかにも人好きするような愛らしい目、とか、同情を誘うような哀しい目、とか、そういうものを強調する「卑怯」な方法をこの映画は採らない。かといって、過剰に馬を即物的に描くわけでもなく、結果として、映画に出てくる登場人物が劇中でそうなるのと同じような意味で、馬に対する感情移入がやがて生じてくるのである。疾駆する馬から発せられる美は、映画の過剰な演出によるというよりは、語られる物語から鑑賞者が自発的に見つけていくよう(な錯角を覚えるみたい)にうまく仕組んである。

むしろ、最初から最後まで描き通されるのは、その馬に人生挽回を賭けるどろどろしたヒューマンたちなのであり、必ずしも愛されるようなタイプのハンサムガイたちではない。だが、みな魅力的である。

■■■【以下はあらすじ含み注意】■■■

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映画『生きない』、そして、生きようとした実録『全身小説家』

Wednesday, February 2nd, 2005

■ ビデオ鑑賞第1弾 『生きない』

借金を抱えて多額の生命保険をかけた自殺願望の「有志」だけが13人集まって、事故を装った「集団自殺」を決行するために企画した「沖縄バスツアー」。そのなかに、行けなくなった人の代理人として事情を知らずにツアーに参加してしまう若く前向きな女性。さあどうなる? という感じの、ダンカン主演の『生きない』を鑑賞。監督は、清水浩。清水さん。昭島で即興工房やっていると思っていたら、こんな映画創っていたんだ。やるじゃん。すばらしい出来です。(なんて、爆!)

それにしても、死ぬには体力と工夫が要りますな。死ぬための体力と行動力。事故と見せかけるための工夫と計画。実に面白い。あれだけの行動力と未来を見据えられる想像力があれば、ボクより元気に生きられるよな、という感じ。死に向かって疾走するバスの中で、ある自殺志願者に発作がでる。すると皆で必死に介抱する。死のうとするほどに、生き生きとした生があり、生きようとしたときに死は突然やってくる。これは、実に良いテーマです。なんかカミュかカフカの小説を読んだような感じ。ダンカンさんって、初めてちゃんと見たんですが、はまってましたね。良い作品でした

■ ビデオ鑑賞第2弾 『全身小説家』

その後、先日観た、原一男の映画『またの日の知華』がきっかけで、以前からビデオに録っていた『全身小説家』を「再読」することに(一体いつ睡眠とるんだ?)。二度目の鑑賞のせいか、今度はその映像の捉えた内容が以前より頭に入ってくる。本を読むときと同じだ。井上光晴という人が何者だったのか、小説一つ読んでいないが、今はそれが分かる気がする。

多くの弟子たちの前で、権威者然としているが偉そうにではなく、むしろ爽やかに、そして、容赦なく、挑発的に弟子たちを叱咤する。ほんの15, 6年前の映像であるにも関わらず、とても古い時代の日本人を観るような気もする。叱咤され、否定され、それでもそれを快感に感じて付いていこうとするように見える弟子たち。こうしたメンタリティというのは、日本人にとっては案外まだ当たり前に師弟関係の中には生きていそうだし、かく言う自分の中にも「だめな自分を否定してもらいたい」という、ややマゾヒズムに近いメンタリティがいまだに巣食っていないとは言い切れない。

正確な言い回しは覚えていないが、井上光晴が言いたかったのは、「裸の自分を発揮せよ」というようなことだったと思う(そして、実際に弟子たちの前で率先してストリップをしてみせる。それは象徴的な)。「まだまだナマ緩い。もっとエゴを!」と言っていたようにも聞こえた。これは結局ボクというフィルタを通して自分が勝手にこの映画から受け取ったメッセージであるのだけど。

癌を告知されて入院、手術を受け入れた時点で、彼が病人になっていく過程がまた瑞々しくも痛々しく描かれている。病院と家族と本人のガップリ組んだ三位一体で病人は病人らしく造られていく。あんなに大きく肝臓をとられたら、どんなに元気な人でも骨抜きになるだろうというような、摘出された肝臓のなんとも大きかったこと。そもそも病人ドキュメンタリーを撮るつもりはなかったのかもしれないが、一球の病人ドキュメンタリーになっている(これは連れ合いの弁)。

病人に対して「顔色良いじゃない」とか「いやいや元気そうだね」と元気づけている見舞いの人が何人もでてくるが、その声やその言い回しが、形になった映像作品からは、なんとも紋切り型で工夫なく聞こえてしようがなかった。それがしかも思想家や宗教家の言葉なのだ。

元気のない人に「元気なさそう」ということを言っては行けないとはよく聞く。そのことで一度怒られたこともある。本当に具合の悪い人に具合が悪そうと言ってはいけない、と。でも、本当にそうだろうか? 空虚に響く紋切り型の見舞いの言葉よりも、「お前ほんとに大丈夫か?死にそうか?すごく気分悪そうだぞ!」と言われた方が、ボクなんか却って元気が出そうだからである。「そうだろ、気分悪そうだろ。悪いんだよ。死にそうなんだよ。ちぇ。死にそうだ。くそー死んでたまるか!」となる訳です。だから、「本当に具合の悪い人に具合が悪いと言ってはいけない」というのも、紋切り型の考えなんです。ケースバイケースだし、人によるんじゃないでしょうか? 元気ないと言われて元気が出る人もいるんです。

と、大いに『全身小説家』から脱線したところでおしまい。

音楽から何が分かるか

Tuesday, February 1st, 2005

ボクの周りには、音楽を聴くとその人が分かると断言する人がいる。しかも一人や二人じゃないんだね、そういうことを言う人は。あるいはかつてボク自身もそんなことを口走ったかもしれない。

音楽を聴くと、それを創ったひとの人柄や人間性などが分かるか? ボクに言わせるとそれは、「Yes and No」だ。奏する人の音から何も全く分からないかと言うと、もちろんそういうことはない。分かる(と思える)こととそうでないことがある。だが、その人の何が分かって何が分からないか、ということをきちんと区別して自覚的に論じる言葉をそうしょっちゅう聞く訳では、ない。

[確かにこれについて語るのは難しい。だって「分かる」と言っている人が分かっている(と思っている)ことをボクがその人の身になって体験出来ないからだ。つまり、その人が、思い込みであるにしても「分かる」と思うことは出来るのであるし、万が一、「分かっていることが正鵠を得ている」可能性もある訳だし。ただ、その言葉を信頼に値するものであるかを個別に判断していくしかないんだ。]

以前、音を聴くことに関して自信がある(と自負する)人が、「音を聞けばすべてが分かる」みたいなことを言っているのを聞いて、さっそくボクは尋ねたことがある。じゃ、ボクはどんな人間なんですか、と。実は、こうしたことを断定的に論じる人ほど、こうした質問に対して案外準備ができていない。「… enteeさんは、熱いよね。音にもそれが出てる」。それがそのときボクが聞いた答えだった。

enteeさんは熱い、か…、ふ〜ん…。それはそうなのかもしれない。それに熱いヤツだと言われて悪い気もしないしね。そこで思考停止しかかる。だが考えてみれば、なんてバカげたほどに「差し障りのない」答えだろう。「熱いかどうか」なんて、別にボクの音楽を聴かなくたって分かりそうなことじゃないか。ボクの音楽を聴いて熱いヤツだってことが分かった、なんて、あまりにもお粗末な話だよな。だんだん憤慨してくるね。そんなことじゃなくて、ボクが善人か悪人か、大物か小物か、聖人か俗人か、信仰者か無信仰者か、ボクがどんな秘密を知っているか、ボクがイニシエーションを受けた入門者かそれとも先覚者か、女好きか男好きか!、etc. etc. みたいなことが、音楽からにじみ出ているのだろうか? そのあたりが、気になるところではないか。だって、もし音楽では嘘をつけないということであれば、すべてが人前でアカラサマになっているということだろう? だが、そんなことは正面切って相手に言うことじゃないためもあってか、もちろん出てきやしない。

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